平城京遷都1300年記念イベント 平群広成の大冒険
平城京遷都1300年記念も来年となりましたね。平城京時代を現代の子供たちに、当時はどうだったかを説明するには、不肖jo君であれば表題の『遣唐使 平群広成の大冒険』を企画したいと思いますね。
以前に東アジア大激動期の平城京について、彼の事も触れました。過去記事 出雲心の旅(その弐)
私は5世紀には権勢を誇った平群氏の後胤の中流官僚の広成が当時の中国の唐王朝、チャンパ王国、渤海国、統一新羅、に翻弄された苦難の外交活動にスポットを当てるべきではないかと考えています。当時、唐により滅ぼされた高句麗は靺鞨(まっかつ)族と連合し渤海という国を建国し唐・統一新羅と対立していました。
渤海は何度も平城京に使者を出し、軍事連合を組もうと誘います。渤海国は迫りくる唐・統一新羅との戦争に備え平城京の政府に緊迫の誘いがあるのですね。そんな折、平城京の政府は統一新羅に知られなように唐に遣唐使を出し政治情勢を探るのです。
天平5年(733年)に平群広成は遣唐大使、多治比広成の配下の判官の一人として遣唐使船4隻の中に乗り込み、難波津から筑紫の大浦津から蘇州を目指した。
現在の上海付近ですね、古代から九州と中国の船のルートは長江河口と繋がっていたのです。海流の関係ではないかと考えています。多分、水稲稲作も現在の我々が発音する呉音も蛇信仰も鳳凰信仰もこのルート及びそのバリエーションで伝播したんでしょうね。
さて、玄宗皇帝に拝謁し渤海国が山東半島の北部を既に攻撃し始めた情勢を遣唐使は把握し、玄宗皇帝が統一新羅にも渤海国を攻撃する命令を発した事を知る。吉備真備や玄昉は帰国団に加わるが阿倍仲麻呂は科挙試験に合格しており玄宗皇帝の信頼も厚く帰国は見送ります。平群広成を含む船団は蘇州を発し九州に向かうが、大使の乗る船だけが種子島に漂着、副使の船は福建省に漂着したが、あと二船が行方不明となる。
平群広成の乗る船は何と、ベトナム中部の現在のフエ近辺に漂着したという。チャンパ王国の国である。随分と流されたものですね、奇跡的に平群広成と数名の水夫が助かりチャンパ王国の捕虜となる。チャンパ王国はクメール王朝と激しく戦っており少し時代が新しいが当時のクメールとの戦争状況がアンコール・トムのレリーフに残されています。
参考過去記事 アンコール・トム レリーフ写真集
参考過去記事 アンコール遺跡の旅(その1) (その2) (その3レリーフ)
平群広成は奇跡的に中国の華僑に助けられチャンパを脱出し長安に帰る事が出来たのですね。どのような経路で長安に帰還出来たかは、欽州から長安へのルートを彼の帰国後の資料を辿れば判明すると思います。
長安には阿倍仲麻呂がいました。幸いにも渤海国と唐とは和解が成立し戦争状態は脱していたのですね。しかし、統一新羅と平城京政府の関係は緊張状態だったので、阿倍仲麻呂の玄宗皇帝への根回しにより広成は山東半島北部の登州から海路渤海国に渡り現ロシア領の渤海国の塩州(現在のポシェット湾)から船に乗り出羽の国に到着したとある。
この平群広成の6年間に及ぶ外交官としての波乱万丈はまさに、当時の平城京の国際政治の困難さを乗り切る中流の官僚の涙ぐましい努力と映りますね。当時の役者が揃い、今で言う課長クラスの人の波乱万丈物語としてもっと光をあててもいいのではと思います。
昔、富士通時代にメインフレームのハード屋さんの親玉として活躍され役員も経験された平栗さんという大先輩がおられました、彼の出身は平群でしたね。平群一族の末裔なんでしょうかね。夢は繋がるのですね。
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Comments
日本国をどう考えればいいのでしょうね
日本というのはどういう国なのでしょう?
今はアメリカの50州目の州さ、なんて悪口をいう人がいます。
言われてみればそのような感じもしますね。
政治、経済、防衛、どこにも独自のものは無くアメリカと一蓮托生、しかもテキは全くそうは思っていない。
貴兄の描く古代の日本と、今の日本はどういう関係にあるのでしょうか。
卑弥呼、という言葉の響きに、どこか日本とは掛け離れたような印象を覚えます。
文字のせいでしょうか?ヒミコという音のせいでしょうか?
日本にはもともとどういう民族がいたのでしょうねえ。
大昔はユーラシア大陸と陸続きだったようですが、それが地殻変動で、日本列島は離れ小島になっちゃった。
陸続きの時代、ロシア、朝鮮、中国と同じような生き物が日本にもいたのでしょうねえ。
日本の歴史と朝鮮とか中国とかからの流民、難民達との関係、どちらがどういう影響を与えたか、それも衣食住において政治制度において経済において文化において。
卑弥呼の墓が箸墓だったとしたら、何か日本の歴史の解釈が変わるのでしょうか。
日本の歴史の解釈が変わったとしたら何か今の日本に影響があるのでしょうか。
歴史学とか考古学とかをやられているお方は、そこらへんについてどうお考えなのでしょう。
単に(学会の縄張り争いの決着)のためだけの議論なのではないのでしょうね。
いや君、これはロマンなんだよ、古代へのロマンなんだよ。
いや違う、歴史を知ってこそ今はあるんだ、そして将来もあるんだ。
そんなことより、真実は何か?を究める道なんだ、真実に昨日も今日も明日もない。
どうも(歴史音痴)の当方にはそこんところの機微が分かりません。
いろいろ錯綜した声が聴こえてくるようです。
Posted by: ふうてん | 2009.06.13 01:12 AM
ふうてんさん おはようさんです
この国のかたちは何なんでしょうか。司馬さんも晩年に『この国のかたち』というシリーズを書き続けましたね。
私が日本列島の歴史に強く興味が涌いたきっかけは、米国駐在の時でしたね。何故私や家内の考えとカリフォルニアにいる人と違う考えがあるんだろうか。その時は説明が出来ませんでした。
空気のように当たり前のような事は考えた事もないのですね。帰国後から本格的に私を育んだ日本列島の歴史を勉強するようになりました。
考古学や歴史学というのは、人間が過去に何をしてきたのか、何故そのような事をしてきたかを解明する事と考えています。我々が死滅しない限り延々と続く話ですね。過去をチャラには出来ない訳です。
卑弥呼さんの話はロマンもありますが、日本列島に初めて国家の原型が出来た時と考えられるので、国家というかたちを考える上で重要なんだと思います。
戦後生まれの私が暮らしてきた62年間は日本の近世史としては珍しい平和な時代でした。アメリカの傘の下で安全保障の問題は考える必要も無かったからです。
日本も何度も過去の歴史に於いて戦争の危機に直面し、それを乗り切ってきたのが歴史です。4世紀5世紀の頃の朝鮮半島での鉄の争奪戦、飛鳥時代の白村江での敗北、奈良時代の唐・渤海の戦争、モンゴル帝国の世界制覇の野望との戦い、等々危機が幾度とありましたね。
海外を歩いていると、歴史の過酷な運命に晒された国々の人々と出会います。メキシコでスペインは何をしたのか、ベトナムに中国・アメリカは何をしたのか、カンボジアにはどうだったのか。
我々の歴史は常に危険と隣り合わせにあるのが真実だと考えています。弱肉強食という論理は今も歴然と存在しています。
平城京の時代に膨張する唐帝国に対して、朝鮮半島を巻き込んだ戦争が起こる危機が存在した時に平城京の政府はどう対処したのか、平群広成なる中級官僚の行動を通じてその断片を知る事が出来るのではないでしょうか。
懸命に生きてきた先祖達の足跡を辿る事で今生きる我々は参考になる事が沢山あるのと違いますかね。
Mu旦那さんは卑弥呼さんをどう考えておられるか、私は判らないけど、私はロマンを感じます。何故ロマンを感じるか説明は出来ません。
Posted by: jo | 2009.06.13 06:21 AM