« 近況報告 測量を学ぶ | Main | メキシコ オアハカ紀行 目次編 »

稲作起源で新しい仮説がでたようです

 最近は授業の関係でアマゾンさんにお世話になって、古本を安く購入しています。本当に本の購入がアマゾンのお陰で便利になりましたね。昔なら、古本を買いに神保町をウロウロした訳ですが、最近はインターネットで古本を買う事が出来る。

 味気ないと言えばそれまでですが、時間の節約にはなりますね。インターネットと言えば、最近ユネスコで世界の図書館の本が見れるというので、私も東アジアの部門を少し徘徊し司馬江漢の銅板画や源氏物語の桐壺あたりの原本を眺めていた。解像度は悪くしてありますね。

 さて、本題ですが、アマゾンで考古学の関連図書を検索していると、池橋宏さんの『稲作の起源』、副題:イネ学から考古学への挑戦 という本が話題になっている事を見つけました。今度、是非読みたいと思います。本の読者からのコメントを読んでいると面白いです。

 ・イネは一年生の野生の直播栽培からではなく、多年生の株分け栽培から始まった。

 ・野生イネから栽培種に進化したのは、日本型でありインド型は後に分化した。

 ・水稲から進化の袋小路のように陸稲は分化したのであり、従来の説と逆である。

 ・初期の栽培は焼畑ではなく、水田栽培である。

 これは、日本にどのようなイネと稲作が伝播したかとは関係が無いと思いますが、イネと人間の関係史のマクロ的な見解であると思います。大変興味がある仮設ではないでしょうか。この説で従来の日本の稲作が陸稲の焼畑から始まり、水稲に進化したという説が覆る訳ではないと考えています。

 長江流域で野生の水稲が存在し、それを株分けして農耕が始ったと考えるのは実に自然な考えと、素人にも思われます。何回かこの数年、長江下流域に出かける機会があり、太湖ちかくをウロウロしていますが、少し南の地に河姆渡遺跡というのが有ります。

Photo Photo_2  紀元前4500年前から5000年前に栄えた文化で有名ですが、多量のもみ殻が発掘され水稲耕作がされていた事が判明したのが、1973年の頃だと思います。

 当時の杭州湾の海面は低く安定した水田耕作が行われたと考えられています。しかし、今から5000年前頃から海面上昇が起こり度々川の氾濫が起こり高床式の住居にしても水田は破壊を受け、遂に土地は放棄され文化・文明が崩壊したという。

 縄文海進の時期は6000年前がピークですから、世界的に海面上昇の自然災害の影響を受けたのではないでしょうか。さて、河姆渡遺跡の人々は何処に新天地を求めたのでしょうか。このあたりから推理作家が活躍できそうですね。

 九州上空から上海への便は何回も乗りましたが、最近の飛行機には地図が表示され進行方向の地図も見れるのですが、ほぼ一直線で上海に向かいます。杭州から中国東海岸を北上すれば対馬暖流に乗れば直ぐに九州や朝鮮半島の南海岸に漂着可能ですね。

 最初の水田稲作民の民族移動は縄文海進の時期が契機として考えられますね。その後も中国の戦乱が幾度となく起こりました、春秋戦国時代、秦王朝の成立、漢王朝の成立、王莽の反乱と新、後漢の成立、等々と続きます。戦乱の度に人々は民族移動をしたのではないだろうか。

 王莽の時代の貨泉という銭が瀬戸内海沿岸の弥生中期~後期の遺跡や、吉備の遺跡や日本海側の遺跡でも発掘されています。中国で使用されなくなった青銅の原料として日本列島に持ち込まれたのかも知れない。

 さて、イネの話ですね、是非ご興味のある人は本を読んで下さい。考古学の成果として陸稲の上陸が水稲よりも早い時期であったとすれば、陸稲農耕をしていた人々が何らかの事情で移動して来たのでしょうね。しかし、明らかに生産性の面で水稲の方が優れていたんでしょう。

 過去記事 参考 『良渚文明御ぞんじどすか?』

|

« 近況報告 測量を学ぶ | Main | メキシコ オアハカ紀行 目次編 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 近況報告 測量を学ぶ | Main | メキシコ オアハカ紀行 目次編 »