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今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (5-その1)

 承前 今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える(4)

 さて、今回は考古学では大御所の水野正好先生の意見をまとめてみたいと思います。私は東京で開催された三輪山セミナーで講演を聴いた経験がありますが、とても話が上手なまるで芸人のような才能のある先生です。

 (継体天皇とその時代 陵墓と今城塚古墳)

 (正当な手続きを踏まえた大王である)

 学界には皇位簒奪した大王であるとか、正当な手続きを踏まえた大王では無いという意見があるが、氏は日本書紀に書かれた事を素直に受け止める立場であるようです。応神天皇には皇后の仲媛の他に皇妃として弟媛という近江(滋賀県坂田郡)の息長氏の本拠の娘さんが存在した。彼女は若野毛二派王(わかぬけ ふたまた おう)という皇子を産み彼は異母兄弟である仁徳天皇の側近として王権を支えたと考えられる。

 その後、仁徳天皇の皇后であった磐之媛との間で生まれた皇子が次々と天皇になるが、允恭天皇の時に若野毛二派王家に接近した。若野毛二派王には息子の意富富等王(おほほど おう)と二人の娘さんがおり二人とも允恭天皇の皇后、妃になった。忍坂大中姫(おしさかの おおなかつ ひめ)と衣通姫(そとおり ひめ)だった。

 この時、二派王家は大きな権力を握ったと考えられ、意富富等王は権力を握り彼の息子に乎非(おひ)王が『上宮記』にでてくるという。この乎非王の息子が継体天皇『男大迹(おおと、ヲホド)王』の父である「彦主人(ひこ うし)王、時に「扜斯(うし)王」である。

 この王家からは、安康天皇、雄略天皇、清寧天皇を輩出しており、大王家を継体天皇が継ぐ事に不思議さは存在しない。ただ、清寧天皇の皇后は葛城氏から、顕宗・仁賢天皇の皇后は市辺王子家出身、武烈天皇の皇后は春日氏出身となりしばらく、大王家とは疎遠となっていた。しかし、この頃の大王家は衰弱しており、天皇在位期間は短いものになっていた。5世紀後半は不安定な時代であった。(jo注:主な理由は朝鮮半島の高句麗・新羅の強大化による同盟国の伽耶諸国と百済の存亡の危機)

 506年に武烈天皇は身罷り、後継ぎが存在しないという事で最初は、仲哀天皇の5世の孫である京都桑田郡にいた倭彦(やまと ひこ)王を推挙するが、彼が逃げてしまい、男大迹王(継体)が推挙される結果となった。その頃、継体さんは父が早く亡くなり、母の実家である福井県高向(たかむく)に居を構えていた。しかし、父が生きていれば大和の忍坂の地、現在では奈良県桜井市忍坂の地に居を構えていたはずである。

 この忍坂の地は若野毛二派王家の「王家の地」であった。継体さんは成長するとこの地に王家の長として執務をしていたと考えられる。継体さんの父は「彦主王」で近江の高島郡三尾です。そして、最初で述べたように若野毛二派王の母である弟媛は息長氏の本拠である滋賀県坂田郡になります。応神天皇のお母さんは言わずと知れた息長たらしひめ=神功皇后であり息長氏であります。

 継体天皇はその後、仁徳天皇から続く王家の仁賢天皇の娘である手白香(たしらか)皇女を皇后に迎え、若野毛二派王家と大王家の両方の血を受け継ぎ、皇統の濃い血を持った欽明天皇が誕生する事で皇統は完全に回復し、大王家の血が絶える危機を防いだという事で、継体天皇と奈良時代に命名されたと考えられる。(jo注:断絶の危機にあった皇統を無事に継いだ天皇という意味)

 継体天皇は大和からは遠く離れた淀川水系の樟葉宮で即位し、木津川水系の筒城宮、桂川水系の弟国宮と移り最後に大和の磐余(いわれ)玉穂宮に遷都する。その理由は淀川水系の整備であり決して大和の勢力が継体天皇が大和に来るのを阻止した訳ではない。そのような根拠は何処にも存在しない。むしろ、大連(おおむらじ)の大伴金村や大臣(おおおみ)の巨勢(こせ)男人(おひと)や大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(あらかひ)は継体天皇を支えた。

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国立歴史民俗博物館(略称 歴博)

 京成線の佐倉駅で下車して、印旛村の戸ノ内貝塚に行く前に歴博を訪問する事にした。駅から建物が見えるので、歩いて訪問した。

 国立歴史民俗博物館

 歴博と言えば最近、放射性炭素14法と年輪年代法を組み合わせた較正年代法により弥生時代を100年早める提案や箸墓古墳が卑弥呼の墓という論文を提出し話題になっていますね。 参考過去記事 箸墓古墳築造時期

 そう言えば、未だ今年、早稲田で開催された日本考古学協会主催の学会発表の論文のご紹介をしていません、読んでも難しいので今だに棚の上です。(笑)

 歴博の先生は早稲田の考古学の講義にも来られていて、関連科学の授業をされていました。今度、歴博のイベント『縄文はいつから? 1万5千年前に何が起こったのか?』を仕掛けておられる先生も授業に来ておられましたね。

 これは、結構面白そうですよ何故日本列島で世界最古の土器が発明されねばならなかったのかを、1万5千年前の世界をあらゆる学問を総動員して、復元する事で迫るアプローチですね。是非、成田空港へ出かける予定の人はついでに佐倉駅で下車して覗いて下さい。

 歴博を知ったのは、故、佐原真さんが館長をされている頃でした。随分と辺鄙な田舎に博物館を作るんだな~と不思議でした。

 マイフォト 国立歴史民俗博物館

 2時間程度しか博物館に時間を割けれないので、私は縄文時代、弥生時代、古墳時代だけをじっくり見る事にしました。巨大な博物館ですから、是非、1日程度をかけてゆっくり見学される事をお勧めします。

 今回気になったものをマイフォトに掲載しましたので、写真を眺めて下さい。レプリカが多いですが、概ね理解するには充分だと思います。私が面白かったのは、弥生時代のお祭りの想像絵画でした。

20099sakura_031  銅鐸に描かれた絵の分析

 春成教授の説では『銅鐸に描いてある絵の主役は、シカ、サギ・ツル、人である。それらの生態や日本の古い文献、民俗例を参考にすると、シカは土地の精霊、サギ・ツルは稲の精霊、人は祖先をあらわし、銅鐸は土地・稲・祖先という稲作にもっとも大切な精霊つまりこの時代の神を招き祭るための祭器であると考えることができる。』とありますね。

 私は何故、シカが土地の精霊で、サギ・ツルが稲作の精霊なのか理解できていません。サギ・ツルは田圃に来てドジョウやその他、田圃に生息するカエルとか蛇を食べていたからでしょうかね。見るからに真白で美しい姿をしているから、古代の人はそう考えたのでしょうか。

 鴨や雀は食糧にされたが、サギ・ツルを食糧にしたという話は聞きませんね、神さんだったのかも知れない。

 皆様も是非、一度、歴博に暇な時に出かけて下さい。入場料420円です。

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千葉県印旛村 戸ノ内(とのうち)貝塚 第6次発掘調査現地説明会

20099sakura_047  9月23日千葉県印旛郡印旛村字師戸戸ノ内にある『戸ノ内貝塚』現場にて、早稲田大学考古学研究室による第6次発掘調査 現地説明会がありました。私も今年の春からお世話になっている高橋龍三郎教授が陣頭指揮されている遺跡なので、興味を持って参加した。先生自ら我々に説明をされた。

20099sakura_071  説明会には早稲田考古学教室の重鎮の菊池徹夫教授(日本考古学協会会長)も前日、三内丸山遺跡での会議から駆けつけ、エジプト考古学の近藤二郎教授、マヤ文明の寺崎秀一郎助教授も参加されていた。

 早稲田隊は2003年から発掘調査を続けており、今回は第6次発掘調査報告となるのですね。現地説明会資料と、当日の説明を元に概要を報告します。

 (戸ノ内貝塚とは)

Photo グーグルアース 戸ノ内貝塚

「tonouchi.kmz」をダウンロード

 西印旛沼北岸の標高28~29メータの台地上に立地するが、古来このあたりは『師戸(もろと)貝塚』として縄文時代の後期、土器編年で言う「安行式土器」が出土する貝塚として著名だったようですね。何故このような台地上に人々が存在したかは、明らかで7千年前の縄文海進により印旛沼は湾(古鬼怒湾)になっており海面はこの高台近くまで押し寄せていた。

 その時の名残りが急な断崖のような地形を形成した。その後、縄文中期の頃から海面は低下し潟が出来て汽水潟(海水と真水が混じる潟)となったようです。大和シジミが繁殖し縄文人の食糧となった。縄文時代後期から晩期にかけて、印旛沼周辺では貝塚遺跡が確認されている。佐倉市井野長割遺跡や佐倉市宮内井戸作遺跡などは大規模遺跡として知られている。 参考 井野長割遺跡 宮内井戸作遺跡

Photo_2 印旛沼周辺地域は縄文時代後期、晩期の集落や社会を研究する上で重要な地域と言える。

 早稲田の考古学研究室では2003年度から5次の調査を既に終えている。

 参考 第二次発掘調査概要 縄文遺跡のある風景 その3 2007年度現地説明 

 これまで、後期後葉の土坑群や古墳時代の円墳の周溝の検出や、第4・5次調査では縄文時代晩期前葉の竪穴住居跡の発掘調査や、土偶、耳飾りなどの遺物も出土している。

 (第6次発掘調査の概要)

 (1)古墳の周溝の発掘

 縄文遺跡の密集する土坑群の上に古墳時代に円墳が築かれたようで、その周溝と推測される溝を発掘検出した。幅約1.5メータ、低辺までの深さ約50センチで調査区北東から南西にかけて緩やかにカーブして横走している。調査区域外にあたる北東に約10メータの範囲で同様に弧を描く周溝が調査されている。中央付近で墳丘への入口と想定される場所に溝が途切れブリッジ状にせり上がる箇所も検出した。

 古墳の墳丘部や主体部はすでに失われているが、30メータ級の円墳が存在したと考えられる。

 (2)縄文時代後期後葉の土坑群の発掘

 縄文時代の後期後葉に位置づけられる巨大な土坑が濃密に分布しており、前年度までの発掘では径70センチ内外で深さが2メータを越える比較的細長い土坑が主体であった。今回の調査で径150センチ前後の円筒形の深い土坑が多く発掘されました。これらの土坑は底面に下部施設と考えられる堀り込みを伴うケースが大半であり、中には覆土から後期後葉曽谷式~安行1式に比定される大型の土器破片が出土する。

20099sakura_050  写真で参照してください、「ピット773」は径2メータ×深さ2.5メータの最大規模の土坑であるが、円筒形に穿たれた穴の底には厚さ2センチの炭化物がレンズ状に層をなして堆積していた。焼土が検出されていなので、何らかの遺棄物が遺存したと考える。遺物は縄文時代後期安行1式の土器片を主体とするが、中期末葉の土器片も多く出している。

 調査区南に位置するピット群は複雑に重複しており、出土遺物や土層から短期間のうちに埋没し新しい土坑が穿たれたと想定する。それぞれの土坑遺物は曽谷式~安行1式の土器を主体としている。

 現在、これらの大型土坑の機能について断定できる段階ではない、貯蔵穴なのか、掘立柱建物跡なのか、又は、お墓であったのか今後の周辺遺跡の調査と照らして考えて行く。

 (写真一覧)

20099sakura_045 20099sakura_048 20099sakura_049 20099sakura_051 20099sakura_052 20099sakura_053 20099sakura_054 20099sakura_055 20099sakura_056 20099sakura_057 20099sakura_058 20099sakura_059

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小机城址散策記

Photo  天気が良いので近くにある小机城址でも散策してみようと、出かけた。ワールドカップが開催された国際競技場を過ぎると、鶴見川の傍にこんもりとした小高い丘がありそれが小机城址である。

 グーグルアース 小机城址

「Kozuke-Castle.kmz」をダウンロード

 グーグル写真を観て頂ければ判りますが、鶴見川が二股に分かれた場所に三角形の位置で小机城址、茅ヶ崎城址、榎下城址が存在していますね。鎌倉時代に上杉氏の管轄する城であったそうだ。鶴見川の水運と鎌倉街道の中道(なかつみち)が通過する交通の重要な場所であったそうだ。

 奥州大路とも呼ばれ、鎌倉から戸塚を経由しこの辺りを通過して荏田から二子玉川を通過し渋谷にでて(田園都市線を辿るようですね)、新宿、赤羽、川口、古河、小山、宇都宮へと北上した大動脈であったそうだ。

20099kozukue_003  小机城址の見取り図が写真にありますね。小高い丘の上に空掘りを二重に施した堅牢な城であったようです。

小机城の説明の看板がありましたので、参考にしてください。

20099kozukue_006  16世紀には北条氏の配下の笠原氏の居城となったそうです。そう言えば大倉山梅園の近くのお寺は笠原氏の菩提を弔うお寺だったと思います。ゆかりの寺なんでしょうか。

20099kozukue_005  本丸址と考えれる場所に空掘りを通過して行くところです。空掘りは意外と深いものですよ。写真をみてみましょう。20099kozukue_009

意外と深い空掘りで、土塁を築きあげていますが、北条氏の特徴的な城作りだそうです。

20099kozukue_007 20099kozukue_010  本丸址は現在は子供たちが野球が出来る広場となっていました。此処が本当の本丸址なのか不明だそうです、本格的な学術的な発掘がなされたのかのも、不明です。

それでは、二の丸の方に進んでみましょう。

20099kozukue_011 20099kozukue_012  城は至る所に空掘りと土塁が施され、二の丸に行くにも大変です。20099kozukue_014 20099kozukue_015

20099kozukue_017 20099kozukue_018  櫓台(やぐら)ですね、城には何箇所かに櫓台が築かれており、見張りと戦闘時の攻撃の拠点になりました。20099kozukue_019

二ノ丸址ですね、今年も10月末には竹灯籠の祭りが此処で行われると思います。私は見学した事がありませんが、幽玄な素晴らしい催しだそうですよ。

 参考 小机城址市民の森 竹灯籠まつり

 二の丸広場にはお昼のお弁当でしょうか、竹を管理されている人々のものと想定される荷物が置かれていました。この城址は素晴らしい孟宗竹で覆われており、私の故郷である石清水八幡宮を思い出しました。

20099kozukue_022 20099kozukue_023 20099kozukue_024 20099kozukue_025 20099kozukue_026 20099kozukue_027 どうですか、この孟宗竹の空掘りの道は幽玄であります。

問題は、Tシャツで来てしまい藪蚊に追われる始末でした。長袖で来ないと蚊の餌食となりますので、御注意を。

20099kozukue_034  小机城址の遠景であります。田園風景の中にこんもりとした森がありますので、直ぐに発見できると思いますね。

 初秋の候となりました、稲刈りとシオカラトンボが田舎道を飛んでいました。

 今年の稲は豊作なんでしょうかね。20099kozukue_035 20099kozukue_036

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今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (4)

  承前 今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (3)

 最新の発掘成果を踏まえ考古学、歴史学専門家による今城塚古墳と被葬者と考えられるヲホド王(継体天皇)についてシリーズでお伝えしています。引用させて貰っているのは、吉川弘文館から出版された『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』高槻市教育委員会著者の本に典拠しています。詳細は、当該典拠本をお読みください。

 私が日本の歴史上、継体天皇に特に拘る理由は生まれ育った地域が継体天皇が活躍された場所に近いという地縁的な繋がりからの魅力と、日本の歴史の謎と考えられ今だに解決していない突然の山背・近江・越前を基盤とする彼の大王への登場です。応神、仁徳さんから始まる河内に巨大な前方後円墳を築いたヤマト王権が突然に武烈天皇で終止符が打たれ、応神天皇5世の孫と記録される彼が大王に推挙されたのか、謎を探る旅が子供の頃からの課題でした。

 今回は、和田晴吾先生のご意見を紹介する番であります。

 (今城塚古墳と九州勢力 和田晴吾先生)

 (古墳時代中期から後期の状況)

  日本列島では5世紀末から6世紀前葉にかけて、即ち雄略朝の終わり頃から継体朝の大半に関わる頃はヤマト王権が動揺衰退していた時期と考えれる。その理由は、古墳の築造から類推できます、それまで畿内で建造されていた大型前方後円墳が突如姿を消すのに対して新たな墓域に中小の前方後円墳を中心とした古墳群が登場し始め、同時に首長よりも下の階層の人々が従来の方形周溝墓や方形台状墓が、一斉に円墳化を始めるのです。

 被葬者は主に共同体の有力な家長層と考えられ、全国に膨大な数に達するようになる。その解釈は、雄略朝の頃には中央集権化が進み、各地の大首長勢力の在地支配を弱体化、解体化するとともにこの時期に新たに台頭してきた新興の中小首長層や広汎な有力家長層を王権の配下に組み込む作業が始まっていた。

 王権が首長連合体制の段階から、より中央集権的でより強力な新しい国家体制に変化しだした時期と考える。その理由は、海外情勢と列島内部の二つの理由による。

 (1)外的要因として、この頃までに朝鮮半島経由で文明開化と呼べそうな、新しい大陸の人・もの・情報が列島内に充満し主に物質文化では大きな変化を受けていた。その輸入先は百済や伽耶諸国でありました、しかし高句麗・新羅が半島に於いて大きな力を持つようになり、百済・伽耶が存亡の危機に直面していたのです。これは、ヤマト王権の危機に直結し、早急な中央集権国家を築くのが急務となっていた。

 (2)列島内の情勢では新しい大陸の文化・文明の恩恵を受け生活は向上していた、しかし、首長の私民化に対して共同体構成員の不満が広がり新来の価値や富を独占する首長に対する不満や新興勢力の従来の大首長に対する反発が起こり社会は不安定になっていた。

 このような情勢でも従来の旧勢力の抵抗は強く、王権そのものが動揺する事態ともなり社会は不安定な時期に突入していたと考えられる。畿内では5世紀後葉から6世紀初頭にかけての有力な古墳が少なく、古市・百舌鳥古墳群でも大王墳と考えられる古墳は急速に小型化し、遂には消滅してしまう。5世紀後葉に岡ミサンザイ古墳が古市に造られて以降、6世紀前葉に今城塚古墳が三島の新しい墓域に築かれるまでの間、王権は著しく不安定な時期となっていた事を古墳群が証明している。

 参考 グーグルアース 岡ミサンザイ古墳

「misanzai.kmz」をダウンロード

 (変革期と九州勢力)

 このヤマト王権が弱体化した時期に九州勢力は列島内に権力を拡張したと考えられます。考古学的には九州の古墳文化が西日本を中心に拡大した事が証明されています。この現象は主に二つに集約される。

 (1)九州的な横穴式石室の拡散

 九州の横穴式石室は朝鮮半島や中国の影響を受け、北部の玄界灘沿岸地域で中期初めに建造がはじまり、順次北部から中部に広がり5世紀中葉頃には東方への拡がり始めたのだ。5世紀後葉から6世紀前葉には一気に分布域を広げ日本海沿岸、瀬戸内海沿岸、畿内、伊勢湾沿岸に広まった。

 jo注:最近のNHK教育テレビで放映されている「日本と朝鮮半島2000年」の番組でも、近年続々と洛東江流域の伽耶地域と半島南部西の栄山江流域の前方後円墳と九州北部の深い関係が論究されている。最新の韓国での考古学成果がこの時期の九州勢力を解くカギになりそうである。参考過去記事 栄山江流域の前方後円墳 

 畿内では横穴式石室の墓制は九州より100年程度遅れて始まり、畿内型横穴式石室の祖形は5世紀後葉に出現し、6世紀前葉に普及が始まる。ヤマト王権の動揺期にそれに乗じるかのように九州勢力が強大化し西日本を中心に拡大した。

 (2)阿蘇ピンク石製刳抜(くりぬき)式石棺

  この頃、九州の熊本県宇土市に産する阿蘇ピンク石(馬門石)製の刳抜式石棺が畿内や近江に運び込まれた。5世紀末から6世紀前葉の限られた時期に限られる。大和の7例は奈良盆地東部になり集中しています、河内の2例は古市古墳群にあり、近江では野洲市の大岩山古墳群に2例ある。あと備前に1例、そして三島の今城塚古墳である。

 中期の畿内の主要古墳では長持ち型石棺(組合式)が用いられ、王権と政治的距離がある集団は舟形石棺(刳抜式)を使用していたので、阿蘇ピンク石を利用した刳抜式石棺を利用した集団は当時の王権と距離を置く集団が九州勢力と連携し石材を求め独自の石棺を使用したと考えられる。

 九州的な横穴式石室の広がりの主体は九州の勢力が主体であり、この阿蘇ピンク石を利用した石棺を利用した勢力の主体は畿内側にあったと考えられる。この石棺は最初は舟形石棺として造られ竪穴式石槨に収められたが、間もなく、畿内的な横穴式石室に納められ家形石棺となり、畿内の他の家形石棺の祖形となった。そして、二上山の凝灰岩(二上山白石)が開発され、家形石棺が6世紀前葉に畿内で広まった。

 更に面白い現象として、この刳抜式石棺は決して九州的な横穴式石室には納められず、畿内式の横穴式石室にしか納められなかった。畿内では前期以来の墓制を引き継ぎ九州式の横穴石室が導入されてもその中に重厚な石棺を収め二重に遺体を密封する葬送を行った。九州では横穴式石室に遺体を直接置いたり、横口のある組合式石棺を利用していた。

 以上を纏めると、5世紀後葉から6世紀前葉にかけて九州勢力の強大化と西日本地域への勢力の拡大が行われ、同時に奈良盆地東部を中心とした勢力が九州勢力を連携していた事が判明した。九州的横穴式石室を拡大させた勢力は南朝鮮半島とも関係が深く、又、阿蘇ピンク石棺を畿内に供給した九州勢力は九州中部の勢力と考えられ、九州も一つの勢力が制覇していた訳ではない。

 参考過去記事 大王のひつぎ実験航海「大王と海」大王の柩実験航海 大王の柩実験航海遂に

 参考 大坂府長持山古墳2号棺(阿蘇ピンク石製) 長持山古墳石棺

 参考 滋賀県甲山古墳石棺(阿蘇ピンク石)

 参考 横穴式石室基礎知識

 (今城塚古墳の勢力基盤) 

 

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宇宙大航海時代の到来か ソーラーセイル

 2010年にはJAXAでは小型ソーラー電力セイル実証機(IKAROS = Interplanetary Kite-craft Accelerated by Radiation Of the Sun)と金星探査機PLANET-CをH-ⅡAロケットで打ち上げるらしい。そこで、IKAROSとはどんな飛行物体なんだろうか。

 JAXA IKAROS説明

 (太陽帆とは)

 太陽から発せられる光やイオンを帆に受けて反射しその力で宇宙空間を航行する宇宙船である。子供の頃に確か漫画でそのような宇宙船を知り、遥かな宇宙の彼方を旅行する夢を観た記憶があります。そんな話が現実の世界で取り組まれているのには驚きではないですか、しかも、日本が世界に先駆けてそれを開拓するという。

 JAXAの記事を読んで貰えば判りますが、差し渡し(対角線)20メータの正方形の薄い膜を開き太陽光と太陽から発するイオンを反射する。厚さ僅かな0,0075ミリのポリイミド樹脂で出来た膜らしい。それを宇宙空間で傘を開くように回転させ膜の先端に着けた重りで開かせるという。

 膜面には薄膜太陽電池や姿勢制御デバイスや理学観測用センサーも搭載されているらしい。2010年後半には中型ソーラー電子セイル探査機を打ち上げ直径50メータの膜を広げ高性能イオンエンジンを搭載しハイブリッドにて航行し、木星やトロヤ群小惑星を目指す計画だという。

 参考 JAXA イオンエンジン原理説明

 大航海時代に人々は帆船に乗り新大陸を目指した。地球の風の力を頼りに海原に乗り出した、現代は太陽の光の力を頼りに宇宙空間の旅にでようとしている。壮大なロマンをみるようですね、素晴らしい夢がある。是非成功して世界の先端を切り開いて欲しい。今回のH-ⅡBの巨大ロケットの成功は日本の技術が確実に世界の先端を走り始めた感じを受けます。

 そういえば2003年5月に打ち上げられた宇宙探査機、『はやぶさ』は2010年6月に小惑星イトカワから帰還する予定でしたね。この探査機で日本のイオンエンジンの性能と実績は確認された筈です。

 日頃は地球の表面で大気があり、風がある中でラジコン飛行機を飛ばしている訳ですが、次の世代の子供たちは宇宙空間を航行するソーラーセイルを自作し、キットで販売されているイオンエンジンと太陽電池を組み合わせ、自分の好きな星団を目指して探索させる趣味が生まれるかも知れませんね。

 1982年からアメリカに駐在していましたが、その頃、巨大なパラボラアンテナで宇宙の星団を目指し電波により地球からのメッセージ送信している研究所や大学がありました。これもロマンですね、100年後千年後に応答が返るかも知れない悠久の時間軸で活動している人もいる事にロマンを感じた事がありました。

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ツツェン・イツァー遺跡紀行 私の感想

 今回のユカタン半島のマヤ遺跡訪問と、数年前にメキシコ南部のオアハカの遺跡群を訪問した経験を踏まえた感想を述べたいと思います。

 (死者の日と日本のお盆の風習)

数年前にオアハカを訪問し、丁度その頃は「死者の日」に出くわしました。先祖の人々がこの世に帰還なさる日であり、各家庭では祭壇を設け祭りを行います。

 死者の日 祭壇制作風景

 死者の日 関連過去記事

 死者の日 オアハカの風景写真

 私が感じたのは死者の住む世界とこの世が近い存在である事に日本の古い死生観と似ていると感じた事でした。勿論、オアハカはスペインの侵入以降、カソリックの影響を受けハロウインの影響も受けているが、死者が生きてる人々と身近な所に存在し、年に一度見回りに来られるという考えは日本列島から東南アジアの黒潮の一帯に存在する死生観ではないだろうか。

 オアハカの竹田画泊の自宅では日本人のご夫婦がごく自然に日本のお盆のお祭りのように「死者の日」の祭壇を準備され、地元の少数民族の人々が自宅に来られ祭壇の作成に協力されてる姿を観て、日本とメキシコの古代から続く死生観に違いは殆ど存在しないという感想を持ちました。

 紀元前に1万年以上続いたという日本列島の縄文文化とメソアメリカの文化を繋ぐ決定的な絆はこの死生観にあるように思います。今後、考古学や文化人類学の研究によりこの不思議なリンクを解明してくれる日が来る事を期待しています。

 (天文学と石像文化)

 マヤの優れた天文学の背景には何があっつたのかという疑問です。農耕を始めると何時種を播けばいいのか、何時刈り取りをすればよいのか、カレンダーが必要になる。その為には天文学が必要になりますね。しかし、全く天文学と無縁の人々には天体観測すら出来なかったと思う。何故、マヤの人々は高度な天文学を発展させる事が出来たのだろうか。

 私の仮説はメソアメリカの人々の先祖は優れた航海民であったからではないかというのが昔から持ち続けている仮説です。ジャワあたりにいた航海民は部族間紛争や自然災害により船で新天地を目指した。南太平洋のフィジー、タヒチ、ガラパゴス、イースター島、北太平洋のハワイ等々には彼らが航海をして辿りついたのだ。イースター島はもうアメリカ大陸の西海岸は目と鼻の先ではないですか。

 黒潮に乗った人々は日本列島に到着し縄文人を形成したのではないでしょうか。これらを古代の太平洋航海民とでも呼べばいいのではないでしょうか。太平洋の島々では長老が若い衆に航海の方法を教えるといいますね。以前、テレビの番組でも観た事があります、彼らは星を頼りに航行し天体観測には優れた知識を持つといいます。

 次に石文化についてですが、ポリネシアのサバイイ島には巨大なストーン・ピラミッドが存在しますし、太平洋の島々には巨石文化の遺物が現存している、最大はイースター島のモアイ像でしょうね。日本でも、ストーンサークルが東北を中心に現存しています。

マヤの石造りの文化の背景には、彼らの記憶の遠い過去に石文化が存在した事を窺い知る事が出来るではないでしょうか。

 (身体的特徴)

 スペイン人が植民地化する以前のメソアメリカの人々は極端に背が低いのが特徴ですね。インドシナ半島やマレー半島、フィリピン諸島といった南方系の人々は背が低いのが特徴です。145センチから150センチ程度ではないでしょうか。以前、オアハカの遺跡を訪問する時に道に迷い、現地のタクシーの運転手の世話になりましたが、彼は完璧な縄文人の格好でした。毛深く、彫が深く、目が大きく、背が低いのです。

 日本人は弥生以降、朝鮮半島経由で北方モンゴリアンの血が西日本を中心に入り、背が高くなり面長の目が細い人々が急増した歴史を持ちますが、縄文時代の人々はマヤのような身体的特徴を持つ人々だったと思います。

 勿論、北米大陸には1万数千年前からベーリング海の氷上を渡り南下したモンゴリアンが存在し太平洋岸と大西洋岸を南下した人々は存在した。メキシコ湾に早く花が開いたオルメカ文明はアフリカの影響を受けた人々かも知れない。参考資料 オルメカ巨石人頭

 近いうちには、DNA分析やmtDNA(ミトコンドリア)分析により彼らのルーツが科学的に辿れる日が来ると思います。

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チチェン・イツァ遺跡紀行 あれこれ編

20099yukatan_151  もう一度、遺跡群全体でご紹介しなかった部分に触れたいとおもいます。

 これは、ジャガーの神殿と球戯場の遠景写真です。

20099yukatan_149 数か月前に発見された遺跡の発掘現場の写真です。まだまだ、埋もれた遺跡は沢山あるのですね。

20099yukatan_267 これも発掘中の遺跡です、ククルカン神殿と戦士の神殿の中間あたりにある遺跡です。

20099yukatan_216  あなたは何匹のイグアナを見つけましたか?私は4匹見つけましたよ。一般的にはイグアナは食糧とされていたそうですが、ユカタン半島北部地域では食べなかったそうですね。

 良かったね、イグアナ君達!

20099yukatan_219 20099yukatan_220 20099yukatan_221 ジャガーと鷹の神殿近くの遺跡群です。チャックモールが転がっていますね。

20099yukatan_223  ククルカン神殿の北側に台座のような遺構が残っています。

羽毛の蛇、ククルカンが中心となった遺構ですね。20099yukatan_224 20099yukatan_225 20099yukatan_226 20099yukatan_227

画面で二枚舌を出した大きな顔の中に又、別の顔が伺えますね。ククルカンは風を司り生命の守護神でもあるといいますね。チャックは雨の神で農耕の神でしたね。

20099yukatan_222 これ、何か判りますか?正解は、楽器だそうですよ。各々異なる音階を出すといいます。打楽器の素材なのですね、無造作に並べてありますね。

20099yukatan_238 頭が欠けたチャックモールの像です、道端に転がっていました。20099yukatan_144

これは、土産物屋で自分の名前を銀細工でペンダントにしてくれるお店の看板です。マヤ文字の一部ですね。

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チチェン・イツァ遺跡紀行 旧チチェン・イツァ遺跡群

20099yukatan_270  メキシコ中央高地のトルテイカ文明の影響を受ける前の古典期後期から末期頃(AC600年~AC900年)に建造された遺跡群があります、これを旧チチェン・イツァ遺跡群と呼ばれている。

 (高僧の墓 Tumba de Sacerdote)

 発見時は殆ど壊れていたそうですが、ここまで復元されたそうです。この遺跡も内部のは古い神殿が存在し沢山の遺物が出土したそうです。

残念ながら急に黒雲が押し寄せてきました、旧チチェン・イツァ遺跡をゆっくり見学出来ずに逃げるように遺跡を後にしました。20099yukatan_269 20099yukatan_268 20099yukatan_271

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チチェン・イツァ遺跡紀行 戦士の神殿と列柱

20099yukatan_252  戦士の神殿と列柱のご紹介です。神殿の上の真ん中にチャックモールの像が見え、その後ろの二本の柱は羽毛のある蛇、ケツァルコアトルの像であります。

 チャックモールと蛇の柱はトルテカ文化の影響によるもので、それまではマヤの遺跡には存在しなかったものです。後古典期前期AC900年~AC1200年頃の建造物であります。

 神殿前には戦士の姿を浮き彫りにした角柱が並んでいます。

20099yukatan_253 神殿の右側に延々と円柱の柱が並んでいます。メルカード(市場)の千本柱と呼ばれています。この柱の上には古代には屋根があり王様の宮殿までつながっていたそうです。

さて、もう少し近く寄ってみましょう。

20099yukatan_254 20099yukatan_255 20099yukatan_256 だんだんと、チャックモールの像が見えなくなります。此処まで近く来ると全くチャックモールは見えなくなりました。

それでは、戦士の柱を眺めてみましょう。

20099yukatan_257  戦士は左向きに立っていますね、足元には二枚舌を出している蛇(ケツァルコアトル)が大きな口を開き中から顔が見えますね。

 まさに、メキシコ中央高地の好戦的民族であるトルテカの影響を受けています。

この戦士の像の角柱が神殿の前に並んでいます。

20099yukatan_258 20099yukatan_259 20099yukatan_260 20099yukatan_261  神殿を斜めから眺めてみましょう。

20099yukatan_264  この神殿の中にはチャックモールの神殿が埋まっているそうです。

注:ケツァルコアトルQuetzalcoatlはトルテカ語の羽毛の蛇、ククルカンKukulucanはマヤ語の羽毛の蛇を指します。

 この円柱列の上には屋根があったそうです。木か草葺きの屋根と想定されます。

 20099yukatan_263 20099yukatan_265 20099yukatan_266

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日墨交流400周年記念展 オアハカマヒカ展覧会御案内

 オアハカ在住の娘からの御案内です。日本メキシコ交流400周年を記念してメキシコのオアハカ地方のアーテイストの作品展が開催されます。

 日時:2009年10月16日(金)~10月28日(水)
 場所:マキイマサルファインアーツ
      〒111-0053 東京都台東区浅草橋1-7-7     
    tel/fax 03-3865-2211
          URL http://www.makiimasaru.com
 

 詳細は オアハカマヒカ 紙と土の力

 武蔵野美術大学日本画学科教授で、且つ、著名な日本画家の内田あぐりさんが、オアハカのアーテイストとの交流を通じて実現した企画です。是非、関東にお住まいの方々で御興味のある方は見学に来て下さいとの事です。(伝言)勿論、私も見学します。(笑)

 内容詳細について

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チチェン・イツァ遺跡紀行 球戯場編

20099yukatan_193 (球戯場Juego de Pelota)

 長さ146メータ、幅36メータの大球戯場です。メソアメリカでは儀式として戦われていた。生ゴムを固めた5キロ程度の重さのボールを手を使わず、肩と腰と足を使い壁の上にある石で出来た輪っかに入れる競技です。

 勝者は名誉で生贄にされたと言われている、心臓を刳りぬかれチャックモールの石像の上に捧げられたのです。

 以前にメキシコ・シテイの南部500キロ程度にあるオアハカ谷を訪れた時に、4箇所の遺跡を訪問しましたが、沢山の球戯場を見学できました。

 参考過去記事 オアハカ紀行目次編 モンテアルバン遺跡

オアハカの博物館で球戯場で戦う戦士は腰に石のプロテクターのような重いものを付けて戦ったようでした。出土した、埴輪によれば戦闘場面(球戯場面)はある程度想像できます、日本の相撲のような格好で戦っていますね。 参考過去写真集:ルフィーノ・タマヨ博物館の埴輪

20099yukatan_200  

 球戯場にあるレリーフですが、図柄が判りますか?真ん中の下に大きなボールの絵があります、その中に頭蓋骨が描かれている。両脇に戦士が立つが右側の戦士は首を切られ、血が吹き出しそれが蛇に変化しています。左の戦士は右手に切り落とした戦士の首をぶら下げていますね。

20099yukatan_200_2これで判り易いでしょうか。

 競技の勝者が敗者の首を切断し持っているのですね。この勝者はその後、名誉として司祭により生贄として心臓をえぐられチャックモールの像の上に捧げられたという。

20099yukatan_198 20099yukatan_201 20099yukatan_202 20099yukatan_203 20099yukatan_204

 20099yukatan_205_2 20099yukatan_206_2 球戯では生ゴムで出来た硬いボールを球戯場の両側の壁の上にある石の輪っかに入れたら勝ちになるそうです。

 20099yukatan_207 手は利用できないサッカーのようなゲームですから、肩とか腰を利用してボールを入れたそうです。

20099yukatan_197 20099yukatan_199  ところで、現地のガイドのおじさんが手を叩いていますが、これは「山彦、こだま」の実験をしているところです。球戯場の壁はオーバハングするように壁が作られており、音が球戯場内で反射して「山彦、こだま」現象が起こるように設計されているのですね。

20099yukatan_214 この写真が判り易いと思いますが、壁が傾いていますね。おわかりでしょうか。

Continue reading "チチェン・イツァ遺跡紀行 球戯場編"

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旧友と渋谷で再会 イチロー号外

20099yukatan_297  大学時代も同じゼミで学び、同じ会社に入社した浅野さん、久しぶりに仕事の関係で再会しました。

 彼はラグビー部、私はワンゲルと同じ体育会系でした。お互い学んだゼミは国際金融論の(故)則武保夫教授のゼミでした。

 二人は教授から富士通を勧められ東京にでてくる事になりました。昭和44年に青雲の志しを抱きお互い市ガ尾のバラック建ての会社の寮に入りました。

 未だ、外壁を塗ってる状態の寮でした、風呂に入ると壁が落ちてくるし、部屋で相撲をすると壁に穴が開くし、飯場のような状況でしたね。新撰組は僅か2年程度だったそうですが、我々の寮生活も同じ位の期間でしたが、10年以上皆で暮らしたような記憶です。

 毎日毎日、会社で泊まり込みで徹夜で計算機を使い、週末の日曜日は宴会でした。青春時代をともに過ごした仲間とは格別ですね。お互い髪の毛は白くなり、ましたね。無事に今まで一緒に生きてこれたのは嬉しいです。何時までもお互い元気で過ごしたいと思います。

20099yukatan_299  渋谷の帰りに号外が出ていました。イチローが9年連続で200本安打を打ち立てたニュースでした。

 アメリカでは100年程度ぶりだそうです、彼を観てると本当に修験者みたいですね。

彼はこれから、何処まで記録を伸ばすか応援したいし、誇りに思います。

 

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チチェン・イツァー遺跡紀行 ジャガーと鷹の台座、ツォンパントリ(頭蓋骨の城)、ジャガーの神殿編

20099yukatan_159  (ジャガーと鷹の台座)

 この台座には夜の帝王であるジャガーが真中にレリーフとして彫られ、両脇に昼の帝王である鷹が人間の心臓をつかむレリーフが描かれている。

 ガイドさんの話では夕方になると太陽の力が落ち、ジャガーが権力を振るうので、太陽に力を注ぐ為に生贄を捧げたという。

 これも、トルテカの影響だと思います。本来のマヤにはそのような信仰は存在しなかった。

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 レリーフ観て判りますか、真ん中に右向きのジャガーがいます、両側には対向した鷹が手に心臓を持っていますね。

 台座から首を出しているのはククルカン(羽毛の蛇)の頭ですね。20099yukatan_161 20099yukatan_163 20099yukatan_164 20099yukatan_165 20099yukatan_166 20099yukatan_167 20099yukatan_168  

(ツォンパントリ=頭蓋骨の台座)

 これも、トルテカの影響だと思います、生贄にされた人の頭がい骨を並べたようです。

20099yukatan_174 角の骸骨は立体的に彫られていますね。

 何故そんなに、毎日が不安だったのでしょうか。それとも、トルテカという好戦的な民族は戦争をする事で捕虜を獲得し、彼らを毎日生贄にしなければならない理由でもあったのでしょうか。

20099yukatan_169 20099yukatan_170 20099yukatan_171 20099yukatan_172 20099yukatan_173 20099yukatan_175  (ジャガーの神殿)

20099yukatan_176球戯場の東壁に作られた神殿であり、正面にジャガーの像が置かれている。

 壁には戦争ん様子が描かれている。考古学者の話ではこれは、10世紀のトルテカ侵入時の戦争を描いているという。

 ジャガーは夜の帝王である。この像の上に誰が座ったのだろうか。

20099yukatan_178 20099yukatan_179

 何か可愛いいジャガーですよね。多分赤に色で彩色されていたと思います。カスティーヨの内部ピラミッドで発見されたジャガーは赤い色で彩色されていた。目には翡翠が埋め込まれていたので、多分このジャガー像もそうだったと思いますね。

20099yukatan_180 20099yukatan_181 20099yukatan_182 20099yukatan_183 20099yukatan_184  戦闘場面の絵ですが、判りにくいですね。

20099yukatan_185 20099yukatan_186  柱のレリーフです。一番下には雨の神チャックが涙を流しています、これが雨となるのですね。雨で亀が潤っていますね。(笑)

20099yukatan_187 20099yukatan_188  柱の上の方には羽毛の蛇の神ククルカンが描かれています。

20099yukatan_189 20099yukatan_190 20099yukatan_191  ジャガー神殿を南側から見た写真です。裏は球戯場となっています。

 

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チチェン・イツァー遺跡紀行 エルカスティージョ=ククルカン神殿(El Castillo)編

20099yukatan_152  チチェン・イツァー遺跡では一番有名な巨大ピラミッドの神殿でククルカン神殿とも呼ばれている。低辺の1辺が59メータ、高さ24メータの後古典期前期AC900年からAC1200年の建造物であります。

 3年前に事故があり観光客が滑落死亡する事故から現在は残念ながら登る事は出来ません。本当に残念ですね、このピラミッドの上からユカタン半島のジャングルの景色を眺めたかったです。

 この神殿は前回に説明しました新チチェン・イツァーの遺跡群に属しメキシコ中央高原の覇者である、好戦的なトルテカの影響を大きく受けた遺跡です。このピラミッド(神殿)は暦の神殿とも呼ばれる多くのマヤ人の世界観を具現化した建造物となっている。

 (マヤの天文学と暦について)

 先ずハアブ暦についてですが、1年を20進法に従い20日からなる18か月と5日間の暦を考えていました。これは農作業を管理する農耕暦であったと考えられています。新年は昼間が最も短くなる冬至にあったようですね。人々は太陽の力が最も衰えたあと、再び太陽の力が強くなるこの時期に再生・新生の願いを込めた。

20099yukatan_156  1年最後の5日間をウアイェヴの5日間と呼び新年直前の5日間を太陽が死に向かう不吉な日々と考え身体も洗わず、髪もとかさず、厄介ものが来ても追い返さず、疲れる肉体労働も全くしなかったそうだ。

 次に、ツォルキン暦についてです。13日を一周期とし、それが20周期で260日、それぞれの日に大安吉日のような吉凶が当てられた宗教儀式の暦である。この二種類の暦を組み合わせ対応させて、即ち直径が異なる二つの歯車をかみ合わせ回転させて暦を刻む方法であった。従い、260日と365日の最小公倍数である18980日即ち52年で二つの暦は一巡する事になり還暦となる。この世界観はマヤ・アステカ諸民族、メソアメリカの共通の世界観であったそうだ。

20099yukatan_157  そして、このハアブ暦とツォルキン暦以外に時間を計算し記録する基本的な単位が知れれているという。1日を1キンとし、20キン=1ウィナル、18ウィナル(360日)=1トゥン、20トゥン(7200日)=1カトゥン、20カトゥン(144000日)=1バクトゥン、20バクトゥン(2880000日)=1ピクトゥン、20ピクトゥン(57600000日)=1カラブトゥン、20カラブトゥン(1152000000日)=1キンチルトゥン、20キンチルトゥン(23040000000日)=1アラウトゥンと記録していたという。

20099yukatan_237  この表記法によりマヤの世界が始まった日から経過した時間を表わすことが出来た。これが長期暦である。今までの研究により、長期暦の最初に一日はBC3114年8月11日とされている。このマヤ独特の暦を西暦に変換する方法は考案者の頭文字を取り、GMT法とよばれています。石碑に刻まれた年代をこれで知ることが出来ます。

 マヤの人々は13バクトゥンが経過すると現在の世界は滅びると考えており、世界の終焉となる。これは西暦に換算すると2012年12月23日となります、怖いですね。

(ククルカン神殿の謎)

 北側階段には蛇の頭があります、これはククルカンと呼ぶ羽毛の蛇という神であります。春分と秋分の日には太陽の光がピラミッドの角の階段にあたり、蛇腹の模様が出現し、巨大な降臨する羽毛の蛇=ククルカン神が出現する事で有名です。

 20099yukatan_157_2 ピラミッドが正確に北を向かず、このような現象が生まれるように設計されたという。

 4面のピラミッドには真中に急な91段の階段が設けられ、4面合わせると364段となり、頂上の神殿の1段の階段を合わせると365段となりハアブ暦を表現している。

 又、ピラミッドは9層のテラスから構成されており、真ん中を階段で二分されている。これは、9×2=18となり一年を表すと考えられている。

20099yukatan_243  この神殿もマヤの他の神殿と同じく、内部には古い時代の神殿が存在している。以前はククルカンの頭の近くから内部に入れたそうですが、今は見学出来ません。内部の神殿が発見された時に翡翠の目を持つ赤いジャガー像(多分、王が座る玉座)と生贄の心臓を置いたチャック・モール像が発見されたという。

20099yukatan_244  神殿の北側のククルカンの近くで手を叩いたり、大声を出すと何とククルカンの鳴き声がこだまとして返って来ます。これは、内部のピラミッドと外側のピラミッドの間に空間がありこのような楽器の役割をピラミッドがするらしい。実際、やってみると見事な鳴き声が返ってきました。これは、本当に不思議な仕掛けと思います、流石に、新世界の七不思議にこの神殿が選ばれた理由が判ります。

20099yukatan_245 20099yukatan_246  20099yukatan_247 20099yukatan_248 20099yukatan_262

位置情報:グーグルアース ククルカン神殿

「el_castillo.kmz」をダウンロード

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チチェン・イツァー遺跡紀行 聖なる泉(Cenote Sagrado)編

20099yukatan_231  チチェン・イツァーはユカタン半島北部の平原にあります、5Km²の地域に密集して建造物が存在します。名前の意味は、『イツァの泉の湧くところ』という意味です。

 ここには二か所のセノテが存在しています、前回ご紹介したセノテのEl Cenote Xtoloc(セノテ・シトロク)とこの直径60メータ、水面までの距離が20メータある『生贄の泉とも聖なる泉』とも呼ばれるセノテです。

 位置情報:グーグルアース

「sacred_cenote.kmz」をダウンロード

20099yukatan_228  ユカタン半島北部は川が存在しない為に人間が生きる為の水の確保の為にこのようなセノテに集落が形成されるのですね。

 この遺跡は大きく時代が異なる二つの部分に分かれます、南側に位置する遺跡は旧チチェンと呼ばれ古典期後期~末期頃の遺跡(AC600年~AC900年)であり、北側に展開する遺跡群は新チチェンと呼ばれ後古典期前期(AC1200年~1500年)に建造され、メキシコ中央高地のトルテイカの影響を受けた遺跡であります。

20099yukatan_229  AC850年頃にこの地に入植したのはイツァの人々であり、メキシコ湾沿岸地方から移動して来た人々でありプトゥン・マヤと呼ばれる種族でした。彼らはトルテイカ的文化要素を持っていたらしく、従来のユカタン半島北部の原住民であるユカテク・マヤの伝統と融合して新たな様式・文化を生み出した。こうして、チチェン・イツァはユカタン半島の中心地として栄えたのである。

20099yukatan_230  AC10世紀に千キロ離れたメキシコ中央高地に位置するトゥーラを中心に勃興したトルテカ文化は軍事的な色彩が濃く、人間の心臓を太陽に捧げる儀式を中心とした血なまぐさい文化を持つものであった。死のシンボルである頭骸骨、ワシとジャガーの像や、戦士の像が繰り返し描かれ頭蓋骨を並べる台座や生贄を捧げる祭壇などが設けられた。

 当然これらの影響をチチェン・イツァーも受け継いだのです。

 (聖なる泉セノテ、生贄の泉)

20099yukatan_232  この泉はユカタン半島最大の泉であり、神話に彩られた聖域である。日照りの時期にここに若い処女が人身御供として投下された。また、生贄と同時に様々な貢物も投下されたのだ。その底を調査すると多くの貴金属が見つかり南米コロンビアやパナマからの渡来品も見つかっている。

 1911年にアメリカ領事トンプソンが水底を調査した際に21体の小児、13体の成人男子、8体の女性の骨が検出された。黄金細工や翡翠も発見されている。日照りが如何にマヤの人々にとり大変であったか、農耕民族にとり死活にかかわる出来事だったのですね。

20099yukatan_233  現地のツアーガイドさんの話では、セノテの投げ入れる場所にサウナ風呂を作り、身体を清めて、早朝に投げ入れるそうですが、昼過ぎまで生きていると助けられたそうです。しかし、あまりそれが続いたので、投げ入れる前にメスカル(テキーラ)を飲ませて酔わせて投げ入れたそうです。

 日本でも、ヤマトタケルの奥さんが海を鎮める為に身を投げました、人柱を立てる風習も近世まで残っていました、斉明天皇は雨乞いの儀式をしました、古今東西同じような風習が存在していたのですね。

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チチェン・イツァー遺跡紀行 セノテ・シトロク(Cenote Xtoloc)編

 場所情報:グーグルアース El Cenote Xtoloc(セノテ・シトロク)

「el_cenote_xtoloc.kmz」をダウンロード

20099yukatan_126   チチェン・イツァー遺跡への旅はカンクンからのツアーに参加した。自力で行く場合はトゥルムに出かけた時と同じで、バスセンターから142ペソで3時間かけて行けます。ツアーだと2時間半程度で到着可能だから楽ですよね。

 日本人は私達以外に1組の親子連れだけ、殆どが英語圏とスペイン語圏の人々でした。

最初に訪れたのはチチェン・イツァー遺跡の近くの高級ホテルの敷地内にあるセノテ(Cenote)でした。

20099yukatan_127 20099yukatan_128  20099yukatan_129_2 大きな穴がぽっかり空いています。水面まで10メータ以上はあるのではないでしょうか。これが、セノテと呼ばれるユカタン半島特有の石灰岩の地質が生みだした自然です。

 水の深さは不明ですが10メータ以上はあると思います。セノテ探検家は多分に調べたと思います。ここでは、誰でも泳ぐ事が出来ます、ホテルの敷地内ですからホテル(Maya Land)が管理してると思います。

20099yukatan_130  しかし、マヤの人々の気持ちになれば、神聖な命の水の場所で泳ぐとは如何なもんでしょうね。

今だに、西欧の資本が占拠し彼らのやりたい放題ではないだろうか。

私は海水パンツをホテルに忘れて来たので泳げませんでしたが、とてもそんな気分にはなれませんでしたね。

 ユカタン半島の地表は土壌が7センチ程度しかありません、ジャングルといってもそんなに背の高い木はありません。根を深く伸ばしセノテを目指して生きているんでしょうね。

 高級ホテルのMayaLand,Hacienda Chichenに宿泊すれば歩いて毎日遺跡を見学できますが、US$200程度は毎日必要でしょうね。

 お金のある人はそんな見学方法もありそうです。

20099yukatan_139 20099yukatan_138 20099yukatan_137 20099yukatan_136 20099yukatan_131 20099yukatan_132 20099yukatan_134 20099yukatan_135  ホテルはバンガローのように小さな宿泊施設が森の中に点在していました。近くに、飛行場がありますので自家用飛行機で飛んでくるのでしょうね。

 庶民とはかけ離れた遺跡リゾートですね。(笑)

20099yukatan_140 20099yukatan_141 20099yukatan_142 20099yukatan_143

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トゥルム遺跡(Tulum Ruinas)紀行記

Photo  カンクンのホテルからR1のバスに乗りダウンタウン(カンクン セントロ)のバスターミナルに向かう。一人7.5ペソで乗れます。

 バスターミナルからは高速バスで130キロ離れたトゥルム遺跡のあるトゥルム迄82ペソで約2時間半で行ける。

 丁度朝7時のバスがでたとこで、8時のバスのチケットを購入した。何せ、英語が通じないので、これからどうなるか心配です。

 やはり、トゥルム遺跡で下車せずトゥルムの町まで行ってしまった。お陰で、2キロか3キロを歩く事になり遺跡に到着した時は全身がずぶ濡れ。熱帯の灼熱の日差しの中で歩いたので疲労困憊でした。

 グーグルアース参照 トゥルム遺跡

「tulum_el_castillo.kmz」をダウンロード

 マイフォト マヤ遺跡巡り トゥルム遺跡編

 トゥルム(Tulum)遺跡はAC1200年頃から人が住んだと考えられる後古典期後期の小さな遺跡である。ヨーロッパ人が最初にマヤの都市と遭遇した場所であると考えられています。後古典期には海上交易が盛んで港湾都市として栄えたと考えられる。

 カリブ海を望む断崖絶壁の上に築かれ、三方を防御壁で囲み陸側からの敵の侵入を防いだようだ。防御壁は石を積み上げ3メータから5メータの高さであり厚みは6メータもあります。この都市は最初はマヤパンの支配下にあったようだが、マヤパン1450年頃に崩壊し有名な『フレスコ画の神殿』が築かれたようです。

 (セノーテの家)

 セノーテについて基礎的な解説をしておきますが、ユカタン半島は石灰岩で出来た土地であり山は無く殆ど平坦な土地であり、川が有りません。降った雨は石灰岩を溶かし地下に網の目のような水路を形成しています。何らかの理由で地表が陥没した場所には丸い穴が開き井戸のような按配になるのです。これを、セノーテと呼んでいます。水源になるのですね。詳しくはチチェン・イツァー紀行でご紹介する予定です。

 セノーテの家という遺跡はそのセノーテの上に建造された建物であります。

セノーテの家

 (アーチドームを知らなかった)

 マヤではローマのように要石を利用したアーチ型ドームを作る技術を持ちませんでした。上方からの圧力を分散させる技術を持たない為に両側から少しずつ石板をせり出す構造ですから三角形の疑似アーチとなります。例えば城壁の門は写真のようになる訳ですね。

疑似アーチ(要石が無い)
 (エルカステイージョ)
 城という意味ですが、トゥルム遺跡の中で最大の建造物になります。カリブ海を見下ろす崖の上に建造されています。マヤでは王様が死ぬと新しい神殿を古い建物の上に築いて行きます、この神殿も内部には2世代の神殿が埋もれているそうです。
エルカステイージョ遠望

Continue reading "トゥルム遺跡(Tulum Ruinas)紀行記"

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マヤ文明の遺跡を訪ねる

Photo  マヤ文明について基礎的なことを学びましょう。マヤ文明とはメキシコ南部からグアテマラ、ベリーズ、エル・サルバドル全域、そしてホンジュラス、ニカラグア、コスタ・リカの一部を含む中部アメリカの古代都市文明圏をメソアメリカといいます。

 このメソアメリカのなかで特に有名な文明がマヤとアステカです。

 マヤはマヤ諸語を話す諸集団により広域に紀元前1500年頃から2千年以上に渡り展開された一大文明ですが、アステカはチチメカと呼ばれる諸集団の一派アステカ(メシーカ)が13世紀にメキシコ中央高地に打ち立てた王国です。

 アステカは時代が新しく、16世紀にスペイン人により征服されスペイン人により多くの記録が残されたのでメソアメリカ史の中で特に有名になりました。一方マヤは征服された頃は既に最盛期を過ぎており小国が僅かに残っていただけでした。既に熱帯樹林の中に埋もれていたのです。これらの遺跡が発見されたのは19世紀になってからであります。

 マヤとアステカの間には直接両者を結ぶ関係は殆どありませんが、アステカ以前のメキシコ中央高地で勢力を誇ったトルテカの文化伝統は、後古典期のマヤの地域に影響を及ぼしました。また、トルテカ以前のメキシコ中央高地に栄えたテオテイワカンや娘が現在住んでいるオアハカ谷のサポテイカとの交流もマヤ文明の発展に寄与しました。従来、メソアメリカの母なる文明といわれていたオルメカ文明の担い手はじめ多くの民族集団が、相互に影響し合いメソアメリカ全体の歴史を築いてきた。

 詳しくは、早稲田大学准教授の寺崎秀一郎先生の『図説 古代マヤ文明』河出書房新社を読まれる事をお勧めします。

 (メソアメリカ史 略年表) 寺崎先生による

 ・BC12000年~BC7000年(パレオ・インディオ期) アジアからベーリング海峡を渡って人類が移動してくる

 ・BC7000年~BC2000年(古期) 初期農耕が始まる トウモロコシ、マメなど栽培

 ・BC2000年~BC1000年(先古典期 前期) 土器使用が始まる オルメカ文明が興る

  サン・ロレンソを中心として大規模な祭祀センターが建造始まるBC1500年頃

  『ラ・ベンタ遺跡(メキシコ湾沿岸)』BC1000~BC400,300

  BC1000年~ オルメカ文明勃興 メキシコ湾沿岸 ラ・ベンタ遺跡(La Venta)グーグルアース参照

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  最初に都市国家が生まれたのはメキシコ湾沿岸の平野部である。ベラクルス州南部からタバスコ州の低湿地。オルメカ文明と呼びサン・ロレンソ遺跡を中心とした時代からラ・ベンタ遺跡を中心とした時代に大いに繁栄しその影響はメキシコ中央高地からホンジュラス方面まで影響した。支配者の肖像と考えられる巨石人頭像で有名です。地図に写真が掲載されています。

  『カミナルフユ遺跡(マヤ高地)』BC1500~AC1300,1500

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 グアテマラ国境に近いメキシコのチアパス州の太平洋沿岸、グアテマラの太平洋沿岸の平地、現在のグアテマラ市周辺の高地は原マヤ文明の形成にとって極めて重要な地域です。マヤ低地の最古の芸術様式に繋がる浮き彫りが施された記念碑やマヤ古典期よりはるかに古い長期暦の碑文が発見されている。

  『コパン遺跡(マヤ南部低地)』BC1000~AC900,1000

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 コパンはホンジュラスの西端、海抜600メータのコパン谷に存在しマヤの遺跡としては最南端に位置する。マヤの南東地域の政治・経済・文化の中心として栄えた。最盛期には13キロ×3キロの地域を支配していた。最古の石碑は5世紀の中頃、そしてAC800年頃まで栄えた。

 『キリグア遺跡(マヤ南部低地)』AC100~AC900

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 コパンの北北西40キログアテマラ東部にあり、マヤ遺跡の中で最も高い11メータに達する石碑を持つ事で知られている。そのほかにも奇怪な動物の姿を模した祭壇などでも知られている。殆どが古典期後期(AC600~AC800)に集中して作られた。AC730年にコパンから独立した。翡翠やカカオの主生産地域であった。

 『ワシャクトゥン(マヤ中部低地)』BC100~AC900

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 大規模な天体観測施設が現存する事で有名である。ティカルから40キロ北に位置する都市である。8つの石を意味するそうだ。古典期前期(AC250~AC600)にティカルと抗争が起こり支配されてしまう。

 『ティカル遺跡(マヤ中部低地)』BC600~AC900

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 5基の神殿ピラミッドを誇る大センターです。グアテマラ市から300キロ北にありマヤの中心に位置している。BC200年からAC900年頃までの長期間マヤの中心として栄えた。30km²の広大な地域の半分は古代アメリカでもっとも高い建造物を含むセンターであった。石碑祭祀が最も発達した地域で平面的浮き彫りが殆どを占めた。石碑の中には古典期前期(AC250~AC600)にメキシコ中央高地のテオティワカンとの交流が盛んであった事を証明する遺物が存在する。戦士の像の楯にテオティワカンの雨神トラロックの面が見られる。

 『ボナンパク(マヤ中部低地)』AC300~AC800

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 マヤ都市間の戦闘を描いた色鮮やかな壁画で有名です。出陣前の風景、戦闘と捕虜獲得、勝利を祝う儀式の三部構成になった壁画である。

 『ヤシュチラン遺跡(マヤ中部低地)』AC320~AC840,900

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 メキシコとグアテマラの国境を分けるウスマシンタ川沿いにあり、その意味は「緑の石」という意味である。この川沿いでは最強の都市であった。

 『パレンケ遺跡(マヤ中部低地)』AC400~AC800

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 マヤ随一の優美な建造物、精緻な浮き彫りが存在する遺跡である。マヤ低地では最も西に位置する都市である。二人の女王が存在していた事が判っていある。最も繁栄したのは古典期後期(AD600~AD800)である。翡翠の仮面(パカル)王の遺体の上に置かれていたのでも有名。又、石棺の浮き彫りが宇宙船だという仮説もでて有名ですね。

 『セイバル遺跡(マヤ中部低地)』BC1000~AD500, AC830~AC900

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 古典期末期(AD800~900)メキシコ湾沿岸地方の影響を受けて繁栄した都市。

 『ラブナー遺跡(マヤ北部低地)』AC900~AC1200

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 モザイク装飾が美しい小さな都市の遺跡です。プウク様式と呼ばれる美しい建築物の立ち並ぶ小さな都市です。

 『トゥルム遺跡(マヤ北部低地)』AC300~AC850

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 今回訪問した遺跡です。カリブ海に臨む断崖に築かれた防衛施設で有名です。詳細は紀行記を参照ください。

 『カバー遺跡(マヤ北部低地)』AC900~AC1200

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 神の顔をあらわした美しいモザイク装飾で有名です。神殿では西向きの壁が250の長鼻の雨神チャクの顔で隙間なく覆われている。

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ユカタン半島から無事帰国しました

20099yukatan_095  ユカタン半島先端のカリブ海に面するカンクン(Cancun)からアメリカのダラス経由で26時間程度かけて帰国しました。

 飛行機はオーバブックしていて、なかなかカンクンを出発出来なかったり、アメリカでは飛行機に乗るが1時間経過しても出発出来ず、結局は機体整備不良で別の飛行機に乗り換え、3時間遅れて飛び立つという疲労困憊の帰国となりました。

 現地で朝3時に起床し、4時半にホテルをでて成田に到着するまで28時間程度、タバコは吸えませんでした、最長不倒距離です。(笑)

ホンマ、アメリカという国は禁酒法をやった国です、喫煙に対しては魔女狩りみたいに憎まんでもえ~と思うけど、ちょっとヒステリー症候群ではないですかね。

 写真はトゥルム(Tulum)遺跡です、カリブ海に面する海岸に建造されたマヤ文明最後の頃の遺跡群での写真です。今回はスペイン語堪能な娘がいない旅、アマチュア無線で鍛えた筈の私のスペイン語を駆使してバスの切符を買い、下車する停留所を間違い灼熱の熱帯地帯の炎天下2キロ近くを歩き、やっと遺跡に到着。死ぬかと思った。(笑)

20099yukatan_111  遺跡で待ち構えていたのは、イグアナ君でしたね。(笑)『夏草やつわものどもが夢のあと』は平泉ですが、マヤ文明の夢の跡にはイグアナ君とカラスみたいな黒い鳥とペリカンが遺跡の上空を舞っていました。

 20099yukatan_099 20099yukatan_108

 詳細は今後、カリブ海とユカタン半島紀行文として掲載する予定です、楽しみにして下さい。

このイグアナ君ですが、チェチェン・イツァー(Chichen Itza)遺跡にも沢山生息していましたね。草食ですので、サボテンの花とか食べているんでしょうね。

 皆さん良く御存知のガラパゴスのイグアナは海イグアナで陸の植物が無くなり、海の中の岩に付着する苔を食べるように進化した種類ですよ。(笑)

 しかし、炎天下にわざわざ日本から地球の裏側まで来てマヤ遺跡を巡るのは物好きな人種に属するのでしょうね。

 ペリカンですが、飛ぶ姿は翼竜のようで日頃地上で見かけるひょうきんな姿とは大違いですよ。素晴らしい美しい姿に感動しました。是非、赤とんぼの、わこちゃんに制作して欲しいと思いました。カラスの話は又、別の機会にします。

20099yukatan_235  写真は、チェチェン・イツァーの最大のピラミッドであるエルカスティージョ(El Castillo)神殿です。高さ25メータ、9層の基壇を持つ暦のピラミッドと呼ばれています。春分の日と秋分の日に太陽の光が演出する蛇(羽毛の蛇)が階段に登場する事で有名ですね。

 これも後日、写真と記事を書きたいと思います。

20099yukatan_003

 カンクンのホテルはカリブ海に面し美しい砂浜を持つリゾート地として世界中から休息に来る人々で賑わっています。

 それでは、マヤ遺跡を巡る紀行記を楽しみにしてしてください。

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今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (3)

承前 今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (2)

 一回目は白石太一郎先生、二回目は和田萃(あつむ)先生の話を紹介しました。今回は森田克行先生の話を紹介します。彼は『しろあと歴史館』の館長をされています、三島地域の古代史のプロフェッショナルです。参考 高槻市立しろあと歴史館

 (森田克行先生の見解 淀川と継体大王)

 「古代淀川舟運と筑紫津」について

 ・新池埴輪窯跡、及び今城塚古墳(継体大王墓)からは円筒埴輪に二本マストの繋留された船の絵(碇泊船)が描かれたものが多数出土した。今城塚古墳では百点以上の碇泊船が描かれた円筒埴輪が立ち並んでいたと想定される。これは、津(港)の情景を表現しており筑紫津に沢山の外洋船が停泊して栄えている様子を表している。Photo

 グーグルアース 筑紫津

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 ・(jo注:筑紫津という九州の名前が港についているのは不思議ですね。現在の筑紫津Photo_2 神社のあたりであり、芥川を遡上した場所です。今城塚古墳が近いですね。そして、淀川対岸の樟葉にも津がありました。継体大王が即位した場所です、交野天神社があります。この辺りは津嶋野という場所があり、ここからの水路が淀川に合流するところは対馬樋門と呼ばれていたそうだ。淀川下流域の現在の守口市にも津嶋神社があり、東側に隣接するとPhoto_3 ころは、「対馬江」(寝屋川)という地名が残っている。

 これは、何を意味するかというと、淀川水系を使い瀬戸内海を経由し九州の筑紫、そして対馬の航路を使い大陸との貿易船が行き来していた事を示している。樟葉津、筑紫津、枚方の津、等々を支配していた勢力が九州の筑紫勢力、対馬の勢力と密接な関係があったと考えられる。) グーグルアース 交野天神社(樟葉 継体大王即位)

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 ・宣化紀に寝屋川市北域の茨田(まんだ)の屯倉(みやけ)の稲束を筑紫の那津へ搬送する記事があり、四条畷市の蔀屋(しとみや)遺跡に古代の牧が存在していたのもこの淀川水系と関係が深いと考える。参考過去記事 古代河内の生産拠点 そのⅡ

 「王権と鵜飼儀礼について」

 ・(jo注:今城塚古墳の発掘において埴輪祭祀場と考えられる4区画に区切られた埴輪の群が見つかった。千木を持つ神殿と思われる建物や巫女や力士像や武人、おびただしい埴輪群が出土した事で有名です。一度、NHKでは特別番組が組まれ、これは大王のモガリの様子ではないか、それとも即位儀礼ではないか、否、大王の政治の模様を再現しているのではないか、等々沢山の意見が専門家から出ました。参考 埴輪祭祀場

 ・森田氏はこの埴輪の中で家形埴輪の軒先を飾る絵に注目しています。魚が4匹と1羽の鳥の絵です。これは、鵜飼の模様を表現していると考えておられます。古代から桂川、宇治川、淀川では鵜飼が盛んであったという。淀川でも明治の頃まで鵜飼が盛んであったらしい。鵜飼部と呼ばれる集団が王権に取り込まれ、倭王の徳を示す儀礼の一つとして整備されていたという。

 ・群馬県の保渡田(ほとだ)八幡塚古墳の内堤には鵜の埴輪と鵜飼人の埴輪が見つかっている。鵜の首には頸紐が結びつけられ、鈴までついているという。参考 保渡田八幡塚古墳 また、太田茶臼山古墳(現在宮内庁は継体天皇の陵墓と指定)からも頭部が失われているが頸にリボンを結わえた水鳥が見つかっており、鵜だと考えられている。

 ・淀川左岸の寝屋川の太秦高塚古墳(直径40メータの帆立貝式古墳)は5世紀後半と考えられるが、ここからも鵜の埴輪と想定されるものが出土している。参考 寝屋川市 太秦高塚古墳 (写真の造り出し部分出土の水鳥埴輪が興味深い)

  鵜飼は鵜に紐をつけて魚を獲らせる「繋ぎ鵜飼」と紐をつけない「放ち鵜飼」の二種類があるという。又、船に乗り漁をする「船鵜飼」と漁師が岸から指示する「徒歩鵜飼」の種類にも分類されるという。又、夜やるのを「夜鵜飼」、昼間漁をするのを「昼鵜飼」とも呼び、儀式としてパフォーマンスがでるのは、「繋ぎ鵜飼で夜鵜飼で、船鵜飼」だそうだ。今も観光ではそうですよね。

 ・摂津市の新幹線の車両基地の地名は「鳥飼」であり、平安時代の「鳥養牧」の名残りであるが、歴史はもっと古いかもしれない。又、「土佐日記」に登場する高槻の東の方に「鵜殿」という地名が今も見られる。又、崇神さんの時代に木津川、山城地域の王であるタケハニヤスが吾田媛とともに古代最大の内戦がこの木津川と樟葉近くの淀川でも行われ、屍が累々と浮かびまるで鵜のようだと記述されている。参考過去記事 タケハニヤス

 ・長江下流域から伝わった鵜飼漁法は古墳時代の初めの頃はこの淀川で、川鵜を使い放し鵜飼漁法であったが、そのうち、王権内に鵜飼部が出来、パフォーマンス儀式に変化する過程で海鵜を使う繋ぎ鵜飼漁法に変化したと考える。

 「継体大王と原摂津」

 ・継体天皇は樟葉で即位し、山城南部の筒城に宮を移し、同じく山城の乙訓宮を造り、摂津の三島に墓を築いた。何かバラバラのようだけど、実は淀川水系に拠点を置いた事に変わりはない。古代は摂津と河内の境界線は淀川左岸であったと言われている。

 梶山彦太郎先生の『大阪平野の発達史』によれば、そうらしい。樟葉も摂津であり、枚方も摂津という事になる。天野川が淀川に注ぐあたりは江戸時代でも摂津国島上郡磯島と呼ばれていたそうだ。(淀川両岸一覧による)

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ユカタン半島

Photo  今週金曜日からユカタン半島への旅にでます。拠点はカンクーンというカリブ海のリゾートです。今日は、海水パンツを買いに行きました。(笑)

 今回の目玉はマヤ文明のピラミッド遺跡の訪問です。特に、片道3時間もかかるチェチェン・イッツア遺跡です。

 この遺跡は春分の日にはピラミッドに巨大な蛇が現れる事で有名ですよね。

 参考過去記事 神話からみた古代人の世界

 グーグルアース チェチェン・イッツア

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 さて、ユカタン半島と言えば恐竜を絶滅させたという小惑星が衝突した場所で有名ですね。直径10キロの小惑星が衝突したそうです。衝突時のエネルギーは広島に投下された原爆の50億倍だったそうですね。

 グーグルアース チクシュルーブ・クレータ

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536pxchicxulub_radar_topography  6000万年前の出来事だったのですね。この衝突事件により地球環境に大変化が起こり恐竜は絶滅したといいます。

 衝突により地磁気異常と重力異常が発生したといいます。

Chicxulubanomaly (資料はWikipediaによります)

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