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日本と朝鮮半島2000年 第五回 日本海の道

 昨夜は、衆議院総選挙の開票速報で皆さんもテレビに釘つけではなかったでしょうか。議席数で前回の衆議院総選挙の時と正反対の事が起きた。前回の自民党300議席、今回は民主党が308議席である。小選挙区制度ではこのような事が起こるのですね。政権交代が出来やすい制度ということです。

 問題は60年間続いた官僚機構を根底から見直す事が出来るかどうかですね。明治から始まった日本の官僚機構は選挙が無いから、国民は変える事が出来なかった。政治が官僚機構を変えるしかない。長い年月の間に必要もない組織や機構が化石のように残っているのではないですかね。

 官僚機構というのはサービス業ですから、お客もいない仕事はする必要ないし無理やり客を作る必要もない。そしてサービスする相手は政治家では無くて、国民である筈ですよね。アメリカの制度が全ていいとは思わないが、政権が変わると官僚の上層部は全て職を失う構造も必要ですね。政権が変わっても延々と何年も前に決めた仕事を続ける体質は止めて貰いたいと思う。

 政治家も行政機構の指揮者になる時は、アメリカのように議員を辞めて貰う方法もありますね。確かヒラリー・クリントンさんはそうしていますよね。

 さて、民主党にはこれから4年間、否、8年間二期程度は腰を据えて日本丸の舵とりをやって貰いましょう。10年先を見た新しい産業育成、新エネルギー問題、年金、教育制度改革、少子化対策、アジア経済圏の構築、等々と大変な難題が山積みです。

 (日本と朝鮮半島2000年 第5回 日本海の道)

 NHK ETV特集 日本と朝鮮半島2000年 第5回 日本海の道

 過去記事 日本と朝鮮半島2000年 第一回~第四回

 昨夜夜10時からは選挙速報を観るのを止めて、11時半までNHK教育テレビの番組を観ていました。ビデオ録画もしながら楽しませて貰った。今回は渤海国との交流についてであります。

 渤海国と日本との関係については過去に記事を書いています、平城京の時代ですね、高句麗が羅唐連合に滅ぼされて、靺鞨族とともに建国した国です。満州から朝鮮半島北部、そしてロシアの沿海地方にかけて698年から926年まで続いた国です。

 過去記事 平群広成の大冒険

 過去記事 出雲 心の旅(平城京時代の外交交渉)

 今回はロシア沿海地方のポシェット湾の奥にあるクラスキノ土城の発掘現場が紹介されていた。此処に城壁で囲まれた渤海国の日本との通商をする為の基地が存在し「日本道」というのが存在したという。

Photo グーグルアース クラスキノ土城

「kurasukino.kmz」をダウンロード

テレビでは、韓露合同発掘隊の韓国の責任者が説明していました。墨書土器が出土したのですね、壺の内側に日本人の名前と考えられる文字が見つかったのだ。

 渤海と日本は30回以上の行き来が存在したという。遣唐使の頻度どころではない、しかも、このクラスキノは唐の長安につながっていたのです。

 この場所は、以前に記事に書きましたが、遣唐使の平群広成が唐から帰国する時に難破し、ベトナム中部のフエ付近のチャンパ王国に辿り着いた事件があった。

 彼は、殺されそうになったが、当時、阿倍仲麻呂がベトナムの総督をしていたので、助けられ渤海国経由でこのクラスキノ土城経由でポシェット湾から日本海を渡り新潟あたりに到着した歴史がある。当時、日本と統一新羅の関係が微妙だったのですね。

 番組では若狭湾の若狭町脇袋の大陸との交易を示す遺物が出土する現場が紹介されていた。グーグルアース 若狭湾若狭町脇袋

「wakasawakifukuro.kmz」をダウンロード

 Photo_2

 若狭のこの地域が如何に朝鮮半島やポシェット湾の渤海国と交易を行い最新の大陸文化を吸収し産業を発達させていたかが判るという。

 継体天皇の母、振媛の故郷であり高度な鉄鉱石から鉄を作る技術を持つ人々や、大陸との交易で巨大な富を蓄えた人々が存在したかが伺われる。

 参考 継体天皇研究シリーズ(1)(2) 今城塚古墳 ヲホド王を考える

 

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大和屋の守口漬

20098oomori_006  これ、大和屋の守口漬です。

守口大根の奈良漬ですね。

参考 大和屋 守口漬

 何故か、冷蔵庫の野菜室にふうてん娘が名古屋から帰った時に忘れていったようだ。

 我が家で漬物を食べるのは私だけ、今日はたまたま、漬物が食べたくて、この漬物の荷を開いた。

 守口大根は私が京阪電車沿線の人間ですから、馴染みであり守口という駅もあります。

 このやたら、ゴボウのように長い大根は世界的に(大袈裟)有名ですよね。

 しかし、奈良漬で食べるのは初めてでしたね。味は、瓜と同じです。

 御興味ある人は、一度お試しあれ。

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今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (2)

承前 今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (1)

 その(1)では白石先生の見解を紹介しましたが、今回は歴史学者の和田萃先生の見解をご紹介しましょう。

 (和田萃(あつむ)先生の見解 二人のホド王)

 この見解は『継体天皇の時代 吉川弘文館2008年7月』の和田萃先生の講演録からメモを作成したものであり、詳細は本を読んで下さい。ISBN978-4-642-07988-4

 ・ 継体天皇の名前は男大迹(ヲホド)王である。曾祖父は大郎子(おほいらっこ)であり、オホホド王とも呼ばれていた。

 ・ワヰウヱヲの「ヲ」は、小さいという意味であり、「オホ」はアイウエオの「オ」を使い「オホ」とは大きいという意味である。だから、曾祖父の大郎子はオホホド王であり、継体はヲホド王となる。二人とも、ホドという名前を共通にしているが、「ほど(火床)」炉の燃焼室、鍛造用の炉の意味と考えられる。製鉄に関わる人である事が判ります。

 ・「オホホド」「ヲホド」が対になり継体即位の背景を解く鍵がそこに存在すると考える。

 ・日本書紀によれば、継体天皇は誉田(ほむだ)天皇即ち、応神天皇の五世の孫と記録されている。しかし、『釈日本紀』には『上宮記』の引用として継体天皇は凡牟都和希(ホムツワケ)王の五世の孫となっている。

 ・ホムツワケ王というのは垂仁(すいにん)天皇の皇子ですが、生まれつき物がが言えなかったと言われ、出雲の大神の祟りだと言われていた。そうすると、継体天皇は垂仁天皇の六世孫という事になる。しかし『上宮記』によれば、継体天皇の母の記述に於いて、布利比賣(ふりひめ)は垂仁天皇の七世孫と書かれており、継体天皇は垂仁天皇の八世孫となり矛盾が起こる。従い、日本書紀の記述である、応神天皇の五世孫とする方が筋は通ると考える。

 ・但し、記紀の記述であるホムツワケ王を垂仁天皇の皇子であるという点を外すとホムツワケ王の五世の孫という記述はそれなりに筋が通るのである。この背景は記紀の王統譜が継体天皇の時代よりも後、欽明天皇の時代に作成された事と関係がある、継体天皇が即位した6世紀初めの頃はホムツワケ王五世の孫だったのが、欽明天皇の時代にホムツワケ王が垂仁天皇の皇子として記録され、継体天皇はホムダワケ(応神天皇)の五世の孫となったのではないかと推測される。

 ・記紀では武烈天皇が身罷られたあと、子孫が無く(これが不思議な事です)最初は仲哀天皇の五世の孫である、丹波国桑田郡、現在の京都府亀岡市に居られた、倭彦(やまとひこ)王をヤマトの大王にしようとしたと記録されている。当時、北摂津の地に三嶋県(あがた)が設置されていたように、亀岡市域に桑田県(あがた)が設置されていた。(桑田郡に式内社の三県(みあがた)神社がある。

 ・倭彦王は実在の人物であった可能性が高い、その理由は、この時期に築かれた千歳車塚古墳(全長79メータの前方後円墳が亀岡の地に存在する)が存在し、埴輪は継体天皇の陵墓と考えられる三島の今城塚古墳に供給した埴輪窯(新池埴輪窯)から供給されたと遺物は語る。しかし、何らかの理由で倭彦王は即位しなかった。

参考グーグルアース 千歳車塚古墳(倭彦王)

「chitosekurumatsuka.kmz」をダウンロード

 ・武烈天皇の崩御後、血筋が濃い方と言えば、応神天皇五世の孫の継体天皇の方であり何故、最初に仲哀天皇五世の孫と呼ばれる倭彦王が選択肢となったかは、欽明天皇の時代にヤマトタケル伝承が確立し、そのその子が仲哀天皇だったので、このような選択順序になったのではないかと、和田さんは考えておられるようです。

 ・記紀によれば、継体天皇を担ぎだしたのは、大伴大連(おおむらじ)金村だとされている。継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳からは九州熊本から運ばれたと考えられる阿蘇溶結凝灰岩(馬門石まかどいし)で出来た石棺の破片が発掘により出土している。雄略朝の時代から武烈朝の時代まで朝鮮半島との交渉、中国との交渉を担当していたのは、大伴大連室屋(むろや)だった。水軍としては、紀氏が担っていたと考えられる。紀氏は大伴氏と本拠地を接し、泉南から和歌山にかけての一帯を勢力基盤とした倭国水軍の中核をなしていた。

 ・継体天皇擁立時は室屋の孫の金村が権力の中枢にいたと考えられる。

 ・継体天皇の勢力基盤は、父の彦主王(ひこうしおう)が近江の息長王家の出身であり、琵琶湖西岸の近江国高嶋郡の三尾、現在の高島市今津あたり、そして、琵琶湖の水運を握り、息長氏の本拠地である近江国坂田郡、現在の米原市から長浜市あたりで湖東から美濃や尾張に通じる陸運の要衝を抑えていた。

 ・継体さんの、おばあさんは美濃の出身ですので、美濃も勢力範囲と考えられる。お母さんの振媛(ふりひめ)は越前の三国国造(こくぞう)家の出身と考えられ九頭竜川の水運、若狭に至る日本海の海運も掌握していたと思う。そして、継体さんの妃となった女性の出身氏族も継体さんの勢力基盤と考えられる。特に、尾張連(むらじ)草香女目子媛は安閑天皇、宣化天皇を産んでいる。

 ・息長氏の本拠地(米原、長浜)から関が原を越え、尾張へのルートを確保し美濃の金生山(きんしょうざん)という赤鉄鉱の一大産地を尾張氏と息長氏は押さえていたと考えられる。純度の高い鉄鉱石であるが若干、ヒ素を含んでいるので当時の鉄製品の遺物からこの山で産出した鉄鉱石を利用している分布が判るそうだ。5世紀中葉からこの鉱山で産出した鉄をヤマト王権では本格的に利用しはじめたという。(jo注:これが倭国での本格的な鉄鉱石から鉄を作り始め、伽耶諸国の鉄に依存する体質から脱皮し、半島政策の変化がここに起こった)。参考 グーグルアース 金生山(きんしょうざん)

「kinsyouzan.kmz」をダウンロード

 ・息長王家は大和の忍坂(おしさか)=桜井市忍阪(おっさか)にも拠点を持っており、息長氏出身の忍坂大中姫(おおなかつひめ)が忍坂宮に居を構えていた事や大規模な製鉄遺跡がみつかっています。参考 グーグルアース 桜井市忍阪(忍坂製鉄遺跡)

「otsusakaiseki.kmz」をダウンロード 参考過去記事 古代河内の生産拠点

 ・忍坂大中姫は継体天皇の曾祖父のオホホド王の妹にあたり、允恭(いんぎょう)天皇の皇后になった女性です。そして、安康(あんこう)、雄略天皇を産んでいます。従いその時に5世紀中葉にはオホホド王の家は王家となったと考えられる。

 ・和歌山県橋本市隅田に鎮座する隅田八幡宮に伝えられる人物画像鏡の銘文に見える、『男弟王(だいていおう)』はオホホド王を指していると考える。橋本市の陵山(りょうざん)古墳から出土した鏡であると考えている。参考 グーグル隅田八幡宮

「sudahachiman.kmz」をダウンロード

 ・北摂の三島に5世紀に築造された太田茶臼山古墳は継体天皇の曾祖父のオホホド王であると考える。三嶋の神は『和多志の大神(わたしのおおかみ)』と呼ばれ仁徳朝に百済から渡来した人々が『御嶋』に顕現し後に、伊予の御島(大三島)にも祀られるようになったと『伊予国風土記』にあるようです。淀川右岸の今城塚、太田茶臼山古墳がある場所は淀川水系を使用し百済とも繋がっていたのですね。

参考過去記事 白鬚神社(1) 白鬚神社(2) 鴨稲荷山古墳

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立山雄山に登る小学生

 先日、テレビ番組で富山の小学生が卒業記念に同学年生徒全員で三日間をかけて歩いて立山に登る番組が放送されていました。日頃からリュックを学校に持ち込み、身の周りの道具を詰めて重い荷物を作り6年生は階段を上り下りし、又、学校の周辺を歩きトレーニングをして、来るべき立山登山に備える生活が映りだされていました。

 面白いと感じたのは、先生が決めた4人ひと組で日頃の授業時間からも一緒に生活し、チームとして登山をするパーテイを訓練していました。4人で、特別の訓練を自発的にするとか、彼らで決めさせていました。登山という過酷な環境に挑戦するには、人間同士の信頼関係が一番大事になります。標高3千3メータの雄山に挑戦するのですから、並大抵では有りません。

 強風とガスと寒さに耐えて、岩にしがみつきながら最後に雄山を目指した姿には感動しました。先生方は一歩間違えると事故と紙一重の挑戦を指導されている姿は素晴らしいと感動した。これは、伝統の力だと思いました。多分、昔からこの小学校では卒業記念に立山登山をする伝統が築かれていたのでしょうね。

 突然に来年から立山登山を6年生全員でやろうと企画しても絶対許可されない行事ではないでしょうか。映像を見ていると、自宅に帰っても子供たちがトレーニングするのを母親が見守っていました。私たち親も、小学校の卒業記念に立山に登ったと誇らしく語る姿がそこに有りました。

 苦しい、体力の限界に近い登山を通じてパーテイの仲間同士が支え合う、人の優しさを引き出す事や色んな身体で限界を仲間と伴に乗り越える何かを獲得するのではないだろうか。高校野球の決勝9回2アウトから見せた、あの凄まじい団結のパワーは記憶に新しいと思います。余程、日頃から訓練しない限り発揮は出来ない、精神力の凄さを目の当たりにしましたね。

 富山の人々にとり、立山は恵みをもたらす崇高な聖なる神様が住む場所なんでしょうね。富山湾の豊富な魚、特に私も大好きな『ホタルイカ』も立山が無ければ、恵みを受けられないのです。人々の信仰の山に卒業記念に挑戦するのも伝統の背景にこの人々の信仰があるからだと思いました。

 先月、蓼科山に登りましたが、地元の佐久の小学校の生徒が同じく学校行事で登っていました。日本各地の田舎の小学校では地元の山に登る行事を伝統として保持しているのですね。素晴らしいと思いましたね。日本の教育現場も決して捨てたものではないと誇らしく思いました。

 jo君の北河内の招堤村の殿二小学校では厳冬期に山を囲んで兎狩りをする行事が恒例の伝統行事でした。家内は枚方の禁野車塚古墳、百済寺跡近くに住んでいたそうですが、同じく兎狩りの行事をしたそうです。団結して生徒達で山裾から輪を作り棒を手に頂上を目指して山を登ってゆくのです。追い詰めた先に網を猟師さんが張っておいて待ち伏せし、時に鉄砲で猟師さんが撃ちました。

 危険な行事ですが、これも伝統なんですね、今は兎がいなくなり山も宅地化が進みこの行事の維持は出来ないと思います。可愛いい兎を殺すなんて、しかも翌日の昼に皆で兎汁を飲むなんて、環境保護団体からクレームが来るかも知れませんね。しかし、これが文化財、無形文化財ではないだろうか。

 古来、交野が原では牧が広がっていました。肩野物部氏の拠点であり、その後も百済系統の渡来人が大陸の文化文明を持ち込み、百済寺を建立し、河内馬飼荒籠は継体天皇の時代に樟葉の津で即位させる歴史の舞台となった場所であります。淀川水系を利用した大陸との交易の拠点でしたね。

 瀬戸内海の小学校では遠泳を記念行事としてやる所もあるのではないでしょうか。学生時代に淡路島の近くの沼島で我々ワンゲル部員は遠泳をトレーニングとしてやった記憶がありますね。今回銅メダルを槍投げで獲得した人は確か、愛媛の島で育った人でしたね。子供の頃から海で身体を鍛えたと想像しています。

 日本各地の初等教育の現場では土地独自の文化に支えられた伝統行事と伝統教育が息づいているのでしょうね。いいものを観させて貰いました。

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第六回 三輪山セミナー そのⅢ(菅野雅雄翁講演録)

 古事記研究の第一人者である菅野雅雄さんの講演です。古代史に興味のある人なら誰でも彼の書かれた本は読まれたと思います。さて、今日の講演は『三輪山と神の社 「高い」ということ』であります。以下私が講演を聴いたメモであります。

 菅野雅雄翁講演録『三輪山と神の社 「高い」ということ』

 出雲大社について

 出雲大社は中世に於いて高さ16丈(約48メータ)の高さである事が近年の発掘により証明された事は周知の事実である。13世紀前半に伐採された巨大な柱3本が鉄の輪で締められた柱の根元が発掘された。これにより、出雲国造千家宮司家所蔵の『金輪御造営指図』が本当であった事が証明された。

 伝説によれば、古代は32丈(96メータ)の高さであったとも言われている、それ程巨大な神社が出雲には聳えていたのだ。中世に於いて、雲太・和二・京三という言葉が人々により語られていたという。木造建築物で最大は、出雲大社であり、二番目は奈良の大仏殿、三番目が京都の大極殿であります。これは、『口遊(くちずさみ)』巻一 源為憲が書いた公家としての知識を教える手引書に書かれている。

 ところで、伊勢神宮は20年毎に式年遷宮が挙行されるが、出雲大社は60年に一度、式年遷宮が行われるそうですね。 参考 出雲大社遷宮

 菅野さんはその60年に一度の遷宮に招待された経験があるそうです。御柱を一時仮の場所(お旅所)に移って頂いてる時に昇殿が許されるという。なかなかのいい眺めだったそうですね。 参考過去記事 日本海沿岸の巨木文化

 高いということ

 古代において、日本人が高い(たかい)という言葉は単に高さを表現しただけでなく、優れている、気高い、高潔、高尚、崇高という意味で使用していたと考えられる。

 古事記下巻の仁徳天皇条に於いても、『天皇、高山に登りて、四方の国を見たまひて・・』この高山の解釈も気高いの意味である。

 古事記上巻冒頭部分にて、『天地初めて發けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬし)。次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。・…』とありますが、高天の原の高はけだかい、崇高の意味と解釈出来ます。次の神様ですが、最初の神が二番目の神と名前が付く神様より高とつく神様の方が格が高い事を示していますね。高御産巣日神のことです。

 万葉集に於いても見つける事が出来ます。山部赤人の不尽の山を望む歌一首から『天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を・・・・』この場合も崇高なという意味で使われている事が判ります。これ以外ににも、万葉集では『高照らす 日の皇子、高光る 日の皇子、高御座 天の日継と・・・・』と類型が登場しています。

 三輪山と大神神社(おおみわじんじゃ)

 古事記では大国主さんと大物主さんは別の神ととして語られています。大国主さんが一緒に国創りをしていた少彦名の神が常世に去った時に、海上に現れた神が大物主さんであり私を三輪山に祭れと言ったと述べる。これが、大神神社の由緒であります。古事記では『産む、作る、支配する』と三段階に分けて国の歴史を語っているのが特徴だそうだ。

 jo君感想

 古代に於いて、高いという意味が崇高であるという意味も同時に持っていたという菅野さんのお話は説得力があると思いました。私はこれには山信仰が基盤にあるのではないかと考えています。縄文時代から海洋民族であった日本列島の先祖は遥か海上から山を観て航行していたと思います。船乗りにとり目印の山は命を繋ぐ重要なメルクマールだったと思いますね。

 そして、弥生時代になり稲作が伝播し、太陽が山から昇り山に沈むという世界が生まれ奈良盆地では三輪山が太陽が昇る山、二上山(ふたがみやま)が太陽の沈む常世の世界という信仰が生まれたのではないでしょうか。そして、仏教が伝来しても山岳信仰は密教と融合し独自の山伏や山岳信仰が生まれました。

 日本人には山が切っても切り離せない存在であり、崇高な世界に変わりはないのではないだろうか。蘇我氏が天皇の御座所よりも高い甘樫の丘に邸宅を建てるから殺された訳ですよね。信長も天皇よりも高い安土の天守閣に住み、配下に天皇の御座所を建築したから、殺された。

 魏志倭人伝でも倭国では貴人に道で出会うと、道端により土下座をしたと記録されています。頭の高さは崇高、優れるという価値と同じだったのですね。それは、山信仰から生まれたのではないかと私は考えています。

 

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第六回 三輪山セミナー そのⅡ(山折哲雄翁講演録)

 承前 第六回 三輪山セミナー そのⅠ(山折哲雄翁講演録)

 日本の神(以降はカミと表記)は世界に類を見ない特徴があると山折翁は述べる、その特徴は4項目に渡り説明できるそうだ。

 (1) カミは見えない存在である

  記紀神話で語られる日本のカミは姿が見えないのが特徴である。これは、世界の神々の中でも珍しい特徴だそうだ。古代ギリシャ、ローマの多神教の世界でも例えば、ゼウスは老人の姿、アポロンは青年の姿、キューピットは子供の姿をして現れる。インドのヒンドゥー教でもヴィシュヌ神では4つの武器を持つ男性の姿ですし、シヴァ神も牛に乗り破壊の神として激しい男性の姿で登場する。

 中国の道教においても同じであり、日本のカミだけが、お姿を見せないのが特徴だという。

 (2) 神々の記号化

  日本のカミはお名前で呼ばれるより、記号化されて呼ばれるようになるそうだ。例えば、伊勢神宮でも内宮、外宮と呼ばれ、春日大社も五柱のカミを祭っているが、記号化されて一殿、二殿、参殿・・・と呼ばれる。稲荷さんも上社、中社、下社と呼ばれ、又、一の宮、二の宮、等々とも呼ばれる。

 (3) 場所の名前がついている

 日本のカミは必ず土地の名前がついている。出雲に座すカミ=出雲大社、常陸に座すカミ=鹿島神宮、三諸に座すカミ=大神神社といった按配である。土地には必ずカミが存在するという考え方である。日本人は家を建てたり、工場を建設する時に必ず地鎮祭をやりますね。土地にはカミが居られ、許しを得るのです、海外に出かけてもその土地で建物を建てる時は日本企業は必ず地鎮祭を行う。

 (4) 分割されても無限化可能である

 日本のカミは分割されても決してパワーが衰えない不思議な存在である。例えば、八幡信仰であるが、宇佐神宮から京都の石清水八幡宮に勧請されそして、鎌倉の鶴岡八幡宮とどんどん分割されても一向に八幡さんのパワーは衰えないのだ。伊勢神宮も熊野神社も日本各地に分霊され存在している。

 キリスト教にしてもユダヤ教にしてもイスラム教にしてもヒンドゥー教にしても神々の世界は我々とはかけ離れた隔絶された世界として描かれるが、日本のカミは身近なこの世の延長上に描かれている。そして、人間が死ぬと誰でもカミになるという思想が存在しているのが特徴である。

 老人を大事にする思想は、もうすぐカミの世界が近い人であるという考えがあるから大事にされるという思想があり、素晴らしいと考えている。

 『Jo君の感想』

 山折翁が未だに解けない不思議な事として、記紀神話では何故、不幸なカミを描かねばならなかったのかという疑問です。日本列島を創生されたイザナキ、イザナミのカミの最後の不幸な別れ方である。男神のイザナキは天上界に帰還するが、妻のイザナミは地上で墳墓を築かれ埋葬される。熊野に埋葬されたと、言われている、夫婦の別れだ。

参考過去記事 日本神話と淡路島

 もう一つ、三輪山のカミと結ばれたヤマトトビモモソヒメの不幸な出来事である。カミとの約束を守れず死に、箸墓古墳に埋葬されたモモソヒメの話です。日本のカミの中で男カミは天上界に帰るが女性カミは地上で埋葬されるという不思議な破局の話ですね。

 さて、この山折翁の疑問は私もこれから長い時間をかけて考えて行きたいと思いました。

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JoBlog百万アクセス到達しました

 2004年4月の開局しましたJoBlogは5年と4カ月にて累積アクセス百万を本日達成しました。開局より常に励ましや文章の添削や、心のこもったコメント等々を頂いた皆様に感謝致します。特に、開局当初よりあたたかく見守って頂いた、『MuBlog』のMu翁さん、『ふうてん老人日記』のふうてん翁さん、『それから』のほかもどりさん、『道産子 哲』のてっちゃん、等々のブロッガーの皆様のご指導の賜物であります。

 又、クラブ結成30周年を昨年迎えたラジコンクラブ『赤とんぼ』の皆様には記事コンテンツの面で大いに御協力を頂きました。赤とんぼでは、かっちんさん、わこちゃんという素晴らしい動画映像作品を作られるタレントがおられますが、残念ながら音楽著作権の問題があり、公開は控えております。

 来月には63歳を迎える事になりますが、これからも健康が続く限り、楽しい『JoBlog』を続けて行きたいと考えています。この5年間の思い出は殆どがこのブログに書かれており、私の生きていた証として記録致しました。同時に、家族通信として沖縄に在学していた頃の息子や北海道で暮らす娘・孫の家族、フランス、メキシコの大学で暮らす娘や京都、大阪で暮らす姉、あの世で見守ってくれる父母と兄貴にもこのブログは話しかけて来ました。家内の姉妹も関西に在住しています、親戚の輪も広がり家族通信の役割も果たして来ました。

 今年夏に48年振りに開催された中学校の同窓会に出席しましたが、君のブログ読んでるよと声を掛けられたのは驚きました。『おまえ、昔と変わらず、気楽な生き方してるな~』と言われると、実に嬉しい限りでした。同じ学年だった昔の仲間達もそろそろ現役を引退し自由な時間がとれるようになれば、又、私のブログも時には覗いてくれると思います。

 今年の春から、早稲田大学の学生として真面目に考古学の勉強を始めました。文化財保護法の勉強や、考古学概論、考古学演習といった勉強を始め古墳の測量技術についても基礎から教えて頂きました。何事も基礎が大事と思いますので、始めた次第です。さて、これからどのような人生になるか判りませんが、出来る限り、好きな古代史や文化財保護・活用に関係したいと考えております。

 これからも、末長く宜しくお願い申し上げます。

 『JoBlog 累積百万アクセス記念記録』

 累計アクセス数: 1000169

 ディスク容量: 7,303 MB (73.03%)

 過去1ヶ月間の記録(7月25日~8月23日)

アクセス数合計: 35,799 (日平均: 1,193)
訪問者数合計: 9,785 (日平均: 326)

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第六回 三輪山セミナー そのⅠ(山折哲雄翁講演録)

20098miwayama_001  第六回三輪山セミナー・イン・東京 が今年も開催された。私は第一回から皆勤で参加しています、思えば第一回は虎ノ門で開催された、私は当時某有名な霞が関にある監査法人と米国のコンサルファームであるPWCとの合弁企業の社長をしていた頃でした。もう、あれから6年も経過したのですね。

 参考 過去五回の三輪山セミナー参加記録

 さて、今回の講演は古事記の権威である、菅野雅雄先生と宗教学者の山折哲雄さんでした。先ず、山折哲雄さんの講演から御紹介します。

 『山折哲雄さんの講演録 in Tokyo 8/22/2009よみうりホール』

 彼は黒の作務衣で演壇に登場されました。78歳だそうです。今日、京都の下京区の自宅から新幹線で来られた様子でした。私は、山折さんと司馬さんの対談が何より好きでしたね。古代史が好きな私には『竹林の七賢』清談を聞いているようでした。卑弥呼さんが生きていた時代、中国では三国、魏・呉・蜀と別れて戦乱の時代に身体を張り真実を語る『竹林の七賢』姿とダブっていました。

 もう、司馬さんはあの世です、山折さんの言葉は司馬さんの言葉のようにも聞こえましたね。稚拙ではありますが、私の感じた、山折哲雄翁の講演録を記録致します。

 ・奈良盆地、日本国が生まれた故郷であります。朝に聖なる三輪山から太陽が昇り、素晴らしい空が開ける。人々は田圃にでかけ、遊ばせて貰う一日が始まる。こんなに綺麗な奈良盆地の空は此処以外には存在しない。青垣に囲まれ豊かな幸せな空間である。夕方には二上山(ふたがみさん)に太陽は沈まれる。今日の幸せな一日は終わったのだ。

 ・聖なる三輪山に登る機会が訪れた、御神体の山に登れとは思わなかったが、誰でも登れるそうだ。そこで、目にしたのは無数の磐座(いわくら)でした。そして、ことごとくの磐座は割れているのだ。自然に割れたものもあろうが、人為的に割られたと思われる磐座が無数に注連縄で縛られている。これは、何なんだろうと、というのが本日のテーマであります。

 ・山折さんは伊勢神宮の20年サイクルで行われる式年遷宮に参加された話をされました。その体験談が実に興味深く語られていました。夜に行われる遷御の儀式は斎宮を先頭に御神体の箱が先頭に千を越える神宝が箱で運ばれるそうだ。

 ・さて、先頭の葛籠というか箱には何が入っつているのか、これが謎ですね。誰も知らない。午後8時に薪の火は全て消され、漆黒の闇が迫る。ニワトリの鳴き声が聞こえる、旧昇殿の扉が開き長持ちを担いだ神官が出てくる。斎王を先頭に神は遷宮されるのだ。あの、先頭の長持ちには何が入っているのかが大いに興味がありますね。

 ・山折さんは石ではないかというのが推論である。20年も経過すると昇殿はボロボロになる、神の元気もなくなる消滅しそうになる、この神の魂を元気づける為に遷宮が挙行されると考える。魂をフル(振る)する為に遷宮はなされるのだ。衰弱した魂に元気を取り戻させる為の儀式である。

 ・世の東西を問わず、衰弱した魂を元気にする祭りは冬至の祭りとして挙行されている。フユの祭りである。仏教の二月堂の修二会もそうだ。実は、日本の古代からの信仰がそれを支えている。さて、日本の古代からの信仰とは何だろうか?次回に続きます。

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今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (1)

 高槻市教育委員会が2008年7月に吉川弘文館より出版された『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』は最新の研究者による謎の天皇と呼ばれる継体天皇の研究成果が纏められている。6世紀初めに、日本列島では百舌鳥、古市に巨大な前方後円墳を築いていた河内王朝は武烈天皇を最後に崩壊し、応神天皇の五世の孫と呼ばれるヲホド王(継体天皇)が王朝を築いたのです。彼が即位したのは、樟葉という私が生まれ育った招堤村の隣の村であり子供の頃から馴染みの大王でした。

 今まで、ブログで多くの彼に関する記事を書きましたが、来月帰省し京都のMu翁と今城塚古墳を訪問するにあたり、再度、最新の継体天皇と今城塚古墳に関する研究者の考えを纏めておくことにした。

 (白石太一郎先生の考え)

 Photo 先生のお話は『六世紀前半の倭国における今城塚古墳』という視点でマクロに捉えようとされています。以下、要点を忘れないように、メモしておきます。

 ・今城塚古墳が継体天皇の墓であり、6世紀前半である事は誰もが認める事実である。

 ・奈良時代以前の大王・天皇で奈良盆地の大和川水系と河内以外に陵墓が築かれたのは継体天皇の淀川右岸の摂津の今城塚古墳と天智天皇の山科の陵以外に例がない。

 ・ヤマト王権が誕生したのは大和川水域であり奈良盆地東南部に限られる。古墳出現期の3世紀には奈良盆地北部にも、葛城にも河内、和泉にも大王級の百メータを越す古墳は存在しない。しかし、淀川水系には摂津の三島に弁天山A一号墳という120メータ級の古墳があり、交野には森一号墳100メータ級の古墳が存在する。そして、山背の乙訓(おとくに)には元稲荷古墳という100メータ級の前方後方墳が存在する。木津川上流に椿井大塚山古墳(jo注:崇神さんと戦争した武埴安の墓だと考えている)がある。

 ・初期ヤマト王権が成立した頃は大和川水系を中心に大和、河内、和泉が纏まった政治集団であり中心が三輪山山麓であった。しかし、淀川水系では要所要所に有力な古墳が存在し独立した政治集団が存在したと考えられる。

Photo_2  ・5世紀中葉に三島に太田茶臼山古墳という巨大な前方後円墳が築かれ、6世紀初頭の継体天皇の今城塚古墳の出現となります。5世紀中葉にはヤマト王権に対して伍する力を持つ勢力に淀川水系の勢力は成長していたと考えられる。

 ・継体天皇は樟葉で即位しても宮を乙訓、綴喜などに移すが20年間、大和盆地には入る事が出来なかった。これは、明らかに伝統的なヤマト王権の勢力が奈良盆地、河内に存在していた事になり、最後にヤマト王権の故郷であるイワレに迎え入れられます。従い継体天皇以降に畿内は淀川水系を含んだ摂津、山背を含んだ領域となったと考えられる。

 ・6世紀前半に継体天皇を支えたと考えられる巨大古墳が列島に存在する。北九州の筑紫の磐井の墓と考えられる全長140メータ級の前方後円墳の岩戸山古墳である。福岡県Photo_3 南部の八女市にありますね。筑紫の君の磐井は継体天皇即位に味方した勢力と考えられ、生前に巨大な前方後円墳を建造する事を許されていた。その後、継体天皇と戦争する訳ですが、戦争に負けて巨大古墳が建造できませんね。

 ・関東方面でも稲荷山鉄剣を出土した、さきたま古墳群の稲荷古墳の傍に6世紀初頭の全長140メータを越える二子山古墳があります。そして、群馬県の西の現在の藤岡市に白Photo_4 石古墳群というのがあり、その中に七輿山(ななこしやま)古墳という6世紀初頭の150メータ級の前方後円墳が存在します。当時の上毛野(かみつけの)と呼ばれた地域の首長墓と考えられます。

 グーグルアース 七輿山古墳

「Nanakoshiyama.kmz」をダウンロード

 ・継体天皇即位に味方したと考えられる尾張の勢力があります。名古屋市の断夫山(だんぷさん)古墳という熱田神宮のすぐ傍にある150メータ級の巨大前方後円墳は6世紀初頭に築かれている。継体天皇の妃の一人に尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)という人がいましたね。彼女は安閑天皇や宣化天皇を産みます。この古墳には父親の草香と一緒に埋葬されていると考えられます。

 参考 断夫山(だんぷさん)古墳グーグルアース

「Danpusan.kmz」をダウンロード

 ・埋葬施設について今城塚古墳と関東の古墳との間に相似性が見出せるという話があります。今城塚古墳の埋葬施設には石積が墳丘の中に埋め込まれており、従来の墳墓建設時に竪穴を掘って埋葬設備を建設したのではなく、最初に石積みで埋葬設備を作りその上に墳丘を積み上げた工法ではないかと考えている。今城塚と関東の、例えば群馬県前橋市の前二子(まえふたご)古墳という6世紀前半の古墳の横穴式石室と工法が似ている。

 ・結論として、継体天皇擁立には淀川水系の三島の勢力と尾張、関東の勢力、そして筑紫の君も重要な役割を果たしたのではないかと考える。

 

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安達太良山登山 企画会議

 昨日夜は新橋の居酒屋、『Walk don't RUN』で七輪を囲んで魚を焼きながら酒の肴に爺さん連中4名で次回の山と温泉の旅『安達太良山登山』の企画会議を行った。河岸で巨大な新鮮な金目鯛が手に入ったというので、美味しく頂いた。

 昨日は、会社の大先輩の故、二の宮さんの葬儀だったらしく、話は一昨日前の通夜の話や精進落としの酒席の話や、昔の二の宮さんの現役の頃の話に花が咲いた。アメリカ市場に果敢に挑戦していた頃であり国内シェアナンバーワンを獲得した頃の激動の時代の話でした。「官僚たちの夏」のまっただ中で故人は夜も昼も当時の通産省の人々と伴に国産機市場を頑張った時代でした。

 徐々に、当時の企業戦士達がこの世を去る時代に入りましたね、鳴戸さんも先月亡くなられました。私も米国赴任の時からお世話になり、シリコンバレーを震撼させた大スパイ事件の時は随分と私の身の安全について心配して下さいました。会社も自宅も車も全てが盗聴器が仕掛けられている可能性があり、道を一緒に歩きながら耳元で『Jo本当の事を言え、隠している事があるやろ?何でも相談に乗るから心配するな。』こんな、007みたいな日々がシリコンバレーで半年間も続いた事がありましたね。

 それだけ、日本の某企業2社の従業員がFBIの囮捜査に捕まった事件は強烈でしたね。ターゲットは我々に向けられていたのですからね。それも、昔の話、それだけ経済戦争が激しかった時代でした。いや、今はもっと激しい水面下の企業戦争が戦われているんでしょうね。

 今は、4人とも現役を引退した爺さんばかり、安達太良山の紅葉を眺めながら縦走して、土湯温泉にでも入り美味い山菜で酒を飲むのが向いているようだ。来年は、是非とも富士山に挑戦しようという事になりました。70歳になる前に登っておこうという計画です。

 ビールから始まり、焼酎のボトル2本も空けて濛々たる魚を焼く煙の中で爺さん4名の楽しい山行きの宴会は無事に終了した。横浜組は帰宅したが、若干2名の東京・千葉組は未だ飲み足らないのか何処かの路地に消えて行きました。

 その頃、奥沢ではオホーツクの哲ちゃんはママさんの誕生会で盛り上がっていたようですね。ブログを見ると盛り上がりが判りますね、奥沢駅を通過する時に何か胸騒ぎがしたのだが、これだったんですね。歳はとっても皆さん元気ですね。

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古代河内の生産拠点 そのⅢ

 承前 古代河内の生産拠点 そのⅡ

 これまで古代河内の生産拠点について概観して来ました、今までの説明以外では巨大な前方後円墳を築いた造墓拠点が百舌鳥と古市に存在したと考えられます。大土木工事を施工出来る技術者と土木労働者の集団です。この集団は何時でも軍隊として活用されたと想定されます。(これは、私見ですが、当時、大規模古墳工事をしていたのは、エジプトのピラミッド建設と同じで公共事業であった可能性と常備軍として兵隊を確保する為に古墳を築いていた可能性がありますね。何時でも戦争があれば、古墳建設を中断して戦争が出来る。)

 さて、河内以外の生産拠点で注目されるのが摂津であります。上町台地の先端と狭い海峡を隔てた先には千里丘陵が迫っています。この狭い難波の海峡を通過して河内湖に瀬戸内海は通じていました。この千里丘陵に古代の窯跡が存在しています。

Photo 島熊山窯と表示されていますね。

 参考 橿考研 北摂地域の遺跡を訪ねて

 千里中央駅から歩いて、豊中市文化財資料室→島熊山窯址→上野青池南畔窯址(北畔窯址望む)→下村町池窯址→下地蔵岡窯址→2-24、2-19窯址→永楽荘窯址と千里川沿いに桜井谷窯址群として100基程度の古代窯が存在し5世紀後半から8世紀まで生産が続いた窯址群だそうです。

  『新池埴輪製作遺跡』

 参考 新池埴輪製作遺跡Photo_2

 参考 グーグルアース(新池埴輪製作窯址)

「shinke_haniwaseisaku.kmz」をダウンロード

 太田茶臼山古墳、今城塚古墳のそばに新池埴輪製作遺跡があります。明らかに5世紀の半ばの太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪を制作した窯址であります。今城塚古墳は継体天皇の陵墓と考古学者の多くは考えています。この窯からは三島の幾つかの古墳にも埴輪を供給したようですね。摂津の国三島郡は新羅系の渡来人が居を構えた場所であり、新羅窯系統と考えられます。

 三島と言えば、中臣鎌足を思い出しますね、彼は中大皇子と謀議をめぐらす前はこの三島に避難していたと伝えられています、中臣氏の拠点が三島にあったようです。地図にあります、阿武山古墳は鎌足の墓ではないかと言われているが、反論する学者もいます。

 『三島の伝説』

 三島というと、大物主さんと神武さんを思い出します。大物主さんは出雲の神さんですが、三輪山の纏向地域で早くから土地の神さんとなっていました。古事記によれば、その彼は、英雄色を好むで三島にいた美人(韓国系美人)のセヤダタラヒメという娘に恋をして朱塗の矢に化け彼女がトイレ(当時は川屋といい川の上にトイレがある)に入った時に上流から流れてゆき、彼女の陰部を突いたという。(大笑)彼女がその矢を部屋に持ち帰ると、大物主さんの姿に戻ったというのですね。(箸墓古墳のヤマトトヒモモソヒメの時は小さな蛇に化けて櫛箱に入りましたね)

 そして、産まれた娘がヒメタタライスズヒメなんです。彼女は神武天皇の皇后になりました。タタラと名前があるように、製鉄や須惠器のハイテク技術を持った渡来系の人々との婚姻である可能性が強いですね。古くから三島、淀川右岸から摂津、瀬戸内海へと交易路を持った場所に渡来系のハイテク集団が存在していた事になります。

 太田茶臼山古墳は5世紀半ばですから、既に河内王朝が全盛期の頃から摂津、淀川右岸から山城方面から琵琶湖、丹波、日本海にかけて拮抗する勢力が成長していた可能性がありますね。これが、中国南朝一辺倒の河内王朝に対して勃興する中国北朝ともパイプを握った継体天皇が出現する背景になった可能性もあると思います。

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メキシコ20世紀絵画展 & 利根山光人とマヤ・アステカの拓本

 日本メキシコ交流400周年記念のイベントとして、世田谷美術館で開催されている『メキシコ20世紀絵画展』 & 『利根山光人とマヤ・アステカの拓本展』に出かけた。

 参考 NHKプロモーション メキシコ20世紀絵画展

20098setagaya_010 NHKも主催者の一人なので、既に番組が組まれていたので、観られた方々も多いと思います。

 目玉は、フリーダ・カーロの『メダリオンをつけた自画像』でした。番組でも取り上げられていましたが、結婚式の服装ですが、顔が男のようですね。これが、現物の前に立つと立体的に映るのです、だまし絵かと思うような不思議な肖像画でした。顔が三次元のように浮かび上がっているのです。このような不思議な肖像画に会ったのは初めての経験ですね。

  彼女を襲った不幸な病気や交通事故にも果敢に立ち向かった人生が凝縮されているようでしたね、勇気を貰える見事な肖像画でした。

 ホセ・クレメンテ・オロスコの『十字架を自らの手で壊すキリスト』、『死者』は圧巻でした。メキシコの300年に渡るスペインの植民地化に手を貸したキリスト教、人々を救う筈の宗教とは何なのだ、怒りの爆発が観る人の心を撃ちました。彼自身はキリストを深く信心している敬虔なクリスチャンです、だから迫力があるのです。

 竹田鎮三郎画泊が師と仰がれた、北川民次の絵が二点、オアハカで馴染みのルフィーノ・タマヨ三点も展示がありました。

 『利根山光人とマヤ・アステカの拓本展』

 参考 世田谷美術館 利根山光人とマヤ・アステカの拓本展

 参考 利根山光人記念美術館(岩手県)

 この画家もメキシコ美術に衝撃を受けた日本人の一人ですね。北川民次、岡本太郎、竹田鎮三郎、皆さんメキシコの湧き上がる炎の精神に感動を受けた人々です。

 私は、絵画よりも彼が収集したマヤ・アステカの考古遺物特に神殿のレリーフから取得した拓本の迫力に感動しました。壁一杯の巨大な拓本は観る者を感動させます。私もオアハカのモンテアルバン遺跡やサンタマリア・アツォンパ遺跡や幾つかの遺跡を巡りましたが感動が蘇りました。

 参考 メキシコ・オアハカ遺跡紀行

 先日、早稲田の考古学教室で拓本の取り方の実習をしましたが、これが意外と難しいのですね。これだけ巨大な神殿のレリーフを沢山とるのは並大抵の作業では無かったと思いますし、貴重な文化遺産であると思います。マヤ文字やアステカの文字を研究している人に取り貴重な資料、世界遺産だと思います。

 オアハカに出かけて身体で感じた感動の原因は何だろうと、帰国後も考えていましたが、最近は私たちの祖先の一つである縄文人の血が彼らにも流れているからではないだろうかという根拠もない仮説に辿りついています。その根拠の一つはルフィーノ・タマヨ美術館で見かけた考古遺物とアツォンパ遺跡に出かけた時に乗ったタクシーの運転手の顔と身体が衝撃でした。

 まるで縄文人ではないかと思いました、これは山で鍛えた山勘です。論理的ではないが、必ず7千年以上前にアリューシャン列島から船で北アメリカの海岸を周遊した縄文人がいた筈であると思っています。通説は陸路氷河期が終わる頃にモンゴリアンが北米に渡りアメリカ大陸を南下したというのが正しいと言われている。しかし、海の道は存在したと思います。

 縄文土器に美術品としての価値を与えたのは岡本太郎です、彼はメキシコに渡り激しい衝撃をを受けたた理由も共通項は縄文の血ではないかというのが、学問的に根拠がない私の勘であります。今度、縄文の専門家である高橋龍三郎先生やマヤの専門家の寺崎秀一郎先生にお会いしたら訊いてみようと考えています。

20098setagaya_005 20098setagaya_002 20098setagaya_003世田谷美術館は閑静な砧公園 の中にあります。20098setagaya_006

20098setagaya_007 20098setagaya_008 20098setagaya_011

 

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古代河内の生産拠点 そのⅡ

 承前 古代河内の生産拠点

 前回は、製鉄と玉造りの生産拠点について触れましたが、次に軍事上陸上輸送上重要な馬の生産について触れてみましょう。

Photo 蔀屋(しとみや)北遺跡 というのが四条畷にあります。

 参考 蔀屋北遺跡

 私が高校進学の時に四条畷高校に行くか校区である寝屋川高校にゆくか迷い、結局越境はせずに地元の寝屋川高校に行きました。その四条畷高校の近くに馬の飼育された遺跡が存在します。詳しくは大阪教育委員会文化財保護課の資料を参照して下さい。馬の全身骨格が出土しているのですね。

 河内湖が生駒山に迫る場所にあたります、河内湖の島々には沢山の馬の放牧場=牧(まき)が存在したそうだ。馬の飼育に欠かせないのが『塩』だそうですね。製塩も出来ないと馬を育てる事は出来ないという。大陸では、岩塩がありますが、日本では海の水を煮たてて製造したのでしょうね。製塩遺物も出土するそうです。

 馬と言えば、3世紀の頃には日本では登場しません、4世紀の朝鮮半島の動乱により洛東江流域の鉄挺を確保する為に伽耶諸国と連合を組み南下する騎馬民族である高句麗と戦闘した。その時にヤマトの遠征軍は、目の当たりに騎馬軍団の破壊力に遭遇したと考えています。広開土王碑文にあるように、ヤマト王権の軍は朝鮮半島に於いて伽耶諸国を守る為に出陣したと考えます。

 時に、百済と連合し、時に新羅とも連合し南下する高句麗と激しい戦闘が行われました。これが4世紀の実情ではないでしょうか。この頃の話が神功皇后の説話や応神天皇の出現と関係が深いと考えています。三輪山の纏向政権から河内政権に移行したのではないかと考えられます。馬や武具が朝鮮半島から職人集団と伴にヤマト王権のもとに移植されたのではないかと考えます。

 武力中心の考えが起こり、前方後円墳に副葬されるものが一変したのですね。馬や鉄を扱う人々の移住が河内を中心に起こりました。馬飼部が出現したのもこのような背景があると思います。馬飼部というと、有名な継体大王の側近であった河内馬飼部荒籠(かわちのうまかいべあらこ)を思い出しますね。彼は生駒西麓の蔀屋から淀川河川敷に展開した牧を支配し、同時に交野から牧野一帯の馬飼部を統率していた人物と考えられます。

 彼は、樟葉の淀川河川敷の牧を拠点にしていたと思われますが、継体大王を即位されたのも樟葉宮であります。何故、河内馬飼荒籠が継体大王についたのか、その理由は判りません。馬を生産し流通させるという事は、現代で言えば自動車会社の会長みたいなもんですよね。同時に、陸路の流通網を支配したと考えられます。

 継体さんは琵琶湖の西岸の親父の高島の鉄や東岸の息長氏や、母の故郷、越前の鉄と日本海航路を握っていたが、陸路の軍団が弱かったのではないでしょうか、そこに馬飼部の荒籠と組む事で陸海の軍団が成立した可能性が想像されますね。

 馬に関して、もう一つ気になる歴史的な事は崇神さんの頃の『疫病』で民の半数が死亡したという大事件です。この事件は当時、牛馬が大陸から輸入されこの動物から免疫の無い日本の人々に感染したという説もあります。大規模ではなくても、崇神さん(ミマキイリヒコ)の頃には一部、牛馬がヤマトに入ってきていた可能性があります。

 ともあれ、子供の頃育った招堤村や樟葉村、小学5年生に牧野に移り住み交野平野で育った私にとり河内馬飼部荒籠はどこか、身近な気持ちになりますね。

 

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古代河内の生産拠点

 承前 陶邑窯 須惠器の古里

 前回の記事で4世紀末頃から始まり、5世紀に本格化した須惠器の生産拠点である陶邑の記事を書きました。河内王権(ヤマト王権)の庇護を受け列島の北は岩手の地域から九州まで流通させた須惠器の生産拠点の話でした。

河内では、5世紀の頃に、これ以外にどの様な生産拠点が存在していたのでしょうか。

 (製鉄の拠点)

正確には鍛冶の拠点と言うべきかも知れませんが、6世紀の頃には製鉄をしていた可能性もあるようです。それは大県製鉄遺跡です。鐸比古鐸比売(ひめ)神社の傍にある遺跡ですね。 参考 鐸比古鐸比売神社

Photo_2 南の方には高井田横穴公園がありますが、渡来系の人々の横穴墳墓が200基以上存在しています。製鉄や鍛冶の専門家集団がここに移住して来ていたと考えられます。

 膨大な 鉄滓(てつさい)や羽口が出土し大規模な鍛冶工房が存在していた事が考古学の発掘により確認されました。5世紀の河内王朝を支えた鉄は此処で生産されたようですね。勿論、5世紀の頃は鉄挺を伽耶諸国から輸入し、それを鍛造していたと考えられます。しかし、6世紀の頃には国産の原料から製鉄を行ったいた可能性もあるようです。

 日本史の謎として、3世紀の頃の三輪山周辺の纏向地域で発生した初期ヤマト王権から4世紀は中国の歴史書から日本列島の記事は無くなります。そして、応神さん、仁徳さんの頃、5世紀初めの頃には急に前方後円墳の竪穴墓からの副葬品として、武具や馬に関する鉄製品が出土し3世紀の頃のような祭祀的な副葬品から一変します。

 そこで、昔は江波さんのような騎馬民族征服説のような仮説が生まれたのですね。明らかに、4世紀に中国王朝は乱れ、中国北方の草原地帯が2度も寒冷化し遊牧民が南下し、高句麗も朝鮮半島に南下を始め混乱を迎えた時期であります。百済もやむなく南下を余儀なくされた時期であり、伽耶諸国も北からの攻撃に晒された時期でした。

 ヤマト王権は、伽耶諸国の鉄を確保すべく朝鮮半島に軍事力を発動し伽耶諸国や百済と共に高句麗と戦ったと思います。(広開土王碑文がその例ですね)そのような歴史背景を受けて、多くの百済や伽耶や新羅の人々はヤマト王権を頼り移住してきた可能性は否定できません。

 鐸比古鐸比売神社の祭神は垂仁さんの息子さんだというのですが、さて、誰がこの鍛冶工場を管轄していたんでしょうね。大伴氏か物部氏か判りませんがただ、物部氏の拠点である河内の地が近いのが気になります。Photo_3

 さてこの頃の奈良盆地での、製鉄の遺跡としては石上神社近くの布留、そして、イワレの南の忍海(脇田)、南郷が考古学的に証明されています。

 そして、肩野物部氏の本拠地である天野川流域の森古墳群にも製鉄遺跡が存在するそうですね。神武さんより早くヤマトに降臨されたニギハヤヒさんの降臨の場所の近くですね。以前に箸墓古墳の類似古墳として紹介した禁野車塚古墳から天野川を遡った場所です。Photo_4

  日本書紀に書かれたように、物部氏はヤマト王権の初期段階からヤマト王権を鉄で支える集団であったのかも知れませんね。イワレの南の忍海、南郷の鉄を管理した氏族はさて、誰だったのでしょうね。イワレは阿倍氏の拠点でしたが、葛城系統のカモ氏の可能性もありますね。

 (玉造工場の遺跡)

 二か所ですね、一つは大県製鉄遺跡の北側で生駒山系の西麓の福万寺遺跡と大阪城の近くの上町台地の突端の玉造(森ノ宮)です。

Photo_5  参考 福万寺遺跡(大坂文化財センター)

 参考 福万寺遺跡 洪水の跡

 どうもこの東大阪市池島町の福万寺遺跡は縄文時代から人々が住みついていた場所のようですね。早く、稲作を取り入れて水田を耕作していたようです。古くから栄えた場所のようです。

 一方の上町台地の突端の玉造(森ノ宮)は子供の頃から、環状線に乗っていて『玉造』とは妙な名前の駅だな~と思っていました。出雲にも玉造という地名があり翡翠で勾玉を作っていた場所ですね。一度、訪問した事があります。私は温泉を楽しみました。

Photo_6  ここには、玉造稲荷神社がありますね。

 参考 玉造稲荷神社

 この神社も鐸比古鐸比売神社と同様、垂仁天皇と関係があるようですね。玉造部がおかれた場所だという。

  次回は、馬の生産について触れてみたいと思います。

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陶邑窯(すえむらがま) 須惠器の古里

Photo_5  百舌鳥古墳群、古市古墳群という5世紀の巨大前方後円墳の南の狭山丘陵に陶邑窯群と呼ばれる登り窯の遺跡が存在していました。堺市、和泉氏、岸和田市、大阪狭山市に跨る巨大な古代の窯跡遺跡であります。千か所以上の窯跡が確認され4世紀末からこの場所で朝鮮半島から伝わったと考えられる、登り窯で千度を超す高温で焼かれた土器が出現しました。

 陶邑で生産が始まった土器は従来の土師器と異なり、土師器は野焼きの800度程度で焼かれた土器であるが、登り窯で1100程度の高温で焼かれ、酸素が少ない中で焼かれるので、土器中の酸化物から酸素を奪い、即ち還元され二酸化炭素と水に還元される。還元焔焼成と呼ぶそうだ。陶器と言うのは釉薬をかけて焼く手法ですが、釉薬をかける事はしないので、陶質土器とも呼ばれる。

 泉北ニュータウンの建設に伴い、400箇所以上の窯跡が発掘調査され須惠器の土器の編年体系が出来たという歴史を持っています。此処では平安時代頃まで須惠器が製造され、ヤマト王権の列島拡大に版図が広がるのと伴に、須惠器は列島に広まった。

 須惠器は青灰色をしており、土師器に比較して硬い、しかし現代の陶器と異なり釉薬を使用しない素焼きである。我々が今でも土鍋を使用するように土師器はその後も煮炊きに利用され、須惠器は祭祀の時の器として先ず利用されたと考えられています。

 今、手元に陶邑窯の発掘資料がありませんが、図書館で数日間読んだ記憶があります。膨大な発掘資料と土器編年の苦労は5世紀以降のヤマト王権の列島拡大を探る上でも重要な発掘成果だったと思います。

 (陶邑と大田田根子)

 陶邑となると、思い起こされるのが大田田根子ですね。崇神さんの御世に疫病が流行し民の半分が死んでしまったという危機がありました。その理由が、三輪山の大物主の祟りであると言われ、探しだしたのが陶邑にいた大物主さんの子孫の大田田根子でした。彼を呼び寄せ、アマテラスさんを宮中から追い出し、大物主さんを祭らせました。アマテラスさんはかわいそうに、転々として最後は伊勢に辿り着くのです。

 さて、陶邑には陶荒田神社というのがありますね、大田田根子と関係がありそうです。Photo_4

  崇神さんの時期には既に、狭山丘陵には渡来系の多分、伽耶系(洛東江流域)のハイテク土器製造集団が移住していたと想定されますね。

 実は陶邑で製造された須惠器は初期のものは朝鮮半島の伽耶の陶質土器と殆ど同じだと判断されている事によります。

 本格的に陶邑で須惠器作りが始まるのは5世紀になるそうですが、三輪山付近の王権が河内に移行した時期と重なるのも謎ではないでしょうか。

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ウイーンからプラハへ自転車の旅

 昨晩、NHKでは若い狂言師と俳優の二人の若者が自転車でウイーンからプラハへ500キロの旅をする番組があった。実に爽やかな風が通過するような、久しぶりに感動する番組だった。自分ももう少し若ければ是非やりたいと思いましたね。日本の若者も捨てたものではないと思いました。

『男自転車 二人旅』

 参考 狂言師 茂山宗彦さんのブログ

 参考 俳優 黄川田将也さんの事務所

Photo_2  美しいボへミアの風景の中を疾走する自転車、茶色い屋根で統一された家々、是非でかけてみたくなりましたね。チェコで狂言を普及している話には驚きましたね。彼らに共感を得るものとは、何なんだろうと、番組が終わるまで考えていました。

 チェコの長いロシアの言論の弾圧に対して人々は言いたい事を云えない時代が長く続いたのかも知れない。オーストリアとの国境の鉄条網には脱走する人々が銃で撃たれて死んでいった。今も、監視塔と鉄条網が残されていた。

 Photo_3 狂言に詳しくはないが、申楽(猿楽)の生まれた背景と関係があるのかも知れないと、番組を観ながら考えていた。農民が寺社仏閣や村の祭りに奉納した即興の芸能であり、滑稽な言葉遊びや風刺が基盤となった芸能だと思うので、その辺りの自由な大衆の声と笑いが彼らチェコの人々の心の底に届いているのかも知れないと感じた。

 映像を観ながら、あれ、自転車のパンクした時の修理道具やポンプが見当たらないし、荷物が少なすぎると思ったが、撮影隊が同行しているので車が別に存在する事で少し、納得した。未だ若い二人だから、荷物は自分で持てと少し、厳しい年寄りの意見も持ちました。

 (若者にどんどん海外に出て欲しい)

 昨年のノルウエー紀行でも書きましたが、日本人の若者を海外で見かけるのが少ないのが気になっています。中国人や韓国人や台湾人は多く見かけるのですが、何故か日本人の若者でリュックを背負った旅人を見かけない。

 海外に出て、人々と話をする事や生活や自然に触れる事で我々の祖国である日本という国がよく見えるようになると思うのですがね。明治の頃から日本人の若者は海外に出掛て良いものを見つけては、それを自国に形を変えて持ち込んだ。否、飛鳥や平城京の時代からそれをしてきた。

 日本という小さな島国で資源もなく、平野が20%しかない国が、豊かで且つ、植民地化されなかった原動力はこの若者が海外のものに興味があるという遺伝子が原動力になっていたと思いますね。

 中国が一番、文化的に栄えたのは唐の長安の時代だと思います、長安には世界中の人々が集まり文化の華が開いた。そして、新しい文化・文明を開化させたと考えています。テレビやインターネットで世界中の情報が入るから出かける必要が無いというのは、私は根本的に違うと考えています。

 海外旅行をすればするほど、日本という国土と民族が素晴らしいと思うのは私だけではありません、だから、必要なんですよね

 参考過去記事 2008年夏 フランス・ノルウエー紀行

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禁野車塚古墳関連メモ(Ⅱ)

 承前 禁野車塚古墳関連メモ

Photo  禁野車塚古墳は前回の記事のメモによれば、箸墓古墳の類似形古墳であり、石材が大阪府柏原市国分の芝山産であるとあり、木津川の椿井大塚古墳も同じだと述べていました。大和王権が奈良盆地東南部の纏向、三輪山山麓に成立した頃に同盟グループであった事を意味している。

 禁野車塚古墳は天野川が淀川に合流する付近にありますが、遡ると肩野物部氏の拠点であり、物部氏の祖であるニギハヤヒさん降臨の磐船神社が存在する場所であります。記紀による神武さんが大和に入る前に既に定着していたと考えられています。

 問題は、木津川の椿井大塚山古墳ですが、私は崇神さんと国内戦最大と呼ばれた戦いをした武埴安・吾田媛連合の勢力であり崇神さんとの敗戦後にヤマト連合に組み入れられたのかも知れないと解釈になります。

Photo_2  箸墓と同じ類似形で築造された古墳に、吉備の浦間茶臼山古墳がありますね。そして、瀬戸内海を東に進み、丁瓢塚古墳がある。三世紀の魏志倭人伝に書かれた投馬国が5万戸を有し吉備と考え、奈良盆地東南部の纏向あたりが邪馬台国とするとそこが7万戸と考えれば箸墓と同じ形の古墳が吉備と纏向に築かれたのが歴史資料を考古学が裏付けた事になります。

 そして、その連合の仲間は北は木津川流域、北河内の肩野物部氏の拠点の天野川に達していたとなります。

 しかし、目と鼻の先の牧野の車塚古墳は類似古墳ではないとすると、淀川の右岸の摂津の領域も初期ヤマト連合国では無かったと言える。淀川水系は初期ヤマト連合国では制海権を握っていなかった事になりますね。淀川から桂川、宇治川経由の琵琶湖の山背の国は初期ヤマト連合国には属していなかったのだろうか。丹後、若狭、日本海ルートも重要な大陸との交易路でした。

 紀元前から繁栄した北九州の奴国や伊都国が後漢が滅ぶ事で交易権を握っていた体制が崩壊し既に、豊かな吉備平野や奈良盆地、河内平野の生産力と巨大化した人口を抱えるこれらの国に敗退したと考えられますね。これが、倭国大乱の実情ではなかったでしょうか。当時の中国王朝が東アジアの秩序を維持していたと考えられます。

  (謎の継体大王の今城塚古墳)

Photo_4  淀川右岸の摂津の高槻に造営された継体大王の今城塚古墳、そして5世紀に築造されたという太田茶臼山古墳が問題です。5世紀に百舌鳥古墳群、古市古墳群を築いた河内王朝の終焉とともに新たに大王に推挙されたのが、河内王朝とは血が繋がらない琵琶湖西岸から越の国を拠点とする、ヲホド王(継体大王)でしたね。

 この背景にも中国王朝の異変が関係していると考えています。南朝べったりだった河内王権は勃興する北朝との交易・交渉が有りませんでした。継体大王の勢力は北朝と交渉出来る何らかのルートを握っていたのではないでしょうか。

 摂津の太田茶臼山古墳や今城塚古墳の近くには、鎌足の墓ではないかと言われる阿武山古墳があります。事実は未だ確定されていませんが、古くから渡来人が多く住む地域であったようです。

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安達太良(あだたら)山を計画する

 今度の秋の爺さん4人組の登山候補地として『安達太良山』を企画している。安達太良山は私の従兄が中の沢温泉で旅館を営んでいるので、子供の頃から山スキーの場所として耳にしていた。中の沢温泉は沼尻温泉と近く登山口の一つである。

 深田久弥さんの百名山にも選ばれており、東北の山としては人気であります。一般の方には『知恵子抄』で有名ですね。東京には本当の空が無い、安達太良山の山の上に広がる空が本当の空だと言う・・・・。この知恵子抄の背景には、多分、古代の万葉集に掲載された安達太良山の三首の恋歌が関係していると思いますね。

 参考 万葉集と安達太良山

 安達太良山は活火山ですね、気をつけないと亜硫酸ガスで亡くなった登山客もいますので、安全に登りましょう。

 (一番簡単なルート)

 東京を7時4分の東北新幹線『やまびこ43号』に乗ると、郡山に8時22分に到着する。8時39分発の東北本線に乗り換え9時2分に二本松に到着する。9時28分の二本松発、岳温泉行きバスに乗れば9時53分に岳温泉到着となる。岳温泉から奥岳登山口(ゴンドラ乗り場)まではシャトルバスがあるようです。

 岳温泉→奥岳登山口 時刻表

 10時30分にバスがあるようですね。其れに乗れば奥岳のゴンドラに10時40分頃には乗れそうです。

 (登山ルート)

 参考 安達太良山登山ルート

 これによれば、奥岳登山口Aルートにてゴンドラに乗り(片道900円)薬師岳経由で山頂にたどり着く事が出来ますね。コース時間は1時間30分とあります。山頂で昼飯ですね。

 下山ルートは牛の背経由で奥岳登山口Bルートを採用し登り3時間のルートを逆に下山するルートが面白そうです。勿論、天気が悪ければゴンドラで下山する手もあります。

 宿泊は岳温泉でのんびりしましょう。温泉旅館は沢山ありますね。

 岳温泉旅館一覧

 翌日は『あだたら渓谷遊歩道』でも歩くのもいいと思いますね。そして、帰路に着く。残念ながら、従兄の中の沢温泉の旅館には泊れないコースとなりましたね。

 (閑話休題)

 昨夜、アメリカ駐在8年の川合君の歓迎会を新横浜の『まぐろ問屋 三浦三崎港』で小島先輩と二人でやりました。美味しい魚を仰山食べましたね、自宅の近くにこんなに美味しい安いお店があるとは知りませんでした。是非お勧めですよ。新横浜駅から1分の距離にあります。

 

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禁野車塚(きんやくるまずか)古墳関連メモ 箸墓古墳相似形

 2009年5月早稲田で開催された日本考古学協会第75回総会の研究発表で掲記、枚方の『禁野車塚古墳』に関する研究発表がなされた。関西大学(米田文孝)、京都橘大学(一瀬和夫)、京都府立大学(菱田哲郎)、枚方市文化財研究調査会の4者で発表された。Photo  

 グーグルアース 禁野車塚古墳、牧野車塚古墳

「kinnyakurumazuka.kmz」をダウンロード

 枚方市文化財 禁野車塚古

 禁野車塚古墳は天野川に面した場所で、私の家内が子供の頃に近くに住んでいましたし、私も近距離の招堤村でしたから、馴染みの古墳です。

 自分の地元の古墳の研究発表には興味がより強く湧きますね、さて、どんな発表だったんでしょうか。

 発表論文は『禁野車塚古墳の墳丘測量調査結果』という題目です、目的は1966年に測量したものが1mコンター(等値線)の精度だったので、より詳細な20㎝コンターの精度で再度測量をし直したそうです。2008年8月に平板測量図とトータルステーションによるデジタル3次元測量図の二種類を作成した。平板測量は私も早稲田で教えて貰いました、学生の教育用としては一度は経験しないと駄目なんでしょうね。

 最近は殆どトータルステーションで測量を行うようですね、これも早稲田で教えて貰いました。コンピュータの会社に40年も居た人間としてはこちらの方が馴染み易いですね。

 (測量結果)

 墳丘長120(110)m、後円部径63(57)m、同高9(9.9)m、前方部幅55(40)m、同高3.4(4)mであった。尚括弧内は1966のデータである。墳頂平坦面は径22m、くびれ部は幅25m、同高3mとなる。特徴として

 ・天野川に面する平地に築造されている

 ・墳丘の上半分は盛土でつくられる

 ・墳丘頂は南北方向の楕円形で下に主体部の存在を想定

 ・後円部は西側前方部に尖る卵形を呈する

 ・後円部からくびれ部にかけて明瞭なスロープがある

 ・後円部裾はくびれ部付近で正円形から外側に外れ、明瞭に屈曲せずに前方部へゆるやかに続く。

 ・前方部の幅がくびれ部で最も狭くならず、その部分はくびれ部より前方部前面側による。

 ・前方部側辺は内側にゆるく弧状を呈し、総じて細長い撥形の前方部となる

 (結論)

 ・墳丘の各部数値と墳丘の特徴によりことごとく、兵庫県姫路市の丁瓢塚(よろひさごつか)古墳と一致する。この古墳は箸墓古墳の平面プランを縮小した相似墳と認められている。『参考 丁瓢塚古墳1その2』 

 ・禁野車塚古墳は箸墓古墳の類似墳として考えられ、河内の中では数が極めて限られる最も早くに築造された古墳の一つである。

 ・現状では二段築造とみられるが、墳丘裾の位置状況から2.4mの高さの段がその下に存在する可能性が高い。築造時期は4世紀初頭か3世紀代に収まる可能性が高い。

 ・古墳周辺で板石が見つかり、橄欖石(かんらんせき)安山岩で大阪府柏原市国分の芝山産といわれる。箸墓古墳や黒塚古墳なんどの大和東南部、産地付近の柏原市松岳山・玉手山古墳群などの前期古墳に集中する。この他の地域で使用されるのは、木津川の椿井大塚山古墳、兵庫県神戸市西求女塚古墳などに限られる。Photo_2

 ・一方、北にある牧野車塚古墳の葺石の石材は徳島県吉野川流域産の結晶片岩、紅簾石片岩、兵庫県猪名川流域の石英斑岩、大坂府春日山産の輝石安山岩である。これは、淀川水系右岸の前期古墳と共通する。しかし、禁野車塚古墳と木津川の椿井大塚山古墳の石材は異質である。

 ・芝山と大和東南部の強い繋がりを考えると、禁野車塚古墳への石材輸送は、大和川を上り富尾川を経由し天野川を下るルートが想定される。

 ・牧野車塚古墳は淀川から眺望出来るが、禁野車塚古墳は淀川に流れ込む天野川下流のごく限られた地域のみからしか見えない。しかし、天野川を通過する時は必ず出くわす古墳である。

 ・淀川水系には日本の古代国家成立の実態を解明する上で欠かせない重要な初期古墳群が存在するという事が言える。

参考 丁瓢塚古墳「hisagotsuka.kmz」をダウンロード

参考 西求女塚古墳「nishiotometsuka.kmz」をダウンロード

参考 過去記事 物部氏の故郷

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2009年 赤とんぼ夏合宿報告(おわりに)

  Ysさんから映像が届きました。
IMGP1579: オリジナルサイズで見るにはここをクリック 私の複葉機が飛んでいますね。32SXのエンジンを搭載していますが、機体が重いです。
IMGP1567: オリジナルサイズで見るにはここをクリック
 
IMGP1567
掲載日: 2009年8月4日  - 解像度: 横480 × 縦380
   |   オリジナルサイズ: 197 KB
 山小屋管理人のプレーリー機ですね、25年以上前の機体ですよ。元気に飛んでいます。
IMGP1555: オリジナルサイズで見るにはここをクリック
 私のアルバムにも登場していましたが、あまがえるです。小屋の傍に居ましたね。
IMGP1547: オリジナルサイズで見るにはここをクリック
 岩ちゃんのヘリ『アミーゴ』を見守る人々です。
090801_1: オリジナルサイズで見るにはここをクリック
 栂池スキー場の空撮映像です。
 Ysさん、映像有難うございました。是非、暇な人はYsさんのアルバムを観て下さい。
 
 さて、合宿でしたが、
 天気は午前中だけが何とか持ち、午後は雨、夜半は豪雨という毎日でした。朝5時起床というハードなスケジュールでしたが、空撮への挑戦という事で随分と盛り上がった合宿となった。
ビデオ搭載前にテスト飛行 私は、フラミンゴ機が二回目の飛行で離陸時に墜落し大破したが、もう一機の複葉機は何とか無事に飛行を終えた。自分の飛行機の写真を撮るのを忘れていましたね。わこちゃんは三機とも最後は墜落するという残念な結果でしたが、直ぐに蘇ると思います。
スピードがでる機体でしょうね 清ちゃんのこの飛行機も二日目に墜落大破しました。全部で6機程度墜落大破だったと記憶しています。
岩ちゃん『ハミングリーフ機』 岩ちゃんのボロ飛行機『ハミングリーフ』はしぶとく、無事でしたね。
料理は殆どが、わこちゃん担当でした。毎回、腕が上がっているようです。私は、青唐辛子の中身を出さずにチリメンジャコと煮てしまい、大失敗しましたね。料理をやり直すという失態でした。
 次回は秋合宿です、11月下旬になるでしょうね。紅葉に燃える白馬の里と真白な雪を被る白馬連山の美しさが楽しみです。それでは、次回の合宿もお楽しみに。

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2009年 赤とんぼ夏合宿報告(2)

早朝6時前、虹です 二日目は朝5時起床です、朝飯前にフライトをしようという事になりました。朝5時40分頃には栂池のスキー場に到着していました。虹がかかっていましたね。
可愛いいミニ豚バス 可愛いいミニ豚バス機、わこちゃんの飛行機を千葉のラジコン親父が操縦しました。難しい飛行機のようでしたが、何とか飛行し最後は電波が届かず、墜落しました。
抜群の飛行性能ですね Ysさんの、オールドタイマーの電動複葉機です、30年ものではないでしょうか。これは、飛行性能が抜群に良かったですね、流石です。
夏のゲレンデ 夏の栂池スキー場は所々で、お花が一杯咲いていますよ。岩岳スキー場ではゲレンデがユリ園に大変貌しています。お陰で、夜はユリの強い香りが山小屋を取り囲み驚きでしたね。
見事な工作ではないですか これが、プロの腕が作り上げた飛行機ですよ。ラジコン歴40年のYsさんの作品です。左端の汚いボロ飛行機は岩ちゃんの30年前の『ハミングリーフ機』(笑)
これが、良く飛ぶのです これ、岩ちゃんのボロ機ですが、ロッドを曲げるのはあまり良くないと指摘されていました。
白馬岳と栂池の里 栂池の里の夕方の景色です、白馬岳に夕日に映えています。
白馬岳と栂池の里 同じ場所からの映像です、美しい里ですね。
謎の花 この植物が数年前から山小屋の周りに沢山咲き始めました。謎の植物です、誰か判る人おられませんかね。
ゆりの岩岳 岩岳は最近の夏はユリの花と紫陽花の花が満開です。
管理人とちんぐるま 山小屋管理人です、今回は体調がも一つでしたね、次回までに元気になりましょう。
山小屋を空撮するYsさん 山小屋を空撮する為にYsさんが、岩岳スキー場の駐車場から飛行機を離陸させ、上空撮影をあっという間にされましたね。まるで、忍者のようでした。
090802_12  ちんぐるまの空撮映像です、森に隠れています。
 Ysさんが撮影されました。

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2009年度 赤とんぼ夏合宿報告(1)

20097iwatake_090  2009年度、赤とんぼ夏合宿は7月31日から8月2日にかけて二泊三日の恒例『ちんぐるま』で開催された。

 飛行場所は、栂池スキー場でした。幸い二日間、フライトが可能な時間帯があり、無事に三機による空撮と地上からのビデオカメラ3台での撮影も成功でした。

 今回から千葉のラジコン親父がハイビジョンのビデオカメラで撮影に参画される事になった。

 マイフォト 2009年度(赤とんぼ31周年記念)夏合宿模様

 今回、空撮に挑戦したのは、三機でした。

折りぺラ仕様 さて飛ぶか かっちんの『スカイローバ機』と
胴体右側から撮影します わこちゃんの自作モータグライダー機
機首部にカメラを搭載 Ysさんの30年前の飛行機の合計三機でした。
 私も挑戦しようと思ったのですが、電池充電用のコネクターを紛失し、自宅で探したが見つからず、今回は断念しました。
 地上から、かっちんのビデオ、私のビデオ、千葉のラジコン親父のハイビジョンカメラ三台のカメラで空撮機と連動して撮影する事になりました。
可憐ですね 綺麗な花が咲き乱れる、夏の栂池スキー場です。時折顔を出す、白馬岳と鹿島槍の後立山連峰のアルプス。吹き上げる風も爽やかでしたね。
栂池スキー場に集まる爺さん連中 初日は朝6時過ぎに横浜を出て、10時半には栂池に到着してフライトを開始するという迅速な行動でした。
スピードがでる機体でしょうね 初日はともかく、午後までおにぎりを食べながらフライトに頑張りました。

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無事2009年度 赤とんぼ夏合宿は終了

20097iwatake_073  夕日に映える白馬岳です、この風景のように素晴らしい三日間の夏合宿は終わりました。

 7月31日早朝6時20分にわこちゃん、かっちんと一路白馬村の岩岳の山小屋、ちんぐるまを目指した。

 雨模様でしたが、31日の朝11時頃から夕方まで、翌日の早朝5時起きでの朝飯前のフライト、そして再度、朝食後のフライトと堪能できました。

 今回は、三機の飛行機にビデオカメラを搭載し、地上からは同時に三台のビデオカメラを回すという本格的な空撮の実験でした。大成功を収め、閉幕となりました。

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