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縄文時代の関東 その1

Photo  写真の赤い線は今から6千年前~5千5百年前(縄文前期)の関東地方の海岸線であります。大雑把で失礼ですが、縄文海進期の海岸線と考えられます。この海岸線が何故判るかとといと、貝塚遺跡分布、約1600箇所の分布で判るのですね。

 特に奥東京湾は西は東京の田端駅近く(中里貝塚)、東は千葉の市川(堀之内貝塚)からず~~と北の群馬県の藤岡市あたりまで湾が入っていたそうです。これを、奥東京湾と呼ぶそうですよ。私が住んでる新横浜は勿論、鶴見湾の海底でしたね。これは昔話だけど、現在とは関係ない話ではないのですよね。

 地球温暖化が進行すると地球の70%以上を占める海の水は膨張するし、南極や氷河の氷は融けて海水面を上昇させるんですね。縄文海進時期の海面水準は2~3メータ上昇し東京湾は群馬県の館林市や藤岡市、茨城県古河市まで達していたそうだ。たったの2~3メータ海面が上昇するだけでこれだけ海進が進むのですね、驚きです。

 5千3百年前頃から気候の寒冷化が始まり海面水準は1メータ程低下し、急激な海退が始まったという。4千5百年前には埼玉県草加市や三郷市まで退いたという。その8百年間に海岸線は40キロ後退し、年平均で50メータも陸地が拡大した。その後安定期が続き、気候の寒冷化が始まり3千年前から1千8百年前にかけて再び海面の低下が始まったという。海岸線は大きく後退したのですね。

 縄文晩期から弥生前期にかけての時代である。そして、縄文人は低地に進出し稲作農耕を開始し、弥生時代が訪れるのです。

 縄文時代とは今から1万6千年前から始まり紀元前6世紀から8世紀に終結したと考えられています。これはAMS(放射性炭素年代測定、加速器質量分析法)により、土器付着有機物、炭化物や地層の有機物のAMS法による年代測定結果です。1万6千年前といえば、ヨーロッパは氷河期の時代に日本列島では縄文土器を作り始めたのですね。1万6千年前の気候は今より6度C低い寒い気候であり、関東地域は今の札幌あたりの気候だったそうだ。

 世界最古の土器文化を築いた日本列島の人々の暮らしはどうだったんだろうか。

 縄文時代の区分としてはAMS法区分では

 草創期(16000年前~12000年前)、早期(12000年前~7000年前)、前期(7000年前~5500年前)、中期(5500年前~4500年前)、後期(4500年前~3300年前)、晩期(3300年前~2800年前)本当に一万年以上の長い年月をひと括りに縄文時代と呼ぶのは変ですよね。

 所で何故、縄文時代と区分されるような時代が旧石器時代から変化したのでしょうか。高橋龍三郎先生の話では日本列島が針葉樹林で覆われていた植生から温暖化により、照葉樹林が西日本から押し寄せ関東から東北に及ぶ一帯まで広がった事が一番大きな原因であるという。捕獲する動物も木の実も漁労も大きな影響を受けたという。

 其れまでは槍で狩猟をしていたのが、弓矢の発明があったという。葉が生い茂る森で、中小型動物の捕獲をするには弓矢が必要だったんですね。具体的な関東の遺跡から縄文時代の生活を調べてみましょう。

 

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