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今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (5-その1)

 承前 今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える(4)

 さて、今回は考古学では大御所の水野正好先生の意見をまとめてみたいと思います。私は東京で開催された三輪山セミナーで講演を聴いた経験がありますが、とても話が上手なまるで芸人のような才能のある先生です。

 (継体天皇とその時代 陵墓と今城塚古墳)

 (正当な手続きを踏まえた大王である)

 学界には皇位簒奪した大王であるとか、正当な手続きを踏まえた大王では無いという意見があるが、氏は日本書紀に書かれた事を素直に受け止める立場であるようです。応神天皇には皇后の仲媛の他に皇妃として弟媛という近江(滋賀県坂田郡)の息長氏の本拠の娘さんが存在した。彼女は若野毛二派王(わかぬけ ふたまた おう)という皇子を産み彼は異母兄弟である仁徳天皇の側近として王権を支えたと考えられる。

 その後、仁徳天皇の皇后であった磐之媛との間で生まれた皇子が次々と天皇になるが、允恭天皇の時に若野毛二派王家に接近した。若野毛二派王には息子の意富富等王(おほほど おう)と二人の娘さんがおり二人とも允恭天皇の皇后、妃になった。忍坂大中姫(おしさかの おおなかつ ひめ)と衣通姫(そとおり ひめ)だった。

 この時、二派王家は大きな権力を握ったと考えられ、意富富等王は権力を握り彼の息子に乎非(おひ)王が『上宮記』にでてくるという。この乎非王の息子が継体天皇『男大迹(おおと、ヲホド)王』の父である「彦主人(ひこ うし)王、時に「扜斯(うし)王」である。

 この王家からは、安康天皇、雄略天皇、清寧天皇を輩出しており、大王家を継体天皇が継ぐ事に不思議さは存在しない。ただ、清寧天皇の皇后は葛城氏から、顕宗・仁賢天皇の皇后は市辺王子家出身、武烈天皇の皇后は春日氏出身となりしばらく、大王家とは疎遠となっていた。しかし、この頃の大王家は衰弱しており、天皇在位期間は短いものになっていた。5世紀後半は不安定な時代であった。(jo注:主な理由は朝鮮半島の高句麗・新羅の強大化による同盟国の伽耶諸国と百済の存亡の危機)

 506年に武烈天皇は身罷り、後継ぎが存在しないという事で最初は、仲哀天皇の5世の孫である京都桑田郡にいた倭彦(やまと ひこ)王を推挙するが、彼が逃げてしまい、男大迹王(継体)が推挙される結果となった。その頃、継体さんは父が早く亡くなり、母の実家である福井県高向(たかむく)に居を構えていた。しかし、父が生きていれば大和の忍坂の地、現在では奈良県桜井市忍坂の地に居を構えていたはずである。

 この忍坂の地は若野毛二派王家の「王家の地」であった。継体さんは成長するとこの地に王家の長として執務をしていたと考えられる。継体さんの父は「彦主王」で近江の高島郡三尾です。そして、最初で述べたように若野毛二派王の母である弟媛は息長氏の本拠である滋賀県坂田郡になります。応神天皇のお母さんは言わずと知れた息長たらしひめ=神功皇后であり息長氏であります。

 継体天皇はその後、仁徳天皇から続く王家の仁賢天皇の娘である手白香(たしらか)皇女を皇后に迎え、若野毛二派王家と大王家の両方の血を受け継ぎ、皇統の濃い血を持った欽明天皇が誕生する事で皇統は完全に回復し、大王家の血が絶える危機を防いだという事で、継体天皇と奈良時代に命名されたと考えられる。(jo注:断絶の危機にあった皇統を無事に継いだ天皇という意味)

 継体天皇は大和からは遠く離れた淀川水系の樟葉宮で即位し、木津川水系の筒城宮、桂川水系の弟国宮と移り最後に大和の磐余(いわれ)玉穂宮に遷都する。その理由は淀川水系の整備であり決して大和の勢力が継体天皇が大和に来るのを阻止した訳ではない。そのような根拠は何処にも存在しない。むしろ、大連(おおむらじ)の大伴金村や大臣(おおおみ)の巨勢(こせ)男人(おひと)や大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(あらかひ)は継体天皇を支えた。

 (jo君の感想)

 継体天皇は謎の大王であると言われ、応神天皇から始まる河内王朝は断絶し新たな王が皇位をもぎ取った天皇であるという意見が多く存在する。その理由は、突然に武烈天皇崩御のあと応神天皇の5世の孫という殆ど血の薄い人が登場する事が疑問だったからです。

 しかし、水野さんの意見は日本書紀に従い素直に何故に仁徳天皇の異母兄弟の家系から天皇が出現したのか、その背景を当時の政治情勢を復元する事で説明しようとしています。5世紀後半は朝鮮半島は激動をみせていた、ヤマト王権と同盟関係にある伽耶諸国(日本書紀では任那と表記)が勃興する高句麗と新羅の侵攻に危機に晒され、百済との関係も含め国際情勢は緊迫し、大王家は衰弱の危機にあった。

 この頃の天皇の在位期間が短く、最近の日本の情勢のように毎年首相が変わるような政治不安定な時期であった。雄略天皇はこのような半島情勢に対応する為に強力な中央集権国家の建設に邁進するが、逆に地方の豪族の反発を受け遂には武烈天皇で仁徳大王家は終焉を迎えたのである。

 しかし、仁徳天皇の異母兄弟で仁徳王朝を支えた若野毛二派王一族は綿綿と大王家を支える王家の一族として存在し、継体天皇の時に大王家滅亡の危機を救うのですね。そこで、二人の娘を允恭天皇の皇后と皇妃にだした頃の若野毛二派王の息子の意富富等(オホホド)王の権力は5世紀末に於いて強大であったと考えれる。

 水野さんは今城塚古墳の近くに存在する5世紀建造の太田茶臼山古墳は若野毛二派王の墳墓であると考えておられるようです。ともあれ、水野さんの説に従えば継体天皇は今まで言われていたような、不審者ではなく正々堂々たる皇位を継ぐ資格のある大王であったという事になり、天皇家は断絶の危機を脱した事になりますね。

 

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