桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(2) 茶臼山古墳
参考 マイフォト 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行
後円部には長方形の基壇が存在したそうで、石室の周りには二重口縁壺の底が穿たれたものが並んでいたという。(円筒埴輪の起源か)石室からは玉杖や玉葉、鏡が出土したという。壺が二重口縁壺という土師器であり吉備との関係があると想像するのですが、詳細は発掘調査報告書を読まないと判りません。
茶臼山古墳の西南に同じく鳥見山尾根を切断したメスリ山古墳という250メータの前方後円墳が存在します。出土した2メータを越える巨大な高杯形埴輪は吉備との関係が想像される。
この古墳群の西方には耳成山があり吉備勢力が拠点にしていたと考えられます。記紀によれば神武さんが東遷する時に日向から北九州に上り、瀬戸内海を東に移動し吉備で数年間滞在するのですね。何故か吉備で8年間も過ごしています。どう考えても吉備の勢力に擁立されたのが神武軍ではないでしょうか。
参考過去記事 魏志倭人伝の投馬国の話
魏志倭人伝では3世紀の卑弥呼の時代に7万戸の邪馬台国に対して5万戸の投馬国の記事が見えます。邪馬台国に到着する国々を比較すると群を抜いた戸数であり、邪馬台国と双壁だったようです。瀬戸内海を航海し邪馬台国に辿り着く途中の吉備と考えるのが考古学上は有望とされています(都出比呂志氏ほか)。
神武さんと同じ航路になりますね。吉備には中山・茶臼山古墳という吉備津彦(吉備の港の男という意味)の陵墓と伝えられる前方後円墳があります。
この古墳は是非何時かは訪問したいと思いますが、吉備津彦は孝霊天皇の息子という事で陵墓に指定されている。時代的には崇神天皇の時代で西道将軍として活躍と記録があります。
桜井・茶臼山古墳の埋葬設備の近くの壺や柄鏡形前方後円墳(マキムク勝山古墳、マキムク東田大塚古墳)、丘尾切断型古墳(ホケノ山古墳、箸墓もか?)の形態はマキムクでも見つける事ができました。その話はホケノ山古墳の所でお話したいと思います。イワレは実に吉備の影響を強く受けた場所だと確信しています。補足すれば、近くの耳成山も魏志倭人伝の投馬国の王の官職の名前(弥弥那利=ミミナリ)に似ているのです。
神武天皇は畝傍の橿原で即位したあと、茶臼山、メスリ山古墳を抱く鳥見(とみ)山に皇祖天神を祀ったと記紀は述べています。まさに磐余(イワレ)は鳥見山が霊山であったと想定されますね。
ここで、私の勝手な想像の話をします。(あまり根拠はありません)
ヤマトの三山である畝傍山と耳成山(吉備勢力)を制圧した神武さんに香久山と三輪山は依然として従属していなかったのではないでしょうか。香久山は神武さん東征の前に既にヤマトで地盤を築いていたニギハヤヒの息子の天香語山命ゆかりの聖山ではないでしょうか。彼は尾張氏の祖と考えられていますので、尾張氏の勢力は神武・吉備連合に対抗していたとすれば尚更、茶臼山は伊勢街道を押える重要な場所ですね。
三輪山は恐らく出雲、丹波、若狭、越、琵琶湖、山背、の日本海沿岸から琵琶湖から木津川、淀川を経済圏とする勢力、所謂、出雲系の勢力が神武さん以前から押さえていた聖山ではなかったかと想像しています。
九州は日向の神武さんが北九州を抑え、吉備と連合する事で瀬戸内海ルートから大陸への交易ルートを抑え大和川を制圧し、もう一つの大陸ルートである日本海ルートを持つ出雲系勢力と激突し、且つ決着はつかなかったと理解しています。
イワレの地の北数キロの場所マキムクと三輪山が重要に思われます。マキムク遺跡からは出雲系の越や尾張氏の東海地方の土器も吉備系の土器も九州系の土器も出土するといいます。国際センターのような日本列島の豪族の出先の駐屯部隊が存在していたと考えられます。
武力ではなく何か宗教的な力で拮抗する各部族を纏める環境が整備され始めていたのではないだろうか。それが三輪山の霊山の力で巫女を祀り上げ連邦国家である邪馬台国が生まれたと想像しています。新たなマキムク型前方後円墳を築き、周りに吉備系の柄鏡式の東田大塚古墳や勝山古墳、そして出雲系や尾張系の古墳も築かれ箸墓にて三輪山を遥拝する巨大な宗教セレモニー都市が成立したと幻想しています。
この話は次回のホケノ山古墳に続きます
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