オオヤマト古墳群と古代王権 その2 ヤマトの古道
奈良盆地はすり鉢状の土地で、弥生時代以前には満々と水を蓄えていたと考えられている。
そして、その後徐々に水が引き弥生時代には唐古・鍵遺跡あたりでは大規模な水稲栽培が始まり大きな集落が形成され始めた。
そういう意味で、一番古くから作られた古道と言えば、三輪山をはじめ南北に形成された山麓を南北に走る山の辺の道と河内に通じる竹の内街道に繋がる横大路ではないかと思います。
清水眞一先生の話によれば、この山の辺の道の古代は今のように山麓をクネクネ縫うような道ではなく、一直線であったという。大陸との交易の大動脈の大和川の港である現在の磐余、海石榴市(つばいち)から纏向遺跡の山手を通過し物部氏の布留の地に通じ山背方面に通じる重要なルートであった。清水先生の桜井市教育委員会時代に発掘した成果として、珠城山2号墳と3号墳の間を山の辺の道は北上していたという。
古墳の聖なる領域と道の結界に南北一直線に円筒埴輪が建つており、楯を持った武人埴輪が道行く人々を威圧して佇んでいたと仰っていますね。ヤマト王権誕生のオオヤマト古墳群を貫く山の辺の道は軍事用としても馬が全速力で走れるように直線であったという。地道な発掘により古代の真の姿が浮かび上がってくるんですね。
上つ道はどうでしょうか。北の物部氏の本拠地で物部氏の族長が眠るとされる西山古墳&塚穴山古墳と初代オオヤマト古墳群の大王である箸墓を直線で結んでいる。
現在は伊勢街道、長谷街道と呼ばれています。
この上つ道から西に4里間隔で中つ道、下つ道が幅20メータの直線街道が南北に延びている。7世紀の半ば頃には出来上がっていたろうと考えられています。
中つ道は北では平城京の東京極を形成し、南では藤原京の東京極を形成している。下つ道は南は藤原京の西京極を形成し、そのまま北上して平城京の朱雀大路となります。三輪山山麓で生まれたヤマト王権が平城京の時代までこの奈良盆地を中心に建設された訳ですがこれらの街道は重要な役目を果たしたのですね。
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