卑弥呼の宮殿発見か
奈良県桜井市教育委員会は三輪山山麓、卑弥呼の墓とも仮説がある箸墓古墳の地域である纏向(まきむく)遺跡の発掘を本格的に始めていたが、本日、3世紀前半から中葉と考えられる大型の建物跡を発掘したと報道した。
・朝日新聞速報 三世紀前半の大型建物跡 邪馬台国の中枢施設か
・読売新聞速報 卑弥呼の宮殿? 奈良で3世紀の大型建物跡出土
・毎日新聞速報 3世紀前半の建物跡 邪馬台国か
ヤマト王権が奈良県東南部の三輪山山麓である纏向(まきむく)地域と磐余(いわれ)と呼ばれる同じ桜井市に発生した事を疑う考古学者は殆ど居ない。しかし、長年の纏向での発掘作業の努力でも大型建物跡(宮殿跡)が発掘されていなかった。それが、最大の問題でありました。
今回の大型建物跡の発掘により、纏向地域は前方後円墳の古墳時代をスタートさせた単なる埋葬場所だけではなく、都市も存在した事になり非常に重要な発表となります。
今年夏に、歴博では箸墓古墳の築造時期を放射性炭素14法、AMS法、年輪年代法から割り出した木材の空気中炭素14濃度の総合分析から紀元240年から260年と発表し卑弥呼の墓であると発表している。(学会では未だ議論中)
そして、箸墓から南の位置にある桜井茶臼山古墳の60年ぶりの再発掘が橿原考古学研究所により実施され、磐余の大王墓として相応しい墓である事を再認識し、科学的な古墳の築造年代の発表が待たれる状態である。
2世紀の弥生時代終末期まで日本列島では明らかに九州に巨大な権力が集中していた、しかし、中国の漢王朝の衰退と朝鮮半島の動乱により日本列島の秩序は乱れ、倭国大乱の時代を迎えて、終止符を打ったのが卑弥呼の邪馬台国であると魏志倭人伝は述べる。
江戸時代から続く邪馬台国論争は九州説と奈良県東南部の纏向地域、磐余地域、所謂、桜井市あたりと論争が明治以降も続き現在に至っている。日本国家の起源に関わる問題であり事は重要である事は歴史学者であれ考古学者であれ、日本国民にとり最も重要な起源に関わる問題である。
新聞はセンセーショナルな見出しで気楽な無責任な報道をしているが、桜井市教育委員会は大型建物跡を発掘したと報道しているだけだ。今後、その建物跡を学術的に分析し本当に宮殿と考えられる物なのか、遺物にその痕跡があるのか、本格的な科学的調査と分析が必要だ。
友人のMuBlogの『日曜古代史研究家』のMu先生は宮殿跡はもっと山手のほうであると仮説を述べておられる。さて、どうなるでしょうか、今後の発掘と研究成果が待たれるが、纏向地域全域を国の重要文化財に指定し広範囲な発掘をすべきであると考えます。
参考過去記事 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行
参考過去記事 箸墓古墳築造年代(歴博発表)
(追伸)
先ほど、夜9時からのNHKのニュースでは神戸大学の黒田龍二先生が興味ある発言をしていました。今回の大型建物は出雲形式であるが、直線上に並ぶ隣の建物は伊勢神宮形式の建物であるという。
その根拠については見逃したが、もしそれが本当であればとても重要です。
思いだすのは、崇神天皇の時代(記紀ではヤマトトトビモモソヒメが箸墓古墳に埋葬されたと伝える)に疫病が流行し出雲の神様を大事にしないからだとお告げがあり、アマテラスの神を宮殿から追い出したという記事がありますね。同時に、出雲形式の宮殿と伊勢形式が存在すれば、疫病前に一緒に祭られていた状態の遺構かもしれない。
これからの纏向遺跡での研究が本当に面白くなるかも知れませんよ。
(追加 参考資料)
今城塚古墳(継体天皇陵墓と研究者の間では考える)の埴輪祭祀と今回の建物4棟の配置は関係があるのではないでしょうか。 参考 高槻市教育委員会資料 同じく
『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』でも触れましたが、この本で討論されている東西65メータ、南北10メータの埴輪祭祀場の埴輪列も4区画に分割されています。
ヤマト王権の大王の政治の姿の原型が今回の纏向遺跡の建物配列にあるとすれば、重要な発見となります。今城塚古墳の埴輪祭祀場の考え方にも学者により異なりますが、当時の政治の姿を表現している事に変わりは無いと思います。
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Comments
こんばんわ
その、追伸部分が気になります。
1.出雲とは、島根県の出雲の神を指すとは思いません。
2.伊勢神宮形式と出雲大社形式、この二つの建築様式の祖が、今回の発掘にあったのですか? それはもう少し時間を掛けないと、Muには何も言えません。
3.もしJoさんの言うとおりなら、すぐに記紀の記述と歴史年表とを比較したくなるのですが、神話は三輪山にあって、記録されたものはその幻視だと考えているので、自戒しておきます。
4.とは言いながら、ついふらふらと、今回発掘のものは、モモソ媛が亡くなる前の時代と、かんがえてしまうね(笑)
*.桜井茶臼山古墳円頂部に、白木か黒木の太いのが密集して立てられて、まるで囲いというか、檻というか、特殊な建物があったようですが、今回の発掘現場写真にみられた、太柱群の身代わりを見ていると、同質性を味わいました。
どうやって、纒向から磐余に移ったのか、ますます気になってきました。
Posted by: Mu | 2009.11.10 11:43 PM
Muさん おはようさん
纏向での大型建物跡発堀で、長年纏向で発掘を続けていた関係者は、やっと掘りあてたという感想でしょうね。もっと、纏向全体の広域発掘が必要でしょうね。
箸墓古墳を含む近くの前方後円墳群から三輪山にかけて広域な文化財保護地域として管理して欲しいですね。勿論、地元の協力が必要でしょうが。
今回の大型建物は大社造り、春に発掘した隣の建物は神明造りという事のようですが、現場を見ていないので私には未だ理解できていません。
今回の建物群の配置はその後の古墳時代の墳墓で埴輪を使用して祭られた形態と連続性があるのではないですか。今城塚古墳で発掘された膨大な埴輪群の再現とその意味について学会では論争されています。
大王の生前の姿を現しているという研究者も多くおられますね、今回の発掘とその後の大王級の古墳で出土する埴輪群の配置とが議論を呼びそうだと思います。
桜井茶臼山古墳の後円部の上に築かれた方形の土檀と建物跡は明らかにお祭りの遺構でしょうが、未だ、内容はよく判りませんね。天と地を祀る事は確かでしょうが・・・。
Posted by: jo | 2009.11.11 07:49 AM