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今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (4)

  承前 今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (3)

 最新の発掘成果を踏まえ考古学、歴史学専門家による今城塚古墳と被葬者と考えられるヲホド王(継体天皇)についてシリーズでお伝えしています。引用させて貰っているのは、吉川弘文館から出版された『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』高槻市教育委員会著者の本に典拠しています。詳細は、当該典拠本をお読みください。

 私が日本の歴史上、継体天皇に特に拘る理由は生まれ育った地域が継体天皇が活躍された場所に近いという地縁的な繋がりからの魅力と、日本の歴史の謎と考えられ今だに解決していない突然の山背・近江・越前を基盤とする彼の大王への登場です。応神、仁徳さんから始まる河内に巨大な前方後円墳を築いたヤマト王権が突然に武烈天皇で終止符が打たれ、応神天皇5世の孫と記録される彼が大王に推挙されたのか、謎を探る旅が子供の頃からの課題でした。

 今回は、和田晴吾先生のご意見を紹介する番であります。

 (今城塚古墳と九州勢力 和田晴吾先生)

 (古墳時代中期から後期の状況)

  日本列島では5世紀末から6世紀前葉にかけて、即ち雄略朝の終わり頃から継体朝の大半に関わる頃はヤマト王権が動揺衰退していた時期と考えれる。その理由は、古墳の築造から類推できます、それまで畿内で建造されていた大型前方後円墳が突如姿を消すのに対して新たな墓域に中小の前方後円墳を中心とした古墳群が登場し始め、同時に首長よりも下の階層の人々が従来の方形周溝墓や方形台状墓が、一斉に円墳化を始めるのです。

 被葬者は主に共同体の有力な家長層と考えられ、全国に膨大な数に達するようになる。その解釈は、雄略朝の頃には中央集権化が進み、各地の大首長勢力の在地支配を弱体化、解体化するとともにこの時期に新たに台頭してきた新興の中小首長層や広汎な有力家長層を王権の配下に組み込む作業が始まっていた。

 王権が首長連合体制の段階から、より中央集権的でより強力な新しい国家体制に変化しだした時期と考える。その理由は、海外情勢と列島内部の二つの理由による。

 (1)外的要因として、この頃までに朝鮮半島経由で文明開化と呼べそうな、新しい大陸の人・もの・情報が列島内に充満し主に物質文化では大きな変化を受けていた。その輸入先は百済や伽耶諸国でありました、しかし高句麗・新羅が半島に於いて大きな力を持つようになり、百済・伽耶が存亡の危機に直面していたのです。これは、ヤマト王権の危機に直結し、早急な中央集権国家を築くのが急務となっていた。

 (2)列島内の情勢では新しい大陸の文化・文明の恩恵を受け生活は向上していた、しかし、首長の私民化に対して共同体構成員の不満が広がり新来の価値や富を独占する首長に対する不満や新興勢力の従来の大首長に対する反発が起こり社会は不安定になっていた。

 このような情勢でも従来の旧勢力の抵抗は強く、王権そのものが動揺する事態ともなり社会は不安定な時期に突入していたと考えられる。畿内では5世紀後葉から6世紀初頭にかけての有力な古墳が少なく、古市・百舌鳥古墳群でも大王墳と考えられる古墳は急速に小型化し、遂には消滅してしまう。5世紀後葉に岡ミサンザイ古墳が古市に造られて以降、6世紀前葉に今城塚古墳が三島の新しい墓域に築かれるまでの間、王権は著しく不安定な時期となっていた事を古墳群が証明している。

 参考 グーグルアース 岡ミサンザイ古墳

「misanzai.kmz」をダウンロード

 (変革期と九州勢力)

 このヤマト王権が弱体化した時期に九州勢力は列島内に権力を拡張したと考えられます。考古学的には九州の古墳文化が西日本を中心に拡大した事が証明されています。この現象は主に二つに集約される。

 (1)九州的な横穴式石室の拡散

 九州の横穴式石室は朝鮮半島や中国の影響を受け、北部の玄界灘沿岸地域で中期初めに建造がはじまり、順次北部から中部に広がり5世紀中葉頃には東方への拡がり始めたのだ。5世紀後葉から6世紀前葉には一気に分布域を広げ日本海沿岸、瀬戸内海沿岸、畿内、伊勢湾沿岸に広まった。

 jo注:最近のNHK教育テレビで放映されている「日本と朝鮮半島2000年」の番組でも、近年続々と洛東江流域の伽耶地域と半島南部西の栄山江流域の前方後円墳と九州北部の深い関係が論究されている。最新の韓国での考古学成果がこの時期の九州勢力を解くカギになりそうである。参考過去記事 栄山江流域の前方後円墳 

 畿内では横穴式石室の墓制は九州より100年程度遅れて始まり、畿内型横穴式石室の祖形は5世紀後葉に出現し、6世紀前葉に普及が始まる。ヤマト王権の動揺期にそれに乗じるかのように九州勢力が強大化し西日本を中心に拡大した。

 (2)阿蘇ピンク石製刳抜(くりぬき)式石棺

  この頃、九州の熊本県宇土市に産する阿蘇ピンク石(馬門石)製の刳抜式石棺が畿内や近江に運び込まれた。5世紀末から6世紀前葉の限られた時期に限られる。大和の7例は奈良盆地東部になり集中しています、河内の2例は古市古墳群にあり、近江では野洲市の大岩山古墳群に2例ある。あと備前に1例、そして三島の今城塚古墳である。

 中期の畿内の主要古墳では長持ち型石棺(組合式)が用いられ、王権と政治的距離がある集団は舟形石棺(刳抜式)を使用していたので、阿蘇ピンク石を利用した刳抜式石棺を利用した集団は当時の王権と距離を置く集団が九州勢力と連携し石材を求め独自の石棺を使用したと考えられる。

 九州的な横穴式石室の広がりの主体は九州の勢力が主体であり、この阿蘇ピンク石を利用した石棺を利用した勢力の主体は畿内側にあったと考えられる。この石棺は最初は舟形石棺として造られ竪穴式石槨に収められたが、間もなく、畿内的な横穴式石室に納められ家形石棺となり、畿内の他の家形石棺の祖形となった。そして、二上山の凝灰岩(二上山白石)が開発され、家形石棺が6世紀前葉に畿内で広まった。

 更に面白い現象として、この刳抜式石棺は決して九州的な横穴式石室には納められず、畿内式の横穴式石室にしか納められなかった。畿内では前期以来の墓制を引き継ぎ九州式の横穴石室が導入されてもその中に重厚な石棺を収め二重に遺体を密封する葬送を行った。九州では横穴式石室に遺体を直接置いたり、横口のある組合式石棺を利用していた。

 以上を纏めると、5世紀後葉から6世紀前葉にかけて九州勢力の強大化と西日本地域への勢力の拡大が行われ、同時に奈良盆地東部を中心とした勢力が九州勢力を連携していた事が判明した。九州的横穴式石室を拡大させた勢力は南朝鮮半島とも関係が深く、又、阿蘇ピンク石棺を畿内に供給した九州勢力は九州中部の勢力と考えられ、九州も一つの勢力が制覇していた訳ではない。

 参考過去記事 大王のひつぎ実験航海「大王と海」大王の柩実験航海 大王の柩実験航海遂に

 参考 大坂府長持山古墳2号棺(阿蘇ピンク石製) 長持山古墳石棺

 参考 滋賀県甲山古墳石棺(阿蘇ピンク石)

 参考 横穴式石室基礎知識

 (今城塚古墳の勢力基盤) 

 

 今城塚古墳は三島に位置し、墳長190メータの前方後円墳であり、段築・葺石・埴輪・造出を備え二重の盾形周濠に囲まれた堂々たる大王墳に相応しい古墳である。6世紀前葉では最大の古墳であり、外形は中期の大王墳の形式を踏まえている。しかし、場所が従来のヤマト王権の大王墳が築かれた場所ではなく、周辺に従属的な古墳を伴わない。

 三島では中期中葉の太田茶臼山古墳以降、今城塚古墳までは有力な古墳が存在しない事やこの地での大王墳の築造が一代のみで終わっているのも特殊な現象である。埋葬施設は古式の畿内的な横穴式石室であり、内部には竜山石製、二上山白石製、阿蘇ピンク石製の三種類の家形石棺が納められていたのが特徴である。

 中期の王権では最高位の棺は竜山石製であり、今城塚に続く大王墳である見瀬丸山古墳やその後の最高位の家形石棺は竜山石製である事を考慮すると、竜山石製の石棺が継体天皇の棺であると考えられる。

 この大王の勢力基盤は、淀川に面する三島の勢力であり淀川水系と深く関わっている。次に石棺から想像されるのは、二上山製の石棺から大和南部勢力との関係、阿蘇ピンク石製石棺からは大和東部や近江南東部(野洲)そして、それを供給した九州有明海沿岸地域の勢力が考えられる。

 又、大王の石棺が竜山石製であると考えると墳丘同様に被葬者が中期の大王位の正当な継承者であった事を証明している。明らかに継体天皇の墳墓であると考える。

 文献からは継体天皇の基盤勢力は近江、越前、尾張が考えられるが彼らは、日本海沿岸ほかの地域同様に横穴式石室にみられるように九州勢力と深い関係を持っていたと考えられる。九州では纏まった一つの勢力ではなく緩やかな首長連合であったと考えられ、畿内を圧倒する勢力では無かった。かえって王権による中央集権的な体制作りが進行するなかで解体されるべき運命にあった。磐井の乱はそのような性格の戦いであったと思う。

 今城塚古墳は新しい時代の到来を告げる記念碑的な古墳である。

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