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陶邑窯(すえむらがま) 須惠器の古里

Photo_5  百舌鳥古墳群、古市古墳群という5世紀の巨大前方後円墳の南の狭山丘陵に陶邑窯群と呼ばれる登り窯の遺跡が存在していました。堺市、和泉氏、岸和田市、大阪狭山市に跨る巨大な古代の窯跡遺跡であります。千か所以上の窯跡が確認され4世紀末からこの場所で朝鮮半島から伝わったと考えられる、登り窯で千度を超す高温で焼かれた土器が出現しました。

 陶邑で生産が始まった土器は従来の土師器と異なり、土師器は野焼きの800度程度で焼かれた土器であるが、登り窯で1100程度の高温で焼かれ、酸素が少ない中で焼かれるので、土器中の酸化物から酸素を奪い、即ち還元され二酸化炭素と水に還元される。還元焔焼成と呼ぶそうだ。陶器と言うのは釉薬をかけて焼く手法ですが、釉薬をかける事はしないので、陶質土器とも呼ばれる。

 泉北ニュータウンの建設に伴い、400箇所以上の窯跡が発掘調査され須惠器の土器の編年体系が出来たという歴史を持っています。此処では平安時代頃まで須惠器が製造され、ヤマト王権の列島拡大に版図が広がるのと伴に、須惠器は列島に広まった。

 須惠器は青灰色をしており、土師器に比較して硬い、しかし現代の陶器と異なり釉薬を使用しない素焼きである。我々が今でも土鍋を使用するように土師器はその後も煮炊きに利用され、須惠器は祭祀の時の器として先ず利用されたと考えられています。

 今、手元に陶邑窯の発掘資料がありませんが、図書館で数日間読んだ記憶があります。膨大な発掘資料と土器編年の苦労は5世紀以降のヤマト王権の列島拡大を探る上でも重要な発掘成果だったと思います。

 (陶邑と大田田根子)

 陶邑となると、思い起こされるのが大田田根子ですね。崇神さんの御世に疫病が流行し民の半分が死んでしまったという危機がありました。その理由が、三輪山の大物主の祟りであると言われ、探しだしたのが陶邑にいた大物主さんの子孫の大田田根子でした。彼を呼び寄せ、アマテラスさんを宮中から追い出し、大物主さんを祭らせました。アマテラスさんはかわいそうに、転々として最後は伊勢に辿り着くのです。

 さて、陶邑には陶荒田神社というのがありますね、大田田根子と関係がありそうです。Photo_4

  崇神さんの時期には既に、狭山丘陵には渡来系の多分、伽耶系(洛東江流域)のハイテク土器製造集団が移住していたと想定されますね。

 実は陶邑で製造された須惠器は初期のものは朝鮮半島の伽耶の陶質土器と殆ど同じだと判断されている事によります。

 本格的に陶邑で須惠器作りが始まるのは5世紀になるそうですが、三輪山付近の王権が河内に移行した時期と重なるのも謎ではないでしょうか。

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