チチェン・イツァー遺跡紀行 聖なる泉(Cenote Sagrado)編
チチェン・イツァーはユカタン半島北部の平原にあります、5Km²の地域に密集して建造物が存在します。名前の意味は、『イツァの泉の湧くところ』という意味です。
ここには二か所のセノテが存在しています、前回ご紹介したセノテのEl Cenote Xtoloc(セノテ・シトロク)とこの直径60メータ、水面までの距離が20メータある『生贄の泉とも聖なる泉』とも呼ばれるセノテです。
位置情報:グーグルアース
ユカタン半島北部は川が存在しない為に人間が生きる為の水の確保の為にこのようなセノテに集落が形成されるのですね。
この遺跡は大きく時代が異なる二つの部分に分かれます、南側に位置する遺跡は旧チチェンと呼ばれ古典期後期~末期頃の遺跡(AC600年~AC900年)であり、北側に展開する遺跡群は新チチェンと呼ばれ後古典期前期(AC1200年~1500年)に建造され、メキシコ中央高地のトルテイカの影響を受けた遺跡であります。
AC850年頃にこの地に入植したのはイツァの人々であり、メキシコ湾沿岸地方から移動して来た人々でありプトゥン・マヤと呼ばれる種族でした。彼らはトルテイカ的文化要素を持っていたらしく、従来のユカタン半島北部の原住民であるユカテク・マヤの伝統と融合して新たな様式・文化を生み出した。こうして、チチェン・イツァはユカタン半島の中心地として栄えたのである。
AC10世紀に千キロ離れたメキシコ中央高地に位置するトゥーラを中心に勃興したトルテカ文化は軍事的な色彩が濃く、人間の心臓を太陽に捧げる儀式を中心とした血なまぐさい文化を持つものであった。死のシンボルである頭骸骨、ワシとジャガーの像や、戦士の像が繰り返し描かれ頭蓋骨を並べる台座や生贄を捧げる祭壇などが設けられた。
当然これらの影響をチチェン・イツァーも受け継いだのです。
(聖なる泉セノテ、生贄の泉)
この泉はユカタン半島最大の泉であり、神話に彩られた聖域である。日照りの時期にここに若い処女が人身御供として投下された。また、生贄と同時に様々な貢物も投下されたのだ。その底を調査すると多くの貴金属が見つかり南米コロンビアやパナマからの渡来品も見つかっている。
1911年にアメリカ領事トンプソンが水底を調査した際に21体の小児、13体の成人男子、8体の女性の骨が検出された。黄金細工や翡翠も発見されている。日照りが如何にマヤの人々にとり大変であったか、農耕民族にとり死活にかかわる出来事だったのですね。
現地のツアーガイドさんの話では、セノテの投げ入れる場所にサウナ風呂を作り、身体を清めて、早朝に投げ入れるそうですが、昼過ぎまで生きていると助けられたそうです。しかし、あまりそれが続いたので、投げ入れる前にメスカル(テキーラ)を飲ませて酔わせて投げ入れたそうです。
日本でも、ヤマトタケルの奥さんが海を鎮める為に身を投げました、人柱を立てる風習も近世まで残っていました、斉明天皇は雨乞いの儀式をしました、古今東西同じような風習が存在していたのですね。
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