« 伊豆の踊り子歩道 完全走破(3) 桜と桃の競演 | Main | 60の手習い始まる »

「槻(つき)」の信奉 国家建設の原点

 表題の見出しで2009年4月10読売新聞では文化欄で辰巳和弘先生(同志社大学教授)の記事を掲載されていました。同時にー「聖樹の下」古代王政の好地ーとともあります。今回、中央公論新社から出版された『聖樹と古代大和の王宮』の紹介でもあると思われます。

 辰巳先生に関しては桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行でも、それ以外でも「黄泉の考古学」のご紹介をしています。私は前方後円墳の形状が中国の神仙思想である壺世界を具現化したものだという辰巳先生の仮説に大変興味を持っている一人です。ホケノ山古墳でも桜井・茶臼山古墳を訪れた時にもそう思いました。

 さて、今回は和名の槻(つき)=欅(ケヤキ)の木と、古代王権との深い関係についてのお話です。私なりに新聞記事を纏めました。

 (槻と王権の関係について)

 ・崇神・垂仁・景行大王の時代はマキムク(纏向)に王宮を構えた。景行大王の時代は纏向日代宮(まきむくの ひしろのみや)では四方に大きく枝葉を拡げ繁る大きな槻(百枝槻=ももえつき)の樹下に祭政空間が設けられた。

 ・太い幹から扇を広げるように天空に向かって大きく枝葉を繁らせるその樹相は、世界の中心に立ち、あらゆる空間を覆う「世界樹」とみなされ、大王による天下支配の象徴であった。

 ・北欧神話『エッダ』が語る巨樹ユグドラシルや、中国の地理書『山海経(せんがいきょう)』にいう楽園の中心に聳える建木(けんぼく)を想起させる。

 ・古代王宮は纏向、軽、磐余、長谷(はつせ)、飛鳥と奈良盆地の東南が常に王権の中心であり続けた。これらの地域では百枝槻の存在が語られている。

 ・長谷朝倉宮(雄略天皇)では初穂を神に供える新嘗(にいなめ)の儀と、それに続く豊楽(とよのあかり)の宴が樹下で行われた。

・応神天皇の軽島明宮(かるのしまのあきらのみや)の百枝槻は、七世紀に軽市を象徴する聖樹(斎槻=ゆつき)として祭られる。

 ・用明天皇の磐余池辺双槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)では、主幹から大きく二股に分かれて繁る百枝槻が大宮のシンボルであった。

 ・飛鳥の田身嶺(たむのみね)の頂きに立つ二股槻の樹下が聖処とされた。これは、両槻宮である。此処は酒船石のある丘陵と比定される。樹下にある酒船石では、丘陵の麓に湧出して亀形石槽の背に落ちる聖水を用いた秘儀が行われた。

 ・百枝槻や二股槻の聳える場が王宮を構える好地とされた。

 ・蘇我氏滅亡の直後、孝徳天皇らは「大槻の樹下」で神々に向かい群臣に忠誠を誓わせた。此処は、飛鳥寺の西の槻の樹下であった。

 ・飛鳥西約2キロの軽に聳える「今来(いまき)の大槻」の記事が書紀に記される。現在の近鉄橿原神宮駅前東口付近に聳えていた。そこから、真北に古代大和の基幹道である下ツ道が一直線に延びていた。それが、平城京の朱雀大路となる。

 ・参考 東根の大ケヤキ(天然記念物)

 (巨樹信仰)

 この話を読んで、是非『聖樹と古代大和の王宮』を読みたくなりましたね。ここで、思いだされるのは、日本の稲作の源流と考えられる長江流域の信仰です。

 ・雲南省はハニ族の「稲魂信仰」ですね。穀霊が聖樹を伝って降下し巫女が精霊を迎える儀式をする。新嘗祭の原型ではないかと民族学者は研究されていますね。

 ・もう一つは、長江上流の三星堆で発掘された青銅で出来た聖樹を思い出します。

 日本の稲作の源流は長江流域と考えられています、稲作に関わる信仰や儀式がかの地から伝わった可能性がありますよね。

|

« 伊豆の踊り子歩道 完全走破(3) 桜と桃の競演 | Main | 60の手習い始まる »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 伊豆の踊り子歩道 完全走破(3) 桜と桃の競演 | Main | 60の手習い始まる »