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文化財の保存と活用 あれこれ(1)

 そろそろ、大学でのレポートの季節となりました。課題では『文化財の保存と活用』が与えられています。私なりに、この課題について、少し考えてみたいと思います。今まで、文化財の保存については専門家の人々が活躍され、世界でも最高のレベルにあると考えております。私は、文化財の活用について考えてみたいと思います。

 以下、現実の話では有りません、将来はこうしたいというjo君の近未来の構想です。

 (地域まるごとデジタル博物館構想)

 ・遺跡に手を加えず、破壊せずに古代からの我々の先祖が夢を持ち、考え、悩み、力を合わせて作りあげてきた人々の営みの知恵と精神を地元の小学生から老人に至るまでが協力して電子空間上にコンテンツを作り上げるシステムについて少し、考えてみたいと思います。

 ・ポイントは各地の博物館や郷土資料館や地域の学校や多くの地域の引退された団塊の世代を中心に地域デジタルアーカイブ放送局が出来ないかという考えです。最新の携帯電話の著しい進化とGPS機能、映像処理技術、ワンセグの普及、無線の高速大容量化等々の電子インフラ技術を背景に何か出来るのではないかと考えています。

 ・協力者が必要ですね、NHKは過去に膨大な文化財に関する映像を保持しています、特集ではCGを駆使した映像も作成し且つ歴史上の事件の再現のビデオ映像も持っていますし、教育テレビでは高校教育レベルの歴史・文学・社会等々の教材を持っておられます。膨大な国民のお金で作り上げられたデジタル文化財と考えています。

 ・さて、この前京都の友人と訪れた桜井茶臼山古墳と、纏向遺跡の旅を未来はこうしたいという構想を具体的に考えてみます。

  (歴史カーナビ装置)

 ・私の友人の、京都の老大学教授は変わった人で彼の愛車のカーナビには時代ボタンが付いています。近鉄桜井駅で乗り込んだ私を驚かせたのは、彼がカーナビの時代ボタンを古墳時代と設定しました。すると画面には3世紀から4世紀の邪馬台国時代の画面が登場したのです。桜井茶臼山古墳と入力すると画面は現在の道路で目的地までのルートを表示してくれます。

 ・彼にこの地図は誰が作成したのかと尋ねると、地元の小学生達が作ったという。現代のカーナビの地図はベトナムはハノイの人々が安い労賃で行った事もない異国の地図をひたすら入力したものなのだ。ソフト技術者の現役引退した桜井の某氏が地元桜井の小学校と中学の生徒達を指導し、作り上げた地図らしい。

 ・Muさん、この原理はどうなっているのか尋ねると、最新の携帯電話のワンセグを利用して地元の桜井市役所の文化財保護のパソコンから伝送されているそうだ。言語ボタンで英語・中国語・韓国語でも表示されるのには驚いた。Joさん此処は、ヤマト王権誕生の場所やで、最新のハイテク技術を駆使して日本の輝かしい歴史の復元を地元の人々が頑張っているんや、という話らしい。

 (携帯電話による歴史説明)

 ・桜井茶臼山古墳に到着しました。彼は、携帯電話を取り出し、遺跡チャンネルを選択して押すと画面にはワンセグ方式で桜井茶臼山古墳の解説が始まりました。移動する度に説明が変化しています、どうやら搭載されているGPS機能で我々の位置を放送局側では認識しているようだ。道を間違えると、関西弁で『そっちと、ちゃうで~~』と音声が返ってきた。

 ・ヘルプボタンを押すと、何と現在発掘中の橿原考古学研究所の某氏が『何方か知らんけど、今、発掘中やから勝手に後円部から登ったらアカンで~と言う。前方部にまわり足元気をつけて登りや~と返答』。ともあれ、古墳全体が見える場所に移動して、ブログ用の記念写真を撮影しようとすると、携帯電話で古墳時代のボタンを押すと、何と背景が築造された頃の背景が登場し、墳頂上には玉垣があり埴輪で囲まれた当時の古墳が出現し、その背景で私の記念写真を撮影できました。

 (歴史ヘルメットを借りる)

 ・近くに観光案内の茶店があり、Muの旦那は私を連れて入り、彼は妙なヘルメット搭載型デイスプレイシステムを借りてきた。このヘルメットを被り後円部の墳頂部から眺めると素晴らしい光景が映りだされて来た。古墳時代の磐余の風景が出現したのだ、大和川の金谷の港の風景が現れ、海石榴市の賑やかな市場の風景が映りだされている。

 ・山の辺の道や上つ道が一直線で北に伸び、上つ道は箸墓古墳を貫いている。箸墓古墳の築造映像のメニューが画面上にでたので、クリックすると数万人の人々が延々と二上山まで列を作り葺き石を手渡しで運んでいるではないか。歌を歌いながら女王の死を悼んでいる様子である。

 ・これらの情報は必要があれば、私のインターネットアドレスに送付され、後日、録画を自宅の大型テレビで見れるし、ブログのネタ資料としても利用できるらしい。

 (野外資料館のサービス)

 ・車に搭載していたノートパソコンを持参して纏向石塚古墳の傍で二人は腰を下ろした。この古墳の発掘の歴史に興味が涌いたので、無線ランでアクセスすると桜井市教育委員会のデータベースと橿原考古学研究所のデジタルデータにアクセスが出来ました。学術的な過去のデータが呼び出せ、先輩諸氏の発掘の歴史を学ぶ事も出来ました。

 ・遺跡探訪の感想と映像を撮影し、二人の旅人の会話映像を纏向遺跡地域データベースに感謝の気持ちで、登録しておきました。

 (同時通訳装置で外人と話す)

 ・遺跡には中国・韓国からの旅行客が沢山訪れておられました。高速無線ランインターネットを使用し、翻訳ソフトを利用しながら中国、韓国の人と片言ながらも文字入力を変換しながら会話が出来ました。もうすぐ、会話そのものが同時に通訳されるサービスが実現するかも知れない。

 ・日本という国が如何に、古代に於いて、中国・韓国の人々と深い関わりがあったのかを遺跡を見学する事で相互に理解しあえる場の提供であるのか、改めて感じる旅でありました。

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オオヤマト古墳群と古代王権 その2 ヤマトの古道

Photo  奈良盆地はすり鉢状の土地で、弥生時代以前には満々と水を蓄えていたと考えられている。

 そして、その後徐々に水が引き弥生時代には唐古・鍵遺跡あたりでは大規模な水稲栽培が始まり大きな集落が形成され始めた。

 そういう意味で、一番古くから作られた古道と言えば、三輪山をはじめ南北に形成された山麓を南北に走る山の辺の道と河内に通じる竹の内街道に繋がる横大路ではないかと思います。

 清水眞一先生の話によれば、この山の辺の道の古代は今のように山麓をクネクネ縫うような道ではなく、一直線であったという。大陸との交易の大動脈の大和川の港である現在の磐余、海石榴市(つばいち)から纏向遺跡の山手を通過し物部氏の布留の地に通じ山背方面に通じる重要なルートであった。清水先生の桜井市教育委員会時代に発掘した成果として、珠城山2号墳と3号墳の間を山の辺の道は北上していたという。

 古墳の聖なる領域と道の結界に南北一直線に円筒埴輪が建つており、楯を持った武人埴輪が道行く人々を威圧して佇んでいたと仰っていますね。ヤマト王権誕生のオオヤマト古墳群を貫く山の辺の道は軍事用としても馬が全速力で走れるように直線であったという。地道な発掘により古代の真の姿が浮かび上がってくるんですね。

Photo_2  上つ道はどうでしょうか。北の物部氏の本拠地で物部氏の族長が眠るとされる西山古墳塚穴山古墳と初代オオヤマト古墳群の大王である箸墓を直線で結んでいる。

 現在は伊勢街道、長谷街道と呼ばれています。

 この上つ道から西に4里間隔で中つ道、下つ道が幅20メータの直線街道が南北に延びている。7世紀の半ば頃には出来上がっていたろうと考えられています。

 中つ道は北では平城京の東京極を形成し、南では藤原京の東京極を形成している。下つ道は南は藤原京の西京極を形成し、そのまま北上して平城京の朱雀大路となります。三輪山山麓で生まれたヤマト王権が平城京の時代までこの奈良盆地を中心に建設された訳ですがこれらの街道は重要な役目を果たしたのですね。

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又もや新橋宴会

20096rishirirebun  中国関連のエキスパートの柏原先輩、悠々自適の福永先輩、同期の浦川どん、米川どん、濃いメンバーが集まり鮮魚バーベキュー宴会です。

 楽しい宴会でした。魚の煙が目に沁みる宴会でしたね。

 これからも、楽しい人生を送りましょう。

次回は私以外はゴルフ、宴会は参加します。

 柏原さん、白馬村で秋に栗拾い宜しくお願いします。

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オオヤマト古墳群と古代王権 その1

Photo  2004年7月23日第一版が青木書店より発行された『オオヤマト古墳群と古代王権』を読んだ感想をメモしておきます。奈良盆地の東縁天理市南部から桜井市にかけての山麓部には古墳時代前期の大型前方後円墳が40数基密集し、日本の古代王権誕生の場所と考えられています。この古墳群は北から「大和(おおやまと)古墳群」、「柳本古墳群」、「箸中(纏向)古墳群」というように別々に呼称されてきた。総称する場合は「奈良盆地東南部の古墳群」と呼ぶしかなかった。

 従来の大和神社の周辺に位置する萱生・佐保庄地区の古墳群を指す狭義の「大和(おおやまと)古墳群」に対して南の桜井市の南部の山麓部まで広がる古墳群をカタカナ表記で「オオヤマト古墳群」と仮称する。「山の辺の道古墳群」と呼ぶ人もいますね。

 白石太一郎先生の論文『オオヤマト古墳群と初期ヤマト王権』を少しご紹介します。

 ・西日本に於ける出現期古墳の分布を見ると、巨大古墳は殆どオオヤマト古墳群に集中している。箸墓の1/2の規模の吉備の浦間茶臼山古墳、豊前の120メータ級の石塚山古墳、そして小さな前方後円墳が瀬戸内海から玄界灘にかけて出現している。それらは、前方後円墳であり、埋葬施設も同じで竪穴式石室であり、副葬品は呪術的性格の強い三角縁神獣鏡が中心である。

 ・この事はオオヤマト古墳群を中心に瀬戸内海沿岸から玄界灘沿岸までの各地の首長が政治的に連合が出来ていたという証拠である。その時期は最近の研究成果を踏まえると3世紀の半ば過ぎと考えられる。三角縁神獣鏡の研究が進み、第1段階から第4段階まで分類が可能となり、第1段階は景初3年(239年)とすると、三角縁神獣鏡の断面変化を考えると第3段階は260年前後と考えられる。

 ・何故広域の政治連合が出来たのか、その理由は朝鮮半島の鉄資源の安定輸入の為だと考える。弥生時代2世紀までは北九州の伊都国や奴国が独占していた朝鮮半島の鉄輸入をオオヤマト古墳群を中心に広域連合が生まれ玄界灘の諸国と戦争により、奪取したと考える。それは、古墳時代以前は中国鏡は北部九州を中心に分布していたが、古墳時代の始まりよりヤマトを中心に分布する事からも立証できる。

 ・又、土器を見ると纏向には瀬戸内海、山陰、北陸、東海の土器が多量に発掘されるが、北部九州の土器は出てこない。逆に北部九州からからは吉備やヤマトや出雲の土器が出土するのである。北部九州の勢力がヤマトに東遷したのであれば、九州の土器がヤマトで発掘される筈であり、東遷は存在しなかった。

 ・ヤマト中心に分布する鏡で最古のものは画文帯神獣鏡であり、後漢の終わりから三国時代に作られた。三世紀の初めである。北部九州と近畿・瀬戸内連合との戦争は3世紀初めの頃と想定する。(jo君コメント:文献史学から言うと『後漢書』記述から倭国大乱は西暦147年から188年、『梁書』によれば漢の霊帝の光和中で178年から183年となる)。考古学の立場では、画文帯神獣鏡の年代から3世紀初めとなる。

 ・広域の政治連合を成し遂げた指導者が死んだのが3世紀半ば前方後円墳を築造始めたと考える。出来上がった体制を維持する為に体制整備の一環として古墳作りが始まったのではないか。各地の首長は連合の中での地位により身分相応の古墳を築いたと考える。

 ・しかし、この連合が生まれた頃は濃尾平野を中心とする東国には前方後方墳が依然として続いており、古墳時代前期中葉にならねば、前方後円墳が出現しない。オオヤマト古墳群連合とは異なる勢力が存在した。魏志倭人伝に述べる狗奴国と邪馬台国の戦争記述は濃尾平野を中心とする東国連合とオオヤマト古墳群を中心とする西日本連合の戦争ではないかと考える。そして、東国連合は最後に敗れると考える。(jo君コメント:私は山背の木津川水系から淀川、琵琶湖、日本海を抑えていた椿井大塚山古墳のタケハニヤスと吾田隼人の吾田媛連合と考えています)。

 (オオヤマト巨大前方後円墳の分析)

 ・巨大古墳を年代順に並べると①箸墓古墳(280メータ)②西殿塚古墳(240メータ)③桜井(外山)茶臼山古墳(208メータ)④メスリ山古墳(250メータ)⑤行燈山古墳(240メータ)⑥渋谷向山古墳(310メータ)の順である。これらは箸墓に始まる初期の6代の倭国王墓と考える。奈良盆地東南部の4つの地域の政治集団から交互に倭国王となったと考える。

 ・畿内に於ける出現期の古墳分布で考えると、邪馬台国は奈良盆地東南部の大和川水系から葛城地方、和泉・河内地方である。高槻市付近の三島野古墳群には墳丘120メータの大型前方後円墳である弁天山A一号墳があり、淀川南岸の北河内には100メータ程度の前方後円墳である森一号墳、桂川流域の乙訓の地には100メータ級の元稲荷古墳、木津川上流には180メータ級の三角縁神獣鏡を中心に36面も出土した椿井大塚山古墳が存在する。北の淀川水系と南の大和川水系では異なる政治集団が存在したと考える。

 (箸墓古墳の問題)

 ・造営時期は出現期古墳の年代観より260年前後である。『魏志倭人伝』で述べる邪馬台国王である卑弥呼の死247年かその直後が正しいとすれば、箸墓古墳は卑弥呼の墓である可能性は極めて高い。『日本書紀』に述べる箸墓と巫女さんのヤマトトトビモモソヒメの物語を読めば『魏志倭人伝』の卑弥呼像に極めて近い。

 ・卑弥呼の後継者壱与の墓は、二代目倭国王ですからオオヤマト古墳群の二番目に古い大王級古墳を考えると、西殿塚古墳となる。(jo君コメント:現在宮内庁は継体天皇の奥さん手白香皇女衾田陵としているが、時代が合わない。崇神天皇陵という説もあるようです。)

 ・その理由として、西殿塚古墳の宮内庁測量図を見ると後円部墳頂に20メータ四方の高さ2メータの方形土壇が存在し、且つ、前方部にも同じような土壇が存在する。この時代呪術を司る巫女と軍事・行政を司る巫女さんの兄弟で国を治める国の形が普通であったという。その事例は沢山あるようで、前方後円墳に二人の埋葬設備があり副葬品も全く異なる二種類だという。どちらかに壱与が葬られ、片方に男兄弟で軍事・行政を担当した人物が埋葬されていると考える。

 ・三代目の桜井茶臼山古墳と四代目のメスリ山古墳の場合は埋葬施設は後円部に一基しか存在せず、呪術面の副葬品や同時に多量の武器・武具も副葬されているので、おそらく男王で政治的・軍事的王であると同時に宗教的・呪術的役割も併せて担っていた。

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利尻・礼文紀行 あれこれ(その2)

 今回の旅では特に事件とかおもろい話は有りませんでした。綿密なjoの周到な計画により落ち度のない旅となった訳です。昨日、京都に住む一番上の姉と関西空港の近くの熊取に住む二番目の姉に今回の紀行の報告と赤ちゃんの報告をしたが、二人とも既に利尻・礼文島には旅行の経験がありました。

 京都の姉・・・・礼文島でレブンアツモリソウ見たか?少し早い時期だったが、数株の花を見れたよ。ウニ丼食べたか?ツアーで2千円追加するとウニ丼食べれたけど、あまりいいウニで無くがっかりしたわ。とにかく、すばらしい所だった。

 熊取の姉・・・・礼文島から眺める利尻富士の景色は一生忘れない素晴らしい景色だった。礼文の花は茶の湯の花の原点なんよ、知ってるか?云々

 やはり、利尻・礼文は女性に人気がある場所なんですね。今回は、全く利尻富士が二日間にわたり見えませんでした。しゃくだから、又、行きましょう。札幌から夜行バスで行けば朝5時半には稚内フェリー乗り場に到着します。バスはリクライニングだから、毛布を被り寝れば良い。

 (千歳空港にて)

20096rishirirebun_009  横浜に帰還する前日に夕張メロンを買い、1個、留守番をしている息子に土産で持ち帰る事にした。このお店では夕張メロン1個が700円から1千円、6個程度纏めると6500円程度で安く買えます。

 リュックにメロンを衣類で巻いて詰め込み、担いで機内持ち込みで帰路についた。ゲートに入る時に心配事がありました、リュックの中にメロン、X線で見ると、これが爆弾と勘違いされないか心配でした。

 係員さんに、リュックを預ける時におそるおそる、「あの~~リュックにメロンがあるんですが~~」と言うと、『判っています』とキッパリ! どうやら、強烈なメロンの香が漂っていたんですね。恥ずかしい話だが、この強烈な甘~~い香りを漂わせながら、機内に入りました。食べ頃の夕張メロンの強烈な香りは凄まじいですね。今度は、しっかりとビニールに包んでリュックに入れましょう。

 

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利尻・礼文島紀行 礼文島編(1)

 さて、いよいよ『花の浮島』礼文島に行きましょう。

20096rishirirebun_167 20096rishirirebun_168  利尻島の鴛泊港を午後1時15分発→礼文島の香深港(かふか)13時55分着のフェリーに乗りました。利尻の観光バスは全てフェリーの時間を考えて組まれていますので、便利ですね。さあ生まれて初めての礼文島訪問です。利尻島より北にあるのですね。フェリーで40分の距離にあり近いですね。しかし、利尻島は那須火山帯の火山島ですが、礼文島は隆起により形成され利尻とは生い立ちが全く違うのです。

20096rishirirebun_326 20096rishirirebun_317  何故か固有種の植物が礼文島には存在しているそうです。ロストワールドといった按配なんでしょうか。礼文島ガイドマップを観てみましょう。参考 礼文島ガイドマップ

 カニの爪のような格好をしていますね、左の爪の先端が日本最北端スコトン岬です。香深の港は12番にある桃岩展望台の東海岸にあります。西側の海岸は断崖絶壁が続き人々は東側の海岸沿いに住んでおられるようです。道路も東側にしか存在しません。山も利尻のような巨大な山は無く礼文岳は490メータという低さでなだらかな丘が続くような島であります。南北29キロ東西8キロ約3400人の人口であります。

20096rishirirebun_169  私が宿泊したのは港から徒歩で行ける一番館という旅館でした。フェリーから降り、ブラブラ歩いていると地元の人の車が停車し、目的の旅館まで送って下さいました。本当に親切な人が住む島なんだな~と思いました。近年、近くで温泉が発見され旅館はその温泉を沸かせて使用されているようですね。夕方5時頃から10時頃まで温泉風呂に入れます。

20096rishirirebun_175  家内は疲れ頭が痛いというので寝かせて、私は林道ハイキングコースを歩くことにしました。参考 礼文ハイキングコース このコースは香深の宿から桃岩方面に舗装された道路を登り始め、40分程度登ると右側に林道がありそれを登ります。今回はレブンウスユキソウ群生地まで歩く予定でハイキングしました。

20096rishirirebun_181 香深の宿から登り始めると、眼下に香深の港が見降ろせます。ツアーの人々はバスでこの道を登るのですが、私はのんびりと歩いて登りました。最初に桃岩への岐路を通過し、そのまま登ると30分くらい歩くと林道分岐がありました。

20096rishirirebun_184 20096rishirirebun_185  ツアーの人々はこの先のバス駐車場で下車して、歩くのでしょうかね。数台のバスが駐車していました。

誰もいない夕方の林道を歩き始めると山道の両側には沢山の幾種類もの高山植物が咲き誇っていました。私には名前は判らないのと、何回聴いても覚えられないのと、あまりに変種が多く素人では図鑑があっても名前を間違う恐れがあります。

 マイフォト 利尻・礼文島紀行 礼文島お花編

20096rishirirebun_190 どうです、素晴らしい林道でしょう。道の両側には礼文島にしか存在しない沢山の高山植物が生えています。

 思わず花にはうとい私でも、写真を撮りたい気持ちにさせてくれます。高山植物は本当に厳しい環境で生き、花も身体も小さいですが何処か可憐で気品が高いように感じています。

 1時間程度歩くと、レブンウスユキソウ群生地に到着しました。20096rishirirebun_207

 未だ時期が早いので、エーデルワイスのようなウスユキソウには出合えませんでした。しかし、断崖には壁一面に咲き誇るチシマフウロと利尻を眺める夕日まじかの光景に出合い大感動でした。これで、モンサンミシェルの姿のような利尻富士が見えれば最高でしたがね。残念。

20096rishirirebun_210 20096rishirirebun_211 20096rishirirebun_217  マイフォト 利尻・礼文島紀行 礼文島編

 夕方の5時過ぎには山を降りて温泉風呂に浸かりました。札幌から夜行バスで稚内に来て、利尻島を巡り、そしてフェリーで礼文に来て山も登り本当に長い19時間でした。

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桜井茶臼山古墳(国指定史跡) 60年前の発掘では

 歴博の今回の炭素14年代測定で箸墓古墳は西暦240年~260年に建造されたという学会での発表で世間は驚いています。従来の学説では3世紀末から4世紀頭というのが通説でした。

 そんな折、6月13日に新聞では橿考研(橿原考古学研究所)が箸墓の南の磐余の地にある桜井茶臼山古墳の発掘調査で後円部の墳頂上の竪穴式石室上部に築かれた土壇を囲むように柱穴列が発見され、玉垣ではなかったかという発表内容が伝えられた。詳細は、先日、橿考研が発掘中に一緒に現地を訪問した京都のMuBlogのMuさんが詳細な報告をブログでされているので、是非、参考にしてください。

 MuBlog 桜井茶臼山古墳の後円部構造物、結界(玉垣)、神社?

 朝日新聞 同上ニュース

 この古墳は60年前、1949年(昭和24年)10月と翌年8月の2次発掘と橿考研が発掘をしており、1973年(昭和48年)に国史跡指定を受けている古墳です。先日の古墳訪問時の記事は以下の通りです。

 JoBlog 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行 目次

 MuBlogで書かれているように何故60年ぶりに再度、橿考研が今回発掘を敢行したのか興味がありますね。国指定史跡ですから、文化庁長官宛てに発掘申請がされている筈ですからそれを読めば、正式な目的は判るでしょうが、私の予想では史跡の崩壊危険や維持に問題がありそうで、その危険性と史跡維持の為の方策を考える調査ではないかと思います。

 が、それは名目であり本当の目的は別にあるかも判りませんね。(笑)そこで、60年前の発掘の内容を先ず捉えておきましょう。『探訪 日本の古墳 西日本編』森浩一編 有斐閣選書に記述されている桜井茶臼山古墳について以下ご紹介、引用致します。

 ・初瀬川が盆地に流出するところ。谷を隔てて、三輪山と鳥見山とが北と南に聳える。鳥見山の北側山麓に位置し尾根を切断し築造。

 ・鳥見山麓には多数の小規模古墳が存在するが横穴式石室を有する後期古墳が大多数で前期・中期は存在しない。

 ・浜田耕作氏の説である丘尾切断型の古墳であり主軸は南北方向、前方部は南面し前期古墳の標識とされる柄鏡式の典型古墳である。

 ・全長207メータ、後円部径110メータ、前方部幅61メータ、後円部は3段築成、前方部2段築成。墳頂部は平坦、石室を中心に石で縁取りをした方形壇が存在した。

 ・墳頂平坦部の径は東西27.5メータ、南北32メータで外縁にあたる部分に厚みのある細長の割石が一列に並べられており、その中に石室を囲む状態で墳頂外縁に置かれたのと同様の割石を使用して、北辺9.75メータ、西辺12.3メータの直方形状におかれその中央には方檀状に盛土があったのか部分的に扁平な割石が割石列石の上に傾斜して置かれた状態で検出され、傾斜面の下辺部のみを覆っていたものと解釈。(jo君コメント:今回の発表では北辺9.2メータ、西辺11.7メータと発表。この基壇の外側に沿って柱穴列が存在したという)

 ・この細長い割石列石と扁平割石で石室上面は方壇状に盛り上げられ装飾されていたいたものと推定されるが、その外側に底部穿孔の壺形土器が並べて置かれていたのである。(jo君コメント:今回の柱列穴の場所はこの場所かと思われる。)北辺で10.6メータ西辺で13メータの長方形状に置かれ石室の長径に沿っている。

 ・土器相互の間隔は殆ど無く、北側で24~25個が並び西側では29~30個の土器が幅1.4メータ厚さ25センチの帯状に小砂利を敷いた中央辺に胴部下半部を埋没させた状態であった。(jo君コメント:円筒埴輪の祖形ではないかという考えが定説です)

 ・竪穴式石室ですが、後円部中央に幅5.4メータ長さ10.6メータの長方形状の墓壙の中に全長6.75メータ幅中央部で1.13メータ北辺で1.28メータ、南辺で97センチ高さ1.6メータの石室が構築されていた。

 ・石室床面には巨大なトガの木で作られた木棺片(jo君コメント:今回の発掘でコウヤマキと訂正された。)玉杖・硬玉製勾玉・玉葉・鍬形石破片・ガラス製小玉・鉄鏃・鉄製工具片・鏡片・五輪塔型石製品等々が発掘された。

 (問題点)

 ・メスリヤマ古墳と同様に磐余地方という歴史的地域に存在する事は、三輪山を囲む地域に分布する箸墓や石塚など纏向一帯の古墳群や、北方に分布する行燈山古墳(崇神)・向山古墳(景行)・西殿塚古墳などの柳本町一帯の古墳群との関連で初期ヤマト政権とのかかわりに於いて重要な意味を持つ。

 ・丘尾切断→柄鏡式古墳→前期古墳の典型である。

 ・墳頂部に遺存する方壇状の存在も、箸墓・西殿塚など他の前期古墳にも規例が見出され、その施設としての意義なども問題となりえる。

 ・調査当初より問題とされた底部穿孔の壺形土器は出土状態や配列が埴輪列に類似するところから、円筒埴輪の初現形態として捉えられ、埴輪起源の問題に重要な提起がなされた。

 ・近藤義郎・春成秀爾(ひでじ)両氏によって吉備地方の弥生時代後期墳墓群より出土する特殊壺・特殊器台形土器と名づけられた遺物の系統的な発達によって生じた都月型の埴輪を初源的な円筒型埴輪とする考え方が提示された現在でも朝顔形埴輪への転化が考えられる土器として重要視されている。

  即ち、供献の器としての壺形土器は儀礼の形式化に伴い目に触れない部分はどのような形を呈しても良かったので、器の安定という事を考慮して地中深く埋める事が要求され、土器が仮器化して転化したのではないかととの見解であるが、全てが埴輪化したのではなく、底部穿孔土器のまま儀器として使用されていた例も存在するところから、茶臼山古墳の壺形土器の場合も壺を主体ととする一つの祭祀形態を考える必要があり、その一例として考えるべき点もある。

 ・玉杖→碧玉製杖頭と鉄芯を通した管状の碧玉製品で杖身を構成 玉葉→中国の玉製葬具の眼玉に通じるとされる玉で出来た目玉

 ・箸墓に於いても後円部から特殊器台形及び壺形埴輪が出土し吉備との関連が注目される。

 参考 橿原考古学研究所 巨大埴輪と磐余の王墓

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利尻・礼文島紀行 あれこれ編

20096rishirirebun_404  (ニシン、カズノコ弁当)

 稚内から札幌に向かう特急のスーパー宗谷の社内販売の弁当のカタログで写真の弁当が目についた。車内のお姉さんに申し込むと、名寄で積み込んでくれて札幌までの間に食べれるそうだ。

20096rishirirebun_402  中身はこないな按配でしたね。名前そのままでんがな。ニシンとカズノコが乗っかってました。美味しかったけど、もっと文学的ネーミングは出来んもんかね。

 例えば、幻のニシン親子とか、なんとか直接的でない名前を考えられんかね。所で、北海道には竹が無い、だからタケノコというと写真のようなタケノコなんです。

 道産子にとり本州のタケノコは珍しいのでしょうね。ゴルフ場でタケノコ狩りをする友人がいる位ですからね。

20096rishirirebun_421  (ウニの土瓶蒸し)

 礼文島の旅館で頂いたものですが、ウニの土瓶蒸しです。

 これが、結構、上等な味がしましたね。私は初めて食しました。

 丁度、バフンウニの漁が始まった日でしたね。

このウニは安い、ウニだと思います。しかし、現地のウニですから最高ですよ。

 

20096rishirirebun_399  (さいはての稚内)

 稚内駅前の風景です。素晴らしい景色ですね。素泊り歓迎という言葉に何処か昭和の香を感じますね。

 さいはて、この言葉には何処かうら哀しく、都会で失意した人間が寂しくさまようような雰囲気を感じます。

 そういえば、演歌の歌詞は北に帰るという文言が多いですね。演歌で西に帰るとか、南に帰るという言葉は聞きませんね。縄文人の血がそう叫ばせているんでせうか。

20096rishirirebun_423  (日本最北の宝くじ売り場)

 稚内駅のキオスクですが、またもや、日本最北のお言葉ですよ。宝くじと何か関係があるんだろうか。私は、宝くじは買わずにビールとつまみを買いました。

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利尻・礼文島紀行 利尻紀行編

 先輩の小島さんが数年前に利尻・礼文島に行かれ礼文島の高山植物の美しさを絶賛された、彼はそのあと利尻富士登山をされたが、私もぜひ一度礼文島の花を愛でたいと考えていました。利尻島は大学4年の卒業の年の夏に寝屋川高校時代からの友人と二人で登山した経験があるが、礼文は未踏でした。

 40年前の利尻富士登山紀行

 今回は家内と一緒なので、利尻富士登山は諦め、半日程度の観光だけにとどめ、礼文島でゆっくりと宿泊をして花を愛でる旅にしました。札幌を深夜11時に夜行バスに乗り稚内港を朝5時半に到着し、6時半の稚内発、利尻島行きフェリーに乗船した。

 マイフォト 利尻・礼文島紀行 利尻島編

稚内港を離れる 稚内港を離れる光景です。フェリー乗り場で朝食の弁当を購入し待合室で食べる。続々と団体の観光客が集まり始めた。赤とんぼの岩ちゃん御夫婦が稚内のホテルに宿泊されている筈で彼らは今日フェリーで礼文島に移動する筈だが、観光客が多くて見つける事は出来ませんでした。
 1時間40分の行程で我々は利尻島の鴛泊港に到着です。予め稚内のフェリー乗り場で利尻島の宗谷定期観光バスのチケットを購入しておきましょう。利尻C観光ルート 大自然利尻めぐり 8時20分発~12時50分 3900円の観光バスです。これで、午後1時過ぎの礼文島へのフェリーと接続していますので、安心です。
原始林に囲まれた姫沼
夜行バスでクタクタ 観光ルートは利尻島北端東にある港から島を時計まわりで一周し、最後に利尻富士5合目の展望台まで連れていってくれます。40年前は港から登り始め甘露泉水経由でテントを担ぎ野営しながら登りました。今回は、天気はいいのですが、山にはガスがかかり全く利尻富士が見えない観光となりました。
利尻島郷土資料館 利尻東南の鬼脇という場所にある利尻島郷土資料館を訪問した。鬼がつく場所には興味が湧きますね。日本各地には地元の教育委員会がこのような郷土資料館を建設していますね。縄文文化やサハリンとの深い交易の関係が存在したのでしょうね。
屋久島のジオラマ 利尻島のジオラマです、郷土資料館の説明では20万年前頃から火山活動が始まり、5万年前頃には1800(現在は標高1721メータ)メータクラスの今の利尻富士が形成されたそうです。最後の噴火は8千年前だそうで、それ以降は火山活動が終息したらしい。縄文前期の頃でしょうか、三内丸山遺跡は5500年前から4000年前の遺跡ですから随分と古い時代に火山活動は終息したのだ。ガイドさんの説明では那須火山帯に属するそうですが、礼文島は全く異なる隆起による創生だそうですよ。
エゾゴゼンタチ
ヒメシャクナゲ 資料館の裏庭には利尻島を代表する高山植物の花壇があります、私のように花音痴には有りがたい、殆どすべての花に名札が付いていましたので、勉強になりました。利尻の高山植物に興味のある人はマイフォトを眺めて下さい。可憐な花々が咲き誇っていましたよ。
ガスで利尻富士が・・・ 島の東南にあるオタトマリ沼です。この沼には本来は美しい利尻富士が姿を映すのですが、残念ガスで見えませんでした。1周しましたが、20分程度で沼を周遊できます。
仙法志御崎から日本海
かわいいアザラシくん 仙法志御崎公園ですが、島の最南端にあります。ここには何故かアザラシ君がプールで泳いでいました。ここから眺める利尻富士が最高と言われていますね。残念ながら見ることが出来ませんでした。
本当はここからの利尻富士は最高
エゾカンゾウの群生 エゾカンゾウの群生を岬の断崖に見つける事が出来ます。美しい風景ですね、沢山の高山植物には蜜蜂や小鳥が蜜を吸いに集まっていました。
蜜蜂くんが・・・ ミツバチですよね、花の蜜を集めているようです。きっと美味しい蜂蜜が出来ているんでしょうね。
利尻富士5合目 見返台展望台
こんな按配に見える筈(笑) 利尻富士5合目の見返台展望台です。此処からは目の前に利尻富士、そして海岸線が美しく見える筈ですが、今回はガスで山は見えずなので、晴れの日の写真で我慢して下さい。(笑)
山が見えないのが残念 沓形岬です、島の西北にあり日本海に突き出ています、溶岩流が作った岬ですね。ここの港からフェリーが礼文島に出ています。ここから乗る考えもありましたね。
海鳥のコロニー ウミネコのコロニーです。現地の人々は大層、生活被害を受けているいるそうですよ。猛烈な勢いで増殖しているそうです。海産物の被害が大変だそうです。
 参考文献 利尻島観光案内
 参考文献 利尻島の花

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利尻・礼文島紀行 利尻島写真集掲載

 利尻・礼文島紀行の利尻島の部分の写真集が出来ました。掲載します。

 マイフォト 利尻・礼文島紀行(利尻島編)

 稚内を朝6時30分に出航し利尻島に8時10分到着。午前中、島内を一周し観光する現地の宗谷バスさんのツアー観光バスで巡りました。利尻島半日間の思い出の旅でした。

 紀行文は別途掲載したいと思います。

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利尻・礼文島より帰還しました

20096rishirirebun_114 20096rishirirebun_211  本日夜、札幌から帰還しました。今回は札幌の娘夫婦の赤ちゃんを見学にでかけ、その足で利尻島と礼文島まで足を伸ばしました。

 札幌を深夜11時発の夜行バスに乗り稚内を目指し、朝の5時半到着。その足で8時過ぎのフェリーに乗り利尻島を目指した。

 そして、利尻島周遊の観光バスに乗り昼過ぎまで過ごし、午後はフェリーで礼文島を目指した。

 礼文島の旅館に午後2時過ぎに到着し、家内は頭が痛いというので、一人で香深(カフカ)から山を登り写真の礼文うすゆきそう群生の山を目指した。夕焼け迫る礼文から残念ながら、利尻岳は望めめませんでしたが、高山植物が咲き誇る礼文の丘陵は素晴らしいと思いました。礼文で一泊し翌日は早朝から午後のフェリーの時間まで観光バスに乗り礼文の高山植物見学の旅は続いたのです。

20096rishirirebun_366 日本最北端のスコトン岬です、後に見える島はトド島ですね。ゴマフアザラシの集団は見ることができました。遥か海の彼方の先まで間宮林蔵は探検の旅にでたのですね。残念ながら、今はロシア領であります。

20096rishirirebun_098  今回は残念ながら利尻島では曇りであり、山を眺める事は出来ませんでした。天気は良かったのですが、残念ながら旅行期間中、礼文からも見ることが出来ませんでしたね。

 高山植物の宝庫の島ですから、随分と沢山の礼文・利尻固有種の名前を教えて貰いましたが、殆ど忘れてしまいました。素人には難しいです、僅かに北海道や本州の種と異なるのですね。

20096rishirirebun_326 レブンアツモリソウです、天然記念物ですね、幸い礼文島で僅かに咲き残る敦盛草を見ることが出来た。

沢山、沢山綺麗な可憐なお花畑を見学できました。同じ日に赤とんぼの岩ちゃん御夫婦も礼文島におられ、電話でお話が出来ました。

20096rishirirebun_088 利尻の蓮華ツツジですが、上品なつつじですね。20096rishirirebun_136

タンポポです、夜露が羽根に溜まっていますね、美しいです。

20096rishirirebun_395  利尻・礼文紀行文をそのうち写真を中心にしたためたいと思います、是非、御期待下さい。

今回、礼文では83歳の米国人のお爺ちゃんと娘婿さん(外科医でニューヨークで活躍)の二人と一緒に旅が出来ました。稚内から汽車で札幌に帰還するまで楽しい話を一杯できました、これも紀行文に載せたいと思います。

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平城京遷都1300年記念イベント 平群広成の大冒険

 平城京遷都1300年記念も来年となりましたね。平城京時代を現代の子供たちに、当時はどうだったかを説明するには、不肖jo君であれば表題の『遣唐使 平群広成の大冒険』を企画したいと思いますね。

 以前に東アジア大激動期の平城京について、彼の事も触れました。過去記事 出雲心の旅(その弐

 私は5世紀には権勢を誇った平群氏の後胤の中流官僚の広成が当時の中国の唐王朝、チャンパ王国、渤海国、統一新羅、に翻弄された苦難の外交活動にスポットを当てるべきではないかと考えています。当時、唐により滅ぼされた高句麗は靺鞨(まっかつ)族と連合し渤海という国を建国し唐・統一新羅と対立していました。

 渤海は何度も平城京に使者を出し、軍事連合を組もうと誘います。渤海国は迫りくる唐・統一新羅との戦争に備え平城京の政府に緊迫の誘いがあるのですね。そんな折、平城京の政府は統一新羅に知られなように唐に遣唐使を出し政治情勢を探るのです。

 天平5年(733年)に平群広成は遣唐大使、多治比広成の配下の判官の一人として遣唐使船4隻の中に乗り込み、難波津から筑紫の大浦津から蘇州を目指した。Photo

 現在の上海付近ですね、古代から九州と中国の船のルートは長江河口と繋がっていたのです。海流の関係ではないかと考えています。多分、水稲稲作も現在の我々が発音する呉音も蛇信仰も鳳凰信仰もこのルート及びそのバリエーションで伝播したんでしょうね。

 さて、玄宗皇帝に拝謁し渤海国が山東半島の北部を既に攻撃し始めた情勢を遣唐使は把握し、玄宗皇帝が統一新羅にも渤海国を攻撃する命令を発した事を知る。吉備真備や玄昉は帰国団に加わるが阿倍仲麻呂は科挙試験に合格しており玄宗皇帝の信頼も厚く帰国は見送ります。平群広成を含む船団は蘇州を発し九州に向かうが、大使の乗る船だけが種子島に漂着、副使の船は福建省に漂着したが、あと二船が行方不明となる。

 Photo_3 平群広成の乗る船は何と、ベトナム中部の現在のフエ近辺に漂着したという。チャンパ王国の国である。随分と流されたものですね、奇跡的に平群広成と数名の水夫が助かりチャンパ王国の捕虜となる。チャンパ王国はクメール王朝と激しく戦っており少し時代が新しいが当時のクメールとの戦争状況がアンコール・トムのレリーフに残されています。

チャンパの象軍団

 参考過去記事 アンコール・トム レリーフ写真集 

 参考過去記事 アンコール遺跡の旅(その1)  (その2) (その3レリーフ)

 平群広成は奇跡的に中国の華僑に助けられチャンパを脱出し長安に帰る事が出来たのですね。どのような経路で長安に帰還出来たかは、欽州から長安へのルートを彼の帰国後の資料を辿れば判明すると思います。

 長安には阿倍仲麻呂がいました。幸いにも渤海国と唐とは和解が成立し戦争状態は脱していたのですね。しかし、統一新羅と平城京政府の関係は緊張状態だったので、阿倍仲麻呂の玄宗皇帝への根回しにより広成は山東半島北部の登州から海路渤海国に渡り現ロシア領の渤海国の塩州(現在のポシェット湾)から船に乗り出羽の国に到着したとある。Photo_2

 この平群広成の6年間に及ぶ外交官としての波乱万丈はまさに、当時の平城京の国際政治の困難さを乗り切る中流の官僚の涙ぐましい努力と映りますね。当時の役者が揃い、今で言う課長クラスの人の波乱万丈物語としてもっと光をあててもいいのではと思います。

 昔、富士通時代にメインフレームのハード屋さんの親玉として活躍され役員も経験された平栗さんという大先輩がおられました、彼の出身は平群でしたね。平群一族の末裔なんでしょうかね。夢は繋がるのですね。

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爺さん達の宴会

20096yoshihara_011  昨夜、某会社の顧問をしてる爺さんばかりで宴会となりました。新橋の「魚喰呑人樂(Walk don't run)」で七輪で魚を焼きながらの宴会です。

 部屋中、煙が立ち込め煙たい中での宴会でしたね。

 殆どのメンバーが顧問を辞める事になりお別れ会でもありました。しかし、おもろいメンバーなので、今後も宴会だけは続ける事になりました。

 皆さん、これからも健康で楽しい人生を満喫しましょう。

20096yoshihara_012  (魚が降るらしい)

 石川県方面で、鮒が降ってきたりオタマジャクシが降ってきて大騒ぎになっているらしい。竜巻説と鳥説と龍神説があるらしい。テレビで鮒が降ってきたお家の老婆がこの事件は吉兆と捉え、魚を冷蔵庫に大事に保存されていましたね。空から思いもよらないものが降ると吉兆なんですね。

 やはり、我が列島には天孫降臨の思想が残っているんでしょうか。

 参考 朝日新聞ニュース 空から魚ミステリー

 

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神楽坂・二人の会 6/20

上野のけんた&アトムパパ、ママが企画する「神楽坂・二人の会」の案内が舞い込みました。

  予告映像 マッシュレコード

 奥さんの趣味は落語、噂では東京芸大時代には落研に属しておられたと聞いています。落語家と音楽家二人の若い人のライブです。

 ・金原亭馬吉(きんげいんてい うまきち)

  11代目金原亭馬生師に入門、2003年、二つ目に昇進し「馬吉」に改名、男前だそうですよ。

 ・酒井康平(さかい こうへい)

  200年NUDE VOICE結成。8年の活動後今年ソロ活動を開始。4月22日ソロアルバム『HANDMADE COMPANY』をリリース。シンガーソング・ライターです。

 日時:6月20日(土曜) 開演6時

 場所:神楽坂マッシュレコード

 木戸銭:前売り2千ガバス当日2千五百ガバス

 電話予約:070-5596-5182(マサキ)

 問い合わせ:神楽坂マッシュレコード 03-3269-5120

 私は6時まで授業がありますので、参加出来ても7時頃になります。

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油絵展と同窓会

  承前 老後の趣味 油絵を描く

 昨年も見学させて頂いた先輩、吉原さんの油絵展に今年も浦川どんと出かけました。

20096yoshihara_009  今年も昨年と同じ、三軒茶屋のキャロットタワーで仲間数名とご一緒に展覧会を開催されていました。

 昔懐かしいメンバーにお会いする事もできました。故郷の鹿児島に帰られた田口先輩とも懐かしい再会でした。

 現役を引退したあと後輩が集まれる機会を提供するという意味でも展覧会は素晴らしい企画だと思います。

20096yoshihara_001 20096yoshihara_002 20096yoshihara_004  素晴らしい静かな日本の自然が描かれていますね。

 安曇野のアルプスを背景に広がる美しい田園風景は素晴らしいですね。

20096yoshihara_005 20096yoshihara_006 20096yoshihara_007  鹿島槍が岳を望む鹿島川での絵は懐かしい光景です。学生時代に山小屋を建設する頃、幾度となく訪れた鹿島槍の山麓です。

 素晴らしい趣味ですね、ラジコン飛行機を飛ばすのもいいけど、静かに油絵を描くのも本当にいい趣味だと思います。

20096yoshihara_008  展覧会のあと、浦川さん、五十嵐さんと自由が丘の「金田」に向かいました。夕方5時頃から宴会が始まり、6時過ぎには哲ちゃんも参加、賑やかな宴会となりました。

20096yoshihara_010  最後は鯛蕎麦です、これが本当に美味しい一品です。「金田」自慢のお勧め料理です。

二次会に奥沢まで歩き、夜遅くまで昔の仲間と楽しいひと時を過ごせました。

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卑弥呼考

 この頃、皆既日食ツアーというのが話題です。7月22日にトカラ・奄美大島・中国のベルト地帯で観測できるという。行かれる人はハブに気をつけましょう。皆既日食というと、古代史ファンにはアマテラスさんの岩戸隠れの神話や卑弥呼さんの死亡の事件を思い出します。昔、東大の教授で国立天文台の斉藤国治という著名な天文学者がおられたようで、彼が『古代天文』『星の古記録』『飛鳥時代の天文学』等々古代の歴史と天文学の関わりについて多くの書物を残されたようです。

 一度、じっくり暇なときに図書館で読んでみたいと思います。問題は247年3月24日と248年9月5日の皆既日食であります。卑弥呼はんが死亡した時期であります。これは偶然なのか、卑弥呼の霊力が衰えた結果殺されたのか、歴史の謎として残されています。

 話は脱線するが、昨夜、昔Townsのアプリケーションやその後パソコンのコンテンツを開発していた仲間の落合さん、奥野さん、松元さん、松本よっしーさん等々と宴会がありました。当時、北海道のダットジャパンの竹田さんがTownsで天文シュミレーションのソフト『Hyper Planet』を制作して下さいましたね。今でも、販売されているようですよ。

 自分が生まれた日時と場所を指定すれば、プラネタリウムのように星座の動きをシュミレーションしてくれます。学校での教材としても優れたソフトだったと思いますね。ふうてん老人とも一緒に竹田さんと札幌で飲みましたね。夢がありました。

 ところで、卑弥呼はんのお話です。最近、歴博のグループの炭素14測定での箸墓が240年から260年という研究結果の発表で世間は騒がしいです。今日は日本書紀でこの墓に埋葬されたというヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲媛命)という妙な名前の巫女さんについての謎であります。

 この名前については色んな説がありますが、第五回三輪山セミナーで講演された千葉大学の三浦佑之さんは、トトビ(10×10)モモ(100)と解釈されていましたね。ソ(襲)はこれでいいんでしょうかね。訳が判らんので、広辞苑で百を引いてみると、数の名。10の10倍と書いてあり、多くのもの、種々のものとあります。古代より10の十倍で100という言い方をしていた可能性がありますね。

 ソは襲と考えると古代の大隅国贈於郡、大隅隼人となります。熊襲とは、球磨(肥後国球磨郡)の人々と襲(大隅隼人)を合わせて熊襲と呼んでいたと思います。とすれば、多くの大隅隼人の部族を束ねた襲の、お姫さんとなりますね。天孫族になるのではないでしょうか、高千穂に降臨した神武さんのルーツに連なるお姫さんとなります。

 そこで、日本書紀では崇神天皇の時代の国内最大の内戦と呼ばれた崇神と山背の武埴安(たけはにやす)&吾田媛(あたひめ)との戦争事件です。

 参考過去記事 木津川流域 隠された王朝

 参考過去記事 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(3)箸墓古墳

 吾田隼人(阿多)とは薩摩半島南西部に住む隼人であり、海幸彦の母のコノハナサクヤヒメは吾田隼人の女神として祀られている。この最大の内戦を予知したのは巫女のヤマトトトビモモソヒメであり崇神軍勝利に導いたと紀は記録する。これは邪馬台国と狗奴国との戦争を語っているのではないかと、考えられますね。

 考古学的に考えると山背の木津川流域にある3世紀の椿井大塚山古墳からは32面の三角縁神獣鏡が出土していますね。歴博の炭素14年代測定グループに是非、この古墳の築造年代を鑑定して欲しいと思います。現在の常識では3世紀末という考えですが、中葉および前期になれば武埴安の墓である可能性が高まります。

 卑弥呼さんはMuBlogのMu説では日の巫女という考えでありますが、日向(ひむか)の巫女さんと呼ばれていた可能性もありますね。お互い当時に生きていた訳ではないので、真実は闇の中です。しかし、卑弥呼はんを高霊(大伽耶)の王の娘とか鹿児島の娘さんとか言いたい放題でしまいに怒られますね。

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三輪山と日本古代史「 その2」

 承前 三輪山と日本古代史「その1」

 いつ頃まで奈良盆地が湖で静まりかえっていたか判らない。しかし、司馬さんが言うように三輪山の麓と葛城山の麓には出雲族のミワ族とカモ族の二種類が定住していたと考えられます。弥生時代が始まると、田原本町近くの唐古・鍵遺跡の標高の低い部分では既に稲作が始まって人々が住みついていたようだ。

 出土土器に描かれた楼閣のような建物を建設し、日の出の三輪山と陽が沈む二上山を眺めて崇拝していたと考えられるのではないでしょうか。この稲作を始めた人々はミワ族かカモ族か判らない。新しく玄界灘に大陸から水稲を伝え、高知平野、瀬戸内海、播磨地方へと徐々に水稲を伝えた人々かも知れない。

しかし、明らかに弥生時代の唐古・鍵遺跡から纏向遺跡へと時代は流れ巨大な箸墓に代表される前方後円墳が建設される古墳時代に突入しました。日本列島に卑弥呼を盟主とする邪馬台国部族連合が生まれ、そして崇神さん、景行さんの三輪王朝が誕生する訳です。この王朝は三輪山の山麓に栄え巨大な230メータの行燈山古墳(崇神)、300メータの渋谷向山古墳(景行)へとすすみます。

 三輪山を聖なる山として祭祀した王朝と考えられます。私は未踏ですが狭井神社の東北の山林傾斜地に、三輪山の辺津磐座の一つである「山の神(祭祀)遺跡」があるそうです。ここからは、祭祀に絡んだ沢山の考古遺物が出土したそうです。参考 山の神遺跡出土遺物 粘土細工の祭祀で使用したものでしょうね。江戸時代に三輪山の禁足地から出土したという大きな子持ち勾玉などは、大神神社の宝物館でみれるそうですよ。

 石野さんの話では、考古学・歴史学で有名な桜井市生まれの樋口清之さんの伝える話として、三輪山全体を三重に囲む磐座が存在するらしいです。大きな岩の下から銅剣などが出土するという。記紀が伝える話として、5世紀の雄略天皇が三輪山の麓の長谷谷に朝倉宮を築いた時に三輪の神に会いたいといったが、余りに恐ろしい神なので会わなかったという。

 (閑話休題)

 そうそう、先日自宅に大神神社社務所から東京で開催の第六回「三輪山セミナー」の案内が届きました。私は自慢ではないが、第一回から6年間、全て参加しています。今回は、菅野雅雄先生が『三輪山と神の社』で講演、山折哲雄先生が『三輪山の信仰ーカミと神』のテーマで講演される予定です。8月22日(土曜日)13時から有楽町のよみうりホールで開催されます。後援は文化庁・奈良県・桜井市であります。

 第五回三輪山セミナー その1 その2 その3

 第四回三輪山セミナー 

 第三回三輪山セミナー

 第二回三輪山セミナー

 第一回三輪山セミナー

 (二上山について)

 この山は旧石器の時代から石器の材料であるサヌカイト(黒曜石)を採取する山として大事にされてきました。特別な山であったそうだ。この二上山から葛城山にかけては、以前に司馬さんのお母さんの故郷である竹ノ内街道の集落である竹ノ内・長尾に関して記事をかきましたね。カモ族の拠点だった所であり、古代の豪族・葛城氏の拠点であります。

 石野さんの話では二上山の麓には沢山の群集墳が集中するそうですが、不思議と香芝から當麻町にかけては墳墓が存在しないという。聖なる場所であった可能性があるそうですね。二上山で有名な歴史と言えば悲劇の皇子、大津皇子ではないでしょうか。持統天皇に殺されたという悲劇の天武の皇子です。二上山の山頂に葬られたと言うが考古学的には麓の鳥谷口古墳であろうと言われています。

 石棺の上部にも屋根があり、横の石材にも屋根があり廃材を利用したにわか作りの石棺であるようです。6世紀から7世紀の頃には麓は貴人の墓地になり、大阪側は王陵墓・王家の谷になったようです。(敏達・用明・推古天皇陵)

 田中日佐夫氏の『二上山』によれば、陽の沈む二上山の向こう側、大阪側に王陵の谷を作り竹ノ内街道は棺を担いで粛々と歩む道であったという。當麻寺は當麻氏の氏寺であり當麻氏は葬送を司る氏であったと述べる。平安時代になると、香芝に恵心僧都源信が誕生し「往生要集」を書き浄土信仰・阿弥陀信仰をすすめたのは皆様も良く御存知。

 (箸墓のこと)

 日本書紀では箸墓の建設過程が詳細に記述されています。古墳築造の記事では唯一の記事ではないだろうか。昼は人が作り夜は神が造ったという。突貫工事で24時間造り続けたのでしょうね。そして、葺き石は二上山(逢坂山)から人々が列を作りバケツリレーのようにして石を運んだという。14キロの距離があるから、1メータ間隔で1万4千人が列を作った事にになりますね。周濠を入れると400メータに達する巨大前方後円墳を一人の女性の為に列島の歴史上初めて、多分、東アジアでは初めて建造したのです。

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三輪山と日本古代史「その1」

 橿考研で1971年から纏向遺跡の発掘に尽力された石野博信先生の掲題、学生社から出版された彼の考えをご紹介します。長く纏向で地道な発掘を続けていると、考古学者というのは古代の人々の気持ちに接近する事が出来るのではないでしょうか。現代人の頭だけで考える領域は狭い、古代の雰囲気と風を現場では何故か感じる事が出来ると思います。それが、考古学と文献歴史学の差ではないだろうか。

 彼が大和高田黒石10号墓を発掘している時に、ふと三輪山と二上山の美しい姿に気がついたという。日が昇る三輪山、夕日が沈む二上山の姿であります。この二つの山を直線で結ぶと線上に黒石10号墓が位置する事が判ったという。地図を見てみましょう、黒石10号墓は馬見古墳群の南群の築山古墳あたりではないだろうか。

Photo

  過去記事 石上神宮と出雲

 石野さんの話ではカメラマンの小川光三さんは「大和の原像」で著名でありますが、多神社から9月23日秋分の日の日の出が見事に三輪山の右手から昇る事を教えて貰ったという。多氏(おおし)というと、『古事記』を編纂した太安万呂を輩出した名門氏族であります。

 三輪山から二上山に太陽が昇り沈む話は、有名でこのラインを延長すると東は長谷寺から伊勢神宮に連なり、西は日置神社に連なる聖なるライン(レイライン)として過去NHKのテレビ番組でも、京都のMuBlogの旦那さんも何回も記事にされていましたね。

 (纏向の聖なる正三角形)

Photo_2  写真を見て頂ければ判りますが、三輪山を東に冬至の太陽のラインに石見の鏡神社、夏至のラインに神武天皇陵があり、綺麗な正三角形をしている。そして、中央に春分、秋分ライン上に多神社が存在します。角度60度でこの三角形は正三角形となりますね。

 元、桜井市教育委員会の萩原儀征さんの話では纏向石塚古墳の前方部の方向に三輪山があり、三輪山祭祀を強く意識した古墳であると述べているそうです。この話はMuBlogでも何回も紹介されていり、刈谷さんの説も紹介されていましたね。

 三輪山と二上山の美しい姿を長年魅せられて撮影されてるカメラマンの人は古代の人々の心に迫る真実を見つけてくれのかも知れませんね。奈良のほかもどりさんが好きなカメラマン入江泰吉さんは、大神神社の西の慶田寺の西側の三輪山の麓から見る二上山が綺麗に見えると話されているそうだ。

 参考 ほかもどりさん(早春の二上山) 大美和の杜展望台からの二上山

 (考古学から見た三輪山と二上山)

 三輪山は出雲の神である大物主(大国主)さんを神とするが、本体は白蛇とされていますね。この蛇信仰は縄文時代まで遡るそうです。橿考研の池田源太先生の話では縄文土器のくちに蛇の頭が乗る土器が長野や新潟なのでも出土し、5~6千年前の土器のデザインとして確認されるという。カンボジアのアンコール遺跡では巨大な蛇「ナーガ」で有名ですよね。

 過去記事 アンコール遺跡(ナーガ)

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道産子の孫

Photo  二人目の孫が蝦夷地で誕生しました。道産子として育って貰います。

 幸い母子ともに健康だったのが幸いでした。

 これから、雄大な北海道の大地で元気に健康に育って欲しいと願います。

 ホンマ、安心しました。心配しました。誕生おめでとう!

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二人目の孫誕生

 北海道に住む娘に二人目の子供が誕生しました。先ほど、旦那さんから喜びの電話がありました。昨日朝6時過ぎの飛行機で家内は北海道に飛び、娘と病院に行きそのまま入院し、本日午後、たまたま休みの旦那と家内は病院に詰めていたところ、産まれたそうです。

 今度は男の子だそうですね、母子ともに元気だそうです。本当に良かったです、切迫早産の危険があり2ヶ月以上絶対安静でしたので、本当に心配していました。しかし、予定日が過ぎても一向に産まれる気配がなく、随分と気をもんでおりました。私も2回程、家政夫として助っ人に出かけましたが、無事が何よりでした。

 嬉しい事は重なるようで、家内の父も先週、無事に前立腺の手術が成功し喜んでいたところでした。先ほど、義父に電話を入れ無事出産の連絡を入れました。随分と喜んで貰えましたね。

広大な北海道の大地で生まれ、農家の牛小屋を駆け巡るお父さん、お姉ちゃんもいるし元気に伸び伸びと育って欲しいと思います。オホーツクの哲ちゃんや、美唄の赤とんぼの山小屋管理人さんのように、心の広い、澄んだ心を持った人間に育って欲しいと思います。

 

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日本古来の信仰 『高庭』(禁足地)

 日本の古来の神社には拝殿も本殿も存在しないという。森の中に庭があり、地面の下深くに磐座(いわくら)が埋められ、これが本殿とされてきた。この庭を『高庭』と呼ぶ。日本最古の部類に入る大神神社も拝殿は作られているが、本殿はなく三輪山そのものが本体である。石上神宮と鹿島・香取神宮について観てみましょう。

 (石上神宮)

 司馬さんの『街道をゆく』 「布留の里」に於いて石上神宮の高庭に関する記述があり参考までに紹介します。「いそのかみの ふるの たかにわ」は現在の拝殿の後の森243坪の庭が禁足地として守られ、地面の下に磐座が埋められていると信仰されてきた。司馬さんの説明では、拝殿は白河帝が高庭を拝む為に建設されたという。

明治になり司馬さん曰く「国家神道という、神道が変形して英雄的自己肥大したものが出現し、そういう官僚神道が、大正二年、拝殿とかさねて流造(ながれづくり)の本殿をつくりあげてしまった。」という。そして、宮司が、教部省に申請して許しを受け、奈良県知事の立ち会いのもとに、この禁足地を明治七年に掘ってみたそうだ。

 古記録では、崇神帝の七年に、帝は物部氏の祖である伊香色雄命(いかが しこおの みこと)という武将に命じて石上の地に剣を祀らしめた。色雄(しこお)とは醜男(しこお)であり大変頑強な強い男と言う意味です。その剣は伝説の神武帝が日向からヤマトを東征する時に使用したという『布都御魂大神(ふつの みたまの おおかみ)』という剣だとされる。

 はたして、伝承通り剣とか銅鏡二面、銅製鏃や硬玉の勾玉十一個、更に碧玉の管玉がざくざくと出て来たという。数えると、293個もでてきたという。これらはすべて重要文化財の指定を受け神宮の宝物となっているそうだ。調べてみましょう。

 石上神宮 禁足地出土考古遺物(国宝重要文化財の美術工芸品で重要文化財の考古資料の奈良県、石上神宮禁足地出土遺物を検索してください)

 剣は御神体として奉斎してしまい、今やその剣が鉄か銅かもわからんそうです。この剣については、以前に記事にしてあります。

 参考過去記事 鹿島神宮 参拝記

石上神宮の文化財と言えば、以前に記事にした七支刀が国宝指定を受けてあります。

  過去記事 国宝 七支刀 空白の4世紀

 石上神宮といえば、武器庫ですね、桓武天皇が平安京に遷都なさる時に、石上神宮の武器庫のものを京都に運ばせたという。その時、14万7千人の人夫を要したといいます。如何にヤマト王権は武器においても独占していたか判りますね。

 (鹿島・香取神宮)

鹿島神宮 要石 鹿島神宮の布留の森の高庭「禁足地」 要石であります。地下に埋められた磐座であります。鬱蒼とした20万坪の天然記念物の鹿島神宮の森にありました。黄門さまで人気の水戸光圀公は部下に命じてこの磐座がどれだけ大きいか実際に掘らせたそうです。しかし一昼夜掘り続けても磐座は大きすぎ遂に掘るのを止めたという伝説があります。
 
 黄門さまは、本当にオモロイ人だったのですね。鹿島神宮は大迷惑でしたね。
要石(かなめいし) 香取神宮の磐座であります。
 参考過去記事 香取神宮参拝記
 参考過去記事 鹿島神宮参拝記

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竹内街道 シルクロードの終点

 最近、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』を読み直しています。理由は箸墓古墳の築造時期が3世紀中葉という歴博の炭素14年代&年輪年代の較正年代補正研究の発表が原因です。何故、考古学者でも歴史学者でも無い司馬さんの意見を求めようとするのか理由は判らない。しかし、子供の時代を竹内街道の竹内集落、長尾集落で過ごされ、田圃でヤジリやダキをひろいながら、日本の国が生まれる頃の神話の時代に思いを馳せた経験がおありです。

 考古学者で森浩一先生も百舌鳥古墳群で子供の頃を過ごされ、生まれ育ちの環境が古代の現場で過ごす事が如何に古代の歴史を観る時に重要であるか、私は62年の人生経験で結論として持っています。その理由はその場所で綿綿と人々が暮らして来た歴史があるからです。だから、DNAの何処かに古代の記憶が残されていると思うのですね。

 さて、司馬さんの『街道をゆく』のシリーズの中で、大和石上へ、布留の里、海柘榴市、三輪山、葛城山、竹内越、葛城みち、葛城の高丘、一言主神社、高鴨の地を再度読み直してみました。暇がある人は是非一度は読まれる事をお勧めします。司馬さんのヤマト王権の古代の姿が描かれています。

幾つか示唆に富む考えを再度発見しましたね。先ず表題にある竹内街道についてです。彼はこの竹内街道をシルクロードと呼んでいる。堺の百舌鳥古墳群から古市古墳群を東西に貫き、王家の谷を通過して河内と大和をさえぎる峠、竹内峠を越えて葛城の長尾神社に通じる。この竹内峠は北に二上山、南に葛城山、そして金剛山に連なる山を越える。

 常識では竹内街道はこのルートで終わりですが、司馬さんは大和高田から畝傍を経由して東に一直線に延びて桜井まで延ばし、磐余の桜井から北に折れ曲がり三輪山山麓を通過し石上神宮に到着する道までを竹内街道と呼んでいる。磐余から東にそのまま延長すると伊勢街道である。3世紀の卑弥呼さんの時代から桓武天皇が平安京を開くまでの期間この道は、陸路として大陸とヤマトを繋いだ道なのですね。

 司馬さんは、もし街道も文化遺産に出来るなら特に竹内峠から大和高田に通じる部分だけでも国宝にしてはどうかと提案されていますね。これは難波津に到着した貿易船から陸路でヤマトに通じるルートであり、海路としては河内湖から大和川を遡上し初瀬川から磐余に上陸するルートもありました。

 参考までに竹内街道の図を記録されている人がおられますので、掲載しておきます。

 竹内街道概要 竹内街道 堺→古市 竹内街道 古市→当麻 

 横大路 当麻→桜井

 脱線しますが、上記参考文献の横大路の断面図を観て気がつかれましたか、すり鉢状になっていて標高差20メータもありますね、そして川が行儀よく北に並行して流れているので、やはり奈良盆地は昔は巨大な湖だった事が判りますね。

 大神神社と同じく最古の神社と呼ばれる、石上神宮(いそのかみ)は磯の神ではないかと司馬さんは述べておられます。布留の地ですね、多分湖の近くの高台に神聖な森があったのでしょうね。そして、この奈良盆地には三輪山山麓に出雲と呼ばれるミワ族と葛城山山麓にカモ(鴨)族の二種類が土着していたと述べています。

 その土地に外来の最新の大陸の文化・文明を持った集団が侵入してきたのではないかと司馬さんは考えているようですね。しかし、外来の勢力は数は少なく3世紀から6世紀にかけてこのミワ族とカモ族はヤマト王権の核になったと考えておられるようです。

 私も崇神さんから三輪王朝はミワ族を中心に三輪山山麓で栄え、そして神功皇后摂政から応神天皇・仁徳天皇さんの河内王朝はカモ族が中核を担っていたと考えています。その理由は河内王朝の歴代大王の奥さんは殆ど葛城氏のカモ族出身であることから判りますよね。その葛城氏のカモ族も雄略天皇により滅ぼされます。

その時に、カモ族は列島各地に四散します、その時に山背地方に移住したのが上賀茂・下賀茂の連中であり既に朝鮮半島からカモ族の一派に組み入れられていた大陸出身(多分に洛東江流域に存在したハイテク集団)の秦氏が山背の葛野を切り開く訳です。カモ族が5世紀に滅ぼされ、再度歴史に浮上するのが桓武天皇の平安遷都であります。

 司馬さんの説によれば、カモとはカミだそうで火を使い太占(ふとまに)を行う、例の鹿の肩甲骨を焼いて占う人々ですね。ミワ族の祭祀とは異なる神を崇めていたようです。問題は箸墓の卑弥呼さんの件ですが、司馬さんはあまり興味が無いのか殆ど卑弥呼については語っていません。むしろ、崇神さんと物部氏の石上神宮による奈良盆地の刀狩りに興味があるらしく、石上神宮の武器庫に武器を集めヤマトの治安を維持した話の方が興味があるようでした。

 私は、司馬さんと違い大陸の漢王朝が衰退し東アジアの秩序が乱れ、倭国も大乱の時期を100年間も経過し3世紀に卑弥呼という巫女の女王の基に邪馬台国部族連合国家が出来たか、その謎を解きたいと思います。そして、何故8世紀の日本書紀がそれを無視したのかが知りたいです。

 私の最近の仮説はその解は、洛東江流域の加羅・伽耶諸国の鉄であると考えています。列島諸国の国々が勝手に洛東江流域から輸入していた鉄挺の入手が困難になる事情が朝鮮半島で生まれたと考えている。カルテルを組まないと輸入できない事情が朝鮮半島で生まれたのではないかと想像します。

その後のヤマト王権が成長するプロセスはまさに、朝鮮半島の鉄の輸入を独占した事により列島の支配領域を広げてゆくのです。しかし、何故部族連合国家の親玉が巫女さんなのかが解明出来ない。

 想像をたくましくするならば、日本書紀の箸墓の記述に注目する事で何か解明する手がかりは無いものでしょうかね。この墓は孝霊天皇の娘のヤマトトトビモモソヒメの墓であると述べ古墳築造に関して詳細な記述をしていおり極めて珍しい。彼女は三輪山の神である大物主(大国主)さんと結婚するが蛇だったからびっくりして事故で死んだという。

 そして、弟は吉備津彦ですから当時の邪馬台国時代5万戸を擁するヤマトに匹敵する最大の国が吉備ですから(投馬国が吉備だという前提)政治は弟が助けたという魏志倭人伝が納得できるのですがね。何故、卑弥呼が擁立されたのか依然として闇の中であります。彼女でなければならない理由があるとすれば、彼女なら洛東江流域の鉄を供給する連中が言う事を聞いたと考える以外余地が無い。

 では、何故、洛東江流域の加羅・伽耶の人々が彼女なら無条件に貿易をするという理由を見つけなければならない。何でしょねこれからの課題です。トンデモ説を考えるとすれば、彼女の父は高霊(コリョン)=大伽耶の王ではなかったか。そう考えると、実利主体の倭国の連合は安心して鉄の輸入が出来るとなれば、彼女を推挙したと考えられませんかね。

 実は、彼女は楽浪郡の故地を乗っ取った公孫氏が魏に滅ぼされると翌年には使者を魏に派遣してる国際感覚の優れた政治家なんですよね、朝鮮半島の情勢が刻々と耳に入らないと判断出来ない所業です、如何に朝鮮半島と大陸の政治情勢に通じていたかですよね。

 尊敬する司馬さんの格調高い話から、最後は私のうさんくさい話になり申し訳ありませんでした。葛城のカモ族とその後の葛城については、又、次回、司馬さんの話をお伝えしたいと思います。

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栄山江(ヨンサンガン)流域の前方後円墳13基

 承前 韓国の遺跡発掘情報 朴天秀氏

 承前 韓国の遺跡発掘情報 感想

 以前の朴天秀氏の関連記事で、韓国に於ける前方後円墳に関して、以下、韓国南西部について記録メモをとりましたね。

・霊岩郡(ヨンアム)チャラボン古墳、咸平(ハムピョン)郡、新徳(シンドク)古墳も前方後円墳である事が判明し発掘された。Photo_7

 そして、光州市(クワンジュ)、明花洞(ミョンホワドン)古墳、月桂洞(ウオルゲドン)古墳も前方後円墳として発掘。

 韓半島南部の前方後円墳は栄山江(ヨンサンガン)流域を中心に13基も発掘された。

Photo_8  今回のNHKの番組『日本と朝鮮半島2000年 第二回』に於いてもこの韓半島南西部の栄山江(ヨンサンガン)流域の13基の5世紀から6世紀の前方後円墳に触れていました。

 どうも楽浪郡・馬韓・弁韓・辰韓時代から楽浪郡が滅び高句麗・百済・新羅の三国時代に朝鮮半島の政治地図が塗り替わった考えられる常識に誤りがあるのかも知れませんね。洛東江流域の伽耶・加羅諸国と百済の国に統一されたとされた、半島南西部の栄山江流域を中心とする地域から半島南部の地域は馬韓のまま残存していた可能性があるのではないか、5世紀、6世紀でも古代馬韓の人々が倭と連携して残存していた可能性があるという仮説です。

 栄山江流域の前方後円墳の被葬者は誰かという疑問に対して、現在、韓国・日本の古代史研究者、考古学研究者は発掘成果を元に研究が始まっている。北九州の甕棺と同じような墓制が発掘されていたり、この地域の独特の土器類、例えば鳥足紋土器が九州や列島からも出土する事実から栄山江流域の残存馬韓集団は倭と深い関係を持ちながら百済や伽耶や高句麗と対峙していた可能性がでてきました。

 この辺りの土器の研究や列島との考古遺物からの研究は進み始めたようです。参考までに白井克也先生の論文を紹介しておきます。

 百済土器・馬韓土器と倭

 先生の論文で以下記述されている内容は実に興味深いと驚いています。以下、白井克也先生論文から引用:

現在の全羅南道・栄山江流域は、原三国時代には馬韓の領域であったが、4世紀以降は百済の領域となったと考えられてきた。近年、この地域の墓制や遺物の独自性を評価し、全羅南道地域の百済への服属を5世紀末ごろと捉え、それ以前は成人甕棺葬などを特徴とする独自の勢力が存在したと考えられるようになってきた。原三国時代の馬韓の流れを汲むもの、あるいは『宋書』にいう「慕韓」に比定されることもある〔東1995〕。それらは北方から百済に圧迫されて領域を南に狭めつつも、5世紀末ごろまでは独自の古墳文化(大型成人甕棺など)を維持していた。前方後円形の古墳〔岡内(編)1996〕や埴輪類似の円筒形土器〔小栗1997〕が存在するほか、栄山江式石室が九州の横穴式石室に類似すること〔林永珍199750-51〕、この地域の陶質土器が須恵器の器形に影響を与えていることなど、日本との関わりは深い。栄山江流域の土器についても、百済土器ではなく独自の土器文化として捉えられる。独自の項目を立てるゆえんである。(日本出土の朝鮮半島土器 (3)馬韓土器ー両耳付壺・鋸歯文土器・有孔広口小壺・鳥足文叩き土器 より引用)

 4世紀の頃に高句麗が南下を始め特に広開土王の頃には高句麗が国土を拡大し南朝鮮半島の国々に侵攻が始まった。倭国は洛東江流域の鉄資源を守る為に幾度となく、かの地の人々から要請されて出兵し高句麗と戦ったのは史実だと思う。広開土王碑文はその歴史事実を記録されたものでしょうね。

 百済が出来たのは高句麗と同じ扶余民族であり、在来の土着の馬韓の人々ではない。南朝鮮半島西部の北部は百済となっつたのでしょうが、5世紀の頃はまだ栄山江流域は百済の主権が及んでいなかったのかも知れない。馬韓末裔達は倭と深い関係を結び生き延びた可能性がありますね。

 河内王朝最後の武列大王から、継体大王、安閑・宣化大王、欽明大王にかけての記紀は朝鮮半島の政治情勢ばかりが目立つ記述でありますね。如何に、倭国は激動する朝鮮半島と中国の政治変動に巻き込まれていたかが判ります。大伴金村が任那4県を百済の要求で割譲したという記紀の記述の背景は何だったんでしょうか。上多利(おこしたり)・下多利(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟ろの4県は朝鮮半島南西部の地域と想定されていますね。

 私の生まれ育った枚方市には蹉だ(さだ)という地名が残っていますね。現在は蹉だ神社があり菅原道真ゆかりの神社となっていますが、元々が『さだ』と呼ばれており歴史が古いと思います。牟ろという名前も地名で摂播5泊で有名な室津(朝鮮通信使が宿泊する場所)として今も地名が残っているのではないだろうか。

 倭の五王が宋よりより受爵した中で済・武は『使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王』という国で慕韓というのが栄山江流域の朝鮮半島西南部の地域ではなかったでしょうか。今後の、50%しか未だ発掘されていない、栄山江流域の前方後円墳の発掘成果と日韓両国の研究者たちの考古学遺物による両国の古代史解明に期待します。

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古墳出現の炭素14年代(日本考古学協会研究発表会) 感想

 承前 箸墓古墳築造時期は卑弥呼の死亡時期と同じ

 

 531日(日曜日)早稲田大学15号館3階にて日本考古学協会主催の研究発表会がありました。

  参考 日本考古学協会研究発表会アジェンダ

  私は前日に朝日新聞朝刊にセンセーショナルな記事が掲載された、箸墓古墳築造時期が西暦240年から260年であるという歴博(国立歴史民俗博物館)の研究グループの発表に衝撃を受けており是非とも、歴史的瞬間に立ち会いたいとの思いで研究発表会を聞きに出かけた。

  当日の午後は突然に夕立ちのような豪雨が降り始め、地下鉄西早稲田の駅から早稲田キャンパスの北門に着くまでに、傘はさしているが関係なくビショビショに濡れてしまった。

  (発表会)

  午後420分から45分ですから25分という短い時間しか有りません。

 発表者は春成秀爾・小林謙一さんでした。

  http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/ichiran/harunari.html

  http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/ichiran/kobayashi.html

 研究メンバーはこの二人以外に

坂本 稔・今村峯雄・尾嵜大真・藤尾慎一郎・西本豊弘という研究メンバー

で構成されている。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/ichiran/sakamoto.html

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/ichiran/imamura.html

http://kaken.nii.ac.jp/en/r/20399265

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/ichiran/fujio.html

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/ichiran/nishimoto.html

論文の主旨が『古墳出現の炭素14年代』だからでしょうか、論文執筆のメンバーに箸墓・纏向古墳群を扱うにしては橿考研や奈文研や関西の考古学の伝統大学関係者が名前を連ねていないのが奇異に感じた。

勿論、今回の調査で必要な原資料の提供や協力は関西の研究者がされた事が論文にも記載され、説明でもされていた。

 詳細なメモは別途、論文を読んで記録する事にしますが、当日の発表の

 概観についてメモを記録します。

     炭素14年代測定を補正する較正年代は日本産の樹木の遺体から紀元前240年から

紀元後395まで基礎データは確保している。日本固有の較正年代曲線を確保した。

     箸墓、纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳、纏向東田大塚古墳の年代測定が考古学的に

可能な遺物資料を関係研究機関より提供を受け測定を実施した。

     測定対象資料は89点を使用しそのうち72点は纏向遺跡に関係する資料である。

     纏向遺跡に於ける従来の土器形態による分類体系と今回の炭素14年代測定結果

に齟齬が無いかも確認した。

     結論は箸墓は西暦240年から260年の期間に建造されたと結論に達した。

  魏志倭人伝の記述が正しいとすれば、西暦247年に死亡し大きな塚を作った

  という記述の邪馬台国の女王 卑弥呼の墓は箸墓であると考えられる。

概略以上のような報告だったと思います。AMS法による炭素14年代測定と年輪年代法による樹木遺体の炭素14測定で較正年代曲線で補正した年代測定の確度が正しいとすれば今回の発表は明治から続いた邪馬台国問題や卑弥呼の陵墓の論争に終止符を打つ画期的発表になる。

しかし、私の印象ではこれから学会に於いて多くの研究者を巻き込み、検証作業が始まるという印象を受けた。歴史的発表にも関わらず、彼らに与えられた発表時間は25分である。質問時間も数名が質問できただけである。

これから、本格的な批判と論争が始まると思いますね。

子供の頃から憧れていた邪馬台国の女王卑弥呼さんが三輪山の麓の秀麗な

巨大前方後円墳に落ち着くのが個人的には安堵を覚えました。

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