2008年4月の韓国紀行 回想
昨年の2008年4月は長年の夢であった韓国の古代史を辿る旅をしました。ソウルから始まり水原城、百済、洛東江、新羅、丹陽と巡りましたが、又、釜山から洛東江流域の加羅・伽耶・金官伽耶と呼ばれた弁韓・辰韓の地を訪問したいと思います。
過去記事 韓国古代史紀行 目次編
最近は、韓国史だけではなく中国の歴史も勉強しないと韓国も日本も古代史は解明出来ないのではないかと思うようになっています。強大な国土に中央集権国家を築き文化・文明を世界に先駆け築いた中国の歴史を抜きには東アジアの古代史も日本列島の歴史も解明が難しいと思うようになっています。
しかし、常に新しい文化・文明を受け入れるが常に独自の進化を遂げた日本列島の人々の歴史も世界に冠たるものが、あると確信しています。正倉院や古寺、古社に行けばもはや世界中で失われた文化・文明に関わる文化財が今も守られているのです。
同時に世界最古を誇る天皇制を現代の事情に合わせて維持しながら、世界最先端の文明を開拓している、貴重な珍しい国家であると考えています。何故そのような事が可能であったのか、そして先祖達はどんな苦労をしたのか、それを学ぶのが日本の歴史を学ぶという事ではないでしょうか。
日本列島の先祖が誇る文明として縄文土器があります。氷河期が終わる頃の1万6千年前の縄文土器が発掘されていますので、世界では土器の発明の歴史に於いて先端を走っていたのですね。縄文土器の名前の由来である撚糸による紋様というのが特徴だそうです。
土器と綱を既に発明していたとすれば、航海が出来ると思います。船を作り航海するには綱と水を蓄える土器が必須であると何処かで学んだ記憶があります。5500年前の縄文遺跡の三内丸山遺跡を、以前、訪問した時に感じた事はここに住んでいた人々は航海の民であると感じました。活発な交易により青森では産出しないヒスイや黒曜石が発掘されています。遺跡の発掘で今までの縄文時代の常識は大きく覆されましたね。
参考 三内丸山遺跡ホームページ
しかし、残念ながら文字を持たない人々でしたので、記録が残されていません。遺物だけで推測するしかないのですね。記録されたものはやはり中国の書物に頼らざるを得ません。しかし、縄文時代の記録は残っていないのですね、紀元前770年あたりからの春秋時代、紀元前400年あたりからの戦国時代そして秦王朝の紀元前221年となります。
中国大陸が激動に見舞われた戦国時代に長江下流域の航海民は稲作を携えて中国大陸の海岸を北上し朝鮮半島南部や九州を始めとする、日本列島に新天地を求めたと考えられます。これが日本列島の稲作の始まりであり弥生時代の始まりではなかったでしょうか。
朝鮮半島よりはモンスーン地帯で湿潤で照葉樹林帯である日本列島が稲作には適した土地でありました。最初は陸稲が伝わり、そして水稲が伝わったと稲のプラントオパール分析やDNA分析で考古学は歴史を補強しています。
中国は秦王朝の頃より積極的に朝鮮半島に進出してきます。漢王朝の頃には楽浪郡や帯方郡を半島に設置し植民地政策を活発化させました。その頃の日本列島は九州の北部の奴国が中国王朝に認められた列島を代表する国だったと思われます。福岡の志賀島で発掘された金印である『漢委奴国王(かんの 倭の奴国王)』がそれを証明していますね。
しかし、その後、漢王朝は衰退し後漢王朝の末期には中国は乱れ朝鮮半島も日本列島も政治的混乱に巻き込まれます。2世紀の後半は倭国大乱の時代となったようです。吉野ヶ里遺跡はその当時の戦乱の模様を伝える遺跡と考えられていますね。
そして、朝鮮半島は公孫氏が制圧し中国は魏・呉・蜀という三国時代になります。3世紀の初めの頃でしょうね。そして、魏の歴史書に久しぶりに日本列島の記事が登場します、邪馬台国なのです。しかも女王であるという。
考古学的には3世紀の遺跡の分布から九州ではなく奈良の纏向遺跡が今、一番注目されています。しかも古墳時代が始まったのですね。世界に例をみない前方後円墳が突如纏向地域に出現したのです。古墳からみれば、その後6世紀の末頃までヤマト王権のシンボルとして巨大な前方後円墳が築かれる事になるのです。
中国の後漢王朝の衰退と崩壊により朝鮮半島への中国の支配体制が崩れ、半島南部の洛東江流域の弁韓諸国や辰韓諸国は最大の輸出品目である鉄を日本列島の奴国だけでなく、多くの貿易する諸国に販売したと考えています。
辰韓は主に出雲の勢力と協力して鉄を出雲や日本海沿岸に供給したと想定しています、そして出雲の勢力は丹後半島、琵琶湖を経由し山背経由で奈良盆地に早く進出し、鉄の農具を使い巨大な穀倉地帯を開発し生産力を高めたと考えられます。
スサノオは新羅(辰韓)に降臨していますのと、出雲や日本海沿岸は朝鮮半島南東部との交易には適したルートと考えられるからです。一方九州の勢力は釜山(狗邪韓国)対馬ルートで鉄を仕入れ、瀬戸内海を東に販路を広げ吉備平野で大きな穀倉地帯を築いたと考えています。
記紀神話に出てくる神武天皇の東進のルートは九州勢が鉄を伝え稲作を開拓したルートではないでしょうか。吉備で神武さんは8年間も滞在しています。そして、吉備の豊かな経済力をバックに難波から奈良平野を目指した。しかし、既に出雲の勢力が奈良平野を開拓していたと思います。
一方、朝鮮半島情勢は公孫氏が楽浪・帯方郡を確実に支配する情勢となっており誰が日本列島を代表する総合商社かで争いがあったでしょうね。総合商社にとり鉄鋼事業部は最大の事業部だったでしょう、出雲と九州・吉備連合は巫女さんの卑弥呼さんを社長に祀り上げ連合国家の形態を取らざるを得なかったのではないでしょうか。
卑弥呼さんの仕事で重要なのは中国、朝鮮半島の政治勢力との交渉であり洛東江流域の鉄の確保であったと考えます。
昨年2008年4月の韓国の旅で、帯方郡が置かれた漢江河口から、川を遡上し丹陽にでて峠を越え洛東江を下り金海(キメ)、釜山に通じる陸路(河川路)を確認してきました。中国人の華僑(総合商社)の人々が日本列島と交易したルートです。
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- エゾライチョウとクマゲラを見る旅 総括編(2018.07.09)
- 2018年春の渡りの飛島 総括編(2018.07.09)
- 南ゴビ砂漠探鳥紀行(2018年6月15日~20日) 総括(2018.07.06)
- 2017年 春の渡りの飛島記録(2018.05.15)
- 豪州鳥見紀行 ケアンズ・エアーズロック・シドニー チエックリスト(2018.02.21)
Comments