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縄文時代の関東 その2 貝塚遺跡

 承前 縄文時代の関東 その1

 前回より高橋龍三郎先生の『縄文文化研究の最前線』 (発行 早稲田大学文学部)に沿って縄文時代の関東を中心に歴史の旅をしています。前回は縄文時代の概略の地球環境と年代と区分について眺めてきましたね。今回は当時の人々の生活を伺い知る事が出来る遺跡の遺構や遺物、特に貝塚遺跡の発掘成果から覗いてみましょう。

 縄文時代の狩猟と漁労

 縄文の貝塚は考古学にとりとても重要なんですね。日本列島は酸性土ですから、普通だと骨なのども溶けてしまうのです、所が貝塚はアルカリ性なので動物の骨や人間の骨でも溶けないで残るのです。ですから、科学的に数千年前を探索するのは格好の玉手箱みたいなもんなんですね。

 さて、貝塚から出土する動物の骨の7~8割は鹿と猪らしいですよ。典型的な中型獣を食べていたようです。氷河期が終わり16000年前頃から地球温暖化が始まり日本列島は草原景観から森林景観に変化し、植物相の変化に応じて動物相に於いても劇的な変化があったようです。大型獣は住めなくなり中型・小型の獣が中心になり見通しの利かない場所で獣を仕留める為に弓矢が発明されたそうだ。

 石鏃(せきぞく)という言葉は専門用語ですが、弓矢の先に付ける鋭く尖った石で出来たものです。旧石器時代は大型獣を捕獲していたので、槍が中心だったのですね。そして、犬とともに狩りをするようになったようです。しかし、生活を支えていたのは木の実などの堅果類、遡河性魚類でエネルギーを確保していたようです。

 (陥し穴猟)

 獣道に沿って陥し穴を掘り獲物を獲得する方法です。等高線と直角方向に谷に向かって獣道に沿って数か所、陥し穴を掘るのですね。穴の底には逆茂木を立てて杭を打つ。谷筋を下る動物の習性に合わせた合理的な捕獲方法であるらしい。最初に発見されたのは地元の横浜市の霧ヶ丘遺跡だそうですよ。

 私も浜田山の遺跡発掘で陥し穴を発掘した経験があります。穴の部分の土の色が異なるので判ります。

 (どんな鳥を食べていたか)

 現代人は鶏を食べているが、貝塚から出土する骨を分析すると縄文人はキジ類とカモ類が50%以上に達するらしい。鵜類はこれに次ぐ食糧だったようだ。北海道では海鳥が多く食べられていたようで、地域により異なるのでしょうね。しかし、概して他の地域では肉量の多いガン・カモ類や水鳥が多く捕獲され食されていたようです。

 (動物飼養の始まりか)

 縄文時代後期になるとイノシシ形の土製品が東日本各地で出土し始めるそうだ。どうやら、儀礼的動物としてイノシシが祭祀・儀礼で供犠されたようです。神に捧げる犠牲獣ですね。この祭祀に伴う犠牲獣が登場すると供犠までの期間、一時的に飼育する必要があるんですね。

 山梨県金生遺跡の土坑からはイノシシの幼獣の焼けた顎骨100余体も発掘されたようです。100頭以上も同時に狩猟は出来ない訳で事前に飼養されたと考えられています。丹波地方・奈良県・三重県の山間部でもイノシシを飼養する民俗があるようです。猪の幼獣はウリボウと呼ぶのは皆様御存知ですね、どうも神聖な獣のようです。

 参考 山梨県金生遺跡関連記事1 、関連記事2

 このような本格的な牧畜が始まる前の段階の一時的な動物の飼養を専門用語ではセミ・ドメステイケーションと言うそうです。

 次回は漁労関係について観てみましょう。

 

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