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他田坐天照御魂神社(おさだにいます あまてるみたまじんじゃ)

200911kyoto_023  今回の纏向遺跡166次発掘成果として宮殿と考えられる大型建物址が発掘され日本中で話題になっています。

 その遺跡の直ぐ近くに西方になりますが、こんもりとした森があり神社がありました。天照御魂神社と石碑に書かれていました。

 詳しくは同行の浅茅原竹毘古さんの記事を参照してください、詳しく書かれています。

 MuBlog 他田坐天照御魂神社

200911kyoto_012  この場所は3世紀の頃は太田微高地から川を挟んで北に位置し太田北微高地と呼ばれ川に挟まれた中洲のような場所でした。そして、3世紀初頭の土器と考えられる庄内0式土器が集中的に出土する重要な場所であり、今回の宮殿と考えられる大型建物も発掘されました。

位置関係で見ると真南には箸墓古墳が存在し、東近接地に大型建物跡が存在します。最初は石碑を見た時にアマテラスさんをお祭りかと思いましたが、MuBlogを読んでいて明らかに天孫族のアマテラスではないと考えるようになりました。

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赤とんぼ 2009年秋合宿 報告(2)

 YSさんより、赤とんぼ 2009年秋合宿の写真が届きました。

 赤とんぼ 2009年度 秋合宿映像(YSさん撮影・編集)

091127-1: オリジナルサイズで見るにはここをクリック

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赤とんぼ 2009年秋合宿 報告

200911akatonbo_048  今年の秋合宿は連日、曇天の雨と寒さに悩まされた。外気温は4度程度でした。(写真は最終日、29日の早朝の唐松岳と不帰のキレット)

 合宿前日に三浦翁が怪我をされ、手に6針を縫う事故が発生、私は三浦さんの車で行く予定でしたので、出発が何時もより遅れ、稲田堤駅を午前10時半出発となった。三浦さん、恒君、私の三名が三浦車で白馬村を目指した。

 山小屋管理人は都合で不参加、横浜組のかっちん、わこちゃんは土曜日からの参加であり、金曜日に白馬村集結出来るのはYsさん、岩ちゃん、清ちゃんと三浦車の合計6名である。

 土曜日の朝8時には千葉のよっちゃんが山小屋に到着、朝4時半に家を出たという。午前中には横浜組のかっちん、わこちゃんも佐野坂の飛行現場に到着した。そして、9名が揃った。

 マイフォト 赤とんぼ 2009年度 秋合宿写真集

200911akatonbo_006 かっちんの新作機、『セダクション100 電動仕様』です。名機、セダクションの電動機版ですね。流石に綺麗に出来上がっています、リポ電池とブラシレスモータで飛びます。

200911akatonbo_038 わこちゃんの新作機『スバル09 電動機仕様』です。

エンジン機を改造したので、胴体、主翼には沢山の肉抜きを施しています。手間暇をかけて制作した痕跡があります。整備不良で、初飛行は次回に持ち越しとなりました。

200911akatonbo_020  よっちゃんは2機で参加、写真は『IMAGINE50』でYSの高性能エンジンを搭載しています。もう1機は『YAK54』でこれもYSエンジンを搭載しトルクロール演技をしてくれます。

200911akatonbo_002  私は2機を持参したが、1機だけを飛ばすことにした。

200911akatonbo_001 『サーカス20SR』ですね、OS FS30という4サイクルの小さなエンジンを搭載しています。今回は、修理を終えたエンジンを使用しています。

200911akatonbo_030 清ちゃんは、電動機3機を持参していました。『おてんば』『プレーリー』『スカイローバ』機ですね。

 三浦さんも今回は、『プレーリー』を新たに制作されましたが、写真を撮影するのを忘れました、御免なさい。 

200911akatonbo_022_2 土曜日にはわざわざ東京から二名の見学者さんが訪問されました。山小屋管理人の友人と若者は実機のジェットエンジンを開発している専門家さんだそうです。ラジコンに興味が湧いたようでしたよ、是非、模型のジェットエンジン機を制作して下さい。

200911akatonbo_040  初日はシェフは私一人で大変でしたが、二日目からはメインシェフのわこちゃんが到着し美味しいものを沢山、食べさせて貰いました。

 次回は冬(春)合宿ですね、3月になると思います。皆さん、元気に又お会いしましょう。

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赤とんぼ 2009年秋合宿無事終了

200911akatonbo_052  赤とんぼ、2009年度秋合宿は無事終了しました。

 11月27日(金曜日)より29日(日曜日)まで、信州は白馬村岩岳の山小屋『ちんぐるま』で例年通り開催されました。

 今回は残念ながら山小屋管理人さんが、都合により参加出来ませんでした。私が代りに鍵を預かり、かっちんが管理人代行で小屋の管理をされていました。

 写真は解散する時に撮影した岩岳をバックにしたもので、遥か後立山連峰の白銀を抱く山が見えますね。

200911akatonbo_046  帰路、白馬村で撮影した鹿島槍が岳を盟主とする後立山連峰の白銀の山々をバックにした写真です。写真右端から杓子岳、その次の尖った山が鑓ガ岳、私の頭の後が『不帰(かえらずの)キレット』で唐松岳が続き、最後に左端の山が五竜岳となります。

 初日、二日と雨と曇りと寒さに悩まされましたが、最終日は見事に晴れました。

 この素晴らしい景色とは又、来年の冬合宿で再会する予定です。

 先ずは、合宿の無事を報告します。

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行燈山古墳(あんどんやま) 朝霧に浮かぶ

200911kyoto_154  山の辺の道を歩いた人には馴染みの柳本にある巨大古墳ですね。江戸時代までは景行天皇の陵墓とされていたものですが、今は崇神天皇陵と宮内庁では決めています。

 山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)と日本書紀に記録された陵と宮内庁はしているが、学者による調査が認められていないので、確定ではない。

 近くの現在、宮内庁が景行天皇陵と定めている渋谷向山古墳が崇神天皇陵だと江戸時代までは伝承されていたし、学者には西殿塚古墳(現在は継体天皇の皇后の手白香皇后と宮内庁は指定)であるという人もあれば、森浩一さんは箸墓古墳が崇神天皇の陵墓ではないかとの説がある。

200911kyoto_158 全長242メータ、高さ23メータの前方後円墳であり周濠を持つ巨大古墳です。

 朝霧に浮かぶ陵墓は神秘的な雰囲気ですね。お参りは早朝がいいようですね。

 同行した浅茅原竹毘古さんのブログも参照してください。

 MuBlog 崇神天皇陵

前方部の傍には二基の前方後円墳の陪塚(ばいちょう)が存在しています。

200911kyoto_161 200911kyoto_163  陪塚二基が存在しています、行燈山古墳に埋葬された関係者の墓であると想定されますね。

 柳本古墳群に関しては、別途詳しく調べないといけませんね。黒塚古墳の景初3年銘を含む、三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面が出土、行燈山古墳の陪塚と考えられる天神山古墳では20面の銅鏡が出土している。まさに、ヤマト王権初期の重要な場所ですね。

200911kyoto_156 200911kyoto_160

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京都、奈良から横浜に戻りました

200911kyoto_148_2 一週間京都に帰省しておりました。義母の3回忌の法要、清水さんへの墓参、浅茅原竹毘古さんとの纏向遺跡・葛城の一言主神社訪問、そして高校時代からの友人である鴫沢隆成どんとの嵐山、松尾大社散策と多忙な日々を過ごした。

 写真は清水さんの墓参のあと高台寺から八坂さんの塔を眺めた写真です。夕方になっていました、京都タワーも見えますね。今は紅葉の真っ盛り、沢山の観光客が詰めかけていました。

200911kyoto_039  葛城の一言主神社境内の紅葉です。今回の紀行では葛城の歴史にも大いに興味を抱いております。神武天皇の時代に土蜘蛛と呼ばれた人々が住んでいたと考えられ、そして、5世紀の雄略天皇に滅ぼされた葛城であります。

 しかし、その後秦氏、鴨氏は山背に移り丹後・山背を開拓し桓武天皇を平安京に迎える力を持っていました。

 葛野という地名は、葛城から引き継いだ名前だといいます。

200911kyoto_110  松尾大社は秦氏の神社であり、強大な権力を持っていた事が判ります。元糺の杜、蜂岡寺(広隆寺)、蛇塚古墳と秦氏の栄華の跡が偲ばれます。

 彼らのルーツが葛城にある事はあまり詳しく判っていません、これからの研究課題だと思っています。

 しかし、奈良盆地の東南地方、三輪山山麓から鳥見山の北の磐余地方に生まれたヤマト王権と葛城がどのような関係を持っていたか興味の湧くところです。

200911kyoto_023 今回、纏向遺跡の発掘現場を訪問した時に気になったのは、この写真の天照御魂神社であります。大型建物跡の東西に貫く中心軸線上の西側に存在していました。

 直ぐに想起するのは、崇神天皇の時代に疫病が流行し民の大半が死んでゆくという災害があり、その理由が大物主と天照を一緒に宮中で祭っているのが原因であり、天照を追放する事件がありました。

 その時の現場ではないだろうかと秘かに想いを巡らす発見でした。近日中にはこれらの紀行について記事を書きたいと思いますし、同時に浅茅原さんのMuBlogにも必ず記事が登場しますので、参考にしてください。

200911kyoto_091  渡月橋の紅葉の風景です。

何時来ても美しい風景ですね。 

 

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神武天皇から仁徳天皇までの宮

 纏向遺跡の大型建物跡が現在注目を集めています、卑弥呼の宮殿ではないかという話題であります。日本の記紀に於いては、残念ながら卑弥呼女王について沈黙をしており、魏志倭人伝に伝える邪馬台国の卑弥呼女王のイメージである鬼道に通じる記紀記述では、第7代天皇である孝霊天皇の娘であり、三輪山の神である大物主神と結ばれたヤマトトトヒ(ビ)モモソヒメが想起されます。彼女は崇神天皇の時代に活躍し、纏向の巨大な前方後円墳である箸墓古墳に埋葬されたと伝える。

 国立歴史民俗博物館の春成教授グループが本年5月に発表した放射性炭素14法による纏向遺跡群の纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳、纏向東田大塚(ひがいたおおつか)古墳の築造時期が3世紀であり、とりわけ箸墓古墳が240年~260年に築造であり魏志倭人伝に言う、邪馬台国の女王卑弥呼の墓である可能性が高いと結論した。

 歴博の春成教授グループでは放射性炭素14法と年輪年代法を組み合わせ精度の高いデータを積み上げ、古代の実年代を究明して行こうとしている。既に、弥生時代の始まり時期について従来の考古学の常識を覆す発表をしており、弥生時代が九州北部では従来より早い時期の開始し、順次、東に伝わった時間を発表し話題になっている。

 纏向遺跡の発掘は桜井市教育委員会が延々と百回を超える発掘を従来から続けており、数々の成果を発表していました。詳細な、土器編年(大和土器、庄内土器、布留土器等々の弥生時代から古墳時代にかけての土器の編年である)を行った。この相対的時間軸について、今回は実年代を当てはめる作業であったと考えられる。

 もう一つ、注目される発掘が箸墓古墳の南にある磐余地区の桜井茶臼山古墳の60年ぶりの再発掘であります。橿原考古学研究所が60年前に既に発掘しているが、再度最新の考古学により発掘調査を行い、竪穴石室に200キロの辰砂が使用されたと発表し、磐余の大王級の墓であると言う。箸墓古墳は目の前である。

 そこで、纏向に王宮を営んだ可能性のある王を探す為に、記紀より神武天皇から16代仁徳天皇までの王宮の場所と伝えられるものを記録する。

 (神武天皇から仁徳天皇までの王宮場所)

 ・第1代天皇 神武天皇 畝傍山橿原宮

 ・第2代天皇 綏靖天皇 葛城高丘宮

 ・第3代天皇 安寧天皇 片塩浮孔宮(かたしおうきあなのみや)

         橿原市四条町あたりか大和高田市三倉堂片塩町

 ・第4代天皇 懿徳天皇 軽曲峡(かるのまがりおのみや)

         橿原市見瀬町

 ・第5代天皇 孝昭天皇 葛城ワキ上池心宮(わきがみの いけこころのみや)

         御所市池之内

 ・第6代天皇 孝安天皇 室秋津島宮(むろあきづしまのみや)

         御所市室

 ・第7代天皇 孝霊天皇 黒田庵戸宮(くろだのいおとのみや)

         磯城郡田原本町黒田

 ・第8代天皇 孝元天皇 軽境原宮(かるのさかいはらのみや)

         橿原市見瀬町の牟佐坐神社

 ・第9代天皇 開化天皇 春日率川宮(かすがの いざかわのみや)

         奈良市本子守町の率川神社

 ・第10代天皇 崇神天皇 磯城瑞籬宮(しきの みずかきのみや)

         桜井市金屋の志貴御県坐神社、古事記=師木の水垣宮

 ・第11代天皇 垂仁天皇 纏向珠城宮(たまきのみや)

         桜井市穴師か?古事記=師木の玉垣宮

 ・第12代天皇 景行天皇 纏向日代宮(ひしろのみや)

         桜井市穴師か?

 ・第13代天皇 成務天皇 志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)

         滋賀県大津市穴太

 ・第14代天皇 仲哀天皇 穴問豊浦宮(あなとの とゆらのみや)

                 筑紫橿日宮(つくし かしいのみや)

         山口県下関市長府宮、福岡市東区香椎宮

 ・第15代天皇 応神天皇 軽島豊明宮(かるしまの とよあきらのみや)

                 難波大隅宮

         橿原市大軽町、東淀川区大隅

 ・第16代天皇 仁徳天皇 難波高津宮

         大阪市中央区

  これを見ると、第10代崇神天皇から垂仁天皇、景行天皇が纏向に宮を築いた可能性が高いと言えますね。マピオン地図

 垂仁天皇の珠城宮は地図で珠城山古墳群が候補となるでしょうか。崇神さんの瑞籬宮が水垣宮とすると纏向の今回の発掘現場の古代の地図である川に挟まれた土地にピッタリするのですがね。これからの調査で段々と解明されると思います。卑弥呼さんと考えられるヤマトトトビモモソヒメの親父の孝霊天皇が磯城であるのも気になりますね。

 葛城・磐余地方が神武さんから9代天皇まで続いているのが、7代の孝霊さんは田原本町で纏向近くが登場し、箸墓の伝説に繋がります。どうも、孝霊さん、大和10×10=100(ととびもも)襲(そ)媛(ひめ)さんが纏向地域に地盤があったようですね。そして、垂仁天皇、景行天皇の頃まで纏向地域には王都が存在したと考えます。

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箸墓古墳は卑弥呼の墓 学術論文より

20093nara_042  承前 箸墓古墳築造時期は卑弥呼の死亡時期と同じ

 承前 古墳出現の炭素14年代 感想

 2009年5月31日、日本考古学協会第75回総会が早稲田大学で行われ、歴博では放射性炭素14法と年輪年代法で確定した日本産樹木の炭素14法での測定により較正グラフを作成し纏向地域の遺物の年代を測定した。

   古墳出現の炭素14年代 

  2009531日 早稲田大学で開催された日本考古学協会主催の研究発表会で発表された、『古墳出現の炭素14年代』論文について、素人の私が理解した範囲で御紹介したいと思います。

  論文発表者: 春成秀爾(ひでじ)、小林謙一坂本稔今村峯雄尾嵜大真藤尾慎一郎西本豊弘

 (年代測定の方法)

     炭素14年代測定法に従い遺物の年代を測定する。

     測定対象の遺物は、唐古・鍵遺跡纏向石塚古墳纏向矢塚古墳纏向東田大塚古墳箸墓古墳から出土した遺物。

     日本産樹林年輪の炭素14年代の測定。較正曲線の作成。

     土器形式及び古墳年代は、遺構との関係(墓の築造中、直後、後)による先後関係と、日本産樹林年輪による位置づけによって検討。

     試料は土器付着物、木材、種子を用いる。

     土器形式認定は藤田三郎、寺沢薫、橋本輝彦が行った。

(測定結果)

     この部分は私の解説になりますが、(n)は採取資料数。CBPは核実験で空気中の放射性炭素が異常値を示す以前の時代であり、1950年を起点としてBefore Presentの炭素という意味です。1CBP1949年という意味ですね。しかし世界の地域ごと放射性炭素の精度を上げる為に各国の研究者は自国の樹木を年輪年代法で確定した材木の遺物の放射性炭素を測定し単なる物理的な減衰する放射性炭素値を補正しています、これを較正曲線と呼びます。

     唐古・鍵遺跡の大和ⅴ-1様式(3資料数)・・・・・・・・・2000¹⁴CBP(日本産樹林の年輪に合わせてみると、中期末のⅳ期は紀元前1世紀であるから、その後の紀元後1世紀頃と考える。)

     唐古・鍵遺跡の大和ⅵ-2様式(2資料数)・・・・・・・・1970¹⁴CBP

     唐古・鍵遺跡の大和ⅵ-3様式(1資料数)・・・・・・・・1960¹⁴CBP

     上記の2様式の土器の年代は日本産樹木年輪の較正曲線で補正すると紀元後1世紀後半という結果になる。

     纏向遺跡の土器付着物分析では庄内0式期(大和ⅵ-4(6資料数)・・1920¹⁴CBPであり、日本産樹木年輪の2世紀初めと考える。

     同上の庄内1式期(4資料数)・・・・・・・・・・・1920¹⁴CBP2世紀。

     同上の庄内3式期(2資料数)・・・・・・・・・・・1880¹⁴CBPでジャスト紀元後200年と考える。

     纏向石塚古墳の周濠下層の木材・種実(4資料数)・・1880¹⁴CBP3世紀前半の較正曲線の傾斜にあたる。

     纏向矢塚古墳の庄内3式の甕の煤(1資料)・・・・1820¹⁴CBP

     纏向東田大塚古墳の墳丘築造中の井戸などに廃棄され墳丘の完成より古い出土状況を示す布留0式の甕の煤(2資料数)・・・・・・・1800¹⁴CBP

     同上 共伴した種子(2資料数)・・・・・・・・・1790¹⁴CBP

     同上 築造時のカゴの破片(2資料数)・・・・・・1750¹⁴CBP3世紀前半である。

     同上 より新しい布留1式の周濠下層出土の木材(3資料数)・・・1690¹⁴CBP3世紀後半に比定されるので、布留0式はそれ以前である可能性を示す。

     箸墓古墳では、築造前の木材は縄文時代以前の年代であった。土取穴SX01遺構出土の布留0式甕の煤(8資料数)・・・・・・・・・・1800¹⁴CBP

     同上 築造直後の周濠最下層の腐食物層下の布留0式甕の煤(1資料数)及び小枝(1資料数)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1800¹⁴CBP

     同上 濠が埋没後やや時間が経過した周濠下層腐食物層堆積後(布留1式)の木材(3資料数)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1700¹⁴CBP

     唐古・鍵遺跡の布留1式甕の付着物(5資料数)・・1780¹⁴CBP

     大阪府瓜生堂遺跡の布留2式・・・・・・・・・・1790¹⁴CBP3世紀の数値であるが、布留1式を東田大塚埋没後と考えると、布留2式は3世紀後半以降となる。箸墓古墳の布留0式は、纏向石塚古墳の庄内3式と布留1式に挟みこまれる240年~260年代と捉えるのが合理的である。

(古墳出現の年代)

     箸墓古墳築造直後の布留0式土器の年代を240年~260年と推定した。

     卑弥呼が死亡した247年は、箸墓古墳の炭素14年代を較正した240年~260年代の中に入っている。247年に13歳であった台与は泰始2266年)に西晋に貢献している可能性が高いので、彼女の塚がこの年代に入る事は無い。

     この事は箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が高い事を示している。箸墓の建造には10年以上の年月が必要だった、卑弥呼が生きてる間に寿陵として建造されたと考える。

  『参考 Web 寺沢薫氏 纏向地域土器編年

  関連過去記事 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行

200911hokkaido_063 200911hokkaido_068

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日本の家族制度について

 最近の派遣村や介護の問題や色々と考えると、問題の根幹に核家族化という戦後の高度経済成長時代から続いた大家族制度の崩壊に問題があるように感じています。又、家父長制度という明治憲法以来の長子相続という制度は殆ど機能していない。お家存続の為に長子が跡を継ぐというだけの財産は無いし、戦国時代から続いた男系長子相続という制度はもはや崩壊している。

 日本と言う国は古来、母系社会でありました。男が女の家に通い子供が出来れば母系の家で育てるという風習です。男の子は自分の力で世間に出て生きて行かねばならないという男にとり過酷な社会でしたね。しかし、社会で頑張れば子孫は残せるし、母系の家からは大事にされた。

 例えば、古墳時代、河内王朝の時代ですが雄略天皇の奥さんに葛城円(つぶら)の娘である韓媛(からひめ)は雄略の奥さんですが、旦那を取らずに実家で焼き殺されています。当時の婚姻形態をよく示しています。女は生まれた実家が大事なのですね。この制度が崩壊したのは私のつたない知識では戦国時代以降だと思います。

 武力の時代になり長子相続という男系の世界が生まれた。これは、北方遊牧民の優れた男に一族を任せるという思想ですね。そして、農耕社会では田圃の分割により疲弊する事を防ぐために農民の間でも長子相続という制度が定着した。

 しかし、戦後の資本主義による高度経済成長で家に頼らずに男は自分で核家族を形成できるようになり、実家に頼らずに生きる道が生まれた。そうすると、私が観察する限り先祖返りをして親の面倒は娘が自然に見るようになっている。気心知れた娘の方が特に母親は安心だし、気を使わないでいい。自然な古代の母系社会が復権し始めている。

 現在の民法がどうなっているか知識は無いが、明治以来の男系中心の家族制度が未だ継続しているのではないだろうか。この際、家族制度そのものを考え直す事も必要ではないだろうかと思う。国家予算を限りなく使用しなければ老人や若者の派遣村の人間の面倒を見るのは何処か社会制度に問題があるのではないだろうか。

 古代はもっと貧乏であった筈ですよね、弱者保護というのは私のような年寄りには歓迎な話だけど、家族という単位をもっと根本的に考えないと根本的な解決は無いと思います。

(閑話休題 卑弥呼の話)

 今日も、NHKのクローズアップ現代では纏向遺跡の大型建物跡は卑弥呼の宮殿かという番組をやっていましたね。NHKでは、今年の2月からずっと纏向遺跡の発掘の取材をしているのですね、流石です。今回も、前回のニュースの時と同じく東西の軸線上に規則正しく並ぶ建物に注目していましたね。飛鳥時代からは中国の影響で宮殿は南北に並ぶ前の時代、太陽信仰か三輪山信仰ではないかと言う。

 私は、継体天皇の陵墓と考えられる今城塚古墳の造り出し部で発掘された、4区画の建物を含む埴輪列も東西に並んでいる事に注目しています。それと、今夜の番組でも神戸大学の黒田さんが大型建物が大社造りである事に注目していました。真ん中に柱があるのですね。

 これからの線路を挟んだ東側の発掘も出来ればいいのですが、民有地なんでしょうね。何とか鳩山政権さん、大事な発掘を続ける事が出来るようにしてやって下さい。日本の国家発祥の地である可能性が高い訳ですからね。 

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纏向遺跡 大型建物跡発掘速報(続々編)

 昨夜はテレビ朝日でも纏向遺跡の大型建物跡発掘のニュースをしていました。CGを使用して建物の復元予想をしていました。報道で私が疑問を持ったのは、卑弥呼の邪馬台国である確定的証拠は魏の皇帝から受領した金印かその印を押した封泥が出土する事であると報道していた。

 しかし、金印や封泥が出土しても移動したと考えればそれまでです。移動不可能なものでなければ証拠にならない。邪馬台国東遷説というのがありますから。いずれにせよ、一般庶民でも関心がある話題なんですね。

 纏向を含む奈良県東南部一帯についての古墳群については今まで、多くの研究成果が存在します、以前にもメモを残していましたので再掲致します。

 ・オオヤマト古墳群と古代王権(その1)

 ・オオヤマト古墳群と古代王権(その2)

 ・卑弥呼考

 奈良県東南部地域である磐余地域、纏向地域、柳本地域、大和神社近くの大和古墳群地域の4か所の地域がヤマト王権の成立に関わった地域である事に変わりはない。

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平成天皇即位20周年

 『平成天皇御即位20周年記念に思う』

 昨夕、寒い中皇居前広場では第125代天皇である、平成天皇御臨席のもとに、御即位20周年記念を祝うイベントが開催されていた。寒風吹きすさぶ中のイベントでした。鉄橋に堤灯を持った天皇と皇后さまがお立ちになって、イベントを観ておられました。集まった人々は約3万人という事だそうです。美智子皇后さんとお二人、何時までもお元気でおられる事を祈ります。

 明治は45年、大正は15年、昭和は64年と大正天皇はお身体がそれ程健康ではなかったようですから、歴代の天皇の歴史を考えると御在位が長い時期が続いています。安定した天皇制が続いていると考えられます。しかし、かの大戦での敗戦時には危機でしたね、昭和天皇の苦労は並大抵ではなかったでしょうか、それを平成天皇は傍で見ておられたのでしょう、平和を祈念されるお気持ちが伝わります。

 今回のお言葉に中にも、過去の戦争を忘れてはいけない、風化させてはいけないと話されていた事が印象に残ります。日本という国は世界に類を見ない天皇制を綿綿と続けています、神武天皇は実在であったか別にして第10代天皇である崇神天皇からは実在であったと考える学者は多いと思いますし、血統としては第26代天皇である継体天皇からは確実に血統が続いていると言われています。

 京都から江戸に東幸されて140年程度は経過したでしょうか、平成天皇が初めて東京で即位の礼、大嘗祭がなされた天皇です、昭和天皇までは京都で行われていました。歴史上遷都宣言がなされていないので、今でも京都が都であるという人も関西方面では多いのではないでしょうか。さしずめ、『おかみは、東国に出かけたまま、まだおかえりやあらしまへん』という按配でしょうか。

 歴史家のあいだでは、現在の天皇制は藤原不比等が考えたという人がいますね、血を流さずに政権交代をするメカニズムが天皇制の特徴であるという。政権が交代する時に何か不変の軸が必要であり、それが天皇であるという。

 暗い寒空の中の即位20年記念の祝いを観ていると、皇室の色んな行事や伊勢神宮や大神神社の伝統行事が何故か夜行われる日本人の不思議さを感じていた。

 

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40年前のワンゲル時代

200911hokkaido_056  昭和43年春の大学4年生の時のワンゲル同期15名(田中清さんは越後でスキー教室の経営で参加出来ず。山小屋資金獲得事業で残念ながら参加出来ていない)。

 春合宿が九州で行われ、集結地である、えびの高原にて撮影。

 神戸大学体育会ワンダーフォーゲル部も今年創部50周年記念だそうだ。

 右から二番目がこの年の夏に穂高で滑落死亡した副将の(故)正井君です。

 過去記事 ワンゲル新人時代と別れ

 過去記事 懐かしシリーズ(1)

 過去記事 懐かしシリーズ(2)

 ワンゲル時代のアルバムは4~5冊あるが、写真が剥がせないのでデジタル化は難しい。懐かしい思い出の南アルプスや北アルプスの縦走や、日本各地の山を歩いた写真が満載である。

 今年の年末12月30日は恒例の同期の忘年会が大阪であります、楽しみにしています。

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継体天皇(ヲホド王)と百済

 最近古代史関連で面白いのは朝鮮半島西南部の栄山江(ヨンサンガン)流域の前方後円墳13基の発掘調査である。5世紀末から6世紀にかけての時期に建造されたと考えられ、日韓の研究者でその解明が本格的に進んでいる。概要については以前記事を書きましたので、参考にしてください。

 参考過去記事 『栄山江(ヨンサンガン)流域の前方後円墳13基』

 朝鮮半島南西部はどうやら百済が高句麗に押され南下するまでは昔の馬韓の人々が活躍していたという。土器の分析や墳墓の研究から、彼らは倭国の九州の土器や墳墓形態と類似する事が判り始めている。どうやら、海の民として九州の海の民と密接な関係があったようだ。

 しかし、5世紀末から6世紀に突然に前方後円墳が築かれ始め、何か政治的な激動が起こったようですね。時代は、百済が高句麗の南下に押され都を南下させた時期であり、日本では継体天皇が河内王権に変わり新しい時代を迎えた頃にあたります。

 森浩一先生の『記紀の考古学』第18章の「越と継体・欽明王朝」に興味ある記述があります。栄山江(ヨンサンガン)の光州市の月桂洞(ウォルゲゾ)1号墳=墳丘の長さ45メータの前方後円墳、から円筒埴輪や朝顔形埴輪、石見型立物が出土し注目している。

 橿考研の小栗明彦さんの分析によれば、制作のある段階で円筒を倒立、即ち天地を逆にして更に制作を続ける「倒立技法」により制作されたものであり、日本列島では、東海と北陸とを南北に繋ぐライン上に集中しているという。日本海側では石川県小松市の矢田野(やたの)エジリ古墳やそこへ埴輪を供給した同市の二ツ梨殿様池窯址(ふたつなしとのさまいけようし)の物であると断定。

 森先生は小松が日本海により百済南部と結ぶ海のルートの一拠点ではないかと仮説をたてておられます。(小松は多分に高麗津、小松市の額見町遺跡ではオンドルを具えた住居址がある)この場所は、継体天皇の母方の祖母アナニ媛の拠点であり継体天皇の地盤のひとつである。又、東海地方は継体天皇の最初の奥さん、尾張連草香の娘である目子媛(めのこひめ)の地盤ですね。(安閑・宣化天皇を産む)

 ここからは、仮説になりますが、状況証拠から栄山江流域に突然に発生した日本独自の前方後円墳を築いた人々は継体天皇と深い関係にある人々ではないか、継体天皇の意思で起こされた政治的行動ではないかと推察できる。その理由は何だろうか、朝鮮半島南西部は古来、九州の政治勢力と深い関係が存在した、所謂、馬韓の海の民である。そこに、百済と継体天皇は連携して楔を打ったのではないかという推測です。

 筑紫の君、磐井と継体天皇の戦争は新羅・磐井連合と継体・百済連合の海のルート争奪の戦争だった可能性が類推されますね。河内王権は中国戦略として南朝を相手に活動してきたが、時代は北朝の時代に変化しており、北朝とチャネルを持たないヤマト王権は百済の力を借りて北朝とのチャネルを築こうとした可能性があります。

 百済は都を高句麗に追われ南下する、しかし、従来の馬韓・九州連合の勢力が存在し局面打開を新しい日本の政治家に求めたのではないだろうか。それが、継体天皇であると考えるとどうでしょうか。

 (継体天皇と百済の密接な関係)

 私が生まれ育ったのは枚方という場所です、正確には北河内郡大字招堤村ですね、継体さんが即位したのが樟葉宮です、隣の村ですね。枚方は淀川水系の重要な潟が存在した場所です、百済寺跡があり和邇博士の墓もあり百済と関係が深い場所です。今まで、数多く継体さんと枚方・樟葉に関する記事は書かせて頂いた。

 継体さんが樟葉から筒城宮に移されたが、そこはイワノ媛さんが拠点にされた百済の人々が多く存在した場所ですね。百済国人の怒理使臣(ヌリノミ)の拠点であり水海連(あまのむらじ)、調日佐(つきのおさ)、民首(たみのおびと)などが存在した。

 継体天皇は淀川水系から瀬戸内海航路を抑え、且つ、日本海ルートも掌握していたと考えられます。

 中国の南朝の時代が終わり、北朝の時代に激動しようとしていた時代、朝鮮半島では高句麗が勢力を伸ばし南下し百済の都を陥落させ南下を余儀なくさせ、新羅が台頭しようとしていた新しい時代に継体天皇は推挙され、従来の南朝一辺倒であった日本の政治を転換させた訳です。百済との深い関係は継体天皇が切り開き、欽明天皇から飛鳥王朝に引き続がれたのですね。

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纏向遺跡 大型建物跡発掘速報(続編)

 承前 卑弥呼の宮殿発見か

 参考 MuBlog 卑弥呼の墓 纏向遺跡の宮殿跡

 昨日の報道に関して思うところを少し補足したいと思います。今年の3月に発掘された建物から直線上に整然と並ぶ巨大建物の柱跡列を持つ建物跡の発掘は歴史的な発掘になる可能性があると思います。

 突然に三輪山山麓に出現した箸墓古墳を盟主とする、巨大な前方後円墳群、所謂、三輪古墳群は強大な権力機関が此処に発生した事を遺跡や遺物が語っています。その場所が纏向遺跡と呼ばれています。弥生時代の遺跡として有名な唐古・鍵遺跡はこの場所から少し低い位置に存在し稲作が早く発達した場所と知られています。

 三輪古墳群の北の方角に進むと、渋谷向山古墳、行燈山古墳に代表される柳本古墳群が続き、更に北に進むと西殿塚古墳、東殿塚古墳、中山大塚古墳といった大和(おおやまと)古墳群が連なります。古墳時代初期の巨大前方後円墳が目白押しな場所となっています。

 この中で、三輪古墳群が一番時代が古いと考えられその中でも箸墓古墳が最大、最古と考えられています。箸墓古墳の周りには同じく古墳時代初期の石塚、勝山、矢塚、東田大塚といった初期の前方後円墳が集中しています。参考 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行

 従い、纏向地域が如何に重要であるかが判りますね。そして、今迄、百数十回に渡る纏向地域の発掘がなされて来ました。その成果として古墳時代初期の土器形式の詳細な編年が完成したのです。これは、考古学の大きな成果だったと思います。

 土器編年から箸墓古墳は3世紀末から4世紀初頭の築造であると考えられ、魏志倭人伝で述べる卑弥呼の死亡年度の3世紀中葉とは時間軸で合わないのが常識でありました。しかし、歴博では放射性炭素14法とAMS法、そして年輪年代法で確定した古代の木材に含まれる炭素14を測定し較正曲線を作り正確な年代を測定する作業が始まり、今年5月に箸墓古墳は240年~260年に建造であり、卑弥呼の死亡時期と合致すると発表した。

 日本考古学協会の研究発表の席に私も参加していたが、学会全体としては議論が始まったばかりである。しかし、弥生時代の始まりを正確に九州北部から四国、瀬戸内海、近畿と考古遺物から放射性炭素14法で時代を確定して行く作業が続いており、100年~500年程度は弥生時代が従来の年代より古い時代にシフトする可能性が検討されている。

 (大型建物の配置に関する考察)

 直線上に規則正しく4棟の建物が確認されたようですが、これは、今城塚古墳(継体天皇陵墓と研究者なら誰でも認める陵墓)の造り出し部で発見された埴輪祭祀場の構造に似ているという事がこれから研究されると思います。考古学に於いて、古墳の研究は進んでいるが意外と政治の中枢である宮についての研究が進んでいないのが現状です。

 現在僅かな手掛かりは、今城塚古墳で発掘された東西65メータ、南北10メータの膨大な埴輪群から推測するしか手はないのではないか。そして、今回の大型建物跡の発掘です。今城塚古墳から出土した兵士、巫女、力士、鶏、その他鳥、建物群、等々の配置や役割から当時の政治形態を分析可能と思われます。

 詳しくは高槻市教育委員会発行の『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』を読んで下さい。

 (桜井茶臼山古墳の発掘も気になる)

 竪穴石室に200キロもの辰砂を使用した磐余の大王の墓との関係が気になります。現在の貨幣価値に置き換えると八億円相当の価値である辰砂を使った大王は誰なのか、気になります。時代は同じく古墳時代初期ですが従来は4世紀初頭だという説ですが、今回の橿考研は放射性炭素14法で正確な年代を来年には発表すると思います。

 記紀では神武天皇がヤマト王権の初代王であり名前はイワレ彦、箸墓に眠るのは10代天皇である崇神天皇の時代のヤマトトトビモモソヒメ。記紀では彼女は特に王ではなかったが、巫女として描かれている。

 戦後の歴史学、考古学の世界では欠史8代とか記紀を軽んじる風潮がありました、しかし、武寧王稜の発掘で日本書紀が正確である事が証明された。全くの出鱈目を歴史書として書いた訳ではない。 参考過去記事 日本書紀は誰が書いたか

 ただ、奈良時代には崇神さんの時代頃の政治形態を認める訳にいかない男性王中心の政治形態だった影響が卑弥呼のような巫女王を許さなかったかもしれない。

 それと、記紀を読んでいると男性の神に墳墓は登場しない、女性ばかりである。男の神は『おかくれになる』、何処かに姿を消してしまわれるとあり、墳墓の記述は女性ばかりである。大物主さんも、イザナギさんも、ちゃんとイザナミさんは熊野に埋葬されているのに男神は行方知れずである。どうも墳墓は女性だけが対象になったようなんですね。

 ともあれ、来年には桜井茶臼山古墳や纏向遺跡の研究成果発表があると思いますので楽しみに待ちましょう。

 

 

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卑弥呼の宮殿発見か

 奈良県桜井市教育委員会は三輪山山麓、卑弥呼の墓とも仮説がある箸墓古墳の地域である纏向(まきむく)遺跡の発掘を本格的に始めていたが、本日、3世紀前半から中葉と考えられる大型の建物跡を発掘したと報道した。

 ・朝日新聞速報 三世紀前半の大型建物跡 邪馬台国の中枢施設か

 ・読売新聞速報 卑弥呼の宮殿? 奈良で3世紀の大型建物跡出土

 ・毎日新聞速報 3世紀前半の建物跡 邪馬台国か

NHK動画ニュース

MuBlog 卑弥呼の墓 纏向遺跡の宮殿跡

 ヤマト王権が奈良県東南部の三輪山山麓である纏向(まきむく)地域と磐余(いわれ)と呼ばれる同じ桜井市に発生した事を疑う考古学者は殆ど居ない。しかし、長年の纏向での発掘作業の努力でも大型建物跡(宮殿跡)が発掘されていなかった。それが、最大の問題でありました。

 今回の大型建物跡の発掘により、纏向地域は前方後円墳の古墳時代をスタートさせた単なる埋葬場所だけではなく、都市も存在した事になり非常に重要な発表となります。

 今年夏に、歴博では箸墓古墳の築造時期を放射性炭素14法、AMS法、年輪年代法から割り出した木材の空気中炭素14濃度の総合分析から紀元240年から260年と発表し卑弥呼の墓であると発表している。(学会では未だ議論中)

 そして、箸墓から南の位置にある桜井茶臼山古墳の60年ぶりの再発掘が橿原考古学研究所により実施され、磐余の大王墓として相応しい墓である事を再認識し、科学的な古墳の築造年代の発表が待たれる状態である。

 2世紀の弥生時代終末期まで日本列島では明らかに九州に巨大な権力が集中していた、しかし、中国の漢王朝の衰退と朝鮮半島の動乱により日本列島の秩序は乱れ、倭国大乱の時代を迎えて、終止符を打ったのが卑弥呼の邪馬台国であると魏志倭人伝は述べる。

 江戸時代から続く邪馬台国論争は九州説と奈良県東南部の纏向地域、磐余地域、所謂、桜井市あたりと論争が明治以降も続き現在に至っている。日本国家の起源に関わる問題であり事は重要である事は歴史学者であれ考古学者であれ、日本国民にとり最も重要な起源に関わる問題である。

 新聞はセンセーショナルな見出しで気楽な無責任な報道をしているが、桜井市教育委員会は大型建物跡を発掘したと報道しているだけだ。今後、その建物跡を学術的に分析し本当に宮殿と考えられる物なのか、遺物にその痕跡があるのか、本格的な科学的調査と分析が必要だ。

 友人のMuBlogの『日曜古代史研究家』のMu先生は宮殿跡はもっと山手のほうであると仮説を述べておられる。さて、どうなるでしょうか、今後の発掘と研究成果が待たれるが、纏向地域全域を国の重要文化財に指定し広範囲な発掘をすべきであると考えます。

 参考過去記事 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行

 参考過去記事 箸墓古墳築造年代(歴博発表)

今年3月の纏向遺跡ニュース

 (追伸)

 先ほど、夜9時からのNHKのニュースでは神戸大学の黒田龍二先生が興味ある発言をしていました。今回の大型建物は出雲形式であるが、直線上に並ぶ隣の建物は伊勢神宮形式の建物であるという。

 その根拠については見逃したが、もしそれが本当であればとても重要です。

 思いだすのは、崇神天皇の時代(記紀ではヤマトトトビモモソヒメが箸墓古墳に埋葬されたと伝える)に疫病が流行し出雲の神様を大事にしないからだとお告げがあり、アマテラスの神を宮殿から追い出したという記事がありますね。同時に、出雲形式の宮殿と伊勢形式が存在すれば、疫病前に一緒に祭られていた状態の遺構かもしれない。

 これからの纏向遺跡での研究が本当に面白くなるかも知れませんよ。 

 (追加 参考資料)

 今城塚古墳(継体天皇陵墓と研究者の間では考える)の埴輪祭祀と今回の建物4棟の配置は関係があるのではないでしょうか。 参考 高槻市教育委員会資料  同じく

 『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』でも触れましたが、この本で討論されている東西65メータ、南北10メータの埴輪祭祀場の埴輪列も4区画に分割されています。

 ヤマト王権の大王の政治の姿の原型が今回の纏向遺跡の建物配列にあるとすれば、重要な発見となります。今城塚古墳の埴輪祭祀場の考え方にも学者により異なりますが、当時の政治の姿を表現している事に変わりは無いと思います。

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琵琶湖水系の遺跡を巡る 目次編

 古代から日本海の若狭湾から琵琶湖水運を利用した人と物のルートは重要でした。ヤマト王権の成立に関しても重要な文化・文明の道でありました。

 ・白鬚神社 そのⅠ

 ・白鬚神社 そのⅡ

 ・鴨稲荷山古墳

 ・近江 Mu&Jo 弥次喜多紀行 湖西の道 

 ・近江残された謎 そのⅠ

 ・近江残された謎 そのⅡ

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ベルリンの壁崩壊 20周年

 ベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月9日だった。もう20年も経過したんですね。壁崩壊後に生まれたドイツの若者も20歳だ。ソ連がゴルバチョフの時代でしたね、懐かしい。

 4年前に家族4名でドイツのゲーテ街道を辿る旅をした。2005年の夏でした。目的は大学時代に理想の大学自治の伝統を持つと信じていた、アルトハイデルベルグの大学の街を訪ねる事と学生時代に憧れた哲学の世界、ゲーテの故郷を旅する事だった。

 過去記事 ドイツ紀行(ゲーテ街道を行く) 目次編

CIMG0046(猿?何だろう?)

 どうも紀行文を調べてもベルリンの壁博物館の記事が登場しないし、写真も抜けている。唯一、こんな写真の記事が掲載していた。壁をよじ登る猿を銃口が狙っている絵だ。

 4年前の旧東ドイツの地域を歩いて、旧西側の地域に比較すると随分と経済的に遅れている印象を持っていた。やはり、今も未だ旧東ドイツ側の地域は経済的に苦しいと聞く。

 ベルリンの壁崩壊後、東ドイツの地域の人々は豊な未来が到来すると夢を見た、しかし、現実はそう簡単ではないようだ。あと20年、30年程度は必要なのかも知れない。

 目を東アジアに向ければ未だに民族が統一されていない国が朝鮮半島に存在する。21世紀中に統一が出来るのだろうか。あのイムジン河を歌った加藤和彦も統一の姿を見ること無く自ら命を絶った。

 日本だってかの大戦で敗戦の結果、分割統治される可能性だって存在したのだ。戦争というのは本当に民族を引き裂く過酷な結果をもたらす、二度と戦争には関わりたくないと思う。日本列島に存在する米国の基地問題や北方領土の問題は政治の最大の課題として残っている。

 (神保町 ミロンガ )

 先日、仕事の関係で神保町で夕方人と会う機会があり、昔懐かしい『ミロンガ』を指定した。久しぶりに歩くと、昔の古本屋さんが姿を消している、時代の流れなんだろうか。しかし、『サボール』も『ミロンガ』も健在だった。

 喫煙席のコーナに座ると、隣のテーブルには70歳過ぎの人が三名食事をしていた。学生時代の話をしているようだ。『ミロンガ』はふうてん老人に教えて頂いた昔懐かしいカフェだ。彼が、高校生の時代に神保町を訪れた時から存在していたという話を聴いた。

 参考過去記事 『神保町 ミロンガ』

 ビールを飲んでいると、約束の時間になり若い二人が到着した。

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『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』 高槻市教育委員会 吉川弘文館

 最新の発掘成果を元にヲホド王(継体天皇)の陵墓と学会では認めている今城塚古墳について歴史学者、考古学者が徹底的に議論された内容を収容されている。

 ・今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える(1) 白石太一郎先生の考え

 ・今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える(2) 和田萃先生 二人のホド王

 ・今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える(3) 森田克行先生

 ・今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える(4) 和田晴吾先生

 ・今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える(5) 水野正好先生

 

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モンゴル紀行 目次編 「草原の記」の世界へ

 2007年8月 司馬遼太郎の『草原の記』の世界である憧れのモンゴルに紀行した。

 ・『草原の記』モンゴルへ

 ・Jo君モンゴルに行く(1) 無事帰還報告

 ・Jo君モンゴルに行く(2) テレルジ キャンプ地での生活Mongolia_tour_2007_016

 ・Jo君モンゴルに行く(3) ゲル(パオ)について

 ・Jo君モンゴルに行く(4) モンゴル料理

 ・Jo君モンゴルに行く(5) 乗馬体験

 ・Jo君モンゴルに行く(6) モンゴル人の宗教観  

 ・Jo君モンゴルに行く(7) チンギスハーンの騎馬軍団

 ・Jo君モンゴルに行く(8) 自然環境について

 ・Jo君モンゴルに行く(9) 一緒した人々

 ・Jo君モンゴルに行く(最終回) 楽しかった仲間たちとの別れ

 ・遊牧民を考える 風の民 感想

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関東地域 歴史探訪 目次編

『さきたま古墳群探訪記 稲荷山古墳をはじめ』

 ・さきたま古墳群探訪記 稲荷山古墳

  ・埼玉稲荷山古墳論文 『古代の武蔵 稲荷山古墳の時代とその後』 森田悌著 吉川弘文館

『鹿島・香取神宮参拝記』

 ・香取・鹿島神宮参拝にあたり

 ・鹿島神宮参拝記

 ・香取神宮参拝記

 ・水郷の町 佐原(さわら)

・大本山 成田山 新勝寺

 『日本最古の獣骨祭祀跡』

 ・千葉取掛西貝塚 日本最古の獣骨祭祀跡

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三輪山セミナー 目次編

 『三輪山セミナー 目次編』

 ・第6回 三輪山セミナーイン東京

   山折哲雄先生講演録(そのⅠ)

   山折哲雄先生講演録(そのⅡ)

   菅野雅雄先生講演録

 ・第5回 三輪山セミナーイン東京

   三浦佑之(すけゆき)千葉大学教授講演録(Ⅰ)

   三浦教授続編+藤野カヨさん(ソプラノ歌手)

   水野正好先生講演録『山辺ー上ッ道と古代都・墳墓風景』

 ・第4回 三輪山セミナーイン東京

   千田稔先生講演録

 ・第3回 三輪山セミナーイン東京

   和田萃先生講演録

 ・第2回 三輪山セミナーイン東京

    西宮一民先生と菅野雅雄先生の講演でした

   ・三輪山セミナー(2005) 御案内

   ・三輪山セミナー(2005) その壱

   ・三輪山セミナー(2005) その弐

   ・三輪山セミナー(2005) その参

 ・第1回 三輪山セミナーイン東京

   上田正昭先生講演録

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ユカタン半島 マヤ文明の遺跡を訪ねる旅 目次編

20099yukatan_033  『ユカタン半島 マヤ文明の遺跡を訪ねる旅 目次』

 ・ユカタン半島から無事帰国しました。

 ・マヤ文明の遺跡を訪ねる

 ・トゥルム遺跡(Tulum Ruinas)紀行

 ・チチェン・イツァー遺跡紀行 セノテ・シトロク(Cenote Xtoloc)編

20099yukatan_130  ・チチェン・イツァー遺跡紀行 聖なる泉(Cenote Sagrado)編

 ・チチェン・イツァー遺跡紀行 エルカステイージョ=ククルカン神殿(El Castillo)編

 ・チチェン・イツァー遺跡紀行 ジャガーと鷹の台座、ツォンパントリ(頭蓋骨の城)、ジャガーの神殿編

 ・チチェン・イツァー遺跡紀行 球戯場編

 ・チチェン・イツァー遺跡紀行 戦士の宮殿と列柱

 ・チチェン・イツァー遺跡紀行 旧チチェン・イツァー遺跡

 ・チチェン・イツァー遺跡紀行 あれこれ編

 ・チチェン・イツァー遺跡紀行 感想編

20099yukatan_156 

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タラシナカツ彦(仲哀天皇)とヲホド王(継体天皇) 伝説の類似

 古代史に於いてヤマト王権の始祖王としての神武天皇、そして実在性が戦後の考古学では確実とされる三輪山山麓でヤマト王権を確実にした、三輪王権創始者とも呼ばれる、第10代天皇である崇神天皇(ミマキイリヒコ)が有名である。そして、河内王権創始者とも呼ばれる応神天皇と飛鳥王権創始者とも呼ばれる欽明天皇がエポックの天皇として有名だ。

 この応神天皇誕生の説話と欽明天皇誕生の説話が実に記紀に於いて類似性が多い事に昔から興味があった、本当の歴史事実は何だったのか謎のままである。

 (応神天皇誕生説話)

 ・ヤマトタケル(ヲウス命)の息子であるタラシナカツヒコ(仲哀天皇)は最初に大中姫(おおなかつひめ)を妃とし二人の息子が生まれた、カゴサカ皇子とオシクマ皇子である。その後、皇后としてオキナガタシヒメ(神功皇后)を迎えホムダワケ(即位し応神天皇)が生まれた。

 ・仲哀天皇と神功皇后は九州に於いて新羅を攻撃するという神功皇后の意見に対して仲哀天皇は熊襲を攻撃するという意見であり対立し、突然に仲哀天皇は不自然な突然死をする。(宴会の席で琴を弾きながら倒れたという話と熊襲の矢に中り死んだという説がある)

 ・神功皇后は妊婦の状態で新羅に遠征し、九州に帰還後にホンダワケ皇子(後の応神天皇)を誕生させる。そして、ヤマトに帰還すると仲哀天皇の前妻の息子二人、カゴサカ皇子とオシクマ皇子の軍と戦闘状態になり、二人の前妻の息子たちは滅ぼされた。

 ・そして、応神天皇が即位し河内王朝とも呼ばれる新しい王朝が誕生し巨大な前方後円墳が続々と百舌鳥・古市地区に建造が始まるのだ。

 (欽明天皇誕生説話)

 ・神功皇后・応神天皇が創始した河内王朝も武烈天皇を最後に滅亡し、応神天皇5世の孫と言われる越前・近江基盤のヲホド王(継体天皇)が淀川水系の樟葉の宮で即位する。

 ・継体天皇も即位前に越前に居た頃に尾張連草香の娘である目子媛(めのこひめ)を妻とし二人の皇子を誕生させた。二人の皇子はその後安閑天皇と宣化天皇となる。しかし、継体天皇が即位したあと大和の手白香皇后(たしらか)と結婚し皇子が生まれ、その皇子が安閑・宣化天皇のあと即位し欽明天皇となる。

 (継体天皇・皇子殺害説 辛亥の変)

 ・日本書紀によれば、531年に継体天皇は身罷り同日に安閑天皇が即位したと述べる。(古事記では527年崩御とする)しかし、日本書紀では『百済本記』を引用し何らかの政変があり天皇・皇太子・皇子ともに死亡したとの記事を掲載している。

 ・学者により、色んな説があるが安閑・宣化王朝と欽明王朝が暫く並立したと考える人もおられるようです。

 ・最近の継体天皇の陵墓であると考えられる三島の今城塚古墳の発掘により石棺が三個存在したと報告され、私は継体天皇と二人の皇子が埋葬されたのではないかと考えています。

 「注」 記紀によれば、安閑天皇は古市高屋丘陵 高屋築山古墳に、宣化天皇は身狭桃花鳥坂上陵(橿原市 ミサンザイ古墳)に埋葬されたと伝えています。

『参考 過去記事』

 ・今城塚古墳を考える その5

 ・今城塚古墳を考える その4

 ・今城塚古墳を考える その3

 ・今城塚古墳を考える その2

 ・今城塚古墳を考える その1

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北海道は粉雪が舞っていた

200911hokkaido_025  5か月になった孫と再会でした。髪の毛が太陽のコロナのように立ち面白いですね。

200911hokkaido_024

 未だ離乳食の段階ではないので、大変そうです。昼も夜も1時間程度しか寝ないので、抱っこするか相手をしないと泣いてしまいます。

 ホンマ、子供を育てるのは大変ですね。200911hokkaido_011

自分の足で遊ぶ事を覚えたようです。

200911hokkaido_016  娘は哺乳瓶を毎回熱湯消毒してるけど、赤ちゃんはそこらじゅうの物をなめるから意味があるんでしょうかね。

200911hokkaido_006 京太もトラの二匹の猫も元気に暮らしていました。

200911hokkaido_031 200911hokkaido_032

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桜井(外山)茶臼山古墳 被葬者は

Muさん 返信が遅れ申し訳ありません

 昨夜遅くに粉雪舞う北海道から港、横浜の自宅に帰還しました。羽田からバスで横浜港に向かうと夜景が実に美しい、巨大な観覧車の電飾が色とりどりに輝き回転し摩天楼のビルの窓の光と調和し素晴らしい夜景を創り出しています。

 過去記事 桜井茶臼山古墳 木棺搬出記事コメントに対して

 さて、桜井(外山)茶臼山古墳の件ですね。磐余(イワレ)の大王の墓である事に間違いは無いでしょうね、しかも古墳時代の初期の建造であり玉杖も出土し丘尾切断型という前方後円墳出現期の初期の形であるのも気になります。

 

 磐余と言えばイワレ彦(神武天皇)ですね、ヤマト王権の創始者として記紀では語られている重要な人(神)ですね。彼は鳥見山を聖なる場所として祭祀をしたと記紀では記録しているのも気になります。森浩一さんが『記紀の考古学』で語られている以下の記述が気になっています。以下引用(第一章 イワレ彦とその妻たち より一部引用)

 日本書紀によると、磐余の元の地名は片居(かたい)或いは、片立(かたたち)、物語の上では、元々拠点的な集落があって、そこを接収して地名を改めています。という事は、新しい支配者が拠点集落の地名を変え、その地名を自分の名にもつけたという想定のようだ。『紀』では、敵の大軍が集まった、つまり、『屯聚(いは)み居(い)』た大軍への勝利を記念してつけたとしています。(中略)大和入り以前の神武の名は年少時は狭野尊(さののみこと)とし、別に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の名前を記録している。しかし、彦火火出見尊の名前は神武さんの祖父である山幸彦、火遠理命(ほおりのみこと)の名でもあります。何という名の人がイワレ彦になったか関心が持たれる。

 此処からは私の意見ですが、桜井(外山)茶臼山古墳はヤマト王権の創始者の墳墓であると考えると全て納得出来るのです。出雲王権の大物主の三輪山に睨みを利かし、物流拠点であり鉄の生産の場である、磐余の土地を抑え、聖なる鳥見山の裾に祭祀の場である巨大古墳を建造した。

 勿論、イワレ彦が最初に葬られたのは畝傍の山裾だったと考えますが、その後、ヤマト王権が確立した頃に始祖伝説に相応しい巨大墳墓と国家祭祀の場である桜井(外山)茶臼山古墳を建造し、イワレ彦を改葬したと考えるとどうでしょうか。

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