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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行 終わりに

 9回に渡り紀行文を載せましたこの旅もこれで終わりです。MuBlogのMuさんとの楽しかった旅も終わりました。けど、何か始まりのような気もします。今回の旅で現場を訪れ新しい発見も有りました、やはり現場第一ですね。

 中国でも日本でも三国志は人気がありますし、最近『レッド・クリフ(赤壁)』という映画も人気です。魏・呉・蜀と戦った時代に遥か東海の島の国、蓬莱の国、邪馬台国の卑弥呼はこの時代に活躍したのです。そして、破格の扱いである親魏倭王の金印を貰ったのです。

 東アジア全体を俯瞰しながら邪馬台国を眺めないと、当時の日本列島の事実は解明されないと思います。60の手習いで昨日から基礎的な考古学の勉強を始める事になりましたが、最大の課題は邪馬台国の卑弥呼の謎を解く事に尽きると思いますね。

 出来れば、磐余から箸中地区、纏向地区あたりは国として特別の地域として指定し立体的に時間軸を含めた総合的に解明する、生きた博物館として、文化遺産として、あらゆる学問を結集してプロジェクトを組み100年かけて解明するプロジェクトを起こして欲しいと思います。国のルーツを解明するのは国家の責任と思いますね。

 今回の紀行文にて東アジア全体から眺める視点を常に心して来ました、しかし、考古学の知識が乏しくまだまだ真相に迫る事は出来ていません。何時か誰でも納得する科学的な解明と宗教・民俗学・文献歴史学・考古学・最新の科学手法、あらゆる学問を総動員した結論を待ちたいです。

 最後に、これから勉強する課題として埴輪・土器の研究が必要と思いました。箸墓古墳が何故最古の前方後円墳であるのか、その理由さえ私には判らないのですが、後円部から出土したという都月型器台円筒埴輪が決定打であると考古学者は言います。

 その理由は、吉備の国の備中南部地域の弥生時代後期後半の特殊器台と特殊壺を都月型と呼ぶそうです。地面に突き立てる形で使用されることを想定した器台であり従来のものと異なるという。楯築弥生墳丘墓(弥生時代後半後期)の発掘で前方後円墳と埴輪の分析から箸墓との関係を論究された考古学の重鎮の近藤義郎先生の本も勉強しないといけないと思いました。

 楯築弥生墳丘墓には20メータの細長い前方部が存在し、桜井・茶臼山、纏向勝山、纏向東田大塚に通じる古墳ではないだろうか。明らかに磐余・纏向地域は吉備の影響が強いと考えざるを得ません。是非、吉備を訪問して色々と自分の足で調査が必要と思いました。

 吉備から東進した勢力は鉄を独占した集団であり稲作と土木事業には欠かせない資源を握っていたとしても、在地の三輪山の神には従わざるを得なかったと思います。これが、古い時代からヤマトに根を張っていた出雲の勢力ではなかったでしょうか。両者が解決を見出した世界が邪馬台国ではなかったかと思います。

 参考文献 楯築弥生墳丘墓

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