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古代河内の生産拠点 そのⅢ

 承前 古代河内の生産拠点 そのⅡ

 これまで古代河内の生産拠点について概観して来ました、今までの説明以外では巨大な前方後円墳を築いた造墓拠点が百舌鳥と古市に存在したと考えられます。大土木工事を施工出来る技術者と土木労働者の集団です。この集団は何時でも軍隊として活用されたと想定されます。(これは、私見ですが、当時、大規模古墳工事をしていたのは、エジプトのピラミッド建設と同じで公共事業であった可能性と常備軍として兵隊を確保する為に古墳を築いていた可能性がありますね。何時でも戦争があれば、古墳建設を中断して戦争が出来る。)

 さて、河内以外の生産拠点で注目されるのが摂津であります。上町台地の先端と狭い海峡を隔てた先には千里丘陵が迫っています。この狭い難波の海峡を通過して河内湖に瀬戸内海は通じていました。この千里丘陵に古代の窯跡が存在しています。

Photo 島熊山窯と表示されていますね。

 参考 橿考研 北摂地域の遺跡を訪ねて

 千里中央駅から歩いて、豊中市文化財資料室→島熊山窯址→上野青池南畔窯址(北畔窯址望む)→下村町池窯址→下地蔵岡窯址→2-24、2-19窯址→永楽荘窯址と千里川沿いに桜井谷窯址群として100基程度の古代窯が存在し5世紀後半から8世紀まで生産が続いた窯址群だそうです。

  『新池埴輪製作遺跡』

 参考 新池埴輪製作遺跡Photo_2

 参考 グーグルアース(新池埴輪製作窯址)

「shinke_haniwaseisaku.kmz」をダウンロード

 太田茶臼山古墳、今城塚古墳のそばに新池埴輪製作遺跡があります。明らかに5世紀の半ばの太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪を制作した窯址であります。今城塚古墳は継体天皇の陵墓と考古学者の多くは考えています。この窯からは三島の幾つかの古墳にも埴輪を供給したようですね。摂津の国三島郡は新羅系の渡来人が居を構えた場所であり、新羅窯系統と考えられます。

 三島と言えば、中臣鎌足を思い出しますね、彼は中大皇子と謀議をめぐらす前はこの三島に避難していたと伝えられています、中臣氏の拠点が三島にあったようです。地図にあります、阿武山古墳は鎌足の墓ではないかと言われているが、反論する学者もいます。

 『三島の伝説』

 三島というと、大物主さんと神武さんを思い出します。大物主さんは出雲の神さんですが、三輪山の纏向地域で早くから土地の神さんとなっていました。古事記によれば、その彼は、英雄色を好むで三島にいた美人(韓国系美人)のセヤダタラヒメという娘に恋をして朱塗の矢に化け彼女がトイレ(当時は川屋といい川の上にトイレがある)に入った時に上流から流れてゆき、彼女の陰部を突いたという。(大笑)彼女がその矢を部屋に持ち帰ると、大物主さんの姿に戻ったというのですね。(箸墓古墳のヤマトトヒモモソヒメの時は小さな蛇に化けて櫛箱に入りましたね)

 そして、産まれた娘がヒメタタライスズヒメなんです。彼女は神武天皇の皇后になりました。タタラと名前があるように、製鉄や須惠器のハイテク技術を持った渡来系の人々との婚姻である可能性が強いですね。古くから三島、淀川右岸から摂津、瀬戸内海へと交易路を持った場所に渡来系のハイテク集団が存在していた事になります。

 太田茶臼山古墳は5世紀半ばですから、既に河内王朝が全盛期の頃から摂津、淀川右岸から山城方面から琵琶湖、丹波、日本海にかけて拮抗する勢力が成長していた可能性がありますね。これが、中国南朝一辺倒の河内王朝に対して勃興する中国北朝ともパイプを握った継体天皇が出現する背景になった可能性もあると思います。

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