オオヤマト古墳群と古代王権 その1
2004年7月23日第一版が青木書店より発行された『オオヤマト古墳群と古代王権』を読んだ感想をメモしておきます。奈良盆地の東縁天理市南部から桜井市にかけての山麓部には古墳時代前期の大型前方後円墳が40数基密集し、日本の古代王権誕生の場所と考えられています。この古墳群は北から「大和(おおやまと)古墳群」、「柳本古墳群」、「箸中(纏向)古墳群」というように別々に呼称されてきた。総称する場合は「奈良盆地東南部の古墳群」と呼ぶしかなかった。
従来の大和神社の周辺に位置する萱生・佐保庄地区の古墳群を指す狭義の「大和(おおやまと)古墳群」に対して南の桜井市の南部の山麓部まで広がる古墳群をカタカナ表記で「オオヤマト古墳群」と仮称する。「山の辺の道古墳群」と呼ぶ人もいますね。
白石太一郎先生の論文『オオヤマト古墳群と初期ヤマト王権』を少しご紹介します。
・西日本に於ける出現期古墳の分布を見ると、巨大古墳は殆どオオヤマト古墳群に集中している。箸墓の1/2の規模の吉備の浦間茶臼山古墳、豊前の120メータ級の石塚山古墳、そして小さな前方後円墳が瀬戸内海から玄界灘にかけて出現している。それらは、前方後円墳であり、埋葬施設も同じで竪穴式石室であり、副葬品は呪術的性格の強い三角縁神獣鏡が中心である。
・この事はオオヤマト古墳群を中心に瀬戸内海沿岸から玄界灘沿岸までの各地の首長が政治的に連合が出来ていたという証拠である。その時期は最近の研究成果を踏まえると3世紀の半ば過ぎと考えられる。三角縁神獣鏡の研究が進み、第1段階から第4段階まで分類が可能となり、第1段階は景初3年(239年)とすると、三角縁神獣鏡の断面変化を考えると第3段階は260年前後と考えられる。
・何故広域の政治連合が出来たのか、その理由は朝鮮半島の鉄資源の安定輸入の為だと考える。弥生時代2世紀までは北九州の伊都国や奴国が独占していた朝鮮半島の鉄輸入をオオヤマト古墳群を中心に広域連合が生まれ玄界灘の諸国と戦争により、奪取したと考える。それは、古墳時代以前は中国鏡は北部九州を中心に分布していたが、古墳時代の始まりよりヤマトを中心に分布する事からも立証できる。
・又、土器を見ると纏向には瀬戸内海、山陰、北陸、東海の土器が多量に発掘されるが、北部九州の土器は出てこない。逆に北部九州からからは吉備やヤマトや出雲の土器が出土するのである。北部九州の勢力がヤマトに東遷したのであれば、九州の土器がヤマトで発掘される筈であり、東遷は存在しなかった。
・ヤマト中心に分布する鏡で最古のものは画文帯神獣鏡であり、後漢の終わりから三国時代に作られた。三世紀の初めである。北部九州と近畿・瀬戸内連合との戦争は3世紀初めの頃と想定する。(jo君コメント:文献史学から言うと『後漢書』記述から倭国大乱は西暦147年から188年、『梁書』によれば漢の霊帝の光和中で178年から183年となる)。考古学の立場では、画文帯神獣鏡の年代から3世紀初めとなる。
・広域の政治連合を成し遂げた指導者が死んだのが3世紀半ば前方後円墳を築造始めたと考える。出来上がった体制を維持する為に体制整備の一環として古墳作りが始まったのではないか。各地の首長は連合の中での地位により身分相応の古墳を築いたと考える。
・しかし、この連合が生まれた頃は濃尾平野を中心とする東国には前方後方墳が依然として続いており、古墳時代前期中葉にならねば、前方後円墳が出現しない。オオヤマト古墳群連合とは異なる勢力が存在した。魏志倭人伝に述べる狗奴国と邪馬台国の戦争記述は濃尾平野を中心とする東国連合とオオヤマト古墳群を中心とする西日本連合の戦争ではないかと考える。そして、東国連合は最後に敗れると考える。(jo君コメント:私は山背の木津川水系から淀川、琵琶湖、日本海を抑えていた椿井大塚山古墳のタケハニヤスと吾田隼人の吾田媛連合と考えています)。
(オオヤマト巨大前方後円墳の分析)
・巨大古墳を年代順に並べると①箸墓古墳(280メータ)②西殿塚古墳(240メータ)③桜井(外山)茶臼山古墳(208メータ)④メスリ山古墳(250メータ)⑤行燈山古墳(240メータ)⑥渋谷向山古墳(310メータ)の順である。これらは箸墓に始まる初期の6代の倭国王墓と考える。奈良盆地東南部の4つの地域の政治集団から交互に倭国王となったと考える。
・畿内に於ける出現期の古墳分布で考えると、邪馬台国は奈良盆地東南部の大和川水系から葛城地方、和泉・河内地方である。高槻市付近の三島野古墳群には墳丘120メータの大型前方後円墳である弁天山A一号墳があり、淀川南岸の北河内には100メータ程度の前方後円墳である森一号墳、桂川流域の乙訓の地には100メータ級の元稲荷古墳、木津川上流には180メータ級の三角縁神獣鏡を中心に36面も出土した椿井大塚山古墳が存在する。北の淀川水系と南の大和川水系では異なる政治集団が存在したと考える。
(箸墓古墳の問題)
・造営時期は出現期古墳の年代観より260年前後である。『魏志倭人伝』で述べる邪馬台国王である卑弥呼の死247年かその直後が正しいとすれば、箸墓古墳は卑弥呼の墓である可能性は極めて高い。『日本書紀』に述べる箸墓と巫女さんのヤマトトトビモモソヒメの物語を読めば『魏志倭人伝』の卑弥呼像に極めて近い。
・卑弥呼の後継者壱与の墓は、二代目倭国王ですからオオヤマト古墳群の二番目に古い大王級古墳を考えると、西殿塚古墳となる。(jo君コメント:現在宮内庁は継体天皇の奥さん手白香皇女衾田陵としているが、時代が合わない。崇神天皇陵という説もあるようです。)
・その理由として、西殿塚古墳の宮内庁測量図を見ると後円部墳頂に20メータ四方の高さ2メータの方形土壇が存在し、且つ、前方部にも同じような土壇が存在する。この時代呪術を司る巫女と軍事・行政を司る巫女さんの兄弟で国を治める国の形が普通であったという。その事例は沢山あるようで、前方後円墳に二人の埋葬設備があり副葬品も全く異なる二種類だという。どちらかに壱与が葬られ、片方に男兄弟で軍事・行政を担当した人物が埋葬されていると考える。
・三代目の桜井茶臼山古墳と四代目のメスリ山古墳の場合は埋葬施設は後円部に一基しか存在せず、呪術面の副葬品や同時に多量の武器・武具も副葬されているので、おそらく男王で政治的・軍事的王であると同時に宗教的・呪術的役割も併せて担っていた。
私の感想ですが、ヤマト王権誕生の連合国の誕生は先生が指摘されているように、朝鮮半島、特に洛東江流域の鉄資源の確保が原因と考えていました。更に、詳細に見ると漢王朝が朝鮮半島を含む東アジアの秩序を制御していた頃は奴国や伊都国という玄界灘沿岸の諸国が漢王朝の後ろ盾があるから独占出来たと考えます。
しかし、漢王朝が崩壊し東アジアの秩序が崩壊すると玄界灘沿岸の諸国は後ろ盾を失い、弱肉強食の激しい鉄獲得を巡る争いが列島内で勃発したのでしょうね。それと、朝鮮半島の洛東江流域の弁韓諸国に於いても、秩序ある鉄生産・販売の為の軍事力が必要になったと考えます。彼らの要求に応えるには、大きな軍事力と統一的な政治結集が無ければ朝鮮半島でビジネスが出来ない状況が生まれたと考えています。
漢王朝崩壊による東アジアの秩序崩壊の原因が列島内の新たな政治体制を作りだしたと考えるのが素直な考えであると思います。日本は古代から国際政治の動乱で国の形が変化してきた歴史は卑弥呼さんの時代からスタートしたんですね。
さて、このオオヤマト古墳群を含む地域を世界遺産に登録しようという運動があります。このシンポジウムも背景に歴史遺産の保存と活用という考えから行われているようです。我が国の発祥の地であるこの歴史的遺産をどうすれば、良いのか次回考えたいです。
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- エゾライチョウとクマゲラを見る旅 総括編(2018.07.09)
- 2018年春の渡りの飛島 総括編(2018.07.09)
- 南ゴビ砂漠探鳥紀行(2018年6月15日~20日) 総括(2018.07.06)
- 2017年 春の渡りの飛島記録(2018.05.15)
- 豪州鳥見紀行 ケアンズ・エアーズロック・シドニー チエックリスト(2018.02.21)
Comments