縄文時代の関東 その4 漁労の続編
(製塩は何故必要だったか)
自給的な狩猟・漁労民は塩分を動物や植物から補うので、特別に海水から取り出す必要はない。しかし、縄文終末期の頃から霞ヶ浦や仙台湾周辺で製塩活動を開始した証拠品が出土するそうです。製塩土器の出土です。
どうも水産加工品の保存と流通の為に海岸地域では製塩が始まった可能性が高いと考えられるそうですね。自己消費の目的ではなく内陸部との交易の為に塩そのものを交換した可能性もあるようです。
(サケ・マス漁労)
西日本では遡上しないサケ・マスですが、東日本では重要な蛋白源としてドングリとともに縄文人を支える食糧であった。西日本ではドングリは獲得可能ですが、サケ・マスの遡上は無い、東日本の方が縄文時代は食糧が豊であったと考えられる。
上記北海道の石狩の縄文中期の河底の発掘により漁労生産拠点の状況が判明したのですね。川に木杭を4~50センチ間隔で打ち込み、柳の枝をヤマブドウの蔓で編んだ「簀だて」(すだて)と呼ぶ魚を捕獲する装置が発掘されたようです。
参考文献 石狩紅葉山49号遺跡の2001年の調査の「簀だて」出土状況の写真と説明を読んで下さい、判り易く説明されています。高度な漁労が縄文時代中期から始まっていたのですね。説明を読んでいて笑ってしまったのは、クマの足跡が残っている事ですね。
縄文の人々に混じって、熊さんも一緒にサケ・マスを捕獲していたんでしょうかね。しかし、高度な漁労の仕掛けに驚いた遺跡ですね。サケは保存食としても利用できるし、皮も利用できるし重要な水産資源だった事が想像されます。
さて、今まで縄文時代の狩猟と漁労について概観して来ましたが、次に農耕との関係が問題になりますね。縄文時代は農耕が発明されていなかったというのが今までの常識です。しかし、最新の発掘と研究により植物の人為的管理と半栽培と考えられる社会が展開していたと考えられるようになりましたね。次回は植物と縄文人の関わりについて概観したと思います。
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