桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(8) マキムク東田大塚山古墳
参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳と纏向遺跡紀行(7) 纏向東田大塚古墳





魏志倭人伝が真実を伝えているとすれば最大の国は5万戸を擁する吉備の国だったのではないでしょうか。邪馬台国が7万戸ですから並はずれた強国だったと思われます。私は東田大塚古墳と勝山古墳は吉備国の王の墓であり葬祭殿ではなかったかと推測しています。
一方のマキムク形の石塚、矢塚はマキムクにあり吉備系ではないと思います。一方、聖なる三輪山の尾根に続く箸墓、ホケノ山古墳、未だ発掘されていない尾根筋の古墳群は三輪山の神の系譜を持つ巫女さん、女王、男王の系統ではないかと類推しています。
邪馬台国連合に属さず卑弥呼を死に至らしめた狗奴国とは何処なんでしょうね。色んな説があるようですが、私は尾張の国か山背の国かどちらかではないか、又は尾張と山背の連合かどちらかではないかと推測しています。戦いの理由は大陸との貿易権、制海権の衝突であると思います。稲作の原動力である鉄を朝鮮半島の南部の洛東江流域から輸入していた訳ですから、死活の問題だったと思います。
(記紀神話に卑弥呼の姿を求める)
記紀では魏志倭人伝の邪馬台国の話も卑弥呼の話も登場しません。これが、謎なんですが、明らかに記紀を書いた時代に魏志倭人伝を読んでいたと思います。神功皇后さんの話は4世紀末の頃ですから3世紀では有りません。そうすると崇神王朝の時代とすれば以前の箸墓古墳の探訪記で触れた孝霊天皇の娘さんの倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と弟の吉備津彦の関係が魏志倭人伝で記録された話と似ていると思います。
邪馬台国を支えたのは吉備の国であり、実務を担当したのは弟の吉備津彦となります。そして、古代の最大の内戦と伝えられた山背の武埴安・吾田媛との戦争は邪馬台国と狗奴国との戦争であった可能性はないのでしょうか。古来、神武さんと崇神さんは同じ名前である「はつくにしらすすめらみこと」と記紀は記録しており同一人物である可能性も否定できないそうです。
今後のマキムク(纏向遺跡)の発掘が本格的に進み、出来れば箸墓古墳の調査が許可されれば日本の国の発祥の秘密が解明されるかも知れません。それは、100年後の事かも知れませんね。
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- エゾライチョウとクマゲラを見る旅 総括編(2018.07.09)
- 2018年春の渡りの飛島 総括編(2018.07.09)
- 南ゴビ砂漠探鳥紀行(2018年6月15日~20日) 総括(2018.07.06)
- 2017年 春の渡りの飛島記録(2018.05.15)
- 豪州鳥見紀行 ケアンズ・エアーズロック・シドニー チエックリスト(2018.02.21)
Comments