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桜井茶臼山古墳(国指定史跡) 60年前の発掘では

 歴博の今回の炭素14年代測定で箸墓古墳は西暦240年~260年に建造されたという学会での発表で世間は驚いています。従来の学説では3世紀末から4世紀頭というのが通説でした。

 そんな折、6月13日に新聞では橿考研(橿原考古学研究所)が箸墓の南の磐余の地にある桜井茶臼山古墳の発掘調査で後円部の墳頂上の竪穴式石室上部に築かれた土壇を囲むように柱穴列が発見され、玉垣ではなかったかという発表内容が伝えられた。詳細は、先日、橿考研が発掘中に一緒に現地を訪問した京都のMuBlogのMuさんが詳細な報告をブログでされているので、是非、参考にしてください。

 MuBlog 桜井茶臼山古墳の後円部構造物、結界(玉垣)、神社?

 朝日新聞 同上ニュース

 この古墳は60年前、1949年(昭和24年)10月と翌年8月の2次発掘と橿考研が発掘をしており、1973年(昭和48年)に国史跡指定を受けている古墳です。先日の古墳訪問時の記事は以下の通りです。

 JoBlog 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行 目次

 MuBlogで書かれているように何故60年ぶりに再度、橿考研が今回発掘を敢行したのか興味がありますね。国指定史跡ですから、文化庁長官宛てに発掘申請がされている筈ですからそれを読めば、正式な目的は判るでしょうが、私の予想では史跡の崩壊危険や維持に問題がありそうで、その危険性と史跡維持の為の方策を考える調査ではないかと思います。

 が、それは名目であり本当の目的は別にあるかも判りませんね。(笑)そこで、60年前の発掘の内容を先ず捉えておきましょう。『探訪 日本の古墳 西日本編』森浩一編 有斐閣選書に記述されている桜井茶臼山古墳について以下ご紹介、引用致します。

 ・初瀬川が盆地に流出するところ。谷を隔てて、三輪山と鳥見山とが北と南に聳える。鳥見山の北側山麓に位置し尾根を切断し築造。

 ・鳥見山麓には多数の小規模古墳が存在するが横穴式石室を有する後期古墳が大多数で前期・中期は存在しない。

 ・浜田耕作氏の説である丘尾切断型の古墳であり主軸は南北方向、前方部は南面し前期古墳の標識とされる柄鏡式の典型古墳である。

 ・全長207メータ、後円部径110メータ、前方部幅61メータ、後円部は3段築成、前方部2段築成。墳頂部は平坦、石室を中心に石で縁取りをした方形壇が存在した。

 ・墳頂平坦部の径は東西27.5メータ、南北32メータで外縁にあたる部分に厚みのある細長の割石が一列に並べられており、その中に石室を囲む状態で墳頂外縁に置かれたのと同様の割石を使用して、北辺9.75メータ、西辺12.3メータの直方形状におかれその中央には方檀状に盛土があったのか部分的に扁平な割石が割石列石の上に傾斜して置かれた状態で検出され、傾斜面の下辺部のみを覆っていたものと解釈。(jo君コメント:今回の発表では北辺9.2メータ、西辺11.7メータと発表。この基壇の外側に沿って柱穴列が存在したという)

 ・この細長い割石列石と扁平割石で石室上面は方壇状に盛り上げられ装飾されていたいたものと推定されるが、その外側に底部穿孔の壺形土器が並べて置かれていたのである。(jo君コメント:今回の柱列穴の場所はこの場所かと思われる。)北辺で10.6メータ西辺で13メータの長方形状に置かれ石室の長径に沿っている。

 ・土器相互の間隔は殆ど無く、北側で24~25個が並び西側では29~30個の土器が幅1.4メータ厚さ25センチの帯状に小砂利を敷いた中央辺に胴部下半部を埋没させた状態であった。(jo君コメント:円筒埴輪の祖形ではないかという考えが定説です)

 ・竪穴式石室ですが、後円部中央に幅5.4メータ長さ10.6メータの長方形状の墓壙の中に全長6.75メータ幅中央部で1.13メータ北辺で1.28メータ、南辺で97センチ高さ1.6メータの石室が構築されていた。

 ・石室床面には巨大なトガの木で作られた木棺片(jo君コメント:今回の発掘でコウヤマキと訂正された。)玉杖・硬玉製勾玉・玉葉・鍬形石破片・ガラス製小玉・鉄鏃・鉄製工具片・鏡片・五輪塔型石製品等々が発掘された。

 (問題点)

 ・メスリヤマ古墳と同様に磐余地方という歴史的地域に存在する事は、三輪山を囲む地域に分布する箸墓や石塚など纏向一帯の古墳群や、北方に分布する行燈山古墳(崇神)・向山古墳(景行)・西殿塚古墳などの柳本町一帯の古墳群との関連で初期ヤマト政権とのかかわりに於いて重要な意味を持つ。

 ・丘尾切断→柄鏡式古墳→前期古墳の典型である。

 ・墳頂部に遺存する方壇状の存在も、箸墓・西殿塚など他の前期古墳にも規例が見出され、その施設としての意義なども問題となりえる。

 ・調査当初より問題とされた底部穿孔の壺形土器は出土状態や配列が埴輪列に類似するところから、円筒埴輪の初現形態として捉えられ、埴輪起源の問題に重要な提起がなされた。

 ・近藤義郎・春成秀爾(ひでじ)両氏によって吉備地方の弥生時代後期墳墓群より出土する特殊壺・特殊器台形土器と名づけられた遺物の系統的な発達によって生じた都月型の埴輪を初源的な円筒型埴輪とする考え方が提示された現在でも朝顔形埴輪への転化が考えられる土器として重要視されている。

  即ち、供献の器としての壺形土器は儀礼の形式化に伴い目に触れない部分はどのような形を呈しても良かったので、器の安定という事を考慮して地中深く埋める事が要求され、土器が仮器化して転化したのではないかととの見解であるが、全てが埴輪化したのではなく、底部穿孔土器のまま儀器として使用されていた例も存在するところから、茶臼山古墳の壺形土器の場合も壺を主体ととする一つの祭祀形態を考える必要があり、その一例として考えるべき点もある。

 ・玉杖→碧玉製杖頭と鉄芯を通した管状の碧玉製品で杖身を構成 玉葉→中国の玉製葬具の眼玉に通じるとされる玉で出来た目玉

 ・箸墓に於いても後円部から特殊器台形及び壺形埴輪が出土し吉備との関連が注目される。

 参考 橿原考古学研究所 巨大埴輪と磐余の王墓

 私の感想に入ります。磐余(いわれ)という場所は竹ノ内街道から難波へ通じる街道と伊勢に通じる伊勢街道そして北には山の辺の道から木津川、琵琶湖に通じる街道が交差し同時に海運として大和川の上流地点であり海路、大陸の物資はここに運ばれた都市としては申し分ない場所でした。そして、古代最大のマーケットである海石榴市(つばいち)が形成されていました。

 日本書紀によれば、初代天皇は神武天皇とされていますが、彼の大王時代の名前はイワレヒコ(磐余の男)と呼ばれていた。そして、彼は茶臼山古墳から尾根伝いに辿りつく鳥見山を崇め祭祀を行ったと記紀は伝えています。それだけ重要な神聖な場所に鎮座する桜井茶臼山古墳はヤマト王権成立と深い係わりがあると考えるのが素直ではないでしょうか。

 巨大な初期の前方後円墳に丁重に被葬され王として相応しい玉杖や夥しい鏡群の埋葬を考えると、盗掘前にはどれだけの宝物が埋葬されていたかと思われます。イワレの王に間違いはないでしょうね。

 今回新たに発見された墳頂上の土壇を囲む木柱列の穴ですが、玉垣説と土壇を覆う建物の柱という説があります。どちらでもいいと私は思いますが、葬送儀礼の背景の宗教観の方が重要と思います。前方後円墳の形状について最近は壺形宇宙の神仙思想の影響であるという考えが主流ではないでしょうか。

 最近、『古代日本と神仙思想』藤田友治さん、『祭祀空間・儀礼空間』国学院大学日本文化研究所、『オオヤマト古墳群と古代王権』オオヤマト古墳群シンポジウム実行委員会の本を読んでいますが、益々、ヤマト王権が出現する頃には中国大陸から神仙思想が伝播したと考えるようになりました。

 三角縁神獣鏡にしても明らかに神仙思想であり、中国長江流域の呉・越地方の影響を受けたと考えられます。60年前から既に茶臼山古墳の後円部には王墓の上に土壇を築き石で縁を覆われており底部穿孔の土器が綺麗に周囲に半地下の形で埋められ聖なる空間を形成していた事は判っていたのです。

 中国では天円地方(天は丸く、地は四角という思想)という考えがあり現在でも天壇にそれを見る事が出来ますね。土地を治める王の祭祀だけでなく、豊作を祈ったり、雨乞いの行事とか色んな国家運営に関わる祭りをここで行った可能性が高いと思います。

 最後に、今回ご紹介した森先生編集の本で登場された、現在歴博の部長さんの春成秀爾(ひでじ)先生は今回の箸墓古墳築造を炭素14法で240年から260年と発表した本人なのです。

 個人的には茶臼山古墳の再発掘で最新の炭素14AMS法を使い年代測定をされるのを期待しています。60年で考古学を取り巻く関連科学の進歩は著しいですからね。

 

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Comments

いやはや
 なんともうしましょうか、さすがわ早稲田の老考古学生ですね。

 神仙思想については、以前からJoさんの十八番でしたが、大体わかってきました。

 磐余の男のもとには大陸からすでに文明が、わが日の本に押し寄せていたのですね。墓制とか祭祀スタイルまで受け入れていたとすると、根が深いですね。そこで、長江。

 卑弥呼さんないしその先祖さんが長江あたりから倭に上陸したという話は、そこここで目にします。

 ともかく、桜井茶臼山古墳、すなわち磐余と、先の箸墓、すなわち纒向とが、こんごどのように結ばれていくのか、楽しみです。

Posted by: Mu | 2009.06.23 04:16 PM

 Mu旦那はん お元気そうですね

 次回は継体天皇の今城塚古墳でしたね、楽しみにしていますよ。

 しかし、山の辺の道に沿って築造されたオオヤマト古墳群(北から大和古墳群ー西殿塚古墳、東殿塚古墳、中山大塚、下池山)、柳本古墳群(行燈山、渋谷向山、黒塚、天神山、櫛山)、箸中古墳群(箸墓、石塚、勝山、ホケノ山)そして磐余のメスリ山、茶臼山となりますね。

 初期ヤマト王権誕生の場所であります。現在オオヤマト古墳群を世界遺産に登録しようという動きがあるようですが、整備が必要でしょうね。

 山の辺の道、竹ノ内街道、伊勢街道、古代の街道を再度、文化的に再整備する考えは素晴らしいと思いますね。解説本は司馬遼太郎さんの「街道をゆく」です。

 さて、茶臼山古墳、石室も調査したんですね。沢山の年代測定用の資料は採取したでしょう。1年後の発表を楽しみにしましょう。

Posted by: jo | 2009.06.23 05:19 PM

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