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今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (2)

承前 今城塚古墳 ヲホド王(継体天皇)を考える (1)

 その(1)では白石先生の見解を紹介しましたが、今回は歴史学者の和田萃先生の見解をご紹介しましょう。

 (和田萃(あつむ)先生の見解 二人のホド王)

 この見解は『継体天皇の時代 吉川弘文館2008年7月』の和田萃先生の講演録からメモを作成したものであり、詳細は本を読んで下さい。ISBN978-4-642-07988-4

 ・ 継体天皇の名前は男大迹(ヲホド)王である。曾祖父は大郎子(おほいらっこ)であり、オホホド王とも呼ばれていた。

 ・ワヰウヱヲの「ヲ」は、小さいという意味であり、「オホ」はアイウエオの「オ」を使い「オホ」とは大きいという意味である。だから、曾祖父の大郎子はオホホド王であり、継体はヲホド王となる。二人とも、ホドという名前を共通にしているが、「ほど(火床)」炉の燃焼室、鍛造用の炉の意味と考えられる。製鉄に関わる人である事が判ります。

 ・「オホホド」「ヲホド」が対になり継体即位の背景を解く鍵がそこに存在すると考える。

 ・日本書紀によれば、継体天皇は誉田(ほむだ)天皇即ち、応神天皇の五世の孫と記録されている。しかし、『釈日本紀』には『上宮記』の引用として継体天皇は凡牟都和希(ホムツワケ)王の五世の孫となっている。

 ・ホムツワケ王というのは垂仁(すいにん)天皇の皇子ですが、生まれつき物がが言えなかったと言われ、出雲の大神の祟りだと言われていた。そうすると、継体天皇は垂仁天皇の六世孫という事になる。しかし『上宮記』によれば、継体天皇の母の記述に於いて、布利比賣(ふりひめ)は垂仁天皇の七世孫と書かれており、継体天皇は垂仁天皇の八世孫となり矛盾が起こる。従い、日本書紀の記述である、応神天皇の五世孫とする方が筋は通ると考える。

 ・但し、記紀の記述であるホムツワケ王を垂仁天皇の皇子であるという点を外すとホムツワケ王の五世の孫という記述はそれなりに筋が通るのである。この背景は記紀の王統譜が継体天皇の時代よりも後、欽明天皇の時代に作成された事と関係がある、継体天皇が即位した6世紀初めの頃はホムツワケ王五世の孫だったのが、欽明天皇の時代にホムツワケ王が垂仁天皇の皇子として記録され、継体天皇はホムダワケ(応神天皇)の五世の孫となったのではないかと推測される。

 ・記紀では武烈天皇が身罷られたあと、子孫が無く(これが不思議な事です)最初は仲哀天皇の五世の孫である、丹波国桑田郡、現在の京都府亀岡市に居られた、倭彦(やまとひこ)王をヤマトの大王にしようとしたと記録されている。当時、北摂津の地に三嶋県(あがた)が設置されていたように、亀岡市域に桑田県(あがた)が設置されていた。(桑田郡に式内社の三県(みあがた)神社がある。

 ・倭彦王は実在の人物であった可能性が高い、その理由は、この時期に築かれた千歳車塚古墳(全長79メータの前方後円墳が亀岡の地に存在する)が存在し、埴輪は継体天皇の陵墓と考えられる三島の今城塚古墳に供給した埴輪窯(新池埴輪窯)から供給されたと遺物は語る。しかし、何らかの理由で倭彦王は即位しなかった。

参考グーグルアース 千歳車塚古墳(倭彦王)

「chitosekurumatsuka.kmz」をダウンロード

 ・武烈天皇の崩御後、血筋が濃い方と言えば、応神天皇五世の孫の継体天皇の方であり何故、最初に仲哀天皇五世の孫と呼ばれる倭彦王が選択肢となったかは、欽明天皇の時代にヤマトタケル伝承が確立し、そのその子が仲哀天皇だったので、このような選択順序になったのではないかと、和田さんは考えておられるようです。

 ・記紀によれば、継体天皇を担ぎだしたのは、大伴大連(おおむらじ)金村だとされている。継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳からは九州熊本から運ばれたと考えられる阿蘇溶結凝灰岩(馬門石まかどいし)で出来た石棺の破片が発掘により出土している。雄略朝の時代から武烈朝の時代まで朝鮮半島との交渉、中国との交渉を担当していたのは、大伴大連室屋(むろや)だった。水軍としては、紀氏が担っていたと考えられる。紀氏は大伴氏と本拠地を接し、泉南から和歌山にかけての一帯を勢力基盤とした倭国水軍の中核をなしていた。

 ・継体天皇擁立時は室屋の孫の金村が権力の中枢にいたと考えられる。

 ・継体天皇の勢力基盤は、父の彦主王(ひこうしおう)が近江の息長王家の出身であり、琵琶湖西岸の近江国高嶋郡の三尾、現在の高島市今津あたり、そして、琵琶湖の水運を握り、息長氏の本拠地である近江国坂田郡、現在の米原市から長浜市あたりで湖東から美濃や尾張に通じる陸運の要衝を抑えていた。

 ・継体さんの、おばあさんは美濃の出身ですので、美濃も勢力範囲と考えられる。お母さんの振媛(ふりひめ)は越前の三国国造(こくぞう)家の出身と考えられ九頭竜川の水運、若狭に至る日本海の海運も掌握していたと思う。そして、継体さんの妃となった女性の出身氏族も継体さんの勢力基盤と考えられる。特に、尾張連(むらじ)草香女目子媛は安閑天皇、宣化天皇を産んでいる。

 ・息長氏の本拠地(米原、長浜)から関が原を越え、尾張へのルートを確保し美濃の金生山(きんしょうざん)という赤鉄鉱の一大産地を尾張氏と息長氏は押さえていたと考えられる。純度の高い鉄鉱石であるが若干、ヒ素を含んでいるので当時の鉄製品の遺物からこの山で産出した鉄鉱石を利用している分布が判るそうだ。5世紀中葉からこの鉱山で産出した鉄をヤマト王権では本格的に利用しはじめたという。(jo注:これが倭国での本格的な鉄鉱石から鉄を作り始め、伽耶諸国の鉄に依存する体質から脱皮し、半島政策の変化がここに起こった)。参考 グーグルアース 金生山(きんしょうざん)

「kinsyouzan.kmz」をダウンロード

 ・息長王家は大和の忍坂(おしさか)=桜井市忍阪(おっさか)にも拠点を持っており、息長氏出身の忍坂大中姫(おおなかつひめ)が忍坂宮に居を構えていた事や大規模な製鉄遺跡がみつかっています。参考 グーグルアース 桜井市忍阪(忍坂製鉄遺跡)

「otsusakaiseki.kmz」をダウンロード 参考過去記事 古代河内の生産拠点

 ・忍坂大中姫は継体天皇の曾祖父のオホホド王の妹にあたり、允恭(いんぎょう)天皇の皇后になった女性です。そして、安康(あんこう)、雄略天皇を産んでいます。従いその時に5世紀中葉にはオホホド王の家は王家となったと考えられる。

 ・和歌山県橋本市隅田に鎮座する隅田八幡宮に伝えられる人物画像鏡の銘文に見える、『男弟王(だいていおう)』はオホホド王を指していると考える。橋本市の陵山(りょうざん)古墳から出土した鏡であると考えている。参考 グーグル隅田八幡宮

「sudahachiman.kmz」をダウンロード

 ・北摂の三島に5世紀に築造された太田茶臼山古墳は継体天皇の曾祖父のオホホド王であると考える。三嶋の神は『和多志の大神(わたしのおおかみ)』と呼ばれ仁徳朝に百済から渡来した人々が『御嶋』に顕現し後に、伊予の御島(大三島)にも祀られるようになったと『伊予国風土記』にあるようです。淀川右岸の今城塚、太田茶臼山古墳がある場所は淀川水系を使用し百済とも繋がっていたのですね。

参考過去記事 白鬚神社(1) 白鬚神社(2) 鴨稲荷山古墳

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