古代河内の生産拠点
承前 陶邑窯 須惠器の古里
前回の記事で4世紀末頃から始まり、5世紀に本格化した須惠器の生産拠点である陶邑の記事を書きました。河内王権(ヤマト王権)の庇護を受け列島の北は岩手の地域から九州まで流通させた須惠器の生産拠点の話でした。
河内では、5世紀の頃に、これ以外にどの様な生産拠点が存在していたのでしょうか。
(製鉄の拠点)
正確には鍛冶の拠点と言うべきかも知れませんが、6世紀の頃には製鉄をしていた可能性もあるようです。それは大県製鉄遺跡です。鐸比古鐸比売(ひめ)神社の傍にある遺跡ですね。 参考 鐸比古鐸比売神社
南の方には高井田横穴公園がありますが、渡来系の人々の横穴墳墓が200基以上存在しています。製鉄や鍛冶の専門家集団がここに移住して来ていたと考えられます。
膨大な 鉄滓(てつさい)や羽口が出土し大規模な鍛冶工房が存在していた事が考古学の発掘により確認されました。5世紀の河内王朝を支えた鉄は此処で生産されたようですね。勿論、5世紀の頃は鉄挺を伽耶諸国から輸入し、それを鍛造していたと考えられます。しかし、6世紀の頃には国産の原料から製鉄を行ったいた可能性もあるようです。
日本史の謎として、3世紀の頃の三輪山周辺の纏向地域で発生した初期ヤマト王権から4世紀は中国の歴史書から日本列島の記事は無くなります。そして、応神さん、仁徳さんの頃、5世紀初めの頃には急に前方後円墳の竪穴墓からの副葬品として、武具や馬に関する鉄製品が出土し3世紀の頃のような祭祀的な副葬品から一変します。
そこで、昔は江波さんのような騎馬民族征服説のような仮説が生まれたのですね。明らかに、4世紀に中国王朝は乱れ、中国北方の草原地帯が2度も寒冷化し遊牧民が南下し、高句麗も朝鮮半島に南下を始め混乱を迎えた時期であります。百済もやむなく南下を余儀なくされた時期であり、伽耶諸国も北からの攻撃に晒された時期でした。
ヤマト王権は、伽耶諸国の鉄を確保すべく朝鮮半島に軍事力を発動し伽耶諸国や百済と共に高句麗と戦ったと思います。(広開土王碑文がその例ですね)そのような歴史背景を受けて、多くの百済や伽耶や新羅の人々はヤマト王権を頼り移住してきた可能性は否定できません。
鐸比古鐸比売神社の祭神は垂仁さんの息子さんだというのですが、さて、誰がこの鍛冶工場を管轄していたんでしょうね。大伴氏か物部氏か判りませんがただ、物部氏の拠点である河内の地が近いのが気になります。
さてこの頃の奈良盆地での、製鉄の遺跡としては石上神社近くの布留、そして、イワレの南の忍海(脇田)、南郷が考古学的に証明されています。
そして、肩野物部氏の本拠地である天野川流域の森古墳群にも製鉄遺跡が存在するそうですね。神武さんより早くヤマトに降臨されたニギハヤヒさんの降臨の場所の近くですね。以前に箸墓古墳の類似古墳として紹介した禁野車塚古墳から天野川を遡った場所です。
日本書紀に書かれたように、物部氏はヤマト王権の初期段階からヤマト王権を鉄で支える集団であったのかも知れませんね。イワレの南の忍海、南郷の鉄を管理した氏族はさて、誰だったのでしょうね。イワレは阿倍氏の拠点でしたが、葛城系統のカモ氏の可能性もありますね。
(玉造工場の遺跡)
二か所ですね、一つは大県製鉄遺跡の北側で生駒山系の西麓の福万寺遺跡と大阪城の近くの上町台地の突端の玉造(森ノ宮)です。
参考 福万寺遺跡 洪水の跡
どうもこの東大阪市池島町の福万寺遺跡は縄文時代から人々が住みついていた場所のようですね。早く、稲作を取り入れて水田を耕作していたようです。古くから栄えた場所のようです。
一方の上町台地の突端の玉造(森ノ宮)は子供の頃から、環状線に乗っていて『玉造』とは妙な名前の駅だな~と思っていました。出雲にも玉造という地名があり翡翠で勾玉を作っていた場所ですね。一度、訪問した事があります。私は温泉を楽しみました。
参考 玉造稲荷神社
この神社も鐸比古鐸比売神社と同様、垂仁天皇と関係があるようですね。玉造部がおかれた場所だという。
次回は、馬の生産について触れてみたいと思います。
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