« April 2009 | Main | June 2009 »

国宝 七支刀 空白の4世紀

 石上神宮所蔵神宝の七支刀は国宝であります。この刀は異様な七枝を持つ刀であり表裏に文字が彫り込まれている。中国文献に登場しない4世紀の日本列島を探る重要な資料であります。全長74.9センチ、刀身65.5センチ鍛造された軟鋼で出来ており儀刀とも呪刀とも呼ばれている。

 写真 国宝 石上神宮神宝 七支刀

 この銘文の解読は困難を極めており過去多くの議論と学説が登場しています。そして、当時の倭国と百済の関係は如何なるものであったのかを読む貴重な資料であるにも関わらず日本側と韓国側では意見が対立しています。しかし、この刀は物部氏の精神的拠点である石上神宮の神宝であり簡単に科学的な解明も難しいと思います。

 過去記事 石上神宮と出雲

 そこで、参考までに岡山大学名誉教授の吉田晶さんが書かれた『七支刀の謎を解く』という本を読みメモを残すことにしました。

 ・明治6年~9年に石上神宮の大宮司の菅政友氏がこの刀に文字が刻まれている(金象嵌銘文)事を発見する。解読に努力する。

 ・明治25年星野恒氏が『七枝刀考』にて、この刀は日本書紀の神功皇后摂政52年9月丙子条の『七枝刀一口』の刀の事であると指摘する。

 ・日本では福山敏男氏・榧本杜人(かやもともりと)氏の研究、韓国では金錫亨(きんしゃっきょう)氏などが銘文解釈研究を行った。韓国の学者の立場は百済がヤマト王権に下賜したという見解で銘文の解読を行っている。金錫亨さんの説では泰和の年号は百済の年号であり5世紀の話であると述べ、「下行文書」形式であり「侯王」とは百済の下位に見る見解である。

 ・それに対して福山・榧本氏の考えは泰和4年とは東晋の太和4年であり369年で4世紀の時代の話であると展開し、現在は百済に独自の暦は存在しないという事は確定したそうだ。

 ・吉田晶氏の銘文解読を紹介します。

 ・(表)泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練、金偏に夷、七支刀出辟百兵宜供供侯王□□□□作祥

  泰和4年(369年)11月16日、丙午(刀剣を作るのに良い日)と正陽(良い時刻)を選んで、よく鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀はあらゆる兵器による災害を避けることが出来、礼儀正しい侯王が所持するのに相応しいものである。○○○○の作っつたものである。

 ・(裏)先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世

  先世以来、このような刀は無かった。百済王の世子である私は、神明の加護を受けて現在に至っている。そこで、倭王の為にこの刀を精巧に造らせた。末長く後世に伝えられる事を期待する。

 と解読されています。ここで、世子とは近肖古王の息子の貴須王子(近仇首王)であると考えていますね。この頃は百済は高句麗、新羅と戦い特に南下する高句麗と激しい戦争をしていた時期であります。倭は伽耶・加羅諸国の鉄を確保する為に駐屯し三国の戦争の狭間におり伽耶・加羅諸国を守っていた。

| | Comments (2)

まゆさんの独演会

20095mayu_007  昨夜、神楽坂で『まゆさん』の独演会がありました。

早稲田大学キャンパスから歩いてゆける距離でしたので、講義が終わってから出かけた。

 『Mash Record』 東京都新宿区天神町15 京ビル地下1階

何時も、上野の『けんた&アトム パパ』からお誘いの連絡を頂いています。

私が到着した時は既にコンサートは始まっていたが、正木さんが迎えてくれた。

20095mayu_002 20095mayu_010  私が到着した頃は既に『けんた&アトム』は帰宅したあとで、二人のワンちゃんには会えませんでした。

ポップコーンとビールを片手に、久しぶりに『まゆさん』のコンサートを楽しみました。

20095mayu_009  正木の旦那は録音、録画、照明、ミキシングと忙しく裏方をやっておられました。お客さんは、『まゆさん』の常連のそれなりの年齢の方々ばかりでしたね。(笑)暖かい雰囲気のいい演奏会でした。

お二人さん、御苦労さんでしたね。ありがとう。

  動画映像 まゆさん演奏

 (閑話休題)

 昔からお世話になっている自由が丘のバー『八甲田』のマスターが大好きな曲で私も覚えさせられた曲二曲のご紹介です。スサーナの曲です。

  Graciela Susana 『Adoro』アドロ

  Graciela Susana 『El Reloj』時計

| | Comments (2)

ETV特集 日本と朝鮮半島2000年 第二回(予告)

 NHK 本日放送予定御案内

 本日夜10時からNHK教育テレビで上記、『日本と朝鮮半島2000年 第二回 任那日本府』が90分番組で放映されるので、是非、暇な人は観られたらどうでしょうか。

 参考 過去記事 第一回放送関連記事 古代人々は海峡を越えた

 最新の朝鮮半島での考古学による発掘調査での遺構・遺物から当時の日本列島の倭国と朝鮮半島諸国の関係を考える番組です。ポイントは4世紀の洛東江流域=鉄生産拠点、の狗邪韓国の弁韓・辰韓から伽耶・加羅諸国と新羅への歴史の流れと、5世紀末頃からの栄山江(ヨンサンガン)流域の続々と発掘される13基もの前方後円墳であります。

 日本列島の歴史を考えるに、朝鮮半島で生産される鉄が如何に重要であったかというのが私の感想です。5世紀の河内に巨大な前方後円墳を築いた王朝の時代は未だ、朝鮮半島の鉄に依存していた。しかし、継体大王(天皇)の時代から日本列島で鉄生産が始まるのです。その時代から、朝鮮半島の南部地域は日本列島の国にとり重要では無くなりました。勿論、大陸文化を吸収する場所としては重要だった。

 継体大王までの日本の王朝の歴史は、朝鮮半島の鉄抜きには考える事が出来ないと思います。6世紀に大伴金村が確か512年だと思うが百済から任那4県割譲要求を受け入れ譲渡し政治生命を失う大事件がありましたが、もう朝鮮半島南部の重要性が無くなっていたのではないかと私は考えています。鉄の時代ではない、仏教や大陸の先進文化文明の方が重要になっていたんですね。

 日本書紀では一貫して南部朝鮮半島はヤマト王権が支配していた地域であり、任那という植民地支配拠点を持っていたと主張しているが、事実関係は鉄を巡る相互互恵の関係ではなかったかと考えています。多分、NHKの今夜の番組もそのような論調ではないかと推察します。考古遺物をベースに新しい朝鮮半島南部と日本列島のヤマト王権との関係を探る新しい時代に入ったと思います。

| | Comments (2)

桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行 目次編

 2009年3月、京都のMuBlogのMuの翁と二人で桜井茶臼山古墳から纏向遺跡の古墳群を紀行しました。その時の記録集であります。同時にMuBlogの記事と連携しております。

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(1) 磐余(イワレ)

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(2) 茶臼山古墳

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(3) 箸墓古墳

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(4) ホケノ山古墳

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(5) 纏向石塚古墳

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(6) 纏向勝山古墳

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(7) 纏向矢塚古墳

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(8) 纏向東田大塚山古墳

 ・桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行 おわりに

 ・MuBlog 桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行

| | Comments (0)

箸墓古墳築造時期は卑弥呼の死亡時期と同じ

 このセンセーショナルな見出し記事が朝日新聞本日朝刊で踊った。

 朝日新聞 箸墓古墳と卑弥呼

 国立歴史民俗博物館は箸墓古墳の築造時期は放射性炭素14法と年輪年代法による較正年代補正曲線により、箸墓古墳の築造時期の土器である布留0式の付着炭化物の年代測定より、土器は西暦240年~260年頃に作成された事を発表したと伝える。これは、箸墓古墳が卑弥呼死亡時期である西暦250年と同時期である事を意味し、箸墓が卑弥呼の墓であると述べているに等しい。

 この歴博グループは今月末、早稲田大学で開催される日本考古学協会主催の学会で報告される予定と伝えています。これは、必ず出席しないといけませんね。一応、私も学生証がありますからね。(笑)

 参考過去記事 弥生時代の始まりは500年早くなりそうです。その1

 参考過去記事 弥生時代の始まりは500年早くなりそうです。その2

 上記、一連の記事で報告していますが、歴博の研究グループでは放射性炭素14法のAMS法と年輪年代法による過去の地球環境の放射性炭素14の濃度測定による濃度変動を考慮に入れた較正年代曲線により、今までの考古学の成果である相対編年の土器編年に実年代を与えて行く作業をしておられます。

 今まで弥生時代は紀元前500年頃に水稲稲作が日本列島に伝わり弥生が始まったというのが通説でした。しかし、歴博の研究グループは中国、韓国の研究グループとも連携し土器に付着する炭化物の放射性炭素14法のAMS法による年代測定と較正年代で補正を加え、北九州の玄界灘沿岸では紀元前千年頃に水稲稲作は伝わり、弥生が始まったと主張しています。

 この方法により日本各地の土器に付着する炭化物を分析し、従来の土器編年表と齟齬がないかを研究しておられます。最大の問題は纏向遺跡の実年代であります。寺沢氏、石野氏、等々の考古学者により詳細な土器分類が既に完璧に近く相対年表はできています。そこで、それに実年代を与える作業が歴博の今回の研究テーマであります。

 箸墓古墳は宮内庁が管理する立ち入り禁止陵墓であります。そこで、周濠や周りの発掘考古学遺物により年代を迫るのですね。

 31日が楽しみです。

参考過去記事  桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行 目次編

参考記事 MuBlog 卑弥呼の墓

| | Comments (4)

天璽瑞寶十種(あまつしるしのみづたからとくさ)

 三種の神器については、誰でも御存知の皇室の神器ですが、先代旧事本紀によれば、物部氏の伝承としてどうやら、十種の神器が存在したようです。これは、天璽瑞寶十種(あまつしるしのみづたからとくさ)と呼ばれています。

 しかし、何ですね、先代旧事本紀の漢文と読み下しやまとことばを半年前から読んでいますが、とても面白いです。例えばこんな按配ですよ。

 『先代旧事本紀 巻 第五 天孫本紀』 これを、やまと言葉で読むと以下のように読むそうですよ。『先代旧事本紀(さきのよのふることのもとつふみ) 巻 第五(いつまきにあたるまき) 天孫本紀(あめみまのもとつふみ)』こんな按配なんですね。中国大陸か朝鮮半島から渡来した漢文に通じた人は、ヤマトの人が喋る言葉を聞いて、漢文に文章として作成した現場とはどんな風景だったんでしょうね。

 古代では各氏族単位に語り部という専門職があり代々、氏族の歴史を口伝で伝えて来た事は事実ですね。『古事記』は語り部である稗田阿礼の口伝を太安万侶が書き記したと謂われてますよね。大事な事は口伝というのがヤマトの国ではその後も綿綿と続いていると聞きます。出雲の国造家では今も語り部が存在し、秘かに歴史書には書かれていない事実を伝えていると、司馬遼太郎が語っていましたね。

 さて、本題の天璽瑞寶十種についてです。東海大学准教授の志水義夫さんの論考を参考に少しご紹介します。

 ・天璽瑞寶十種は巻三「天神本紀」と巻五「天孫本紀」ででてきます。

 ①沖都鏡(おきつかがみ)②辺都鏡(へつかがみ)③八握剣(やつかのつるぎ)

 ④生玉(いくたま)⑤死反玉(まかるかへしのたま)⑥足玉(たるたま)

 ⑦道反玉(ちかへしのたま)⑧蛇比禮(おろちのひれ)⑨蜂比禮(はちのひれ)

 ⑩品物比禮(くさぐさのもののひれ)

 比禮(ひれ)とは「ひらひらするもの」とされ、首から肩にかけて垂らす薄く細長い布で、振り、揺らすことで呪力を発揮すると言われる。(壬生幸子共栄大学教授)

 そこで、驚愕する事が書かれている。それは、死んだ人がいても、この十種の神宝と呪文を唱える事により生き返るというのだ。その呪文とは、『一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部』これを、やまと言葉で呪文にすると『ひふみよいむなやここのたりや ふるべ ゆらゆらと ふるべ』となります。

  物部氏とは死者を生き返らせる事が出来る、天皇家も恐れる祭祀集団であった事を意味しています。しかし、ニギハヤヒ(饒速日命)の息子のウマシマジ(宇摩志麻治命)がこの十種神器を神武天皇に差し上げた事になっている。そして、天皇家の祭祀を担当する事になったという。

| | Comments (0)

世界遺産について

 観光にでかけた場所で「世界遺産」と書かれた看板を観て、へ~ここは世界遺産なんだ~、と驚く人も多いのではないでしょうか。私はあまり興味が無いですが、家内が世界遺産が好きで、旅行を計画する時にかなりな比重で「世界遺産」というブランドが訪問先優先リストに採択されます。そういう意味では、観光事業を考えると「世界遺産ブランド」は重要なんですね。

 さて、現在日本では幾つ「世界遺産」があるか御存知ですか。日本ユネスコのホームページを見てみましょう。 日本の世界遺産リスト 現在14件の世界遺産の場所があるのですね。私が未だでかけてないのは、白神山地だけでしたね。(笑)意外と、世界遺産好きなんでしょうか。

 最近、日本は「世界遺産」登録で苦戦をしているそうです。石見銀山遺跡とその文化的景観というは、最後に逆転成功し登録できたそうです。石見の銀が如何に世界に影響を与えたか、そして環境に配慮した鉱山の開発と輸送ルートを含む町のシステムが最後に評価されたという。

 しかし、昨年は「平泉の文化遺産」これは、認められませんでした。「国立西洋美術館」はフランスを中心に数カ国で一緒に提案しているが、難しいという。最近の暫定リストについて、文化庁のホームページから状況を見てみましょう。

 本年1月26日に開催された文化庁の文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会議事次第という、やたら長い官僚がつけそうな名称ですね。

 1.ル・コルビュジェの建築と都市計画

  20世紀の世界中の建築と都市計画に影響を与えたという、フランス人ル・コルビュジェの建築作品と都市計画作品を世界遺産にしようという提案です。ドイツ・ベルギー・アルゼンチン・フランス・スイス・日本で共同提案する案件です。日本は国立西洋美術館を提案しており、昨年10月にイコモス(国際記念物遺跡会議)の専門チームが来日し調査を敢行した。来月の下旬にセビリアでイコモスの専門家会議が開催される予定で、この案件が登録妥当であるか判断される。国立西洋美術館本館

 問題が2点あるそうで、先ず個人の作品に注目した文化遺産は認定が難しい、第2の問題点は都市計画の作品を提案する予定であったインドが事情により提案グループより脱落した事で都市計画の遺産が無くなった。どうやら、雲行きは怪しいようですね。

 2.新たに暫定リストに追加三件   

   詳細の日本語、英語の暫定リスト提出書類は、暫定リスト参照

 2.1 北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群

   世界の新石器時代の文化は農耕・牧畜であったが、日本列島の温暖湿潤気候で1万年近く定住・漁労・採集・狩猟生活をした考古学的遺産を提案。しかし、埋蔵文化財を世界遺産に登録するのは難しいのと違いますかね。私は賛成だけど、外人をどう感動させる事が出来るんでしょうか。

 2.2 九州・山口の近代化産業遺産群

   19世紀中頃の非西洋諸国地域に於いて短期間で近代化を築いた産業遺産群は西欧の植民地帝国主義の脅威の中、築かれた。政府・民間が力を合わせ短期間で西欧に追いついた産業遺産群は世界初であり世界史的に普遍的価値があると提案。

   確かに、八幡製鉄所の建設に繋がる、萩の反射炉や鹿児島の集成館機械工場や沢山ありますね。

 2.3 宗像・沖ノ島と関連遺跡群

   4世紀から10世紀の東アジアで大陸との交渉に於いて航海の安全を祈る国家的祭祀が行われた、沖の島と祭祀に関わった有力氏族に関連する考古学的遺跡からなり、「島」に対する日本独特の自然崇拝の原初的形態は遺跡として残り、且つ、現在尚続いている。その過程を明確に示す資産として残っている。東アジア最大級の祭祀遺跡の沖ノ島や宗像氏の関連考古学的遺跡を含む。

 2.4 金と銀の島、佐渡

   石見銀山との関係が明確でなく、再度、拡大統合を視野に再度検討が必要。

 2.5 百舌鳥・古市古墳群

   宮内庁との話し合いが必要ですね。

 3. 暫定リスト準備状況

  3.1 古都鎌倉の寺院・神社ほか

  3.2 彦根城

  3.3 富岡製糸場と絹産業遺産群

  3.4 富士山

  3.5 飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群

  3.6 長崎の教会群とキリスト教関連遺産

  3.7 平泉の文化遺産

  3.8 国立西洋美術館

    3.9 小笠原諸島

 平泉は苦戦しており、新たに推薦委員会を作りイコモスを説得する資料作成を急ぐようですよ。そして、世界遺産の条件である顕著な普遍的価値(OUV)=Outstanding Universal Valueの参考資料があります、読んでおく必要がありますね。

| | Comments (0)

利尻・礼文 紀行計画

 JR北海道の彩りの島々『利尻・礼文』というカタログを眺めていて、北海道の娘の家に出かけるついでに、二泊の旅にでようと計画案を作成した。

 (初日) 夜11:00発  札幌大通バスセンター →→(車中泊)→→ 稚内

 (二日目) 朝5時30分 稚内港着 稚内港 朝6時30分発フェリー→→→→利尻島鴛泊(おしどまり)港 朝8時10分着 観光バス 秀峰利尻富士巡り 朝9時40分発→→(所要時間3時間20分)→→午後1時 鴛泊港帰還 午後1時15分発フェリー→→→→礼文島香深(かふか)港 1時55分着 観光バス 夢の浮島礼文巡り2時10分発→→(所要時間3時間)→→午後5時10分 香深港着  (礼文島泊)

 (三日目) 朝トレッキング 桃岩展望台コース  午後1時05分発フェリー→→→→稚内港午後3時着  稚内発札幌行き特急スーパー宗谷 午後5時48分発→→→→札幌着夜10時47分着 

 札幌を夜中(11時)にバスに乗り一路、稚内港を目指す。翌日の早朝5時30分には到着するので、軽く朝食をとり6時30分発のフェリーにて利尻島を目指す。所要時間1時間40分で利尻島に到着する。

 利尻島の観光バスはA,B,C,と3種類の観光ルートがあるようなので、Aルートの9時40分発の秀峰利尻富士巡り(所要時間3時間20分)か、Cルートの8時20分発の大自然利尻巡り(所要時間4時間30分)で観光する。

 Aコース:鴛泊港→姫沼→オタトマリ沼→仙法志御崎公園→博物館→人面岩・寝熊の岩→鴛泊港帰還

 Cコース:鴛泊港→姫沼→野塚展望台→資料館→オタトマリ沼→仙法志御崎公園→人面岩・寝熊の岩→見返台園地→沓形岬公園(沓形港)→鴛泊港帰還

 そして午後1時15分発フェリーで礼文島を目指す。このフェリーに乗り遅れると沓形港発午後3時30分の礼文島行きに乗る事になりますね。(但し、鴛泊港から屈形港までタクシーかバスか何かで行かないといけない)

 礼文島の香深港(かふか)まではフェリーで40分の行程であります。午後1時55分には礼文島の香深港に到着となる。丁度午後2時10分発の礼文島観光バスが2コース用意されている。

 Aコース(夢の浮島礼文巡り、所要時間3時間):香深港→西上泊・スカイ岬→スコトン岬→桃台猫台→香深港帰還

 Bコース(礼文スポット巡り、所要時間2時間40分):香深港→ウニむき体験センター→スコトン岬→桃台猫台→香深港帰還

 夕方の5時過ぎに香深港に帰還することになりますね、そして宿泊する旅館にゆきましょう。礼文島は花の島と呼ばれる美しい高山植物が咲き乱れる島という。一度は訪れてみたい場所と思います。利尻島は大学時代に友人と利尻富士を登っていますので、今回は礼文島を中心に考えています。

 礼文島の夕日はとても美しいそうですよ、海に浮かぶ利尻富士を眺めながら沈む夕日は最高だそうです。礼文島で1泊し翌朝は少し、ハイキングを楽しもうと思います。桃岩展望台コースとか礼文林道コースを歩いてみようと思います。

 そして、午後1時05分発のフェリーで稚内を目指し、午後3時稚内港到着し、午後5時48分発の特急スーパー宗谷で札幌に帰ろうと考えています。札幌到着は夜の10時47分到着となります。

 参考 礼文島観光地図

 参考 利尻島観光地図

| | Comments (2)

百済王家の末裔たちの活躍

 壁画古墳で有名な高松塚古墳の復元予想図を文化庁は発表しました。

 高松塚古墳 復元予想図

 この古墳は1972年の春に発掘され、世界を驚かす見事な壁画がでました、当時昭和47年ですから就職して3年目の頃でした。壁画の大きな額を購入し、部屋に飾った記憶があります。発掘回顧録で網干善教先生が当時を色々と語る資料も読みました。

 当時からこのあたりは藤原京の朱雀大路の延長線である聖なるライン上に位置する墳墓として被葬者の推理が沢山なされました。忍壁皇子説・高市皇子説・弓削皇子説等々が語られましたね。今だ決着はついていません。当時、この辺り檜隈地域は渡来系の人々が住む場所でしたので、千田稔先生は百済王禅光(広)ではないかと仮説を出されましたね。

 そこで、飛鳥時代から奈良時代、平安時代にかけてこの百済王家の末裔達の活躍の一部を振り返りたいと思います。

 (藤原京の時代)

 斉明天皇の時代、百済は新羅と高句麗と半島に於いて激しい戦いがありました。百済最後の王となる義慈王には6人の皇子がいたが、そのうち二人の皇子をヤマトに人質として駐在させていました。豊璋と禅光です。そして、百済が羅唐連合に滅ぼされるとヤマトは豊璋を百済王として擁立し復興の戦争をします、これが有名な、白村江の戦いですね。そして大敗により復興の夢は潰えました。

 しかし、百済王の皇子である禅光がヤマトに居たのですね、時代は天智天皇から天武天皇に移行し持統天皇の藤原京の時代に禅光に百済王(くだらのこしき)の姓を賜り百済王家の血を絶やさないようにされた。これが、百済王家のヤマトでの始まりとなる訳です。

 (平城京の時代)

 この時代に大活躍したのが、百済王敬福であります。彼は陸奥の守の時に産出した金900両を聖武天皇に差し出したという。当時、東大寺大仏を金メッキする金が日本では存在しなかったのです。場所は宮城県遠田郡涌谷町だそうです。グーグルアースでみてみましょう。

「kudaraKyoufuku.kmz」をダウンロードPhoto  彼は従三位に任じられ、河内の守を任され現在の枚方の交野一帯を賜れ百済寺が建立されます。私が何回もご紹介した地元であります。Photo_2 この百済寺跡を発掘すると新羅の感恩寺にそっくりだそうです。グーグルアース 新羅 感恩寺址

「Kanoujiiseki.kmz」をダウンロード

 彼はその後、南海道節度使となり新羅討伐議論の時には西国12カ国の軍事権を握り、藤原仲麻呂の乱の鎮圧に貢献したという。

  (平安京の時代)

 桓武天皇のお母さんは高野新笠さんですね百済の渡来系の人です。新笠さんの父は和乙継(やまとのおとつぐ)さん、姓名は和史(やまとのふびと)で百済の渡来系です。長岡京発掘された山中先生が書かれていたが、桓武天皇は天武朝から天智朝に王朝が交代するので中国の思想に則り遷都をされたという。

 山背の国は古来、渡来系の人々が多く暮らす場所であり秦氏を筆頭に賀茂氏や多くの渡来系氏族はその後も日本の国作りに貢献したと考えられます。

| | Comments (0)

昔の同僚に会い酒を飲む

 昨夜は久しぶりに昔の同僚とその友人と三人で楽しい酒を飲んだ。場所は横浜であるが、その昔の同僚というのは30年以上前に同じ職場で働いていた1歳年下の碁打ちである。彼の友人というのは20年前に同じ会社をスピンアウトして起業した社長さんでした。

 碁打ちの翁も外資系の会社の社長を辞めて今は悠々自適である。彼はセミプロの5段だと思うが私が得意の将棋でも一度も勝った事が無い。一応私も、初段の将棋の免許状があるのだが、大局観で全くの差がある。盤面を大局的に捉える能力というのは、囲碁でも将棋でも同じなんでしょうね。

 彼は近世史に興味があり、日露戦争時代の舞台裏について過去の日本の新聞やニューヨークタイムズや当時の軍関係の書物を国会図書館で調べている。財政的にギリギリで戦争をしていた当時の日本の戦略について碁盤の対局を観るように調べている。

そういえば、今年の秋からNHKでは『坂の上の雲』が放映されますね。本当に楽しみなんですが、あまり気合が入りすぎるとコケちゃうから心配です。以前、『街道をゆく』を取り上げてNHKさんは番組を作られましたが、司馬さんの座談の名手の雰囲気を作る事は出来ませんでしたね。やはり、関西人独特の『間』と『笑い』がないと司馬さんを表現できない。

 先日NHKでは有る地方の会社、確か四国だったと思いますが、『旗艦 三笠』の大きな実物大の模型を製作している状況を紹介していました。当時の鋲打ちを正確に表現しないといけないとか、随分と凝っているようでした。未だ、溶接技術が進んでいなかったのですね。

 鉄板といえば、思いだすのがドイツはミュンヘンの博物館です。随分と昔の話ですが、仕事の合間に博物館にでかけ第二次大戦の頃のドイツの工業力のレベルの高さを目の当たりにしましたね。砲弾が突き刺さった鉄板が展示されてありました。

 参考 ミュンヘン ドイツ博物館

 Me262ジェット戦闘機も展示されていますよ。ラジコンマニアが時折模型で作り飛ばしている人もいますね。どうも、趣味のラジコン方面に話がそれてしまいますね。

 今回横浜の西口では野外で喫煙できる場所は無くなってしまいました。以前は一か所存在したのですが今は全く見当たらない。そして、喫煙する人を取り締まる三人ひと組の人々が巡回されています。何時から日本はマイノリテイを抹殺する社会になったのだろうか。

 喫煙はひと様に迷惑がかかる行為だから、理屈では理解できるけど、ここまでアメリカの禁酒法をやった社会を真似る必要は無いと思いますね。ヒステリー社会ではないだろうか。色んな考えや、色んな無駄なことをする人や、色んな思想を持つ人や、要は現在の時代からみると常識離れた人を受け入れる、懐の広い社会というのが私は理想だと思っていて、それが文化レベルの高い社会だと思うのですがね。

 この前、某有名タレントさんが深夜に人が居ない場所で綺麗に衣類をたたみ、裸でベンチに座り大声で騒いで逮捕され大きな社会問題を引き起こしました。何故、保護する事をしなかったんでしょうね。そんな常に100%賢人でいる事は不可能ですよね、間違いもある。許す社会というか、遊びが沢山あるシステムというのが消滅しつつあるように思いますね。

 楽しい宴会もあっと言う間に数時間が経過し帰路につきました。ちなみに、料理屋は沖縄料理でした。美味しかったです。

 

 

 

| | Comments (0)

尾瀬沼・尾瀬ケ原紀行 目次編

人生は曲がりくねっていましたね  2008年6月 尾瀬沼・尾瀬ケ原に出かけた。学生時代から一度は訪問したい場所でしたが、残念ながら未踏でありました。♪なあ~つが く~れば おもいだす・・・・と皆さんも良く御存知ですよね。ワンゲル時代は仲間が至仏岳(しぶつ)や燧ケ岳(ひうちがだけ)に登っていました。

 

写真家と強力(ごうりき)5月20日頃に山開きだと思います。今度は至仏岳、燧ケ岳に登りたいと考えています。

  夏の思い出 尾瀬沼・尾瀬ケ原 紀行 その1(尾瀬沼編)

          尾瀬沼・尾瀬ケ原 紀行 その2(尾瀬沼編Ⅱ)

          尾瀬沼・尾瀬ケ原 紀行 その3(尾瀬ケ原編)

          尾瀬沼・尾瀬ケ原 紀行 番外編(無事帰還)

  参考 グーグルアース 尾瀬ケ原・尾瀬沼

「Ozegahara.kmz」をダウンロード

| | Comments (0)

豚インフルエンザ感染拡がる

 神戸・大阪方面で新型ウイルスの豚インフルエンザが拡がり始めたようです。アメリカも日本も高校生に多く感染者が存在するのは不思議な現象ですね。60歳以上の年寄りには世界的に感染者が少ないという。新聞、テレビの報道ではこのウイルスはH1N1型、A型インフルエンザというウイルスの種類に属するという。

 幸い今のところは弱毒性らしいので、日本で死者はでていないようだ。60歳以上が感染しにくいというのは、彼らが過去に類似のウイルスに感染していて免疫が出来ているという仮説があるようですね。

 私のような年代の人は子供の頃に種痘を腕にされ、その痕が残っています。天然痘もウイルスですね、ジェンナーが発明した天然痘ウイルスに感染した牛の膿を健康な人間に植え付け免疫を作る考え方ですね。1976以降は世界的に天然痘は撲滅されたという事で日本で予防接種はされていないという。

 天然痘というと、平城京の時代に藤原4兄弟が感染し死亡し、藤原氏の存亡の危機に陥った話で有名です。日本列島に感染が広まった歴史は不明ですが、崇神天皇の時代に民の半数が死亡した疫病は大陸との行き来を考えると天然痘であるかも知れませんね。

 弱毒性の期間に罹病しておくと免疫が出来て強毒性に変化した時に安全という可能性もあるかも知れませんね。ウイルスがどう突然変異するか不明なのでこの話も正しいかどうか判りません。しかし、若者が多く感染するというのは何か理由がありそうですね。

ところで、日本中でマスクが品切れだそうですね。三の宮の駅や梅田の駅で国は無料でマスクを配る事ぐらいは出来ないのでしょうかね。しかし、もし金儲けをしようとする人がいたら問題ですよね。明石在住の人麻呂さんの歓送会を今週、東京で開催予定だったが延期になりました。日本中でこのようなイベント中止が行われているんでしょう。

 (NHKプロジェクトJAPAN)

Photo_2  日本と朝鮮半島2000年という特集番組がNHKで始まっている。第1回は過去に記事にしました。第二回は5月31日夜10時から教育テレビで放映予定である。テーマは『任那日本府の謎』であります。楽しみにしています。 参考 過去記事 第一回プロジェクトJAPAN

 日本書紀に書かれた任那日本府の実態が最近の韓国の考古学者の手で発掘を通じて少しずつ解明が進んでいるようです。勿論、日本の研究者も協力している。

任那という地名は韓国、中国の書物では登場しない、又、正確にどの場所を指すのかも判っていない。しかし、卑弥呼さんの時代から日本列島の人々は稲作農耕や武器の原料として鉄の板を狗耶韓国(釜山近くの金海「キメ」)から輸入していたのは確かである。所謂、弁韓・辰韓と呼ばれる20カ国近くの国々である。

 日本列島の国々だけでなく、魏志倭人伝によれば「韓・濊・倭、皆従いて之を採る」とありますね。洛東江流域で産する鉄を求めて朝鮮半島の国々や中国の植民地拠点である楽浪郡も鉄の供給を求めていたと考えられている。

日本列島の国々が個別に輸入していた段階から連合を組みまとめて輸入する政治的な環境が生まれ邪馬台国連合が生まれたのではないかと、私は推測しています。それは、半島の鉄を求める国々との競争に勝利する為であると考えている。

 楽東江流域の国々は弁韓・辰韓と呼ばれ20カ国程度の体制から伽耶・加羅諸国と新羅へと時代は変化してゆきます。邪馬台国とその後のヤマト王権は権益を確保する為に洛東江流域の人々に米や兵隊や武器を供給したのではないだろうか。3世紀から4世紀の頃には日本列島での水稲稲作の生産力もあがり米の輸出が可能であったと考えられます。

 韓国側の学者は傭兵とか生口(奴隷)という言葉を使用していますが、ヤマトは必死で鉄の生命線を守る為に武力集団が駐屯して洛東江流域の人々を他の諸国の侵入を阻止する為に頑張ったと思えます。

最近になり、この洛東江流域の古墳や遺跡が続々と発掘されヤマトとの交流の深さが実証され始めています。今こそ日韓の間で冷静に古代の両国の関係を見つめ直す時期が来たのではないかと思います。

 ヤマト独自の前方後円墳やヤマト独自の巴型銅器や各種の威信財が続々と発掘されているのです。教科書問題もこのような両国の学者が冷静に考古学の分野で遺物や遺構をベースに冷静にヤマトと南朝鮮半島の関係を解明して欲しいと思います。

 参考 過去記事 韓国の遺跡発掘情報その1

 参考 過去記事 韓国の遺跡発掘情報その2

| | Comments (0)

弥生時代の始まりは500年古くなりそうです その2

 承前 弥生時代の始まりは500年古くなりそうです その1

 歴博の藤尾さんの論文を参照してください。「時代区分と弥生文化の範囲」の図1:稲作拡散図です。稲作は長江で約7000年前に発生し下流域には5000年前に、そして北上し山東半島あたりに2000年前頃には伝播したという。そして、朝鮮半島のソウル近郊から南部朝鮮半島の平野に伝播した。

 玄界灘沿岸の平野に伝播したのは紀元前10世紀後半である、従来の通説は紀元前5世紀頃と考えられていた。これが、弥生時代が500年古くなったいう仮説である。そして、四国の高知平野に紀元前9世紀末(従来の通説では紀元前3世紀)に伝播する。

 大分平野、今治平野には紀元前700年頃に伝播し、そして播磨、河内、近畿には紀元前7世紀頃(従来の通説では紀元前3世紀)に伝播したと考える。

 この仮説によれば、従来の説と決定的に異なるのは普及速度の遅さですよね。紀元前10世紀に北九州に伝播した水稲耕作は四国、瀬戸内海沿岸、播磨そして河内、ヤマトに伝播したのは紀元前7世紀末と300年以上かけてゆっくり伝播した。従来は急速に伝播したと教えられて来ましたね。

 藤尾さんの論文に戻りますと、図2:縄文時代と弥生時代の変遷 を見てみましょう。較正年代での北九州の弥生時代早期は紀元前10世紀にはじまり、弥生前期の始まりは紀元前9世紀末~紀元前8世紀前半となります。中期の始まりは紀元前4世紀前半となる。

 そして、九州北部、瀬戸内海東部、近畿、南関東、東北北部の弥生時代の実年代区分は、同氏論文、表1:炭素14年代の較正年代にもとづく縄文~弥生時代の実年代。表1を参照してください。九州北部に伝播した水稲稲作は徐々に東に伝播したのですね、だから九州が弥生時代でも関西では縄文晩期の生活をしていた訳です。

  参考 分析遺跡の分布 参考 分析した遺跡・資料一覧表 

  参考 分析した代表的土器 参考 韓国・九州・四国資料

  参考 近畿の資料  参考 関連資料の年表

 これからも、AMS法による科学的調査と較正年表の精度が年輪年代木材試料の分析が進みデータが沢山集積すれば日本の縄文時代から弥生時代の各地の実年代が正確に把握される時代が目の前に来ているようです。

 稲作については、mtDNA分析やDNA分析をされている佐藤洋一郎先生のイネのルーツ探りの研究とあわせて日本列島への稲作の伝播はより明らかになるでしょうね。ただ、佐藤先生は朝鮮半島に存在しないイネが日本列島に存在するという研究成果を以前ご紹介したと思いますが、これからもっと韓国、中国の研究者と共同で研究を進める事で事実が明らかになると思います。

今回の歴博の研究を読んでいて不思議に思うのは、長江下流域から北上し山東半島に紀元前2000年には水稲が伝播していたのに、何故、北九州沿岸に千年も時間がかかって伝播したのか不思議です。朝鮮半島のソウルあたりに伝播したが気候環境や土地環境で急速には受け入れられなかった可能性があるのではないだろうか。特に長江流域の温帯気候とソウルではあまりにも違いますよね。

 朝鮮半島南部の平野に水稲稲作が伝播すれば日本列島への伝播ももっと早期に普及したように思いますね。

| | Comments (0)

弥生時代の始まりは500年古くなりそうです その1

 最近の考古学の弥生時代の開始時期に関して熱い論争が続いている。この新しい弥生時代の年代の研究グループは国立歴史民俗博物館の研究グループであります。この研究メンバーは今村峯雄、春成秀爾、藤尾慎一郎、坂本稔、小林謙一といった研究者であり、教科書を書き換えるレベルに進んでいるのではないだろうか。

 詳しい論争の内容や論文は国立歴史民俗博物館のホームページに掲載されていますので、参照してください。弥生時代が500年も遡る話は今までの弥生時代の常識を覆す重要な提言であり、これからも論争と研究は続くものと考えられます。しかし、中国や韓国の考古学や歴史学、民俗学、考古関連科学分野、等々の研究者を巻き込んだ調査と研究の話であり、面白くなりそうです。

 (何故、新しい仮説が生まれたのか)

 考古学の世界で考古遺物から実年代を探る方法として従来から放射性炭素14法「C14」により測定してきた。これは植物や動物が生きてる間に地球環境からC14を取得しているそうだ、それが死ぬと体内に取り込まれたC14が崩壊を始めるのですね。C14の半減期は5568年だそうです。

 そこで、土器に付着した植物遺体や動物遺体からC14の崩壊の状態を調べると何年前にその生命体が死滅したかが判明するという訳です。放射性炭素で分析した年代は核実験の影響を受けていない1950を起点としてそれより何年前という呼び方をします。BP(Before Present,Before Physics)という言い方をしますので覚えておきましょう。

 昔は測定方法としてベータ線計測法という、C14が崩壊しN14に変化して行く時に放射線を放出するそのベータ線を計測する事で崩壊時期を計測する方法でした。これには試料がグラム単位で必要となっていたのですね。

 所が最近は、AMS法という計測方法が発明され僅かなミリグラム単位の試料からでも年代を測定できるようになりました。AMS(Accelerator Mass Sspectrometry=加速器質量分析計)という加速器を利用した直接C14を測定する方法です。精度、測定時間、僅かな試料ですむという画期的な出来事でした。

 参考 (株)加速器分析研究所

 しかし、地球上のC14の量は宇宙線の影響や色んな事で一定ではなかった事が判りました。そこで、年輪年代法で確定した年代の樹木のC14を計測する事で地球年代のC14含有量の年度別の補正が世界中の学者が集まり行われたのです。これを年代較正と専門用語で呼びます。

 年輪年代法とは御存知だと思いますが、樹木には年輪が形成されます、しかしその年の気候環境により年輪幅は一定ではありません、そこで伐採された年が確定出来る木材の試料から年輪の幅のグラフを作成する。日本でも世界中でこの年輪の輪切りの模様をデータベース化して年代を確定する基礎資料を作成した。

 最近の話では、2004年に奈文研が発表した法隆寺の金堂、五重塔、中門のヒノキやスギ材の年輪を高精細デジタル撮影し伐採年を割り出し報道された事を思い出しますね。金堂のヒノキ材が日本書紀が伝える法隆寺火災の年670年を遡り668年である事から若草伽藍と同時期に今の法隆寺の伽藍が少なくとも金堂が建設されていたのではないかと、新しい仮説が生まれました。

 そこで、年輪年代法で確定した木材試料をAMS法でC14を測定しその年代のC14を正確に把握する作業が世界中の学者を巻き込みデータの蓄積が行われた。これをINTCAL(較正年代曲線)と呼び今まで、IntCal98,IntCal04のグラフが提出されています。

例えば、長野県と広島県の遺跡出土木材から測定したC14データと較正年代グラフの比較資料です。国立歴史民俗博物館「日本産樹木年輪資料の炭素14測定資料」

 今までの考古学の成果として縄文時代から弥生時代の土器編年は地域ごとに精密なものが出来ていましたね。この土器編年は世界的にも優れた先学の成果なんですね。そこで、土器に付着する植物・動物遺体の試料を最新のAMS法とC14較正年代を利用して各遺跡の遺物を調べた結果が今回の弥生時代500年遡り仮説が生まれた背景なんですね。

 次回はその研究経過を国立歴史民俗博物館の公開資料をもとに紹介します。

 参考 「弥生時代の実年代」 2003年12月21日配布資料

 参考 「弥生農耕の起源と東アジア」 藤尾慎一郎

 参考 「弥生時代の開始年代」2003年7月25日歴博特別講演会配布資料

 参考 「INTCAL98からIntCal04へ」 大嵜大真

 参考 「日本産樹木年輪資料の炭素14濃度測定 

 参考 「藤尾慎一郎ホームページ」

| | Comments (0)

縄文時代の関東 その7 ミトコンドリアDNA分析

 今回は以前にも紹介しましたが、佐藤洋一郎先生のDNA分析による考古学への貢献について触れたいと思います。彼は遺伝子の研究をされていた人ですが、古代の炭化した稲のミトコンドリアDNAを抽出してその種について過去を探り古代史解明に貢献されています。

 私も専門家ではありませんので、間違いがあるかもしれませんが、植物や動物の細胞には一番影響力の強い細胞核というものがあります。、その細胞核にはDNAが存在します、これは父親と母親から受け継いだDNAであります。しかし、細胞には細胞核を取り巻いて沢山の葉緑体というものがあります。

 この葉緑体は母親からしか受け継がないものであり、独自のDNAを持っているのですね。これを、ミトコンドリアDNA(mtDNAと呼びます)。最近、mtDNAの分析から現代の人類は一人のアフリカ女性から派生したというミトコンドリア・イブの話題は御存知ですよね。

 佐藤先生は石川条理遺跡から出土したイネの遺体からmtDNAの検出に成功したのですね。彼はイネの種にはジャポニカ種とインデイカ種の二種類存在し祖先は別であると考えている。そして二種のイネの違いはインデイカ種にはmtDNAの塩基配列にORF100番地に存在すべき69塩基対が欠落している事を見つけた。

 先生の本を読んでいると、炭化米からmtDNAを抽出する作業は大変だったようだ。このORF100番地付近の塩基配列を取り出し増幅させないといけないという。それには専門的な話となるがPCR法という手法で取り出し増幅するそうです。PCR(Polymerase Chain Reaction)法ではDNAのある一部分だけを選択的に増幅させることができるという。参考PCR法。

 先生は浙江省河姆渡(かぼと)遺跡7000年前の遺跡から出土したイネの炭化米を分析しジャポニカ種である事をつきとめた。グーグルアース河姆渡(かぼと)遺跡

「Kabotoiseki.kmz」をダウンロード長江下流域の杭州の南に位置する。

 又、宮崎大学の藤原宏志先生と共同で江蘇省農業科学院、南京博物院と共同で草鞋山(そうあいざん)遺跡から出土した6000年前の数粒のイネの種子を分析しジャポニカ種である事を突きとめた。(7粒の炭化米のうち、4粒からmtDNA検出し全てジャポニカ種である事を確認) グーグルアース 草鞋山遺跡

「souaizaniseki.kmz」をダウンロード

 江蘇省の高郵遺跡、長江の北側で南京から車で2時間程度の場所。この遺跡の4層(5200年前)、6層、7層、8層(6200年前)全ての層から出土したイネの炭化米の分析から全てジャポニカ種である事を確認した。

 その他中国の遺跡、及び朝鮮半島(新昌洞遺跡=2100年前)の20粒のイネの炭化米の分析から全てジャポニカ種であると結論がでた。

 長江流域のイネは高郵遺跡、河姆渡遺跡、仙人洞・吊桶環遺跡、城頭山遺跡、等々の遺跡の炭化米のmtDNA分析から全てジャポニカ種であると結論である。

 参考 仙人洞・吊桶環遺跡

「Sennindoiseki.kmz」をダウンロード

 日本の水稲のジャポニカ種のイネと同じ種類が長江流域である事は日本列島に伝播した水稲のイネの故郷は長江流域であると結論になりました。現在はイネの細胞核のDNA分析からジャポニカ種とインデイカ種を判別する取組に挑戦されているという。

 ところで、水稲より先に日本列島に伝播したという陸稲は焼畑栽培だったようですが、これは熱帯ジャポニカ種だそうです。(ついでに、水稲のイネは温帯ジャポニカ種だそうです)。

| | Comments (0)

縄文時代の関東 その6 西のどんぐりpitと東の水場アク抜き施設

 (クリについて)

 縄文時代からクリは重要な食料源でした。問題は栽培の段階まで進化していたかが議論となります。三内丸山遺跡のクリよりDNA分析より佐藤洋一郎さんは栽培種である事を断定した事は記憶に新しい。

 参考過去記事 Jo君の歴史彷徨(4)

 クリは樹齢が増すと実が小さくなり、逆に若い木ほど大粒の実を実らせる事を知っていた。だから、縄文時代の住居の構築材はクリの木が多用されているという。樹木の更新に伴う伐採材を利用したと考えられるのですね。そういえば、石見の山奥の木こりの息子として育った私の友人は子供の頃に電信柱を建てるのにクリの材木を使用したと言うてましたね。堅くていいそうです。

 参考過去記事 出雲のポン太君の話

 (クルミ)

 縄文時代の全時期を通じて採取されていたという。採取と同時に土坑に貯蔵されていたようです。東京都北江古田遺跡では中期の土坑底にカゴ状編み物を敷いて、その上にクルミを貯蔵していたという。参考 北江古田遺跡

 青森県是川遺跡では厚さ1メータに達する泥炭の大半がクルミの果殻だったそうですよ。是川遺跡のビデオがありました、是非観て下さい。有名な土偶の映像やトチ貯蔵ピットも観れますよ。

 クルミというと、娘が住むフランスのブルゴーニュの田舎では屋根裏に仰山のクルミを今でも貯蔵していましたね。

 (西日本に残るドングリピット)

 ドングリを保存する土坑をドングリピットと呼びます。不思議と長野県、栃木県以北の東日本には余り見かけないそうだ。西日本の特徴なんですね。結論から言うと、東日本の人々がドングリを食べていなかったのではなく、貯蔵方法が異なったのではないかと高橋先生は考えているようです。東日本では屋根裏に貯蔵したのではないかと思われる。

 そういえば、西日本は竈文化だけど東日本は囲炉裏文化だから、乾燥する囲炉裏の上の方に貯蔵したのかもしれませんね。けど、時代が違いますかね。幾つかの、ドングリピットの縄文遺跡をみてみましょう。

 縄文前期の遺跡 熊本県曾畑貝塚  前期に合計62基のピットが検出された。(土坑底にはカゴ状の編み物が多数発見される)

 縄文中期の遺跡 佐賀県坂の下遺跡 中期に合計21基のピットが検出された。

 縄文後期の遺跡 東方に拡大し近畿地方で急速に類例が増加する。奈良県大和高田市大田下遺跡 50基のピットを確認する。(橿考研) 滋賀県正楽寺遺跡場所地図)=西日本最大級の縄文遺跡や三重県森添遺跡でもピットが確認された。

 縄文晩期の遺跡 岡山県南方前池遺跡では10基のピットが確認、山口県岩田遺跡があります。

 (トチのアク抜き施設)

 トチの実は主に東海地方以東の東日本の縄文遺跡でみられるそうだ。西日本ではあまり出土しない。ドングリが西日本中心であるの対して対照的である。縄文後期中葉になると木材を使用して、矩形の枠組みを持つ木槽が出現するという。

 埼玉県川口市 赤山陣屋遺跡 5メータ×1.3メータ長方形の縄文後期の木槽が検出された。内部に灰層が堆積しており近くにはトチの果皮が多量に捨てられていた。煮沸用に用いられた深鉢も出土したという。此処には集落跡はなく近くの複数の集落の人々が利用した施設だという。

 長野県 栗林遺跡 2メータ×1.6メータの木槽が湧水の沢を利用して発掘された。小規模な木槽です。

 山形県 高瀬山遺跡 最上川に面してアク抜き施設の木槽が発掘された。川岸に沿う形で後期と晩期のものが数基発見されたという。

 新潟県 寺前遺跡 湧水によって開析された小川中に木槽が築かれたいた。(写真で川底の遺構が見れます)

 栃木県 寺野東遺跡 1本の流路に3基の木槽が検出されたという。

| | Comments (0)

縄文時代の関東 その5 植物とのかかわり

 縄文時代にどんな植物を食していたのか考古学分野で証拠を押えるのは困難だという。柔らかい組織の為に残らないそうですね。僅かに残るのは堅果類の植物であるという。代表はドングリとかトチの実ですね、特に東日本はトチの実を食しているのが特徴だそうです。

 デンプン山という言葉があるらしい、近年でも日本海側の朝日連峰の山麓から青森県にかけての山村では、クリ、ブナ、ドングリ、トチ等の堅果類、ワラビ、クズ等の根茎類、オオウバユリ、ユリ等の球根類を利用して多量のデンプンを得ていたそうです。これらの里山をデンプン山と言うそうですよ。

参考文献 とちもちの作り方 トチを食する迄にはタンニンだけでなくサポニンを含むそうなので、大変な工程が必要なんですね。ポイントは虫だしと、数日間乾燥させる事と、川の水に数日間さらす事と灰でアクを抜く作業ですね。随分と勉強になりました。タケノコ料理どころではありませんね。ついでに、どんぐりはどうだろうか。

参考文献 どんぐりを食べよう この人は結局、生食でも可能なタンニンの少ないシイの実だけが何とか食べれたようですね。(笑)クヌギはもともと食するのは難しいようで、ナラ類、カシ類でないと駄目なようですよ。

 オホーツクの友人のてっちゃんの子供の頃(昭和20年代)の話では馬鈴薯からのデンプンを利用した色んな料理の話を聞いた事がありましたね。馬鈴薯は南米の作物だから明治以降の近代の話だ。それ以前は堅果類・根茎類・球根類の植物からデンプンを得ていたのですね。

 新潟県奥三面(おくみおもて)では戦後までクリが主食に近かったそうだ。29軒の世帯に対して集落の周辺に10町歩もクリ林があったという。参考文献 三面遺跡群 奥三面歴史交流館 今はダムに沈んでしまった貴重な歴史資料なんですね。旧石器時代から綿綿と続いた村落が消えてしまったのだ。残念ですね。

 シダミ酒(ドングリ酒)という言葉があるそうだ。デンプンがあれば出来る酒だそうですよ。コナラの事をシダミと呼ぶそうなので、コナラのドングリから製造した酒の事になりますね。私が馴染みであるのは猿酒ですよね、猿が木の幹の窪みに貯め込んだドングリが発酵して出来た酒です。多分、縄文時代から人間は偶然に見つけたか、知識を得て、ドングリから酒を製造していたんでしょうね。

 (野山を焼き払う慣習)

 根茎類にはでんぷんが多量に含まれているので、縄文時代から食されていたのではないかと考えられている。ワラビ、クズ、カタクリ、ジネンジョ が対象となりますね。これらは有毒物質を含まないので、潰して水にさらせば底にデンプンが沈殿する。

高橋先生の本によれば、長野県木曾では昭和27~8年頃でもワラビ根堀りが広く行われており、平均一戸あたり5斗俵で20俵近くのワラビ粉を採取していたという。私の子供の頃の話ですね、ワラビ餅はそういえば関西方面でも子供の頃に食べていましたね。大好きでした。

 ところで、ワラビ根やクズが山が焼き払われた直後に生育する植物だそうです。だから、意識的に野山を焼き払いワラビやクズの根のでんぷんを取得する農耕に近い行為をしていたと考えられるのですね。遷移を利用した半栽培的な、栽培にあと一歩という所まで縄文時代には進んでいたと考えられます。

山焼きの習俗は虫を殺すだけでなく、縄文時代からの根茎類の生育の為に繰り返されていた農耕行為であった可能性がありますね。

 (彼岸花を食糧にしていた話)

 ヒガンバナ(彼岸花)も縄文晩期に稲作とともに大陸から伝播した稲作の裏作として伝わったという話があります。ともに長江流域が原産地であり、四国では田圃の畔に彼岸花を植える風習があり食品に加工された可能性があると考えられています。

アルカロイド系の猛毒(リコリン)を含む成分を持つので、組織を潰し、水にさらし、毒を抜く作業工程を経て食糧にしていた可能性があるそうです。縄文時代からアク抜き技術には優れた知識が日本列島の人々には貯えられていたんですね。

 

| | Comments (0)

縄文時代の関東 その4 漁労の続編

 (製塩は何故必要だったか)

 自給的な狩猟・漁労民は塩分を動物や植物から補うので、特別に海水から取り出す必要はない。しかし、縄文終末期の頃から霞ヶ浦や仙台湾周辺で製塩活動を開始した証拠品が出土するそうです。製塩土器の出土です。

 どうも水産加工品の保存と流通の為に海岸地域では製塩が始まった可能性が高いと考えられるそうですね。自己消費の目的ではなく内陸部との交易の為に塩そのものを交換した可能性もあるようです。

 (サケ・マス漁労)

 西日本では遡上しないサケ・マスですが、東日本では重要な蛋白源としてドングリとともに縄文人を支える食糧であった。西日本ではドングリは獲得可能ですが、サケ・マスの遡上は無い、東日本の方が縄文時代は食糧が豊であったと考えられる。

 北海道 石狩市 石狩紅葉山49号遺跡

 上記北海道の石狩の縄文中期の河底の発掘により漁労生産拠点の状況が判明したのですね。川に木杭を4~50センチ間隔で打ち込み、柳の枝をヤマブドウの蔓で編んだ「簀だて」(すだて)と呼ぶ魚を捕獲する装置が発掘されたようです。

 参考文献 石狩紅葉山49号遺跡の2001年の調査の「簀だて」出土状況の写真と説明を読んで下さい、判り易く説明されています。高度な漁労が縄文時代中期から始まっていたのですね。説明を読んでいて笑ってしまったのは、クマの足跡が残っている事ですね。

 縄文の人々に混じって、熊さんも一緒にサケ・マスを捕獲していたんでしょうかね。しかし、高度な漁労の仕掛けに驚いた遺跡ですね。サケは保存食としても利用できるし、皮も利用できるし重要な水産資源だった事が想像されます。

 さて、今まで縄文時代の狩猟と漁労について概観して来ましたが、次に農耕との関係が問題になりますね。縄文時代は農耕が発明されていなかったというのが今までの常識です。しかし、最新の発掘と研究により植物の人為的管理と半栽培と考えられる社会が展開していたと考えられるようになりましたね。次回は植物と縄文人の関わりについて概観したと思います。

| | Comments (0)

縄文時代の関東 その3 漁労関係

 承前 縄文時代の関東 その1 自然環境

 承前 縄文時代の関東 その2 貝塚遺跡

 縄文時代の漁労関係についてです。漁労とは水域環境において魚介類を捕獲する活動を指すと定義されているようです。関東地域では特に川や湖や海に囲まれていますので貝や魚を捕る事でエネルギーを得ていたと思われます。貝塚ではアルカリ性環境で捕獲した魚の骨や土器や漁具や人骨が保存され易い訳で貝塚を調べる事で当時の様子が判るのですね。

 魚介類を本格的に捕獲し始めたのは縄文草創期後半からだそうです。という事は1万2千年前の頃のようですね。所で関東には1600近くの貝塚が確認されているそうですが千葉県には日本を代表する大型の貝塚が沢山あるようです。理由は縄文海進時頃の関東の海岸線を見れば、千葉は、まるで海に浮かぶ複雑な海岸線を持つ島のようですからね。

 千葉県千葉市花見川区長作町にある長作築地貝塚を見てみましょう。Webに航空写真がありましたので、参考にしましょう。写真にカーソルを持ってゆくと赤く輝くところが貝殻を捨てたところのようです。直径140メータの環状貝塚であり、中央の平坦な広場を囲み、貝殻を外側に捨てた為に貝層が環状に形成されたようです。

 貝層下には竪穴住居跡が検出されるのが一般的で、住居の分布配置、集落の形態が判るようです。グーグルアースで場所を確認しましょう。長作築地貝塚場所(予めインストール必要ですよ)

「Nagasaku-tsukiji.kmz」をダウンロード

 加曾利貝塚もついでに確認しておきましょうか。グーグルアース加曾利貝塚

「Kasorikaizuka.kmz」をダウンロード

Photo_2

 加曾利貝塚の博物館もあるようなので、掲載しておきます。一度、訪問してみますかね。

 地元、横浜の貝塚では横浜市金沢区の称名寺貝塚を掲載します。グーグルアース称名寺貝塚

「Syoumyouji.kmz」をダウンロード

 (漁具と漁獲物)

 貝塚からは漁労活動をした道具である骨角器が出土するそうですよ。硬い骨材としては鹿の角を加工したようです。釣り針、ヤス、骨ヘラ等々ですね。釣り針を観てると今と変わりませんよ、見事なものです。鹿の骨をどう利用したか面白いWebがありました。

 縄文時代の骨角器 横須賀 榎戸(えのきど)貝塚出土骨角器

 大型の釣り針も出土し、4~5センチもありマグロや中型魚のタイなども捕獲していたようです。ところで、魚を捕獲するのに銛(モリ)という道具が既に発明されていたんですね。銛は槍やヤスと異なり棒の先に取り付けた銛頭に紐を括りつけるておき魚に打ち込むと銛頭が棒から外れ、撃ち込まれた銛先が魚の体内で回転し紐で引き寄せる事が出来る道具です。

 参考 古代縄文時代の銛

 マグロやサメなどの大型魚類、イルカ等の哺乳類を外洋にでて捕獲していたそうですよ。これは、驚きですね。先ほど紹介した横浜の称名寺貝塚や千葉県鉈切洞窟、千葉県富士見台貝塚のような外洋に面した場所でこのような大型魚類や哺乳類を捕獲していたという。

 鉈切洞窟(洞穴)は何処かというと、

「Natakiri.kmz」をダウンロード

 高橋先生の話では鉈切洞窟から出土する銛を分析すると、ここに住む人々は外洋にでて大型のサメやイルカなどの大型の魚や哺乳類のみを専門に捕獲していた集団だったという。何故そうなのかは謎だそうですが、外洋に出て黒潮の流れに負けず陸地が見えない場所でどのように場所の認識をしていたのか、謎ですよね。

 外洋で巨大魚や哺乳類と格闘していた、荒くれ集団はその後、水軍に進化したのではないかというのがjo君の根拠無い推論です。確か熊野の水軍も先祖は縄文時代からクジラを捕獲していたんと違いますかね。当時の丸木船でイルカや巨大サメと格闘するなんて想像を絶する戦いだったでしょう。

 (巨大貝塚の出現)

 東京の田端駅の近くに中里貝塚遺跡があるそうです。私も田端駅周辺は今まで出かけていたのですが、見ていません。Photo_3 グーグルアースで観てみると。

「nakasato.kmz」をダウンロードこの遺跡の特徴はカキ殻が4メータの深さで幅100メータ、長さ500メータを越す巨大な貝塚である事が判ったそうです。住居跡が無く、どうやらここでカキの加工を集団で営んでいたと考えられています。

 遺跡には窪みを堀り内側にシルトを貼り、マガキを放り込み水を入れ焼いた石を投入し上に草木を覆い蒸し焼きにした跡が残っているのです。直ぐに腐る美味しいマガキの水産加工工場を備えていたようですよ。そして、養殖していたと考えられる痕跡があるそうです、木杭をカキ礁に向かって垂直に打ち込まれた痕跡が数か所で発掘されたそうです。

| | Comments (0)

縄文時代の関東 その2 貝塚遺跡

 承前 縄文時代の関東 その1

 前回より高橋龍三郎先生の『縄文文化研究の最前線』 (発行 早稲田大学文学部)に沿って縄文時代の関東を中心に歴史の旅をしています。前回は縄文時代の概略の地球環境と年代と区分について眺めてきましたね。今回は当時の人々の生活を伺い知る事が出来る遺跡の遺構や遺物、特に貝塚遺跡の発掘成果から覗いてみましょう。

 縄文時代の狩猟と漁労

 縄文の貝塚は考古学にとりとても重要なんですね。日本列島は酸性土ですから、普通だと骨なのども溶けてしまうのです、所が貝塚はアルカリ性なので動物の骨や人間の骨でも溶けないで残るのです。ですから、科学的に数千年前を探索するのは格好の玉手箱みたいなもんなんですね。

 さて、貝塚から出土する動物の骨の7~8割は鹿と猪らしいですよ。典型的な中型獣を食べていたようです。氷河期が終わり16000年前頃から地球温暖化が始まり日本列島は草原景観から森林景観に変化し、植物相の変化に応じて動物相に於いても劇的な変化があったようです。大型獣は住めなくなり中型・小型の獣が中心になり見通しの利かない場所で獣を仕留める為に弓矢が発明されたそうだ。

 石鏃(せきぞく)という言葉は専門用語ですが、弓矢の先に付ける鋭く尖った石で出来たものです。旧石器時代は大型獣を捕獲していたので、槍が中心だったのですね。そして、犬とともに狩りをするようになったようです。しかし、生活を支えていたのは木の実などの堅果類、遡河性魚類でエネルギーを確保していたようです。

 (陥し穴猟)

 獣道に沿って陥し穴を掘り獲物を獲得する方法です。等高線と直角方向に谷に向かって獣道に沿って数か所、陥し穴を掘るのですね。穴の底には逆茂木を立てて杭を打つ。谷筋を下る動物の習性に合わせた合理的な捕獲方法であるらしい。最初に発見されたのは地元の横浜市の霧ヶ丘遺跡だそうですよ。

 私も浜田山の遺跡発掘で陥し穴を発掘した経験があります。穴の部分の土の色が異なるので判ります。

 (どんな鳥を食べていたか)

 現代人は鶏を食べているが、貝塚から出土する骨を分析すると縄文人はキジ類とカモ類が50%以上に達するらしい。鵜類はこれに次ぐ食糧だったようだ。北海道では海鳥が多く食べられていたようで、地域により異なるのでしょうね。しかし、概して他の地域では肉量の多いガン・カモ類や水鳥が多く捕獲され食されていたようです。

 (動物飼養の始まりか)

 縄文時代後期になるとイノシシ形の土製品が東日本各地で出土し始めるそうだ。どうやら、儀礼的動物としてイノシシが祭祀・儀礼で供犠されたようです。神に捧げる犠牲獣ですね。この祭祀に伴う犠牲獣が登場すると供犠までの期間、一時的に飼育する必要があるんですね。

 山梨県金生遺跡の土坑からはイノシシの幼獣の焼けた顎骨100余体も発掘されたようです。100頭以上も同時に狩猟は出来ない訳で事前に飼養されたと考えられています。丹波地方・奈良県・三重県の山間部でもイノシシを飼養する民俗があるようです。猪の幼獣はウリボウと呼ぶのは皆様御存知ですね、どうも神聖な獣のようです。

 参考 山梨県金生遺跡関連記事1 、関連記事2

 このような本格的な牧畜が始まる前の段階の一時的な動物の飼養を専門用語ではセミ・ドメステイケーションと言うそうです。

 次回は漁労関係について観てみましょう。

 

| | Comments (0)

縄文時代の関東 その1

Photo  写真の赤い線は今から6千年前~5千5百年前(縄文前期)の関東地方の海岸線であります。大雑把で失礼ですが、縄文海進期の海岸線と考えられます。この海岸線が何故判るかとといと、貝塚遺跡分布、約1600箇所の分布で判るのですね。

 特に奥東京湾は西は東京の田端駅近く(中里貝塚)、東は千葉の市川(堀之内貝塚)からず~~と北の群馬県の藤岡市あたりまで湾が入っていたそうです。これを、奥東京湾と呼ぶそうですよ。私が住んでる新横浜は勿論、鶴見湾の海底でしたね。これは昔話だけど、現在とは関係ない話ではないのですよね。

 地球温暖化が進行すると地球の70%以上を占める海の水は膨張するし、南極や氷河の氷は融けて海水面を上昇させるんですね。縄文海進時期の海面水準は2~3メータ上昇し東京湾は群馬県の館林市や藤岡市、茨城県古河市まで達していたそうだ。たったの2~3メータ海面が上昇するだけでこれだけ海進が進むのですね、驚きです。

 5千3百年前頃から気候の寒冷化が始まり海面水準は1メータ程低下し、急激な海退が始まったという。4千5百年前には埼玉県草加市や三郷市まで退いたという。その8百年間に海岸線は40キロ後退し、年平均で50メータも陸地が拡大した。その後安定期が続き、気候の寒冷化が始まり3千年前から1千8百年前にかけて再び海面の低下が始まったという。海岸線は大きく後退したのですね。

 縄文晩期から弥生前期にかけての時代である。そして、縄文人は低地に進出し稲作農耕を開始し、弥生時代が訪れるのです。

 縄文時代とは今から1万6千年前から始まり紀元前6世紀から8世紀に終結したと考えられています。これはAMS(放射性炭素年代測定、加速器質量分析法)により、土器付着有機物、炭化物や地層の有機物のAMS法による年代測定結果です。1万6千年前といえば、ヨーロッパは氷河期の時代に日本列島では縄文土器を作り始めたのですね。1万6千年前の気候は今より6度C低い寒い気候であり、関東地域は今の札幌あたりの気候だったそうだ。

 世界最古の土器文化を築いた日本列島の人々の暮らしはどうだったんだろうか。

 縄文時代の区分としてはAMS法区分では

 草創期(16000年前~12000年前)、早期(12000年前~7000年前)、前期(7000年前~5500年前)、中期(5500年前~4500年前)、後期(4500年前~3300年前)、晩期(3300年前~2800年前)本当に一万年以上の長い年月をひと括りに縄文時代と呼ぶのは変ですよね。

 所で何故、縄文時代と区分されるような時代が旧石器時代から変化したのでしょうか。高橋龍三郎先生の話では日本列島が針葉樹林で覆われていた植生から温暖化により、照葉樹林が西日本から押し寄せ関東から東北に及ぶ一帯まで広がった事が一番大きな原因であるという。捕獲する動物も木の実も漁労も大きな影響を受けたという。

 其れまでは槍で狩猟をしていたのが、弓矢の発明があったという。葉が生い茂る森で、中小型動物の捕獲をするには弓矢が必要だったんですね。具体的な関東の遺跡から縄文時代の生活を調べてみましょう。

 

| | Comments (0)

陵墓で初の地中探査(読売新聞記事)

 2009年5月8日読売新聞朝刊にて宮内庁書陵部が、一昨年12月に大坂府藤井寺市の津堂城山古墳で行った地中レーダ探査の成果を、先月刊行した「書陵部紀要」第60号で発表したと報道。宮内庁が自ら調査主体となって「陵墓」の地中探査を行うのは初めてだという。

 グーグルアース 津堂城山古墳(あらかじめグーグルアースのインストール必要)

「tsudoshiroyama.kmz」をダウンロード

Photo Photo_2  左側の写真は古市古墳群の遠景である。盟主は応神天皇の陵墓とされる御廟山古墳であり、一番古市古墳群では北側の大和川近くに津堂城山古墳があります。

 右の写真は近景であります。随分と破壊されている事が判りますね。この古墳は数奇な運命を持った古墳のようです。明治になり陵墓を決める時に陵墓から外されてしまったのですね。室町時代に山城が築かれ随分と破壊され、周濠も埋められ元の姿がわずかに後円部のみが残る悲惨な姿だったようです。

 しかし、明治45年に発掘が行われ竪穴式石室と長持形石棺が出土し且つ巨大な前方後円墳である事が判明し、4年後に陵墓参考地に指定された。その後、数度の周辺の発掘がされ二重の周濠を持つ436メータの巨大前方後円墳である事が判明した。そして、御廟山古墳より古く、古市古墳群では一番古い古墳であり、4世紀後半と推測されているそうだ。

 地中探査の目的は、近年、後円部の東斜面で土砂の流失が激しく墳丘の保全整備が必要と考えられ、遺構の正確な位置を把握する必要に迫られたからだという。調査結果石室の規模は南北12.3メータ、東西6.7メータに達する事が判明した。石室東側の石積が今にも露出しかねないという状況らしい。

 (謎について)

 内部資料では允恭(いんぎょう)天皇の陵墓ではないかとあるが、宮内庁では既に允恭天皇の陵墓は恵我長野北陵(市野山古墳)に比定されている。Photo_3

 しかし、時代が合わないと思いますね。津堂城山古墳は古市古墳群では一番古く、且つ、二重の周濠を巡らした436メータの超ド級の前方後円墳であり4世紀後半だとするとさて、どなたの大王の墓となるでしょうか。

 大和川に面し、大陸、朝鮮半島と往来する巨大な貿易船をあたかも監視するような位置であります。古代の動脈である大和川、瀬戸内海の制海権を握った大王の墓だったのでしょうね。

 中国の歴史史書から忽然と姿を消した4世紀の倭国。大陸でも朝鮮半島でも大動乱期でありました。ヤマトにおいても三輪山周辺の王朝から河内周辺に王朝が激動する時代に築かれた古市古墳群の元祖古墳のようです。

| | Comments (2)

お茶の話です

新茶の季節ですね、皆様も新茶の甘いおいしいお茶を飲まれていると思います。我が家では何時も私の宇治の姉が新茶を送ってくれます。永谷宗園の新茶です。六地蔵のお茶のお店ですが、有り難いと思います。

 若い人々で自宅でお茶を入れている人は少ないと思います、殆どコンビニでお茶のペットボトルを購入して飲んでおられるのではないだろうか。私も、時折ペットボトルのお茶を購入して飲みますが、やはり自宅ではお湯を沸かしお茶を入れる事をお勧めしますね。

 私が生まれ育ったのは、北河内郡大字招堤(しょうだい)村のお茶の製造工場でした。八十八夜の新芽が持ち込まれ巨大な釜で蒸され、工場内の無数の駕籠の上で並べられ本当に極楽のような香りが漂う世界で生きてきました。その後、乾燥されるのですが、乾燥されたあとの香は商店街でほうじ茶を炒る香りに似ています。

 しかし、新芽を蒸したあとの香は特別に子供ながらに、今でも忘れない素晴らしい香りであったと思います。お茶の歴史は中国との交易です。奈良時代には薬として輸入されたようですが、鎌倉時代に栄西禅士が宋から種を持ち帰った時に日本の茶の栽培が始まるそうですね。永谷園さんのカタログにあります。

 その種が栂ノ尾の高山寺に植えられたのが始まりだという。そして、宇治で本格的な栽培が始まったという。宇治の姉の自宅や、家内の実家の近くには茶園が沢山あります、真黒な覆いがかかっていますね。これは、玉露と抹茶を作る為の栽培方法なんですね。煎茶には覆いを被せないそうですよ。

 中国の太湖の近くのお寺を訪問したのは昨年だったと思います、お寺の裏の山の斜面にはお茶の畑が広がっていました。お茶と坊さんとの関係は古代より深い関係なんだな~と思い、何処か故郷に居るような感慨にふけった経験がありました。

 中国では湯呑に直接お茶の葉を入れます、蓋で茶っぱが口に入らないようにして飲み、無くなるとお湯を湯呑に入れます。日本では、急須に茶っ葉をいれますが、中国では違います。古代は日本と同じだったと思います。

 中国ではどんどんと時代とともに習俗は変化しますが、日本は東の果ての島国、古代の習俗がそのまま保存されていますね。まるでシルクロードの博物館みたいな国ですね。(笑) 今日は八十八夜、お茶の話でした。お茶は殺菌作用があるので、身体にいいですよ。是非、自宅でお茶を入れて飲んで下さい、出来れば宇治のお茶か北河内のお茶を飲んで下さい。

 

Continue reading "お茶の話です"

| | Comments (0)

Jo君の思い出の飛行機

 2009年での現役の飛行機の紹介をしました。さて、思い出の自作の飛行機の幾つかをご紹介します。30年前の頃はムサシノ模型のスカイビーバーとかスカイカンガルーを飛ばしていましたね。2002年頃からのご紹介です。

電動機時代(2002年の頃)

今ならブラシレスにリポだが・・ QRPの電動機「エスパー」機です。この頃は朝の6時過ぎに鶴見川に、わこちゃん、かっちんと三人が集まり電動機を飛ばしていました。
当時の模様は写真集にあります。 鶴見川早朝フライト時代(電動機)
カッチン Jo機を投げる 「プレーリ」ムサシノ模型の飛行機です。540モータにニッカド電池10セルで飛ばしていました。
二人揃って鼻モゲラ わこちゃんと、完全に自作でマイクロプレーンの電動機も作りましたね。僕のは主翼が紙ですよ。
同じ機種の機体です? かっちんとお揃いの電動機も作り飛ばしました。NOVA電動機。
・バレリーナ 5機も作る

_015.jpg

2004_10250001.JPG

 私は今までテトラ製のバルサキットから”バレリーナ”という機体を4機製作してきた。今は5機目を製作しているのだ。ハノイ赴任の時にちゃんとバルサキットを持ってきた。

2004年3月頃のバレリーナ  2003年頃の合宿

バレリーナ2号機製作開始

2004年10月頃のバレリーナ

2004年11月頃の書斎風景

悲惨、2号機、阿蘇山で墜落大破 2004年12月でした

バレリーナ3号製作 2005年4月である

バレリーナ3号だいぶ出来てきた

バレリーナ3号機完成する

斎は飛行機だらけになる 2005年の5月頃

バレリーナ3号 初夏の鶴見川で軽快に飛ぶ

盛夏早朝フライト鶴見川 バレリーナ3号

バレリーナ無残、墜落大破 秋合宿 2005年11月

4機めのバレリーナ製作開始 2006年1月なのだ

バレリーナ4号 完成する 2006年2月には完成!

バレリーナ4号機 雪田に消えるの巻 2006年3月冬合宿

5機目のバレリーナ製作始まる 2006年12月イン ハノイ

Dsc06970 ハノイのラジコン所長に思いでの飛行機として寄贈してきました。

同じ飛行機をこれだけ製作する人も珍しい。

| | Comments (2)

Jo君のラジコン飛行機 現役機総覧

 久しぶりに横浜は朝から雨、一日中雨が降っていました。夜も続くようですね。

 という訳で今日も飛行機の製作に没頭していた。フラミンゴの翼にフィルムを被服する工程でした。片面に糊がついているフィルムにアイロンを使用して熱を加えバルサに押しつけて接着して行きます。午前中に作業は完了し、未だ主翼内に格納したエルロンサーボのホーンが胴体に接触するので、動体の一部をドリルで削ったり、ホーンを曲げたりして調整した。

 さて、我が家の飛行機の状況はどうなっているか、一度整理したいと思います。一応現在の格納庫の状態を記録します。

 (Ready to Go=何時でも飛ばせる状態)

スーパーチップマンク

_125  エンジンはOS FL70 4サイクルエンジン搭載。2005年10月より現役機であります。何時でも飛行可能な飛行機ですが、長い滑走路が必要です。

 2005_10010103エンジンは写真の通りです。詳細記事 FL70エンジン購入記事

チップマンク制作記事

 

・オーラムスポーツ(Aurum Sports)京商

2005_05290002 OS32SX 2サイクルエンジンを搭載しています。スタント練習機としては素晴らしい性能だと思います。

 関連記事 遂に完成オーラムスポーツ機(2005年5月)

・スターレット25SR(テトラ)

Fathers_day_chibaflight_018  千葉のラジコン親父から譲り受けた水上機仕様の複葉機。

テトラ 参照 エンジンはOS32 SX 2サイクル エンジンを搭載しています。正確に飛行します。2009年冬合宿で一部破損したが、修理完了。

・フラミンゴ10(テトラ)

20095chiba  フラミンゴ2号機です。先日の千葉飛行会で主翼が吹っ飛んでしまい、再度主翼を作りました。胴体は2号機のままです。

1号機にはOS FS30 4サイクルエンジンを搭載していたが、不調でした。2号機はOS15LAの赤とんぼの仲間のエンジンを譲り受け搭載していますが、快調です。鶴見川でも気軽に飛ばせる飛行機です。

・スカイ ローバ「電動機」

20095chiba_017  時折早朝に鶴見川で飛ばしています。電動ブラシレスモータを使用しています。昔はリチュームポリマー電池で飛ばしていたが、最近はオールドテクノロジーのニッカド電池で飛ばしています。

 かっちん、清ちゃんと編隊飛行が可能です。

・サーカス20SR(テトラ)

20082tsurumigawa_007 OS FS30 4サイクルエンジンを搭載しています。先日の連休でエンジンが故障しましたので、修理に出す予定です。エンジンが修理完了すれば何時でもフライト可能です。

 その2(jo君サーカス20離陸)

「autamun-camp2.wmv」をダウンロード

・モータグライダー ナツメグ

2006natsumegu_026 2006natsumegu_025 モータグライダー 「ナツメグ」です。2007年夏合宿で初舞台を踏みました。

・合宿記録(2) joナツメグ初飛行

空撮専用機 ドリフター

P1030266 千葉のラジコン親父さんに購入を頼みました。2009年2月の白馬村で初舞台でした。ビデイオカメラを搭載し飛行します。プッシャー型の飛行機ですね。エンジンはOS 25FX 2サイクルエンジンを搭載しています。

 (準備すれば飛ばせる飛行機)

・電動複葉機 ハミングカブ(ムサシノ模型)

2006ooizumilee_003 ブラシ540モータで飛ばしていたが、最近はブラシレスモータに置換しました。ラダー、エレベータ制御はロッドではなく紐で制御しています。

安定して、ゆっくり飛ぶ飛行機ですね。鶴見川でよく飛ばしました。

・スケールモデル機

合宿01 この飛行機も未だ元気でエンジンもサーボも搭載されて出番を待っています。

水上機 BACCARA

2004_09210001.JPG

| | Comments (1)

興福寺 阿修羅像東京へ

20095chiba_015  今日も一日中飛行機の製作に没頭した。夕方には遂に主翼の生地が完成した。この「フラミンゴ10」は二機目の飛行機ですが、今回は主翼が大破したので制作している。バルサ材を組み合わせ、まち針やセロテープで固定しながら接着して行く。飛行機で一番大事なのは翼です。特に主翼が大事です。

 歪みや、ひねりや、凸凹や、左右非対称なんぞもってのほかですね。今回の制作での失策は主翼内に組み込むエルロン制御のサーボモータが主翼を胴体と接続すると胴体内部の各種サーボモータと接触するドジでした。主翼内のサーボ位置を再度、やり直すという工作に時間を取られてしまった。

 サンドペーパで主翼のバルサを磨き、ウイングボルトの埋め込みも正確にドリルで穴を開け全て生地としては完了した。あとは、フィルムを被服する工程のみである。

 (興福寺 阿修羅像番組を観る)

 先日NHKでは今回東京で開催されている興福寺 阿修羅像に関する番組を組んでおられましたね。興味を持って観させて貰いました。

 参考 興福寺 阿修羅像の東京での展示

 八部衆の中で阿修羅像のみが鎧も着ずにまるで少年か少女のような姿で制作されているのが謎となっているそうですね。今回の説明では少年であると解説されていました。正面の顔と向かって左の顔は下くちびるを噛んでいる顔、右は憂い悩んでいる顔と見える。顔の表情を研究している大学の先生は目の位置から左の顔が一番若い頃、次が右の顔で青年時代、真正面が大人の顔と少年の成長を表しているという。

 発注者は藤原不比等の娘の光明皇后だという。当時の修羅の如き政治の混乱期に光明皇后が政治家として活躍した精神世界を表現したのではないかという。全国に配った金泥の文字で書かれた経文に懺悔の文字が頻繁に出現する事と関係があるのではないかと説明がありました。

 (年代を確認してみよう)

 光明皇后は727年2月に待望の男の子を産みました。基王です。生後30日で皇太子にしてしまいます。どれほどの期待をかけた事でしょうか。しかし、1年後728年9月23日に基王は死亡してしまいます。当時、政敵の長屋王の呪詛ではないかと噂が流れたそうです。

藤原一族にとり危機感に襲われます、729年に遂に長屋王を殺してしまうのですね。これで、最大の政敵を葬り去りました。そして、733年には光明皇后の母である橘三千代が死亡しました。そして、興福寺に八部衆を奉納する訳です。

 ひょっとすると阿修羅像は光明皇后の心の中で生き続ける基王の成長の姿であるのかも知れませんね。自分は阿修羅となり政敵と血みどろの戦いをしている訳ですが、内面では息子の基王とともに戦っている苦悩の姿をこの像に込めたのかも知れませんね。

数回、興福寺を訪れ阿修羅像を拝ませて貰いましたが、今回の番組で又、歴史の謎が登場しましたね。皆さまはどう思われましたか。

| | Comments (0)

千葉飛行会 2009年5月2日

20095chiba_004  朝5時過ぎに起床し飛行会の準備をする。飛行機の受信機やプラグヒータの充電をして朝食を摂る。6時半にわこちゃんの豪華なベンツが我が家に到着し機材を積み込む。

 20095chiba_001 久しぶりの千葉飛行会だし、白馬村での冬合宿以来の再会であります。千葉までの車中では近況の報告会となりました。現地には7時40分頃には到着、現場は以前の荒地の草茫々の世界が一変し、見事に耕地に整備され舗装までされた世界でした。

20095chiba_003  日本の農業政策が大きく変化しているのですね、多分、飼料用のコメでも作るんでしょうね。大規模な耕地が展開していました。これなら、大型の飛行機を持参すれば良かったではないですか。現地のラジコン親父は最近仕事が忙しく殆ど飛行機を飛ばしていないそうだ。深夜までソフトの開発をしてるという。

 20095chiba_00220095chiba_009  さて、わこちゃんの二機の電動機は珍しく無事に飛びました。1機はかっちんが離陸と調整を担当しましたが、最初は「おらは、死んじまっただ~~」の歌のようなメチャメチャな飛行でしたが、千葉のラジコン親父と二人で無事エルロン、ラダー、エレベータの調整を空中で敢行しなんとか、真面目に飛ぶ飛行機になりました。

 20095chiba_005 20095chiba_008 かっちんと私はフラミンゴ機でしたので、二機で編隊飛行をする予定でしたが、私のフラミンゴは離陸で操縦ミス、墜落大破となり編隊飛行は夢と消えました。私のもう1機のサーカス機は4サイクルのエンジンが故障し始動出来ない状況です。圧縮が利かないので、何処かメカニカルに問題があるんでしょうね。

 20095chiba_006 20095chiba_007 という訳で、私は散々な飛行会となりましたが、わこちゃんの2機とかっちんのフラミンゴは無事に飛行しました。10時頃には近所のラーメン屋で何時ものラーメン餃子とビールを頂き無事解散となりました。

| | Comments (0)

« April 2009 | Main | June 2009 »