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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(1) 磐余(イワレ)

 京都在住のMuBlogのMuの旦那さんと紀行したイワレの地とマキムク遺跡の紀行文をやっと書けるようになりました。野暮用が多く、20日間程度、書く暇が無くやっとの思いです。

 紀行文の前に、一言あります、幸いにも4月から早稲田大学文学学術院で考古調査士育成コースというものに入学が許可されました。先年、設立された国家資格である文化財保護の専門家を育成する資格に挑戦する事にしました。先ずは2級から挑戦します、一応大学で考古学を専攻した資格を得るコースです。

 1級、上級と続きますが健康が続く限り文化財保護の分野で少しでも役に立つ仕事をする為にも勉強したいと思います。何より発掘現場に立ちたいという思いが強いのです。文献学の分野では殆ど先学の師が極めてくれたと思いますが、残るは考古学の発掘による新しい発見が待ち望んでいると思います。

 一度、4ヶ月間素人の発掘補助作業員として浜田山で経験しましたが、現場と学問の両輪が必要であると強く感じておりました。幸いにも早稲田大学がいち早く国の方針に沿い考古調査士育成のプログラムを開設されましたので、入学を希望し許可されました。

 息子に保証人になって貰い大学生として63歳になろうとする身ながら早稲田の門をくぐる事になりました。身体が続く限り頑張りたいと思います、夢は日本の古代史の新たな解明と海外での遺跡の発掘です。

 前置きはこれ位で、今回の桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行について心の軌跡を書きたいと思います。既にMuBlogにおいて詳細な紀行文が長編に渡り記録されておりますので、そちらを参考にしながら読んで頂くと幸いです。

 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行目次編

 磐余(イワレ)の地について

桜井駅周辺 イワレの地 
最初に訪れたのは桜井駅下車の磐余(イワレ)の地でした。馴染のMuの旦那に携帯メールを入れるともう到着されている。年寄りは厭ですね、早起きだから。遠方で笑顔で手を振るおじさんがMuの旦那でした。京都から車で駆け付けたのだ。

 私は大阪の鶴橋という近鉄の駅から電車で近鉄桜井駅に向かいました。古代は難波津という場所から陸路でイワレの地を目指した事になります。古代の大坂は堺付近から北に突き出した上町台地が角のように伸び千里丘陵との僅かな距離を残し瀬戸内海と河内湖を寸断していた。京都や奈良盆地に降る雨は全て大和川、淀川に収斂され巨大な河内湖を形成し僅かな上町台地先端と千里丘陵の隙間で瀬戸内海と通じていた。

 難波、浪速の意味はその僅かな隙間を潮の満ち引きで流れる急流の地という意味であると確信しています。河内湖は巨大な湖でありました、5世紀になり多分仁徳さんの時代に河内湖の水を始末する為に上町台地の先端に運河が掘削され、それが大川であると認識しています。それから、河内湖は干潟になり稲作が出来る平野が広がったのだ。

 縄文早期6300年前には九州の鬼界カルデラが大爆発をした、そして西日本の地域は壊滅的な破壊を受けた。九州から関西方面はこの爆発により殆どの縄文文明は破壊されたのだ。日本列島で生き残ったのは東日本から東北、北海道の地域だけである。

 この更地が人が住めるようになったのは数百年後の事でしょうね。中国では秦王朝が統一王朝として生まれると、多くの難民が長江河口域や山東半島から船で新天地を求めて海に漕ぎ出した。これらの人々は朝鮮半島の南部の海岸地域や九州や山陰地域に到着したと思います。稲作の伝来ではないでしょうか。

 考古学で確認されている最古の水田跡は、私の父の故郷である魏志倭人伝にある唐津の末盧(まつろ)国の菜畑遺跡である。2500年から2600年前の遺跡である。徐福が三千名の人々を引き連れ東の海、蓬莱山を目指したのも秦王朝の時代です。その後、漢王朝が生まれ積極的に朝鮮半島に植民地を開拓した、所謂、楽浪郡の時代です。

 中華文明の激動と膨張は朝鮮半島を動乱に陥れ、日本列島にも続々と新しい大陸の文化文明が押し寄せて来たのだ。九州や山陰方面が一番大陸に近く影響を受けたと思います。そして、その文化・文明は東進したのではないだろうか。

 記紀にある神武天皇の東遷の神話はこの巨視的に見ると大陸の文化文明が九州から日本列島を東に伝播した記憶を記録しているのではないでしょうか。何故、こんな話を長々と述べるかといいますと、実は磐余(イワレ)という場所と名前が神武天皇と関係が深いから述べています。神武天皇の名前は「神(かん)倭(やまと)磐余(いわれ)彦(ひこ)の命(みこと)」と呼ばれているからです。

 要するにイワレの男という意味です。宮もお墓も畝傍山近辺でありますが、何故かイワレの男と呼ばれているのです。継体天皇の磐余玉穂宮、神功、履中天皇の磐余稚桜宮(わかざくら)、清寧天皇の磐余甕栗(みかぐり)宮、用明天皇の池辺なみ槻宮、と磐余は王都として栄えました。

 それでは、何故に記紀では磐余(イワレ)を日本国の起源にするような記述をしたのでしょうね。そこで、桜井・茶臼山古墳が登場してきます。難波から河内湖に入り大和川を遡上するとイワレの地に到着します。そして陸上交通の十字路の場所でもあります。

 海柘榴市(つばいち)は金屋近辺ですから東に伊勢街道、北に山の辺の道、南に多武峰街道、西に大和川となります。聖徳太子さんの時代でも隋の使節である裴世清は難波津の迎賓館に宿泊し、それから大和川を遡上し海柘榴市で下船し、歓迎の迎えを受けたと記録されています。

 イワレはメイフラワー号の上陸地点ではないでしょうかね。経済的に見ると、大陸との交易と日本列島への陸路の起点として重要な場所でした。5世紀に上町台地を横断する運河が掘削されるまでは難波津には大きな都を作る場所が存在していなかったのでしょう。

さて、そこを見下ろす桜井・茶臼山古墳の話は次回です。

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Comments

Joさん
 早稲田大学生、入学おめでとう!

長い文章なのに一気に読み通せました。
秦の時代、長江、難民、渡来人達、除福、……。
そしてそれ以前の西日本や関西の縄文文化の壊滅(噴火ですかね)。
文化の東進。

背景があるわけですね。
そのころ大阪は河内湖だった!

一番びっくりしたのは、三輪山南の金屋、椿市が港みたいだったということです。川がどれほど重要だったか、この記事読んで、目から鱗が落ちました。
港の近くが磐余(イワレ)だった!

川筋は大きく変化すると思いながらも、地図で現代の大和川を追跡しました。本当に、始めて当時の実相が見えてきたです。神武さんは、大切ですね。イワレの男なんだから。

初瀬ダム→長谷寺→大和朝倉→金屋・つばいち→三輪→芝→鍵・唐子→川西町結崎(観世流)→斑鳩(聖徳太子)→藤井寺市・羽曳野市(応神天皇陵)→大阪市立大学→堺泉北港@大阪湾

 まるで古代の名神高速級か1号線級のルートです。こんなこと、気がつかなかったです。

 Joさん、次回が楽しみです。

Posted by: Mu | 2009.03.26 at 08:47 PM

Muの旦那 早速のコメント有難うございます

 20日間も紀行文を書けなくて残念でした。しかし、MuBlogで詳細、丁寧且つ奥の深い内容が書かれており、随分と為になりました。やはり性格がでるんですね、私は直ぐに論理が飛躍するし、丁寧に説明するのは苦手なんです。

 大和川を調べましたか、勿論江戸時代に大坂の湿地を回避する為に応神陵あたりから西に運河を掘削し川筋を変えた事は以前Mublogでも書かれていましたね。大動脈なんですね、大陸との交易路です。

 そこで問題なのですが、神武さんより早い時代に淀川水系を抑えていた連中がいたんでしょうね。生駒とか磐船の天ノ川水系のニギハヤヒさんです。難波に船が入ると威圧するように生駒山が眼前に迫ります。

 この話は又、別の機会としましょう。取りあえず、次回は桜井・茶臼山古墳(外山トビ茶臼山古墳とも呼ぶそうですが)です。これが、難題ですね~~。

Posted by: jo | 2009.03.26 at 10:12 PM

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