竹内街道 シルクロードの終点
最近、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』を読み直しています。理由は箸墓古墳の築造時期が3世紀中葉という歴博の炭素14年代&年輪年代の較正年代補正研究の発表が原因です。何故、考古学者でも歴史学者でも無い司馬さんの意見を求めようとするのか理由は判らない。しかし、子供の時代を竹内街道の竹内集落、長尾集落で過ごされ、田圃でヤジリやダキをひろいながら、日本の国が生まれる頃の神話の時代に思いを馳せた経験がおありです。
考古学者で森浩一先生も百舌鳥古墳群で子供の頃を過ごされ、生まれ育ちの環境が古代の現場で過ごす事が如何に古代の歴史を観る時に重要であるか、私は62年の人生経験で結論として持っています。その理由はその場所で綿綿と人々が暮らして来た歴史があるからです。だから、DNAの何処かに古代の記憶が残されていると思うのですね。
さて、司馬さんの『街道をゆく』のシリーズの中で、大和石上へ、布留の里、海柘榴市、三輪山、葛城山、竹内越、葛城みち、葛城の高丘、一言主神社、高鴨の地を再度読み直してみました。暇がある人は是非一度は読まれる事をお勧めします。司馬さんのヤマト王権の古代の姿が描かれています。
幾つか示唆に富む考えを再度発見しましたね。先ず表題にある竹内街道についてです。彼はこの竹内街道をシルクロードと呼んでいる。堺の百舌鳥古墳群から古市古墳群を東西に貫き、王家の谷を通過して河内と大和をさえぎる峠、竹内峠を越えて葛城の長尾神社に通じる。この竹内峠は北に二上山、南に葛城山、そして金剛山に連なる山を越える。
常識では竹内街道はこのルートで終わりですが、司馬さんは大和高田から畝傍を経由して東に一直線に延びて桜井まで延ばし、磐余の桜井から北に折れ曲がり三輪山山麓を通過し石上神宮に到着する道までを竹内街道と呼んでいる。磐余から東にそのまま延長すると伊勢街道である。3世紀の卑弥呼さんの時代から桓武天皇が平安京を開くまでの期間この道は、陸路として大陸とヤマトを繋いだ道なのですね。
司馬さんは、もし街道も文化遺産に出来るなら特に竹内峠から大和高田に通じる部分だけでも国宝にしてはどうかと提案されていますね。これは難波津に到着した貿易船から陸路でヤマトに通じるルートであり、海路としては河内湖から大和川を遡上し初瀬川から磐余に上陸するルートもありました。
参考までに竹内街道の図を記録されている人がおられますので、掲載しておきます。
脱線しますが、上記参考文献の横大路の断面図を観て気がつかれましたか、すり鉢状になっていて標高差20メータもありますね、そして川が行儀よく北に並行して流れているので、やはり奈良盆地は昔は巨大な湖だった事が判りますね。
大神神社と同じく最古の神社と呼ばれる、石上神宮(いそのかみ)は磯の神ではないかと司馬さんは述べておられます。布留の地ですね、多分湖の近くの高台に神聖な森があったのでしょうね。そして、この奈良盆地には三輪山山麓に出雲と呼ばれるミワ族と葛城山山麓にカモ(鴨)族の二種類が土着していたと述べています。
その土地に外来の最新の大陸の文化・文明を持った集団が侵入してきたのではないかと司馬さんは考えているようですね。しかし、外来の勢力は数は少なく3世紀から6世紀にかけてこのミワ族とカモ族はヤマト王権の核になったと考えておられるようです。
私も崇神さんから三輪王朝はミワ族を中心に三輪山山麓で栄え、そして神功皇后摂政から応神天皇・仁徳天皇さんの河内王朝はカモ族が中核を担っていたと考えています。その理由は河内王朝の歴代大王の奥さんは殆ど葛城氏のカモ族出身であることから判りますよね。その葛城氏のカモ族も雄略天皇により滅ぼされます。
その時に、カモ族は列島各地に四散します、その時に山背地方に移住したのが上賀茂・下賀茂の連中であり既に朝鮮半島からカモ族の一派に組み入れられていた大陸出身(多分に洛東江流域に存在したハイテク集団)の秦氏が山背の葛野を切り開く訳です。カモ族が5世紀に滅ぼされ、再度歴史に浮上するのが桓武天皇の平安遷都であります。
司馬さんの説によれば、カモとはカミだそうで火を使い太占(ふとまに)を行う、例の鹿の肩甲骨を焼いて占う人々ですね。ミワ族の祭祀とは異なる神を崇めていたようです。問題は箸墓の卑弥呼さんの件ですが、司馬さんはあまり興味が無いのか殆ど卑弥呼については語っていません。むしろ、崇神さんと物部氏の石上神宮による奈良盆地の刀狩りに興味があるらしく、石上神宮の武器庫に武器を集めヤマトの治安を維持した話の方が興味があるようでした。
私は、司馬さんと違い大陸の漢王朝が衰退し東アジアの秩序が乱れ、倭国も大乱の時期を100年間も経過し3世紀に卑弥呼という巫女の女王の基に邪馬台国部族連合国家が出来たか、その謎を解きたいと思います。そして、何故8世紀の日本書紀がそれを無視したのかが知りたいです。
私の最近の仮説はその解は、洛東江流域の加羅・伽耶諸国の鉄であると考えています。列島諸国の国々が勝手に洛東江流域から輸入していた鉄挺の入手が困難になる事情が朝鮮半島で生まれたと考えている。カルテルを組まないと輸入できない事情が朝鮮半島で生まれたのではないかと想像します。
その後のヤマト王権が成長するプロセスはまさに、朝鮮半島の鉄の輸入を独占した事により列島の支配領域を広げてゆくのです。しかし、何故部族連合国家の親玉が巫女さんなのかが解明出来ない。
想像をたくましくするならば、日本書紀の箸墓の記述に注目する事で何か解明する手がかりは無いものでしょうかね。この墓は孝霊天皇の娘のヤマトトトビモモソヒメの墓であると述べ古墳築造に関して詳細な記述をしていおり極めて珍しい。彼女は三輪山の神である大物主(大国主)さんと結婚するが蛇だったからびっくりして事故で死んだという。
そして、弟は吉備津彦ですから当時の邪馬台国時代5万戸を擁するヤマトに匹敵する最大の国が吉備ですから(投馬国が吉備だという前提)政治は弟が助けたという魏志倭人伝が納得できるのですがね。何故、卑弥呼が擁立されたのか依然として闇の中であります。彼女でなければならない理由があるとすれば、彼女なら洛東江流域の鉄を供給する連中が言う事を聞いたと考える以外余地が無い。
では、何故、洛東江流域の加羅・伽耶の人々が彼女なら無条件に貿易をするという理由を見つけなければならない。何でしょねこれからの課題です。トンデモ説を考えるとすれば、彼女の父は高霊(コリョン)=大伽耶の王ではなかったか。そう考えると、実利主体の倭国の連合は安心して鉄の輸入が出来るとなれば、彼女を推挙したと考えられませんかね。
実は、彼女は楽浪郡の故地を乗っ取った公孫氏が魏に滅ぼされると翌年には使者を魏に派遣してる国際感覚の優れた政治家なんですよね、朝鮮半島の情勢が刻々と耳に入らないと判断出来ない所業です、如何に朝鮮半島と大陸の政治情勢に通じていたかですよね。
尊敬する司馬さんの格調高い話から、最後は私のうさんくさい話になり申し訳ありませんでした。葛城のカモ族とその後の葛城については、又、次回、司馬さんの話をお伝えしたいと思います。
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