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磐余(いわれ)と呉越文化

 承前 桜井茶臼山古墳竪穴石室公開

 桜井茶臼山古墳に関する関心は今年になり60年ぶりに激しくなっています。大王級の古墳である事と、古墳時代初期の築造である事、ヤマト王権の誕生の場所である磐余の地である事が注目である。埋葬遺物や後円部上部に築かれた方形の祭壇も出土埴輪群も箸墓と同じグランドデザインであり初期ヤマト王権成立との関係が注目される。

 この古墳と関係が深い考古学者の森浩一先生の、『古代史の窓』(新潮文庫)では磐余の地について倭人と呉越文化との緊密な関係について記述されている。以下引用させて貰います。

 書紀にて雄略11年の出来事として、『百済の国より逃げ化来(もうけ)る者あり、自ら称名(なの)りて貴信(きしん)という』という文章がある、それに続けて『又、曰く、貴信は呉(くれ)の国の人なり』として、貴信の子孫を奈良県桜井市あたりと推定される磐余の呉の琴弾サカ手屋形麻呂(ことひきさかてのやかたまろ)らであるとしている。磐余の呉という地名にも表れているように、やはり呉の人または文化を強く受けた人たちと見てよかろう。

 雄略天皇も磐余の泊瀬朝倉宮に拠点をおかれていましたね。(母は息長氏、拠点は磐余と近江)南朝から武と記述され、『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王』と称号を貰っている。

 これも、百済経由で南朝との交渉が続いていた証拠ですね。磐余には中国の長江下流域である呉・越との関係が深い人々が拠点を築いていたと想定されます。彼らは現在で言う総合商社のような人々で難波から大和川を遡り、大陸の商品を輸入し、磐余にある巨大な市場である海石榴市(つばいち)で商いをしていたと考えられます。所謂、華僑ですね。

 昨夜のNHK教育テレビ『日本と朝鮮半島2000年 倭寇』の番組では、対馬や壱岐、九州沿岸地域の海洋民、南朝鮮南部、西部沿岸地域の海洋民を『境界人』と呼んでいました。彼らは中国や朝鮮半島の国と倭国との商取引に従事して自由人であり時に海賊になる人々が活躍した。特に中国や朝鮮半島、倭国の政治情勢が乱れると大活躍したという。

 今回の桜井茶臼山古墳の竪穴石室では200キロを超える辰砂(硫化水銀)が使用されたと橿考研が発表しているが宇陀の地や磐余の金屋や物部氏の布留の製鉄拠点や、磐余南部の忍海(脇田)、南郷遺跡は金属生産の拠点でありました。又、伊勢街道を東に行けば松坂の丹生の里があり、ここも水銀の生産拠点だった。時代が中世に下るが室町幕府が中国に輸出した製品に水銀が重要な製品であった事を考えると古来、鉱業・金属加工の工業地帯が磐余に存在し海石榴市で商取引を行い莫大な利益をあげていたと考えられる。

 磐余の地は古代の大豪族である、阿倍(平安時代以降は安部)氏の本拠地でもあります。難波に現在も阿倍野という地名が残っていますが、大陸との貿易を担当した氏族だと考えられます。平安時代に安部清明が陰陽道で登場しますが、本貫は磐余であり中国の暦学、天文学、風水、気象学、八卦、等々の最新の学問を入手できる立場にあった。

 5世紀には磐余の西に位置する葛城氏が勃興し大陸との交易で利益と政治権力を握り最後に雄略天皇に滅ぼされる運命を辿った。要は、磐余近辺には古代ヤマト王権の重要な豪族である息長氏、阿倍氏、物部氏、葛城氏が本貫を置く重要な大和川水系を利用した大陸との交易拠点であった。

 磐余の地は昔は纏向も含んでいた、今の桜井市という広範囲であったと考えられている。森先生の同書では興味ある魏の曹操の本家と倭国との倭国大乱の収拾時期にあたる頃の考古遺物について論究されている。1977年に中国安徽省亳(はく)県の元宝坑1号墓から出土したレンガに刻まれた『倭人磚(せん)』である。

 この墓は魏の曹操の実家の墓であり、時期は170年頃であり、倭国大乱の頃である。レンガには『倭人、時をもって盟すること有りや』と読めるという。森先生は、倭国大乱の頃に倭国から多量の人間が中国の会稽あたりに移住し武力集団として活躍していたという。107年には倭国王師升(すいしょう)等が生口160人を後漢に献じ、卑弥呼も239年に生口10名を献上している。243年にも人数不明だが生口を献上している。2世紀や3世紀には中国の洛陽に行った倭人は200人規模であった。2世紀末には正史以外を含めると数千人規模の倭人が中国に進出していたという。

 後漢の時代から曹操の家は対外外交を担当する外務大臣みたいなものだった、倭国との緊密な関係は魏の時代にも引き継がれたと考えられ卑弥呼は中国の力を巧みに利用したと考える推論が成り立つのだ。発掘された文字が彫り込まれたレンガ群の中には当時の中国の紅巾の乱、五斗米道という鬼道に関する資料も発掘されている。

 2世紀の倭国大乱の頃から卑弥呼は『境界人』と連携し中国の曹操家と密接な関係を維持し、中国の東アジアに於ける覇権力を利用して倭国大乱を収束させたと考えられる。そういう事が出来る国際都市が磐余の地だったのですね。

参考過去記事 オオヤマト古墳群と古代王権 その1

参考過去記事 栄山江(ヨンサンガン)流域の前方後円墳13基

参考過去記事 古代河内の生産拠点

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