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古代の奈良盆地南部

Photo  奈良盆地の南部の写真です。

赤い線は古代のハイウエイである大和川の水系であり難波津に通じ瀬戸内海から大陸への貿易路に繋がっています。

 弥生時代には写真の唐古・鍵遺跡あたりに大きな環濠集落が栄えていました。そして、3世紀には三輪山の方の上流に移動し、纏向遺跡が邪馬台国の時代であろうと想定されます。纏向には日本列島各地の土器が発掘されている事から首都的な都市が建設されたと想定されています。

 その後、三輪山の麓に初期のヤマト王権の都が栄えたと考えられています。考古学者の間では崇神天皇から続く三輪山の麓のヤマト王権を三輪王朝と呼ぶ人がおられますし、概ね間違いないと想定されています。巨大な前方後円墳が山の辺の道に沿って築かれたのです。

 その後日本列島の様子は中国の史書から姿を消し、突然に5世紀になり河内に巨大な前方後円墳を築いた倭の五王の話が登場するのですね。神功皇后、応神天皇に始まり仁徳天皇から武烈天皇に続く河内王朝の時代となります。

 5世紀の河内王朝を支えたのは葛城氏と考えられています。写真で奈良盆地南西部に巣山古墳や築山古墳を表示していますが、所謂、馬見古墳群と呼ばれる古墳群が葛城氏の関連古墳と考えられています。北葛城郡河合町、広陵町から大和高田にかけての馬見丘陵に築かれた古墳群を指します。

 5世紀の大王の嫁さんは殆どがこの葛城氏の出身となります。一番有名なのが、仁徳さんの嫁さんの磐之媛さんですね。彼女については今まで沢山の事を記事にしてきましたので、省略します。いずれにせよ、葛城襲津彦を祖とする葛城一族は朝鮮半島との貿易を当時は独占していた可能性があります。

 歴史家の中には葛城王朝が存在したという説を言う人や、三輪王朝と併存していたという人も居られる程ですが、5世紀の河内王朝は葛城氏の時代であったと考えられます。しかし、雄略天皇の時代に葛城一族は大王家に滅ぼされる事になり、また、吉備も滅ぼされます。大王家に力がついた結果でしょうね。

 襲津彦という人物について記紀は朝鮮半島での活躍を記録している訳ですが、今後の韓国での伽耶諸国や新羅の遺跡発掘で新しい事実が解明される事を期待しています。朝鮮半島南部に於いて彼は活躍した痕跡が発掘される事を期待しています。

 そして、その後の歴史は河内王朝が滅び北陸・琵琶湖西岸の勢力である継体天皇が新しい王朝を築く訳です。私はこの奈良南部から大和川から難波津経由瀬戸内海ルートの王朝交代史が日本の正史として語られているが、同時に日本海から琵琶湖、木津川、淀川水系を利用した巨大な勢力が常に存在していたと考えています。

 ともかく、日本の遺跡の発掘だけでは今や真実を解明する事は難しく、朝鮮半島の考古学者と協力してかの地の遺跡の新しい発掘成果を期待しています。

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アンコール ワット・トム遺跡の旅 目次編「2007年の旅」

 ベトナムのハノイに在住の頃にカンボジアのアンコール遺跡訪問の旅に出ました。その時の記録です。

 ・アンコール ワット旅行準備

 ・今日からカンボジア紀行

 ・アンコール遺跡の旅(その1)

 ・アンコール遺跡の旅(その2)

 ・アンコール遺跡の旅(その3)

 ・アンコール遺跡の旅(その4)

 ・アンコール遺跡の旅(その5)

 ・アンコール遺跡の旅(その6)

 ・アンコール遺跡の旅(その7)

 ・アンコール遺跡の旅(その8)

 ・アンコール遺跡の旅(その9)

 ・アンコール遺跡の旅(その10)

 ・アンコール遺跡の旅 おわりに

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おもちゃの室内飛行機

20094tsurumigawa_021  以前、義妹から貰った室内で飛ばすおもちゃのラジコン飛行機を昨夜飛ばしてみた。単三の電池三個をコントローラに格納し、飛行機を充電する為にコントローラに接続する。

 1~2分で充電が完了し、飛ばしてみた。コントロールしなくてもハイパワーで室内をグルグルと回っています。パワーコントロールとラダーの制御が出来る仕組みですが、もともと垂直尾翼が左旋回するように固定されている。赤外線で制御する仕組みですね。

 20094tsurumigawa_023 600回程度充電すると飛行機のコンデンサが駄目になるらしい。けど、部屋で飛ばすにはおもろいです。

 最近はおもちゃの室内用の電動ヘリも人気のようですね。将来何かの理由で入院でもしたら、暇つぶしに病室でおもちゃのヘリを飛ばすのもおもろいかと思います。

 (光るゴルフボール)

20094tsurumigawa_025  部屋をかたずけていたら、昔アメリカで購入した光るゴルフボールが出てきました。Twilight Tracerという製品で衝撃を与えると5分間光り輝くゴルフボールです。

 日本では禁止されていると聞きましたので、多分、お蔵入りしていたんでしょうね。20094tsurumigawa_027

20094tsurumigawa_029  

 衝撃を与える前とあとのボールの状況です、オレンジ色に輝くのですね。あちこち飛んで行く私にはぴったりのボールだったようですよ。しかし、何で日本では禁止なんでしょうね。

 私の部屋はメキシコ在住の長女が家に残した本や色んな雑貨が所狭しと置かれているし、彼女が購入した絵画も沢山ありまして大変なんです。飛行機も沢山格納というか、放置されているので、何時も家内に整理・整とんを迫られております。

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メキシコ オアハカ紀行 目次編

 2007年10月に娘が大学に通うオアハカを訪問した。その時の記録集です。

 ・オアハカに無事到着

 ・オアハカ朝市風景

 ・オアハカ下宿先

 ・ミトラ ヤグール遺跡探訪(1)

 ・ヤグール遺跡探訪訪

 ・モンテ アルバン遺跡探訪

 ・トラユーダ料理

 ・エルトゥーレ 最大の木

 ・カフェでのお昼

 ・オアハカ文化博物館

 ・アツォンパ(Atzompa)遺跡(1)

 ・アツォンパ(Atzompa)遺跡(2)

 ・死者の日が近い オアハカ情景

 ・オアハカ9日目

 ・トラコルラ市場

 ・死者の日の祭壇

 ・オアハカ朝市風景 動画補足編

 ・トラコルラ市場風景 動画補足編

 ・神話からみた古代人の世界

 ・ミトラ遺跡 動画補足編

 ・ヤグール遺跡 動画補足記事編

 ・オアハカ 動画補足編

 ・モンテ アルバン遺跡 動画補足編

 ・エルトゥーレ巨木 動画補足編

 

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稲作起源で新しい仮説がでたようです

 最近は授業の関係でアマゾンさんにお世話になって、古本を安く購入しています。本当に本の購入がアマゾンのお陰で便利になりましたね。昔なら、古本を買いに神保町をウロウロした訳ですが、最近はインターネットで古本を買う事が出来る。

 味気ないと言えばそれまでですが、時間の節約にはなりますね。インターネットと言えば、最近ユネスコで世界の図書館の本が見れるというので、私も東アジアの部門を少し徘徊し司馬江漢の銅板画や源氏物語の桐壺あたりの原本を眺めていた。解像度は悪くしてありますね。

 さて、本題ですが、アマゾンで考古学の関連図書を検索していると、池橋宏さんの『稲作の起源』、副題:イネ学から考古学への挑戦 という本が話題になっている事を見つけました。今度、是非読みたいと思います。本の読者からのコメントを読んでいると面白いです。

 ・イネは一年生の野生の直播栽培からではなく、多年生の株分け栽培から始まった。

 ・野生イネから栽培種に進化したのは、日本型でありインド型は後に分化した。

 ・水稲から進化の袋小路のように陸稲は分化したのであり、従来の説と逆である。

 ・初期の栽培は焼畑ではなく、水田栽培である。

 これは、日本にどのようなイネと稲作が伝播したかとは関係が無いと思いますが、イネと人間の関係史のマクロ的な見解であると思います。大変興味がある仮設ではないでしょうか。この説で従来の日本の稲作が陸稲の焼畑から始まり、水稲に進化したという説が覆る訳ではないと考えています。

 長江流域で野生の水稲が存在し、それを株分けして農耕が始ったと考えるのは実に自然な考えと、素人にも思われます。何回かこの数年、長江下流域に出かける機会があり、太湖ちかくをウロウロしていますが、少し南の地に河姆渡遺跡というのが有ります。

Photo Photo_2  紀元前4500年前から5000年前に栄えた文化で有名ですが、多量のもみ殻が発掘され水稲耕作がされていた事が判明したのが、1973年の頃だと思います。

 当時の杭州湾の海面は低く安定した水田耕作が行われたと考えられています。しかし、今から5000年前頃から海面上昇が起こり度々川の氾濫が起こり高床式の住居にしても水田は破壊を受け、遂に土地は放棄され文化・文明が崩壊したという。

 縄文海進の時期は6000年前がピークですから、世界的に海面上昇の自然災害の影響を受けたのではないでしょうか。さて、河姆渡遺跡の人々は何処に新天地を求めたのでしょうか。このあたりから推理作家が活躍できそうですね。

 九州上空から上海への便は何回も乗りましたが、最近の飛行機には地図が表示され進行方向の地図も見れるのですが、ほぼ一直線で上海に向かいます。杭州から中国東海岸を北上すれば対馬暖流に乗れば直ぐに九州や朝鮮半島の南海岸に漂着可能ですね。

 最初の水田稲作民の民族移動は縄文海進の時期が契機として考えられますね。その後も中国の戦乱が幾度となく起こりました、春秋戦国時代、秦王朝の成立、漢王朝の成立、王莽の反乱と新、後漢の成立、等々と続きます。戦乱の度に人々は民族移動をしたのではないだろうか。

 王莽の時代の貨泉という銭が瀬戸内海沿岸の弥生中期~後期の遺跡や、吉備の遺跡や日本海側の遺跡でも発掘されています。中国で使用されなくなった青銅の原料として日本列島に持ち込まれたのかも知れない。

 さて、イネの話ですね、是非ご興味のある人は本を読んで下さい。考古学の成果として陸稲の上陸が水稲よりも早い時期であったとすれば、陸稲農耕をしていた人々が何らかの事情で移動して来たのでしょうね。しかし、明らかに生産性の面で水稲の方が優れていたんでしょう。

 過去記事 参考 『良渚文明御ぞんじどすか?』

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近況報告 測量を学ぶ

昨日、北海道の娘から連絡があり峠を越えたという嬉しいニュースが来た。家内が現在北海道でサポートしているが本当に先ずは良かった。しかし、夜には関西の、義妹の病院での検診がおもわしくない旨のメールが来て一喜一憂の按配であります。

 私は久しぶりに、息子とと二人きりで1週間生活が出来た。息子の弁当を作り続けて2年になるが、ワンパターン化とあまり頑張ると良くない事にも気がついた。弁当を貰う方も気がねの気持ちがあるから、或る程度、いい加減がいいようだ。と、言う訳でこの1週間はおにぎり主体でおかずをつける弁当に衣替えした。

 私も、大学に通っており、おにぎり弁当を持参する。意外と「おにぎり」は素晴らしい弁当だと思う。食べるのに、面倒臭くないし、時折おかずを摘む程度が昼飯には良さそうだ。古来、万葉歌にあるように、旅にしあらば椎の葉に盛るのが、自宅ではなくて外にいるという旅の緊張感が生まれると思う。

 そうそう、この前、北海道に10日間、娘のサポートに滞在していたが義息子の弁当を毎日作り続けたが、彼は職場で「爺さんの弁当」という事で話題になったという。別に、特別にプロの主婦のような弁当は作れないが、作る方も実は楽しみがありますね。

 弁当談義はこれ位にして、先日の学校で測量の演習がありました。埋蔵文化財の発掘には測量が先ず基本の大事な事なんですね。そう言えば、私の52歳で早逝した兄貴が土木屋さんでした、土木工学をやった兄貴でした。大坂で橋を作っていました。

 兄貴の職場の同僚で考古学の趣味の人がおられ、兄貴の素晴らしい友人でした。京大時代から遺跡の発掘で駆り出され測量を考古学の学徒に教えていました。今、私はその測量技術を学んでいます。大学時代のワンゲルの同僚の吾朗ちゃん(GPSデータ社社長)はきっと、今はGPSの時代で、時代遅れの平板測量なんて・・・と言われそうだけど、大学は基本を学ぶ所だから、ユカタン半島のジャングルでも最低の機材で測量をやらねばならない。(笑)

 しかし、古代の測量はどないしていたんでしょうね。あの箸墓古墳や大山古墳(伝仁徳天皇陵)はどのような技術で建設したんだろうか。エジプトのピラミッド建設や、中国の秦始皇帝陵の建設や、メキシコや中南米の3千を越すピラミッドの建設では高度な数学と測量技術が使われたのでしょうね。

 私は先ずは三角法の勉強から始まっています。sin,cos,tangent懐かしいですね~、高校時代に戻ったようです。玉耳さん(昔の職場の部下で女土木技師)今度、教えてね。(笑)

 ところで、皆さん日本水準原点という言葉を御存知ですか。永田町1丁目1番地の国会議事堂にあるそうですよ。東京湾平均海水面(ジオイド面)より24.4140メータ高い位置に日本水準原点が設置されてるんだそうです。これが、日本の水準測量の原点なんですね。東京湾平均海水面とは何なのか、これは地球物理学の世界の範疇だそうですが、楕円形の地球ではインド洋では100メータへこみ、ニューギニアでは80メータ位の膨らみがあるので平均を出し、地球全体で平均海水面曲線(ジオイド)と呼ぶそうだ。

 だから、東京湾の海水面の実情とは異なるのですね。色々面白い事が学べて楽しいですね。

 (何故山が神聖か)

 古来、縄文時代から人々は船で沿岸航法で物流を行っていました。漁業も行っていた。船の航海で大事なのは自分の位置の確定なんですね、多分目標となる海岸から見える山とその前に存在する目標物から直線を決め、もう一つの山と目標物の交点で正確な船の位置を決めていたんでしょう。

 今でも漁師はそのようにして、秘密の漁場を親子で伝授していると聞きます。山は航海民にとり実に大事なものだったと思います。

 

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韓国の遺跡発掘情報 その2(感想)

 韓半島南部と日本列島の関係は歴史的に実に親密な関係であったと考えています。残念ながら、秀吉の朝鮮出兵の事実や、かの大戦での日本軍の侵略という事実があり韓国の人々は古代の日朝間の歴史を語るにしても難しい溝がある事は事実ではないだろうか。

 戦後生まれの人々が近くて遠い国との壁、溝を埋める努力が必要と考えています。朴天秀さんのように日本の大学に留学され、日本語を話し日本人と日頃接し心を開いて下さった学者さんは本当に重要だと思います。僭越ながら私も今まで2回しか仲人をした事は有りませんが、最初の仲人は在日韓国人の二人でした。

 さて、日本の古代史で、今だに疑問な事は沢山ありますが、邪馬台国の事は一番謎であります。魏志倭人伝に書かれ、日本の記紀には全く登場しない邪馬台国。卑弥呼も登場しないし、台与も登場しない。しかし、中国の歴史書で日本列島の事に関して嘘を書いても何のメリットもない訳ですから、多分、魏志倭人伝に書かれた概要は事実だったのではないでしょうか。

 2世紀末に戦乱の日本列島を収めた王である卑弥呼、そして247年か248年に死亡したという卑弥呼とはどんな女王だったんでしょうか。そして、3世紀から突然発生する前方後円墳はその後も6世紀まで、ヤマト王権のシンボルとして築き続けるのです。

 最新の考古学の世界では、3世紀の遺跡・遺物を考えると奈良平野の東南の纏向(マキムク)地域が候補地として最有力ではないでしょうか。吉野ヶ里遺跡は残念ながら、邪馬台国の時代よりは少し歴史が古いと考えるのが考古学の世界では常識ではないだろうか。

 ところで、中国の歴史書で書かれる倭とは本当は未だちゃんと解明されていないのが、事実ではないだろうか。研究者の間でも色んな説があるようですね、極端な説は中国の東海岸から朝鮮半島南部、そして九州を含む海洋民であるという説もある位です。しかし、魏志倭人伝の3世紀の頃は明らかに日本列島を指しているようです。

 (伽耶諸国と日本列島)

 伽耶は洛東江流域に栄えた国々であります。私も一度訪れた事がありますが、この地域での発掘成果は本当に重要と思います。日韓で協力して発掘成果を共同で研究する事は教科書問題を解決する一番の近道だと考えます。

 今回の朴先生の書物を読みながらグーグルアースで場所を探しました。漢字で表記されていないので、随分と苦労しましたね。しかし、郡レベルでは何とか韓国の発音で追いかける事は可能でした。そこで、気になったのは高霊(コリョン)郡であります。

 第7代天皇とされる孝霊天皇ですね、奈良時代に記紀を編纂する時につけられた名前ですが、高霊天皇だったとすれば伽耶との関係が深い天皇であった言えますね。そして、の娘が箸墓古墳の主と伝説のある、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)さんなんです。弟が吉備津彦です。

 根拠の無い空想を膨らますと、百襲姫の父は伽耶の鉄を握る社長さんで、その娘さんだったも知れない。列島の連中の関心は伽耶の鉄だった訳ですから、現地の製鉄会社の社長さんであれば、列島の連中は彼に従ったかもしれない。

 しかし、彼女でなければ列島の人々は従わなかった、その理由は何だろうか、それが謎です。又、記紀神話では日本列島の国の起源は神武さんとして、南九州から東に瀬戸内海を東進した人々であると何故書かねばならなかったのかも謎です。

 (河内王朝の謎)

 神功皇后から応神天皇に始まる河内王朝では明らかに、王朝の断絶があったと考える考古学者が多いと思います。その理由は、埋葬品にあります。突然に馬具や戦闘用の遺物が出土するのですね。4世紀末から5世紀にかけて日本列島では又、大きな変化があったようです。

 巨大な前方後円墳を河内に築き、埋葬品もこれまでとは全く異なる馬具や戦闘用の遺物となる。伽耶諸国でも変化があったようです、どうやら北方の遊牧民が南下したようですね。今でも、応神天皇から仁徳天皇に続く倭の五王の王朝の発生の背景について、よく判っていない。

 5世紀末から朝鮮半島の栄山江流域に前方後円墳が築かれ始めるのも実に興味のある話だと思います。現在13基の前方後円墳が発掘されている。これも、今後韓国の考古学者や歴史家や民俗学者があつまり解明して欲しいと思います。

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韓国の遺跡発掘情報 朴天秀(パクチョンス)氏のご紹介

 朴天秀氏は阪大の大学院に留学され、現在慶北大学校人文大学考古人類学科の副教授をされています。1963年生まれだから46歳と一番元気な年頃ですね。彼が出版した『伽耶と倭』について私が興味を引いた位部分のメモを認めます。

・任那という言葉が日韓の間の大きな歴史認識問題となっています。任那という言葉は日本書紀に書かれ、任那の日本府という言葉を我々も教科書で習ったかも知れない。しかし、この言葉は日本側でしか記録されていない言葉であり、韓国の人々は認めていない。

 最近は日本の学者さんも、植民地ではなく倭の軍隊が洛東江流域の鉄の権益を守る為に現地の洛東江流域の国々から頼まれて駐屯していたのではないかと発言する日本の学者も増えているそうです。私も、昔から倭からは朝鮮半島の人々が欲しがる、大して輸出する物もないのに鉄と何を交換していたのか、疑問でした。

 それは、今も続いています。弥生時代が始まった頃の日本列島では稲作の為に農耕具、土木作業の道具として鉄は必須だった。先進国である韓半島の弁韓諸国、辰韓諸国の人々に与える事が出来たものは傭兵しかなかったのではないでしょうか。

 しかし、日本列島では朝鮮半島から輸入した鉄挺(鉄の延板)を輸入し大きな生産力を持つ列島へと進化しました。日本列島で鉄が鉱石から本格的に製造出来るようになったのは6世紀頃からではないだろうか。確か継体天皇の時代からだと思います。

 朴先生は任那とは6世紀前半に咸安郡(ハマン)郡の阿羅伽耶に派遣された倭の外交使節が滞在した倭臣館であると述べています。Haman_2

さて、韓国での倭との関連する遺跡発掘の最近の歴史を朴さんは紹介されています。

 『1970年代から1980年代前半』

 ・高霊(コリョン)郡、池山洞(チサンドン)古墳群と釜山市福泉洞(ポクチョンドン)古墳群での発掘です。Photo Photo_2

 鉄製甲冑と馬具が発掘されました。従来の日本列島起源ではなく韓半島起源である可能性が高い事が確認された。池山洞32号墳出土の鉄製甲冑が出土したが、これは日本列島で制作されたものが伽耶地域に持ち込まれたものと判明した。

 伽耶地域と日本列島の緊密さが証明されたわけです。

 『1983年 固城郡(コソン)松鶴洞(ソンハクトン)1号墳の発掘』Photo_3

 ・日本列島独自の古墳形態と考えられる前方後円墳が見つかりました。それが1983年発掘の固城郡松鶴洞古墳なのです。その後、海南郡(ヘナム)の方山里(パンサルリ)長鼓山(チャンゴサン)古墳と龍頭里(ヨンドウリ)古墳も前方後円墳である事が判明した。Photo_4

 朝鮮半島南部で日本独自と考えられた前方後円墳が発掘され始めたのです。これは、画期的な事でした。

 『1980年代後半』

 ・陝川(ハプチョン)郡、玉田(オクジョン)古墳群の発掘。Photo_5

 調査により5世紀後半以後、日本列島全域で出現する金銅製装身具、馬具は伽耶内陸部の大伽耶で制作されたと想定される。南部の金官伽耶だけではなかった。

  ついでに、大阪南部の大庭寺(おおばでら)遺跡は初期須惠器の工人が金官伽耶とその周辺地域から移住したと想定。

 『1990年代前半』

 ・金海(キメ)市大成洞(テソンドン)古墳群と良洞里(ヤンドンニ)古墳群の発掘。Photo_6

 金海は魏志倭人伝の句邪韓国の場所と考えれている場所です。この古墳群の発掘により以下の遺物が発掘された。

 ・巴型銅器、紡錘車形石製品、鏃形石製品、玉杖(ぎょくじょう)、広形銅矛、鏡が出土し日本列島独自の威信財と考えられるものが金官伽耶の王墓の副葬品として出土したのだ。これは、日本列島から渡来したと考えられる。

 ・日本列島産と考えられてた筒形銅器も金官伽耶で列島より早い時期に制作されてた、可能性が高まった。

 『その後』

 ・霊岩郡(ヨンアム)チャラボン古墳、咸平(ハムピョン)郡、新徳(シンドク)古墳も前方後円墳である事が判明し発掘された。Photo_7

 そして、光州市(クワンジュ)、明花洞(ミョンホワドン)古墳、月桂洞(ウオルゲドン)古墳も前方後円墳として発掘。

 韓半島南部の前方後円墳は栄山江(ヨンサンガン)流域を中心に13基も発掘された。

Photo_8  私の感想は次回に記録したいと思います。

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箸談義 箸と橋

もう亡くなられた考古学者さんで佐原真さんという有名な先生がおられました。彼の書かれた本は沢山読ましてもらいましたが、日本の風習について書かれた面白い部分がありましたので、メモを認めます。

 (属人器と共用器)

 彼の話では食器には共用器と銘銘器が存在し、銘銘器で誰が使うか決まったものを属人器と分類されるそうです。そして、属人器の風習を持つのは日本と韓国だけだそうです。銘銘器は漢の時代に生まれ、ローマ時代にも生まれたそうですが、その後姿を消したそうです。欧州では16~7世紀に再度、銘銘器が復活するそうですが属人器の風習は生まれなかったと述べられています。

 先生の話では魏志倭人伝に倭人は飲食は高杯(たかつき)を用いて、手づかみで食べると書かれている。日本で箸が登場したのは平城京の時代だそうです。それまでは、手で食べていたんだそうです。平城京の時代でも平城宮からは箸が出土するが平城京からは出土しない。一般庶民の生活では箸は未だ使用されていないのですね。

 ところが長岡京、平安京からは箸が出土するので、庶民に箸が広まったのは長岡京の時代からだと考古学者は考えているようです。

 都出比呂志先生の話では、西日本では2~3世紀から、東日本では3~4世紀から銘銘器の存在を考古学的に確認できるそうです。これは、一緒に食事をしたという証拠だという。銘銘器が存在する事は共食が始まった証拠であると。

 話は脱線するのですが、では三世紀の魏志倭人伝の卑弥呼の墓と比定される箸墓古墳という名前が時代に合わないという話になります。これにも色んな説があるようですが、例えば土師(はじ)墓であるという説を述べる人もおられますね。土師氏は出雲系ですが、土木工事や埴輪の制作をした職人集団です。

 私は、考古学的には証明されていないが、縄文時代から箸は存在したのではないかと考えています。ピンセットのように折り曲げて使用する箸です。古代より『はし』という言葉は、あの世とこの世を繋ぐものという思想が存在したと思います。今でも橋(はし)はあの世とこの世を繋ぐ場所という風に考える人が多いのではないでしょうか。

 民俗学的には『はし』に関する沢山の信仰や習俗に関して文献が見られます。精霊が宿るものを口にするという行為はまさに、異なる世界を橋渡しする行為である訳ですね。京都一条戻り橋もあの世とこの世を繋ぐモノなのではないですか。

 そこで、個人的は箸墓の『はし』はこの世とあの世を繋ぐ墓であるという風に人々は信仰していたのではないかと考えています。まさに、巫女さん卑弥呼はんの役割(神と人間界を繋ぐ人)ではなかったですかね。

 古来、列島に住む人々は全てに精霊が宿ると考えていましたから、個人が使用した器にも精霊が宿っていたのではないでしょうか。出棺の時に亡き人が使用していた茶碗を玄関で割る行為も、そんな気がします。

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2008年4月の韓国紀行 回想

 昨年の2008年4月は長年の夢であった韓国の古代史を辿る旅をしました。ソウルから始まり水原城、百済、洛東江、新羅、丹陽と巡りましたが、又、釜山から洛東江流域の加羅・伽耶・金官伽耶と呼ばれた弁韓・辰韓の地を訪問したいと思います。

 過去記事 韓国古代史紀行 目次編

 最近は、韓国史だけではなく中国の歴史も勉強しないと韓国も日本も古代史は解明出来ないのではないかと思うようになっています。強大な国土に中央集権国家を築き文化・文明を世界に先駆け築いた中国の歴史を抜きには東アジアの古代史も日本列島の歴史も解明が難しいと思うようになっています。

 しかし、常に新しい文化・文明を受け入れるが常に独自の進化を遂げた日本列島の人々の歴史も世界に冠たるものが、あると確信しています。正倉院や古寺、古社に行けばもはや世界中で失われた文化・文明に関わる文化財が今も守られているのです。

 同時に世界最古を誇る天皇制を現代の事情に合わせて維持しながら、世界最先端の文明を開拓している、貴重な珍しい国家であると考えています。何故そのような事が可能であったのか、そして先祖達はどんな苦労をしたのか、それを学ぶのが日本の歴史を学ぶという事ではないでしょうか。

 日本列島の先祖が誇る文明として縄文土器があります。氷河期が終わる頃の1万6千年前の縄文土器が発掘されていますので、世界では土器の発明の歴史に於いて先端を走っていたのですね。縄文土器の名前の由来である撚糸による紋様というのが特徴だそうです。

 土器と綱を既に発明していたとすれば、航海が出来ると思います。船を作り航海するには綱と水を蓄える土器が必須であると何処かで学んだ記憶があります。5500年前の縄文遺跡の三内丸山遺跡を、以前、訪問した時に感じた事はここに住んでいた人々は航海の民であると感じました。活発な交易により青森では産出しないヒスイや黒曜石が発掘されています。遺跡の発掘で今までの縄文時代の常識は大きく覆されましたね。

 参考 三内丸山遺跡ホームページ

 しかし、残念ながら文字を持たない人々でしたので、記録が残されていません。遺物だけで推測するしかないのですね。記録されたものはやはり中国の書物に頼らざるを得ません。しかし、縄文時代の記録は残っていないのですね、紀元前770年あたりからの春秋時代、紀元前400年あたりからの戦国時代そして秦王朝の紀元前221年となります。

 中国大陸が激動に見舞われた戦国時代に長江下流域の航海民は稲作を携えて中国大陸の海岸を北上し朝鮮半島南部や九州を始めとする、日本列島に新天地を求めたと考えられます。これが日本列島の稲作の始まりであり弥生時代の始まりではなかったでしょうか。

 朝鮮半島よりはモンスーン地帯で湿潤で照葉樹林帯である日本列島が稲作には適した土地でありました。最初は陸稲が伝わり、そして水稲が伝わったと稲のプラントオパール分析やDNA分析で考古学は歴史を補強しています。

 中国は秦王朝の頃より積極的に朝鮮半島に進出してきます。漢王朝の頃には楽浪郡や帯方郡を半島に設置し植民地政策を活発化させました。その頃の日本列島は九州の北部の奴国が中国王朝に認められた列島を代表する国だったと思われます。福岡の志賀島で発掘された金印である『漢委奴国王(かんの 倭の奴国王)』がそれを証明していますね。

 しかし、その後、漢王朝は衰退し後漢王朝の末期には中国は乱れ朝鮮半島も日本列島も政治的混乱に巻き込まれます。2世紀の後半は倭国大乱の時代となったようです。吉野ヶ里遺跡はその当時の戦乱の模様を伝える遺跡と考えられていますね。

 そして、朝鮮半島は公孫氏が制圧し中国は魏・呉・蜀という三国時代になります。3世紀の初めの頃でしょうね。そして、魏の歴史書に久しぶりに日本列島の記事が登場します、邪馬台国なのです。しかも女王であるという。

 考古学的には3世紀の遺跡の分布から九州ではなく奈良の纏向遺跡が今、一番注目されています。しかも古墳時代が始まったのですね。世界に例をみない前方後円墳が突如纏向地域に出現したのです。古墳からみれば、その後6世紀の末頃までヤマト王権のシンボルとして巨大な前方後円墳が築かれる事になるのです。

 中国の後漢王朝の衰退と崩壊により朝鮮半島への中国の支配体制が崩れ、半島南部の洛東江流域の弁韓諸国や辰韓諸国は最大の輸出品目である鉄を日本列島の奴国だけでなく、多くの貿易する諸国に販売したと考えています。

 辰韓は主に出雲の勢力と協力して鉄を出雲や日本海沿岸に供給したと想定しています、そして出雲の勢力は丹後半島、琵琶湖を経由し山背経由で奈良盆地に早く進出し、鉄の農具を使い巨大な穀倉地帯を開発し生産力を高めたと考えられます。

 スサノオは新羅(辰韓)に降臨していますのと、出雲や日本海沿岸は朝鮮半島南東部との交易には適したルートと考えられるからです。一方九州の勢力は釜山(狗邪韓国)対馬ルートで鉄を仕入れ、瀬戸内海を東に販路を広げ吉備平野で大きな穀倉地帯を築いたと考えています。

 記紀神話に出てくる神武天皇の東進のルートは九州勢が鉄を伝え稲作を開拓したルートではないでしょうか。吉備で神武さんは8年間も滞在しています。そして、吉備の豊かな経済力をバックに難波から奈良平野を目指した。しかし、既に出雲の勢力が奈良平野を開拓していたと思います。

 一方、朝鮮半島情勢は公孫氏が楽浪・帯方郡を確実に支配する情勢となっており誰が日本列島を代表する総合商社かで争いがあったでしょうね。総合商社にとり鉄鋼事業部は最大の事業部だったでしょう、出雲と九州・吉備連合は巫女さんの卑弥呼さんを社長に祀り上げ連合国家の形態を取らざるを得なかったのではないでしょうか。

 卑弥呼さんの仕事で重要なのは中国、朝鮮半島の政治勢力との交渉であり洛東江流域の鉄の確保であったと考えます。

 昨年2008年4月の韓国の旅で、帯方郡が置かれた漢江河口から、川を遡上し丹陽にでて峠を越え洛東江を下り金海(キメ)、釜山に通じる陸路(河川路)を確認してきました。中国人の華僑(総合商社)の人々が日本列島と交易したルートです。

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伊豆の踊り子歩道 番外編(河津駅→熱海 打ち上げ会)

 河津駅に到着したが、午前中であり打ち上げの宴会をするには未だ店が開いていない。そこで、熱海駅まで普通車で行き、熱海で宴会することになりました。幸い電車は黒船電車という座席が伊豆の東海岸を眺めるように出来た特別列車でした。座席がパノラマの画面をみるように出来た車両でした。

黒船電車 景色抜群 どうです、素晴らしいアイデアですね。踊り子号より楽しめますよ。そして、普通の料金です。ビールを飲みながら伊豆の東海岸を眺めます。大島や幾つかの島を眺める事ができます。
黒船電車 伊豆東海岸を走る
黒船電車 伊豆東海岸を走る のんびりとビールの飲みながら景色を堪能する事が出来ますよ。
熱海にて打ち上げ会 熱海の商店街を抜けたところの囲炉裏茶屋というお店で打ち上げ会をやりました。日本酒とお魚での宴会です。
刺身から
金目鯛の煮付け 抜群のうまさ
最後はお茶漬け これがうまい 金目鯛の煮付けが最高でしたね。最後の茶漬けも最高です。
囲炉裏茶屋 熱海 熱海駅で散会となり、私と小島さんは東海道在来線のグリーンで寝て帰り、古河さん、岩ちゃんは新幹線で帰られました。本当に楽しいハイキングでした。次回は蓼科となります。

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伊豆の踊り子歩道 番外編(滝と桜と桃)

20094amagigoe_178  伊豆河津の七滝、『姫桜』です。樹齢200年のエドヒガンだそうです。

 撮影:2009年4月2日

20094amagigoe_197 踊り子歩道、小鍋神社近くの畑に咲く『桃源郷の桃』です。

 撮影:2009年4月2日

 見事な極楽の世界ではないですか。

20094amagigoe_161  七滝(ななだる)温泉の『大滝(おおだる)』です。豪快な滝と滝壺で、この景色を見ながら露天風呂は如何でしょうか。

 撮影:2009年4月2日

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伊豆の踊り子歩道 完全走破(5) 七滝温泉→湯ガ野温泉

 七滝温泉で疲れを取り、美味しいお酒も飲み清々しい朝を迎えました。今日は湯ガ野温泉の踊り子歩道の終着点である福田家を目指します。

大滝の瀑布 朝の9時過ぎですが、大滝(おおだる)は爆音を轟かせ滝壺に落下していました。
大滝での記念撮影 記念写真を撮り、再度滝壺から元の踊り子歩道に戻ります。ここは天城荘の露天風呂が沢山点在しております。
大滝の露天風呂 宿泊していなくても、露天風呂巡りは出来るようですから、時間のある人はハイキング途中で温泉に浸かるのもいいと思います。
樹齢200年 『姫桜』 樹齢200年の河津『姫桜』には感動しましたね。ループ橋の近くにあります。桜の花の塊が谷底から湧き上がるような光景でした。
苔むす石垣の道 苔むす石垣が迫る静寂の道を下って行きます。今回の踊り子歩道では殆どハイキングする人に遭遇しませんでした。意外な事ですね。
落ち着いた村落を抜ける 桜の花と桃の花が咲く集落を抜けて、隠れ里のような雰囲気が味わえます。お花が一杯咲く畑の道を歩きます。
満開の桃 畑には桃の花や水仙や菜の花が満開でした。静寂の中を綺麗な空気を吸いながら歩けます、極楽ですね。
揺れます 小鍋神社近くの吊り橋です。歩くと随分と揺れます。
みかんの丘通過 みかんの丘を歩きます。沢山の、みかんが歩道に転げ落ちています。子供の頃を思い出し、足で蹴りながら歩きました。
苔むす路傍の墓 苔むした路傍のお墓を通過します。南伊豆は本当に天城隧道が出来るまでは秘境の地だったんでしょうね。
遂に踊り子歩道終点だ 遂に終点ですよ、浄蓮の滝からおよそ20キロ、天城を越えて辿り着きました。
温泉で手を洗う 温泉が無料でハイカーに提供されていますよ。有難いです。
福田家さんです 湯ガ野温泉の福田家です。川端康成は学生時代にここに三泊したそうですね。旅芸人と触れ合ったのは事実ではないでしょうか。しかし、当時の社会情勢では旅芸人は一緒に、泊めてもらえなかったと記憶しています。被差別が存在した時代です。
終点 記念撮影 記念写真です。皆さんよく歩きましたね。踊り子歩道完全走破でした。
河津駅です 湯ガ野で河津駅行きのバスに乗り河津駅に到着しました。バスの車窓からはすでに花の季節の過ぎた河津桜の新緑の並木が美しかったです。

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伊豆の踊り子歩道 完全走破(4) 旧天城山隧道→七滝温泉

 

タイムトンネルを歩く三人 旧天城山隧道を通過します。トンネルの中は寒くて手が冷たくなりました。夏だときっと涼しいでしょうね。夜の通過は怖いでしょうね。
二階滝 二階滝(にかいだる)です、滝が二段になって落下しているのところから、名前が出来たのでしょうね。
わさび田 わさび田に時折出会う事ができます。綺麗な水が流れているから可能なんでしょうね。
山桜と砂防ダム 山桜と砂防ダムの景色です。遥か山の上を自動車道が走っています。
二本杉峠への道 二本杉峠に向かう歩道と分岐です。ここは宗太郎園地です。
七滝(ななだる)到着 七滝に到着しました。釜滝・海老滝・蛇滝・初景滝と巡ります。
垂直に降下する 急勾配の階段を降下します。これ以外にスリルがありますよ。滝を右手に見ながら下ります。
釜滝豪快 
釜滝 柱状節理 豪快な瀑布ですね。岩は柱状節理です、六角形の柱のように岩が割れますね、東尋坊の海岸も柱状節理でした。
吊り橋を渡る二人 釜底に降りて吊り橋を渡り滝に近づきます。
釜滝ともさらば 釜の底から再度山を登り、海老滝に向かいます。
釜滝 岩ちゃん、小島さん、古河さん 釜滝をバックに記念写真です。これ、逆コースだと厳しいと思います。
海老滝 海老滝です。
蛇滝に向かう 蛇滝に向かいます。
蛇滝 蛇滝ですが、蛇のようにクネクネして落下する滝なんですね。
伊豆の踊り子と初景滝 初景滝に到着です。踊り子さんと学生さんがお出迎えですよ。
初景滝記念写真 初景滝にて記念写真です。皆さんよく歩きましたね。
吉永小百合さんから知ってる 吉永小百合、内藤洋子、山口百恵ちゃんあたりは馴染みです。
主人に撮影頼みました 七滝温泉ホテルに到着出来ました。夕方4時頃でしたね。朝早くから16.2キロの天城越え、頑張りましたね、美味い酒が待っていますよ。無事に初日は終わりました。

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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行 終わりに

 9回に渡り紀行文を載せましたこの旅もこれで終わりです。MuBlogのMuさんとの楽しかった旅も終わりました。けど、何か始まりのような気もします。今回の旅で現場を訪れ新しい発見も有りました、やはり現場第一ですね。

 中国でも日本でも三国志は人気がありますし、最近『レッド・クリフ(赤壁)』という映画も人気です。魏・呉・蜀と戦った時代に遥か東海の島の国、蓬莱の国、邪馬台国の卑弥呼はこの時代に活躍したのです。そして、破格の扱いである親魏倭王の金印を貰ったのです。

 東アジア全体を俯瞰しながら邪馬台国を眺めないと、当時の日本列島の事実は解明されないと思います。60の手習いで昨日から基礎的な考古学の勉強を始める事になりましたが、最大の課題は邪馬台国の卑弥呼の謎を解く事に尽きると思いますね。

 出来れば、磐余から箸中地区、纏向地区あたりは国として特別の地域として指定し立体的に時間軸を含めた総合的に解明する、生きた博物館として、文化遺産として、あらゆる学問を結集してプロジェクトを組み100年かけて解明するプロジェクトを起こして欲しいと思います。国のルーツを解明するのは国家の責任と思いますね。

 今回の紀行文にて東アジア全体から眺める視点を常に心して来ました、しかし、考古学の知識が乏しくまだまだ真相に迫る事は出来ていません。何時か誰でも納得する科学的な解明と宗教・民俗学・文献歴史学・考古学・最新の科学手法、あらゆる学問を総動員した結論を待ちたいです。

 最後に、これから勉強する課題として埴輪・土器の研究が必要と思いました。箸墓古墳が何故最古の前方後円墳であるのか、その理由さえ私には判らないのですが、後円部から出土したという都月型器台円筒埴輪が決定打であると考古学者は言います。

 その理由は、吉備の国の備中南部地域の弥生時代後期後半の特殊器台と特殊壺を都月型と呼ぶそうです。地面に突き立てる形で使用されることを想定した器台であり従来のものと異なるという。楯築弥生墳丘墓(弥生時代後半後期)の発掘で前方後円墳と埴輪の分析から箸墓との関係を論究された考古学の重鎮の近藤義郎先生の本も勉強しないといけないと思いました。

 楯築弥生墳丘墓には20メータの細長い前方部が存在し、桜井・茶臼山、纏向勝山、纏向東田大塚に通じる古墳ではないだろうか。明らかに磐余・纏向地域は吉備の影響が強いと考えざるを得ません。是非、吉備を訪問して色々と自分の足で調査が必要と思いました。

 吉備から東進した勢力は鉄を独占した集団であり稲作と土木事業には欠かせない資源を握っていたとしても、在地の三輪山の神には従わざるを得なかったと思います。これが、古い時代からヤマトに根を張っていた出雲の勢力ではなかったでしょうか。両者が解決を見出した世界が邪馬台国ではなかったかと思います。

 参考文献 楯築弥生墳丘墓

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60の手習い始まる

20094waseda_001  昨日から62歳(限りなく63歳だけど)の手習いが始まった。早稲田大学、文学学術院の考古調査士育成コースの二期生の開校式が行われ、講義も始まりました。昨年に開校され、今年は二期生となります。現役の学生も半分程度参加し、総勢30名の教室はスタートしました。

 20094waseda_002 朝6時に起床し、弁当を詰めお茶をペットボトル二本に詰め、息子が大学時代に初めの数ページしか使用せず放置したノートを5冊程度鞄に詰め、20年前にオーストラリア出張時に購入したカンガルーの革でできた筆箱に鉛筆とボールペンを入れ6時40分頃に自宅をでた。

 渋谷から副都心線に乗り換え、西早稲田の駅で下車し早稲田の戸山キャンパスを目指した。途中の道で赤い煉瓦の塀が続く建物がありこれが大学と思い門標を見ると、学習院の女子中等・高等学校でしたね。門番のおじさんに、「早稲田の戸山キャンパスは何処でっか?」と尋ねると、信号二つ先の所ですと丁寧な返事が返ってきました。

 此処が、やんごとなき人々の姫さま達が通う学習院の女子部の学園なんですね。目の前には朝が早いというのに、学習院の若い女学生達が歩いてくるではないですか。何処となく品があるように思いますね。私が通った北河内の枚方第三中学校とは、えらい違うみたいです。

 という訳で、何とか早稲田の戸山キャンパスに到着しました。8時ですね、45分も早く到着しました。隣は戸山公園で早いので一服しようと考えたが、ベンチでホームレスのおじさんが寝てるので、諦めた。キャンパスには大学のクラブや色んな団体が大きな看板を掲げている。これも昔と同じです。

 ただ、内容が違いますね、40年前は学生運動の最盛期、過激な反政府的な内容の看板ばかりでした。ユーミンの「いちご白書」のイメージの時代でしたね。清掃されてる用務員のおじさんに声をかけて、「喫煙場所は何処でしょうか?」と尋ねると、丁寧に答えて下さいました。時代が時代だから、随分と喫煙場所は無くなりましたとの話でした。

 開校式が行われ、学生書を貰ったが生年月日が1970年とあり、これでは24歳もサバをよむので修正をお願いした。1時限、二時限の授業が終わり昼飯の時間となった。弁当を何処で食べるか迷ったが、大隈親父の銅像に未だ会っていないので、大隈さんが立つキャンパスに向かった。

20094waseda_005  銅像の傍のベンチに座り、弁当を開いた。同じベンチの隣では女子学生が、おむすびを食べています。真面目な学生さんなんですね。昔はこのあたりは、高下駄を履きマントに帽子を被り、手ぬぐいを腰からぶら提げた貧乏学生が徘徊していたんでしょう。

 時代は変わる、大隈さんはず~~と移り変わるキャンパスを眺めているんですね。

 夜の6時過ぎに講義は終わり、帰路についた。

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「槻(つき)」の信奉 国家建設の原点

 表題の見出しで2009年4月10読売新聞では文化欄で辰巳和弘先生(同志社大学教授)の記事を掲載されていました。同時にー「聖樹の下」古代王政の好地ーとともあります。今回、中央公論新社から出版された『聖樹と古代大和の王宮』の紹介でもあると思われます。

 辰巳先生に関しては桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行でも、それ以外でも「黄泉の考古学」のご紹介をしています。私は前方後円墳の形状が中国の神仙思想である壺世界を具現化したものだという辰巳先生の仮説に大変興味を持っている一人です。ホケノ山古墳でも桜井・茶臼山古墳を訪れた時にもそう思いました。

 さて、今回は和名の槻(つき)=欅(ケヤキ)の木と、古代王権との深い関係についてのお話です。私なりに新聞記事を纏めました。

 (槻と王権の関係について)

 ・崇神・垂仁・景行大王の時代はマキムク(纏向)に王宮を構えた。景行大王の時代は纏向日代宮(まきむくの ひしろのみや)では四方に大きく枝葉を拡げ繁る大きな槻(百枝槻=ももえつき)の樹下に祭政空間が設けられた。

 ・太い幹から扇を広げるように天空に向かって大きく枝葉を繁らせるその樹相は、世界の中心に立ち、あらゆる空間を覆う「世界樹」とみなされ、大王による天下支配の象徴であった。

 ・北欧神話『エッダ』が語る巨樹ユグドラシルや、中国の地理書『山海経(せんがいきょう)』にいう楽園の中心に聳える建木(けんぼく)を想起させる。

 ・古代王宮は纏向、軽、磐余、長谷(はつせ)、飛鳥と奈良盆地の東南が常に王権の中心であり続けた。これらの地域では百枝槻の存在が語られている。

 ・長谷朝倉宮(雄略天皇)では初穂を神に供える新嘗(にいなめ)の儀と、それに続く豊楽(とよのあかり)の宴が樹下で行われた。

・応神天皇の軽島明宮(かるのしまのあきらのみや)の百枝槻は、七世紀に軽市を象徴する聖樹(斎槻=ゆつき)として祭られる。

 ・用明天皇の磐余池辺双槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)では、主幹から大きく二股に分かれて繁る百枝槻が大宮のシンボルであった。

 ・飛鳥の田身嶺(たむのみね)の頂きに立つ二股槻の樹下が聖処とされた。これは、両槻宮である。此処は酒船石のある丘陵と比定される。樹下にある酒船石では、丘陵の麓に湧出して亀形石槽の背に落ちる聖水を用いた秘儀が行われた。

 ・百枝槻や二股槻の聳える場が王宮を構える好地とされた。

 ・蘇我氏滅亡の直後、孝徳天皇らは「大槻の樹下」で神々に向かい群臣に忠誠を誓わせた。此処は、飛鳥寺の西の槻の樹下であった。

 ・飛鳥西約2キロの軽に聳える「今来(いまき)の大槻」の記事が書紀に記される。現在の近鉄橿原神宮駅前東口付近に聳えていた。そこから、真北に古代大和の基幹道である下ツ道が一直線に延びていた。それが、平城京の朱雀大路となる。

 ・参考 東根の大ケヤキ(天然記念物)

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伊豆の踊り子歩道 完全走破(3) 桜と桃の競演

 今回は伊豆の踊り子歩道の桜と桃の美しさをご紹介します。

20094amagigoe_017  浄蓮の滝近くの踊り子歩道が始まる近くの場所で出会いました。枝垂れ桜ではないでしょうか。これから七滝温泉までの16.2キロを頑張れと言ってくれてるようでした。

20094amagigoe_157 20094amagigoe_158  七滝温泉から湯ガ野に向かい踊り子歩道を歩き始めますと、桃の花が沢山目につきます。各家庭では桃の木を必ず植えておられるように思いました。

20094amagigoe_178 樹齢200年の河津七滝『姫桜』です。国内最大級のエドヒガンと案内板にはありました。谷あいに巨木が聳えています。周りに桜はありません、孤高に聳え花を満開にしていました。

20094amagigoe_180 20094amagigoe_181  白い桃の花を咲かせています。本当に、七滝から湯ガ野温泉への踊り子歩道には桃の花が沢山目立ちました。最初は判らないので、地元の人に尋ねて確認しました。

20094amagigoe_197 20094amagigoe_190  道祖神にも畑の中にも桃を植えているのですね。本当に桃が好きな集落のようです。何か、理由がありそうですね。桃太郎と関係があるんでしょうか。

20094amagigoe_214 20094amagigoe_216  石垣の上には水仙の花が咲き、菜の花も満開です。花の道を歩いているようです。優しい人々が住んでおられるのですね、このような花の道をあるいていると、そんな風に考えてしまいます。

20094amagigoe_217 20094amagigoe_218  下田街道、小鍋神社近くにさしかかりました。20094amagigoe_220 20094amagigoe_221

苔生す石垣と桃の花が素晴らしい風景となっています。

20094amagigoe_227 20094amagigoe_228

小鍋の国民宿舎近くの桜は満開でした。

20094amagigoe_244 20094amagigoe_246  踊り子歩道終点の湯ガ野の福田家さんです。川端康成はここで『伊豆の踊り子』を書いたのですね。写真の右はじの家が福田家さんです。

 楽しい桜と、桃と草花に迎えられた踊り子歩道でした。

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伊豆の踊り子歩道 完全走破(2) 浄蓮の滝→天城山隧道

 さて、浄蓮の滝のバス停近くから始まる伊豆の踊り子歩道を歩き始めましょう。今日の目的地は七滝(ななだる)の温泉ホテルまで、16.2キロの行程であります。旧天城山隧道が峠となりますので、それまでは登りのハイキングとなります。国道414号線に沿って歩くのですが、歩道は渓谷の道であり良く整備され標識も完備されています。

天城遊々の森 5キロ歩いた 本日のコースは所要時間5時間の行程ですが、目標は夕方4時にホテル着であります。道の駅から七滝温泉までは一切の茶店も何も有りませんので、道の駅でお弁当を仕入れておかねばなりません。
竹藪を歩く 幸いに横浜では朝、雨が降っていましたが、伊豆は快晴です。杉木立や渓谷の道を快適に歩き始めました。少し、桜も咲き始めているようです。
起点付近 しだれ桜 東京も数日後には桜が満開になるかも知れませんね。伊豆は東京よりは温暖でしょうから、少し早く桜は咲くと思います。
昭和の森会館到着 2.3キロ歩いた  昭和の森会館到着、浄蓮の滝から2.3キロ歩きました。
山神社と七木 「山神社と七木」の解説です。大山祇神を祀るという事は伊予、三島、と海を支配していた古代の神が伊豆半島に存在していた事を示していますね。話は古代の神話に飛びますが、九州の海人族である安曇のグループは日本海から信州に足跡を残していますが、熱海、渥美も同じく太平洋沿岸地帯を開拓した足跡ではないかと推測されています。アヅミというグループが航海による貿易商人・武力集団として活躍しましたと考えられます。
  古代は沿海航法ですから、陸地の山を見ながら航海します。航海民にとり山は大事なランドマークだったのですね。それと、船の材料としての木材は重要でした。有名な天城巡洋艦・空母の天城は伊豆半島の天城山の木材が材料として使用されたと聞いています。
滑沢渓谷解説 滑沢渓谷は今回は足を踏み入れませんでした。時間があれば太郎杉を眺めてみたいと思いますね。 参考 天城太郎杉(滑川渓谷)
 
水が澄み切っている 渓谷の美しさ、特に水が透き通るようで「わさび」が出来るのも理由があるのですね。伊豆の水は清らかです。
井上靖文学碑近く 井上靖文学碑近くに到着です。井上靖は北海道旭川の生まれだそうですが、父の故郷が湯ガ島だそうで、少年時代伊豆で過ごしたそうです。
道の駅まで1.5キロ  道の駅まで1.5キロです。お昼の弁当を買いましょう。
整備された落ち葉の道 よく整備された森の道を歩きます。
天城街道(旧下田街道)解説 旧天城街道と呼ばれました。ハリスも吉田松陰も歩いた道です。
大川端 野営場で案内を見る 大川端 野営場に到着です。
わさび田 わさび田です。街道沿いには沢山のわさび田があります。
川端康成文学碑 川端康成文学碑です。伊豆の踊り子の書き出しのレリーフです。
氷室と「なまこ石」があります 氷室と「なまこ石」があるそうです。私たちは先を急ぎ立ち寄りません。
天城山隧道 記念写真 天城山隧道に到着です。

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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(8) マキムク東田大塚山古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(7) 纏向東田大塚古墳

 

マキムク東田大塚古墳今回の紀行の最後の古墳となりました、東田(ひがいだ)大塚古墳です。矢塚古墳から歩いて数分の場所にあります。この古墳も従来のマキムク形の前方後円墳と呼ばれていたのが、前方部の調査により勝山古墳と同じく前方部が長く延びた柄鏡形の前方後円墳である事が判明しました。全長120メータの巨大な古墳であります。

 

マキムク東田大塚古墳現在も後円部ははっきりと形状が認識できる状態であり、農家の方が畑とか果樹園にされているようでした。Muさんと後円部に登り形状を確かめました。

 

東田大塚古墳解説さて、数日後にMuBlogでも記録されていますが、マキムクの地に巨大な神殿跡と想定される建物の遺跡の発表がなされました。参考 産経ニュース(纏向遺跡)

 

東田大塚古墳 墳丘せっかちな人は、卑弥呼の宮殿の遺跡ではないかと色めきたっているようですね。この箸墓古墳を盟主とする箸中古墳群と石塚、勝山、矢塚、東田大塚古墳の纏向古墳群の中央に巨大な建物群が存在していたのは確かなようですね。MuBlogでその位置関係が図示されているので、便利ですので参考にしてください。
東田大塚古墳 後円部 古墳の形状で言えば桜井・茶臼山古墳とマキムク勝山古墳、マキムク東田大塚古墳は同じ部類に入ることになりましたね。石塚古墳と矢塚と箸墓はマキムク形と呼ばれる前方部が短い全長:後円部直径:前方部長さの比が3・2・1の古墳です。

 

マキムク東田大塚古墳同じ時代に異なる形状の古墳が混在するのは、私の意見では複数の列島の国の人々がマキムクに集結し宗教都市を建設した証しではないかと考えています。その頂点に推挙されたのが卑弥呼であり、宗女の台与という女王ではなかっただろうか。

 魏志倭人伝が真実を伝えているとすれば最大の国は5万戸を擁する吉備の国だったのではないでしょうか。邪馬台国が7万戸ですから並はずれた強国だったと思われます。私は東田大塚古墳と勝山古墳は吉備国の王の墓であり葬祭殿ではなかったかと推測しています。

 一方のマキムク形の石塚、矢塚はマキムクにあり吉備系ではないと思います。一方、聖なる三輪山の尾根に続く箸墓、ホケノ山古墳、未だ発掘されていない尾根筋の古墳群は三輪山の神の系譜を持つ巫女さん、女王、男王の系統ではないかと類推しています。

 邪馬台国連合に属さず卑弥呼を死に至らしめた狗奴国とは何処なんでしょうね。色んな説があるようですが、私は尾張の国か山背の国かどちらかではないか、又は尾張と山背の連合かどちらかではないかと推測しています。戦いの理由は大陸との貿易権、制海権の衝突であると思います。稲作の原動力である鉄を朝鮮半島の南部の洛東江流域から輸入していた訳ですから、死活の問題だったと思います。

 (記紀神話に卑弥呼の姿を求める)

 記紀では魏志倭人伝の邪馬台国の話も卑弥呼の話も登場しません。これが、謎なんですが、明らかに記紀を書いた時代に魏志倭人伝を読んでいたと思います。神功皇后さんの話は4世紀末の頃ですから3世紀では有りません。そうすると崇神王朝の時代とすれば以前の箸墓古墳の探訪記で触れた孝霊天皇の娘さんの倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と弟の吉備津彦の関係が魏志倭人伝で記録された話と似ていると思います。

 邪馬台国を支えたのは吉備の国であり、実務を担当したのは弟の吉備津彦となります。そして、古代の最大の内戦と伝えられた山背の武埴安・吾田媛との戦争は邪馬台国と狗奴国との戦争であった可能性はないのでしょうか。古来、神武さんと崇神さんは同じ名前である「はつくにしらすすめらみこと」と記紀は記録しており同一人物である可能性も否定できないそうです。

 今後のマキムク(纏向遺跡)の発掘が本格的に進み、出来れば箸墓古墳の調査が許可されれば日本の国の発祥の秘密が解明されるかも知れません。それは、100年後の事かも知れませんね。

 

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無事、北海道から帰還しました

 20094hottskaido_001 4月4日の朝6時35分の飛行機で千歳に向かい、本日夕方羽田に帰還し、自宅に戻りました。途中のバスの車窓からは満開が過ぎた桜の風景が過ぎ去って行きましたね。北海道の札幌の桜は5月の連休あたりでしょうね。桜の一番いい時に、私は留守にしていた訳ですね。

 娘の家族の引っ越しの手伝いで出かけましたが、新しい家というのは宜しいもんですね。初日から引き渡しが済んだ新築の家で我々夫婦は泊まらせて貰いました。オール電化の家で娘が理想とする家を考えスウエーデンハウスに注文したそうです。天井は高くて風呂の屋根も高く広々ととした湯船でくつろぎました。

 20094hottskaido_002 窓ガラスは全て三重なんですね、暖房効果は抜群でセントラルヒーテイングで、私が過ごした北河内の招堤村の自宅の隙間風が吹きすさぶ世界とは全く異なる楽園です。北海道の冬は厳しいのでしょうね。北欧の節だらけの木の天井や、大きなドアはノルウエーやスイス紀行をした時のホテルの気分でした。

 20094hottskaido_003 4月6日に引っ越しとなり、引っ越しの「サカイ」のトラックが朝早くから到着、パンダのマークの車から三人が降りて来られました。責任者の人は沖縄生まれ、京都教育大学卒業の私の息子と同じ年頃の好青年でした。いきなり、京都の話になり沖縄の話になり、家内も教育大付属卒なので楽しい引っ越しとなりました。

 娘と猫二匹は一部屋に閉じ込め、荷物の積み込みの指揮は旦那に任せ私は新しい家で家内と二人で待ち受ける事となりました。引っ越しは無事午前中に全て完了しましたが、猫二匹の移住が最大の難関でありました。猫というのは家に住み着くものらしく、環境変化には一番弱いそうです。

 (トラと京太の引っ越し大冒険)

20094hottskaido_009  本来の筋書きでは夕方の7時頃に引っ越す前の家で餌をあげて、万が一数日間猫が食事をしなくてもいいように夜に移送させる作戦でした。しかし、引っ越し当日娘の病院の検診で入院の必要が今回も必要ないという事で引っ越し当日に猫の移動を敢行する事に決定した。

 20094hottskaido_010 旦那が猫をケージに入れて新居に連れて来たのが午後でした。娘も病院から帰宅し猫も安心するだろうと言う事で京太とトラは別々のケージに入れられて、獣医の旦那が連れて来ました。ケージのドアを開いても中々猫ちゃんは出てこない、警戒しているんですね。

20094hottskaido_011  何と、一番警戒心の強い引き籠りのトラが匍匐前進の格好で出てきました、腹が床に擦られる態勢で何とも滑稽な格好で噴出してしまいました。そして、一目さんで娘の寝てる部屋の物入れの奥に姿をくらました。かなり時間が経過して京太も出てきました。

 20094hottskaido_017 何とか夜の猫の食事も無事済んだようです。最悪のシナリオは回避されたようですが、猫を飼うという事は大変なんですね。ホンマ勘弁して欲しいと思うけど、意外と猫と付き合うとおもろい事も沢山発見しました。

 夜な夜な、3時過ぎにトラは我儘を言い始めるのですね、二階の孫の子供部屋のクローゼットが隠れ家として気に入ったようですが、孫を寝不足から回避する為にドアを閉めて寝たのですが、ドアを開けろと煩く騒ぐのですね。

 猫と暮らすには猫の寝る時間帯に人間も合わせないと身体がもたんと20094hottskaido_014 違いますかね。娘は絶対安静なのに、猫の根き声で寝られた状況では有りません。しかし、可愛いいのでしょうか、猫二匹の面倒を見る娘です。

 家の掃除を家内と二人でして、寝てる京太とトラを置いて千歳空港に向かいました。

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伊豆の踊り子歩道 完全走破(1) 三島→修善寺→浄蓮の滝

 4月1日朝6時半起床。外は雨、最悪のケースですね。雨具を詰め防寒用の衣服も詰めてリュックを大きなビニール袋で包む。傘をさし新横浜駅目指し7時過ぎに歩き始める。新横でおにぎりを買いホームで7時46分のこだま号を待つ。小島さんが現れ、6号車に乗り込むと岩ちゃん、古河さんが東京から乗り込んでこられていた。

 雨だからどうするか、考えていたが、三島に近くなると天気は快晴ではないか。三島8時20分到着、伊豆箱根鉄道のホームに向かい8時31分発の電車で修善寺に向かった。途中の駅で韮山駅を通過する。頼朝が流刑の地だった蛭カが小島は確か韮山ではなかっただろうか。当時は伊豆は流刑の地だったんですね。遥か京都からは離れた陸の孤島だったんでしょうか。

 韮山は江戸時代に反射炉も建設されて有名な場所ですよね。反射炉というと鍋島藩を思い出しますし、薩摩も作りましたね。そんな事を考えていると修善寺に9時08分に到着しました。確か浄蓮の滝に行くバスは9時10分なので急いで切符を購入してバスに乗り込みました。

 

浄蓮の滝9時43分にバスは浄蓮の滝に到着です。先ずは石川さゆりの「天城越え」の歌詞で有名な滝の見物です。しかし、何ですね、イチローさんが感激して記録の壁を越える決意と天城越えが重なるのはおもろいです。2008年からイチローのテーマ曲としてシアトルの球場で曲が流れるとは、石川さゆりさんも驚いたでしょうね。
浄蓮の滝 記念写真 この曲の歌詞は凄まじいですよね、天城越えとはそんなに大変だったんですね。伊豆半島を南北に寸断する天城連山は明治38年に天城山隧道が完成するまで人々の南北の行き来を遮断する地形だったんですね。所謂、天城越え、下田のハリスも吉田松陰もこの天城越えをしたんです。

 (浄蓮の滝)

浄蓮の滝 昔は近くに浄蓮寺という寺があったそうで、そこから名前が来てるそうです。高さ25メータの大きな滝で狩野川上流の本谷川にかかる滝だという。石川さゆりさんの「天城越え」の歌碑がありました、前で記念撮影です。
滝見茶屋 わさびが名物 茶店の周りには、わさび田が広がり沢山の、わさびを販売していましたね。水が綺麗でないと育たない、わさび、子供の頃に関西では東京土産というと「わさび漬け」だった記憶があります。丸い桶に入って包装紙にはわさびの絵が描いてる印象です。子供としては、又か~~、残念という印象が残っています。

 

わさび田この生わさびというのが、アメリカ駐在中に手に入らないものの一つでした。わさび(山葵)は日本原産の植物なんですね、どうりで海外で手に入らない訳です。江戸時
茶店とわさび田代後期に江戸でお寿司を食べるファーストフードが流行し、わさびの需要が激増したそうです。
踊り子歩道起点 記念写真 さて、伊豆の踊り子歩道は全長20キロ程度でしょうか、浄蓮の滝から天城山隧道を抜け七滝温泉を経由し最後は湯ガ野温泉の福田屋さん(川端康成が執筆した温泉宿)に至るハイキングコースを呼びます。

 反対のコースでもいいのでしょうが、我々は浄蓮の滝からスタートする事に決めました。

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伊豆の踊り子歩道 完全走破しました

20094amagigoe_008  本日、無事夕方にハイキングを終えて帰宅しました。天気にも恵まれ最高のハイキングでした。伊豆の踊り子歩道を初日は、浄蓮の滝から16キロを天城隧道を越えて七滝温泉まで歩き二日目は、伊豆の踊り子歩道終点である湯ヶ野温泉の福田屋さんまで歩きました。この旅館は川端康成が小説を書いた場所であります。

20094amagigoe_056  我々は、其れからも河津駅を目指し歩きましたが、5キロ程度の所でバスに乗り河津駅に向かいました。二日間合計で20キロ以上は歩いたと思います。

 初日の朝の横浜は雨が降っており、雨具を詰めて完全装備で新幹線で三島を目指しましたが、三島に着くと快晴です。箱根の旧街道を歩いた同じメンバーは三島で集結し、伊豆箱根鉄道で修善寺に向かいました。

20094amagigoe_080  ともかく、快晴に恵まれ、事故もなく快適に歩く事が出来ました。このコースの問題は浄蓮の滝から七滝まで、道の駅を出ると一切茶店が無い事ですね。16キロを歩き七滝に到着したので、茶店に入りビールで乾杯し、宿泊予定の温泉ホテルは何処ですかとお店の人に尋ねると、目の前ですとの事。

 二日目も頑張って歩きましたが、やはり茶店は無しでしたね。私は宿泊地のホテルでもタバコの販売がされてなく、禁煙が二日目の河津駅まで続く事になりました。こんなことならリュックに多量のタバコを詰めてくるのだった。悔やまれる。(同行三名はタバコを吸わない人々なので、喜んでおられました)

20094amagigoe_264 20094amagigoe_265  最後に、熱海で大宴会をやりました。美味しい魚料理に満喫しました。全員が本当に楽しいハイキングだったと言われており、幹事としては最高に嬉しい結果となりました。

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