« ユカタン半島 | Main | ユカタン半島から無事帰国しました »

今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (3)

承前 今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (2)

 一回目は白石太一郎先生、二回目は和田萃(あつむ)先生の話を紹介しました。今回は森田克行先生の話を紹介します。彼は『しろあと歴史館』の館長をされています、三島地域の古代史のプロフェッショナルです。参考 高槻市立しろあと歴史館

 (森田克行先生の見解 淀川と継体大王)

 「古代淀川舟運と筑紫津」について

 ・新池埴輪窯跡、及び今城塚古墳(継体大王墓)からは円筒埴輪に二本マストの繋留された船の絵(碇泊船)が描かれたものが多数出土した。今城塚古墳では百点以上の碇泊船が描かれた円筒埴輪が立ち並んでいたと想定される。これは、津(港)の情景を表現しており筑紫津に沢山の外洋船が停泊して栄えている様子を表している。Photo

 グーグルアース 筑紫津

「tsukushitsujinjya.kmz」をダウンロード

 ・(jo注:筑紫津という九州の名前が港についているのは不思議ですね。現在の筑紫津Photo_2 神社のあたりであり、芥川を遡上した場所です。今城塚古墳が近いですね。そして、淀川対岸の樟葉にも津がありました。継体大王が即位した場所です、交野天神社があります。この辺りは津嶋野という場所があり、ここからの水路が淀川に合流するところは対馬樋門と呼ばれていたそうだ。淀川下流域の現在の守口市にも津嶋神社があり、東側に隣接するとPhoto_3 ころは、「対馬江」(寝屋川)という地名が残っている。

 これは、何を意味するかというと、淀川水系を使い瀬戸内海を経由し九州の筑紫、そして対馬の航路を使い大陸との貿易船が行き来していた事を示している。樟葉津、筑紫津、枚方の津、等々を支配していた勢力が九州の筑紫勢力、対馬の勢力と密接な関係があったと考えられる。) グーグルアース 交野天神社(樟葉 継体大王即位)

「katanotenjinnjya.kmz」をダウンロード

 ・宣化紀に寝屋川市北域の茨田(まんだ)の屯倉(みやけ)の稲束を筑紫の那津へ搬送する記事があり、四条畷市の蔀屋(しとみや)遺跡に古代の牧が存在していたのもこの淀川水系と関係が深いと考える。参考過去記事 古代河内の生産拠点 そのⅡ

 「王権と鵜飼儀礼について」

 ・(jo注:今城塚古墳の発掘において埴輪祭祀場と考えられる4区画に区切られた埴輪の群が見つかった。千木を持つ神殿と思われる建物や巫女や力士像や武人、おびただしい埴輪群が出土した事で有名です。一度、NHKでは特別番組が組まれ、これは大王のモガリの様子ではないか、それとも即位儀礼ではないか、否、大王の政治の模様を再現しているのではないか、等々沢山の意見が専門家から出ました。参考 埴輪祭祀場

 ・森田氏はこの埴輪の中で家形埴輪の軒先を飾る絵に注目しています。魚が4匹と1羽の鳥の絵です。これは、鵜飼の模様を表現していると考えておられます。古代から桂川、宇治川、淀川では鵜飼が盛んであったという。淀川でも明治の頃まで鵜飼が盛んであったらしい。鵜飼部と呼ばれる集団が王権に取り込まれ、倭王の徳を示す儀礼の一つとして整備されていたという。

 ・群馬県の保渡田(ほとだ)八幡塚古墳の内堤には鵜の埴輪と鵜飼人の埴輪が見つかっている。鵜の首には頸紐が結びつけられ、鈴までついているという。参考 保渡田八幡塚古墳 また、太田茶臼山古墳(現在宮内庁は継体天皇の陵墓と指定)からも頭部が失われているが頸にリボンを結わえた水鳥が見つかっており、鵜だと考えられている。

 ・淀川左岸の寝屋川の太秦高塚古墳(直径40メータの帆立貝式古墳)は5世紀後半と考えられるが、ここからも鵜の埴輪と想定されるものが出土している。参考 寝屋川市 太秦高塚古墳 (写真の造り出し部分出土の水鳥埴輪が興味深い)

  鵜飼は鵜に紐をつけて魚を獲らせる「繋ぎ鵜飼」と紐をつけない「放ち鵜飼」の二種類があるという。又、船に乗り漁をする「船鵜飼」と漁師が岸から指示する「徒歩鵜飼」の種類にも分類されるという。又、夜やるのを「夜鵜飼」、昼間漁をするのを「昼鵜飼」とも呼び、儀式としてパフォーマンスがでるのは、「繋ぎ鵜飼で夜鵜飼で、船鵜飼」だそうだ。今も観光ではそうですよね。

 ・摂津市の新幹線の車両基地の地名は「鳥飼」であり、平安時代の「鳥養牧」の名残りであるが、歴史はもっと古いかもしれない。又、「土佐日記」に登場する高槻の東の方に「鵜殿」という地名が今も見られる。又、崇神さんの時代に木津川、山城地域の王であるタケハニヤスが吾田媛とともに古代最大の内戦がこの木津川と樟葉近くの淀川でも行われ、屍が累々と浮かびまるで鵜のようだと記述されている。参考過去記事 タケハニヤス

 ・長江下流域から伝わった鵜飼漁法は古墳時代の初めの頃はこの淀川で、川鵜を使い放し鵜飼漁法であったが、そのうち、王権内に鵜飼部が出来、パフォーマンス儀式に変化する過程で海鵜を使う繋ぎ鵜飼漁法に変化したと考える。

 「継体大王と原摂津」

 ・継体天皇は樟葉で即位し、山城南部の筒城に宮を移し、同じく山城の乙訓宮を造り、摂津の三島に墓を築いた。何かバラバラのようだけど、実は淀川水系に拠点を置いた事に変わりはない。古代は摂津と河内の境界線は淀川左岸であったと言われている。

 梶山彦太郎先生の『大阪平野の発達史』によれば、そうらしい。樟葉も摂津であり、枚方も摂津という事になる。天野川が淀川に注ぐあたりは江戸時代でも摂津国島上郡磯島と呼ばれていたそうだ。(淀川両岸一覧による)

|

« ユカタン半島 | Main | ユカタン半島から無事帰国しました »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« ユカタン半島 | Main | ユカタン半島から無事帰国しました »