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禁野車塚古墳関連メモ(Ⅱ)

 承前 禁野車塚古墳関連メモ

Photo  禁野車塚古墳は前回の記事のメモによれば、箸墓古墳の類似形古墳であり、石材が大阪府柏原市国分の芝山産であるとあり、木津川の椿井大塚古墳も同じだと述べていました。大和王権が奈良盆地東南部の纏向、三輪山山麓に成立した頃に同盟グループであった事を意味している。

 禁野車塚古墳は天野川が淀川に合流する付近にありますが、遡ると肩野物部氏の拠点であり、物部氏の祖であるニギハヤヒさん降臨の磐船神社が存在する場所であります。記紀による神武さんが大和に入る前に既に定着していたと考えられています。

 問題は、木津川の椿井大塚山古墳ですが、私は崇神さんと国内戦最大と呼ばれた戦いをした武埴安・吾田媛連合の勢力であり崇神さんとの敗戦後にヤマト連合に組み入れられたのかも知れないと解釈になります。

Photo_2  箸墓と同じ類似形で築造された古墳に、吉備の浦間茶臼山古墳がありますね。そして、瀬戸内海を東に進み、丁瓢塚古墳がある。三世紀の魏志倭人伝に書かれた投馬国が5万戸を有し吉備と考え、奈良盆地東南部の纏向あたりが邪馬台国とするとそこが7万戸と考えれば箸墓と同じ形の古墳が吉備と纏向に築かれたのが歴史資料を考古学が裏付けた事になります。

 そして、その連合の仲間は北は木津川流域、北河内の肩野物部氏の拠点の天野川に達していたとなります。

 しかし、目と鼻の先の牧野の車塚古墳は類似古墳ではないとすると、淀川の右岸の摂津の領域も初期ヤマト連合国では無かったと言える。淀川水系は初期ヤマト連合国では制海権を握っていなかった事になりますね。淀川から桂川、宇治川経由の琵琶湖の山背の国は初期ヤマト連合国には属していなかったのだろうか。丹後、若狭、日本海ルートも重要な大陸との交易路でした。

 紀元前から繁栄した北九州の奴国や伊都国が後漢が滅ぶ事で交易権を握っていた体制が崩壊し既に、豊かな吉備平野や奈良盆地、河内平野の生産力と巨大化した人口を抱えるこれらの国に敗退したと考えられますね。これが、倭国大乱の実情ではなかったでしょうか。当時の中国王朝が東アジアの秩序を維持していたと考えられます。

  (謎の継体大王の今城塚古墳)

Photo_4  淀川右岸の摂津の高槻に造営された継体大王の今城塚古墳、そして5世紀に築造されたという太田茶臼山古墳が問題です。5世紀に百舌鳥古墳群、古市古墳群を築いた河内王朝の終焉とともに新たに大王に推挙されたのが、河内王朝とは血が繋がらない琵琶湖西岸から越の国を拠点とする、ヲホド王(継体大王)でしたね。

 この背景にも中国王朝の異変が関係していると考えています。南朝べったりだった河内王権は勃興する北朝との交易・交渉が有りませんでした。継体大王の勢力は北朝と交渉出来る何らかのルートを握っていたのではないでしょうか。

 摂津の太田茶臼山古墳や今城塚古墳の近くには、鎌足の墓ではないかと言われる阿武山古墳があります。事実は未だ確定されていませんが、古くから渡来人が多く住む地域であったようです。

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