古代河内の生産拠点 そのⅡ
承前 古代河内の生産拠点
前回は、製鉄と玉造りの生産拠点について触れましたが、次に軍事上陸上輸送上重要な馬の生産について触れてみましょう。
参考 蔀屋北遺跡
私が高校進学の時に四条畷高校に行くか校区である寝屋川高校にゆくか迷い、結局越境はせずに地元の寝屋川高校に行きました。その四条畷高校の近くに馬の飼育された遺跡が存在します。詳しくは大阪教育委員会文化財保護課の資料を参照して下さい。馬の全身骨格が出土しているのですね。
河内湖が生駒山に迫る場所にあたります、河内湖の島々には沢山の馬の放牧場=牧(まき)が存在したそうだ。馬の飼育に欠かせないのが『塩』だそうですね。製塩も出来ないと馬を育てる事は出来ないという。大陸では、岩塩がありますが、日本では海の水を煮たてて製造したのでしょうね。製塩遺物も出土するそうです。
馬と言えば、3世紀の頃には日本では登場しません、4世紀の朝鮮半島の動乱により洛東江流域の鉄挺を確保する為に伽耶諸国と連合を組み南下する騎馬民族である高句麗と戦闘した。その時にヤマトの遠征軍は、目の当たりに騎馬軍団の破壊力に遭遇したと考えています。広開土王碑文にあるように、ヤマト王権の軍は朝鮮半島に於いて伽耶諸国を守る為に出陣したと考えます。
時に、百済と連合し、時に新羅とも連合し南下する高句麗と激しい戦闘が行われました。これが4世紀の実情ではないでしょうか。この頃の話が神功皇后の説話や応神天皇の出現と関係が深いと考えています。三輪山の纏向政権から河内政権に移行したのではないかと考えられます。馬や武具が朝鮮半島から職人集団と伴にヤマト王権のもとに移植されたのではないかと考えます。
武力中心の考えが起こり、前方後円墳に副葬されるものが一変したのですね。馬や鉄を扱う人々の移住が河内を中心に起こりました。馬飼部が出現したのもこのような背景があると思います。馬飼部というと、有名な継体大王の側近であった河内馬飼部荒籠(かわちのうまかいべあらこ)を思い出しますね。彼は生駒西麓の蔀屋から淀川河川敷に展開した牧を支配し、同時に交野から牧野一帯の馬飼部を統率していた人物と考えられます。
彼は、樟葉の淀川河川敷の牧を拠点にしていたと思われますが、継体大王を即位されたのも樟葉宮であります。何故、河内馬飼荒籠が継体大王についたのか、その理由は判りません。馬を生産し流通させるという事は、現代で言えば自動車会社の会長みたいなもんですよね。同時に、陸路の流通網を支配したと考えられます。
継体さんは琵琶湖の西岸の親父の高島の鉄や東岸の息長氏や、母の故郷、越前の鉄と日本海航路を握っていたが、陸路の軍団が弱かったのではないでしょうか、そこに馬飼部の荒籠と組む事で陸海の軍団が成立した可能性が想像されますね。
馬に関して、もう一つ気になる歴史的な事は崇神さんの頃の『疫病』で民の半数が死亡したという大事件です。この事件は当時、牛馬が大陸から輸入されこの動物から免疫の無い日本の人々に感染したという説もあります。大規模ではなくても、崇神さん(ミマキイリヒコ)の頃には一部、牛馬がヤマトに入ってきていた可能性があります。
ともあれ、子供の頃育った招堤村や樟葉村、小学5年生に牧野に移り住み交野平野で育った私にとり河内馬飼部荒籠はどこか、身近な気持ちになりますね。
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