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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(7) マキムク矢塚古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行 纒向矢塚古墳

マキムク矢塚古墳  勝山古墳の目の前、纏向小学校に接するように矢塚古墳が存在しています。小学校建設時に古墳に配慮してギリギリに建設したんでしょうね。後円部がギリギリで学校との間の道に接しています。
マキムク矢塚古墳解説 この古墳は最近周辺部が発掘され古墳の形状と周濠が存在する事が判ったようですね。全長96メータで前方部が後円部の直径の約半分の34メータで典型的なマキムク形の古墳となります。マキムク形とは全長:後円部直径:前方長さ=3:2:1の比率で築造された古墳を呼びます。
マキムク矢塚古墳 学校を挟んで東には同じくマキムク形の石塚古墳、北と南には柄鏡形の前方部が長い勝山古墳、東田大塚古墳が存在します。MuBlogによればここは標高70メータだそうで、北西4キロ地点は弥生遺跡で有名な唐古・鍵遺跡が標高50メータで広がっています。

 

東田大塚より矢塚古墳を観る古墳時代が始まる頃に徐々に標高の高い三輪山に近い場所であるマキムク地域、箸墓古墳、ホケノ山古墳のある箸中地域に祭祀の場が移動したんですね。墳丘は未だ発掘されていないと思われます。周辺部の発掘より出土した土器よりやはり古墳時代初期の古墳で箸墓よりは古いと想定されています。

 しかし、まとまった場所に巨大な全長100メータを越える周濠を持った前方後円墳が4基も存在するのは驚きですね。(石塚、勝山、矢塚、東田大塚)そして、二種類の古墳というのも不思議ではないでしょうか。時期は同じころに建造されたと思われます。

 もしここが邪馬台国であるとすれば、邪馬台国を擁立する吉備や尾張や越や山背や九州の豪族が古墳を建造したのかもしれませんね。

 参考 産経関西 古墳発生、新たな謎

 参考 奈良新聞 3古墳の形状確定

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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(6) マキムク勝山古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行 マキムク勝山古墳

 参考 橿考研 勝山古墳 第五次発掘調査報告書

 参考 橿考研 勝山古墳 第四次発掘時の出土木材年輪年代測定

 参考 橿考研 勝山古墳 第四次発掘調査報告書

 

マキムク勝山古墳周濠部石塚古墳から歩いて小学校をぐるりと巡ると勝山古墳がこんもりとした森として存在しています。この古墳では近年に於いて大きな二つの発見が考古学の成果としてあるようです。
マキムク勝山古墳周濠部 (出土木材の年輪年代法分析より210年以前)
マキムク勝山古墳 2001年に橿考研により第四次勝山古墳発掘調査時にくびれ部から出土した多数の木材から、奈文研の年輪年代法のよる詳しい調査が行われ、ヒノキ材が西暦198年伐採であり加工されたのは210を下らないという結論でした。この事は前方後円墳の時代が三世紀初頭には始まっていたという、今までの常識である4世紀に前方後円墳は始まったというのを覆す結果でした。

 石塚古墳の調査からも出土木材の年輪年代法で調査が行われており、同じような時代であるという結果は極めて重要な事実を明らかにしたようだ。

 という事は、魏志倭人伝に述べる卑弥呼の三世紀初めから中葉の時期には前方後円墳の時代に入っていたという事実になります。これは、画期的な発見でした。弥生時代を従来の説より100年から150年間古い時代にシフトしなければならないという重大な結論だったのです。

 (勝山古墳はマキムク型では無い)

 第五次調査にて勝山古墳は前方部がバチ型に開くマキムク形ではなく、細長く延びる桜井・茶臼山古墳型の柄鏡形の古墳である事が判明しました。近くの東田大塚古墳もマキムク形ではなく柄鏡形の古墳である事も判明したそうだ。

 全長115メータ以上、後円部70メータ、巨大な周濠をめぐらした前方後円墳は遂に卑弥呼の時代に箸墓に先行する時代の古墳として石塚、東田大塚、矢塚とともにベールを脱ぎ始めたのです。これは、全て考古学による総合科学の調査の結果であります。

 さて、そこで柄鏡形の前方後円墳ですが、私は吉備の影響が強い古墳であると認識しております。日本列島から集まった有力豪族達は代表の古墳をこのマキムクの都市にモニュメントとして築いたのではないでしょうか。

 話は又、幻想の世界になりますが、皇室の重要な行事は今でも夜中に行われるのは事実です。大嘗祭もそうですよね。私は卑弥呼の時代は夜中にマキムクに集結する古墳群の前方部、後円部に大きな火が焚かれ重要な祭祀が行われたのではないでしょうか。

 満月が三輪山に登り、麓の古墳群では火が灯されマキムクの都市が赤々と照らしだされた幻想的な光景が見えるようです。これらの古墳は全て周濠に覆われていますので、水面に光は反射し石塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、矢塚古墳、盟主の箸墓、ホケノ山古墳、等々と燃え盛り三輪山に通じる尾根筋には火の列が出来ていたのではないだろうか。

 中国、楽浪郡、帯方郡から来られた中国王朝の賓客、そして句邪韓国を始め朝鮮半島から来た賓客、九州から北陸、東海にかけての豪族の代表はこのような大きなセレモニーで邪馬台国の威信を見せつけたのではないだろうか。

 周濠に浮かぶ巨大な前方後円墳はまさに、海に浮かぶ蓬莱山、神仙の世界であります。私は仏教が伝わるまでこのやり方で我が国は中国に対峙したと考えるようになりました。

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卒業約50年ぶり 枚方第三中学校同窓会

20093hirakata3_002  朝5時半起床、6時34分の新横浜発「のぞみ」で京都に向かった。駅で、「しゅうまい弁当」を購入し車中で朝飯とする。幸い今日は快晴である、約50年ぶりに再会する同期の仲間や先生方を思うととても楽しみです。

20093hirakata3_003  京都駅で下車し近鉄に乗り丹波橋の駅で下車、京阪電車のホームに向かう。後から肩を叩く人がいます、同級生の中村勇さんでした。彼は京都駅で僕を見かけたようで、なかなか確信が持てずに丹波橋まで様子を窺っておられたようです。

20093hirakata3_004  彼は中学を卒業すると名古屋に就職されました、過去3回程度のクラス会でお会いしていましたので、数年ぶりの再会です。牧野駅で下車し駅前の時計屋さん、下駄屋さんの宮田さんのお店はこの辺やったかな~~、と昔を偲びながら学校を目指した。

20093hirakata3_010 20093hirakata3_009  50年前の学校は田圃の中にポッンと佇む三階建ての建物が一棟だけありました。職員室はプレハブ、体育館も無い、プールも無い何もない学校でした。私は1年の期間は第一中学校に自転車で通いましたが、一学年860名というマンモスで三学年合わせると、2500名という数になり休み時間校庭にでると芋の子を洗うような按配。

 一澤万吉先生のお話では、ちゃんと教育できる環境ではなかったと述べられ、何が何でも新しい中学を建設しな20093hirakata3_011 ければならないと考えられたそうです。そして、牧野に第三中学校が建設され樟葉小学校、殿山第二小学校の学区の人々が新設、第三中学校に編入された。私が二年生になる時でした。

20093hirakata3_012  当時の先生では私の担任だった一澤万吉先生が熱血漢の国語の先生で質実剛健な教育を目指されておりました。男は全員が丸坊主、続々と運動クラブが創設されました。私はワンダーフォーゲル部、当時としては珍しいと思うのですが、林先生、一澤先生の指導の下で入りました。20093hirakata3_020 比良山、金剛山、大台ケ原とキャンプ旅行に連れていって貰い充実した二年間をおくれました。

 新しい学校が出来ると、先生も父兄も燃えるようですね、新しい伝統を作ろうとしゃにむに頑張るのではないでしょうか。先生はプレハブの建屋に職員室、自治会もプレハブの建屋で昼時にはパンと牛乳を会計担当の私と一年後輩の会計の校長さん(のち市長)の娘さんと一緒に、販売していました。毎日、金額が合わず牛乳屋さんを困らせた記憶があります。

20093hirakata3_022  田圃の中の突如出現した鉄筋コンクリートの一棟の中学校舎、周りは一面が田圃、遥か淀川の堤防が望まれ京阪電車が二両で、のどかに走る風景でした。同期の連中の話では夏になると、朝の通学路は田圃の畦道です、すっかり熟したトマトを拝借し湧水の所に隠して冷やしておき、下校の時に回収し道々食べたそうですよ。

20093hirakata3_023  学校敷地はフェンスも無く、お百姓さんが肥桶を担いで横切る姿があったという話を初代校長の北牧さん(その後枚方市長をなされた)がされているようです。

 おおらかな時代だったんですね。お百姓さんも目をつぶっていたんでしょうか。

20093hirakata3_025  (記念式典 三中に帰っておいで卒業生)

 幹事諸氏、先生方、現役の学校関係者等々の努力で記念式典が体育館で朝10時から開催されました。ブラスバンドの生徒さん達が朝早くから準備し、式典に備えていました。

20093hirakata3_026  1期生代表の挨拶、現枚方市長(彼も三中卒業生)、現校長さんの挨拶のあと、一澤先生を始めOBの草創期の先生方が壇上で挨拶をされました。話は草創期の三中の思い出の話でとても懐かしい思い出に浸る事ができました。

20093hirakata3_027  その後、スライドで思い出の写真が披露され50年前が蘇るようでした20093hirakata3_028 ね。その後式典が終わり思い出の校舎に行き懐かしい写真を見ました。この校舎も今回で取り壊しだそうです。この校舎は一澤先生の話では「型の工法で建てられ柱が一本でその上に梁が出てるだけの建物なんですね。一本20093hirakata3_029 足の校舎だったのです、それでも神戸の震災では倒れなかったのですね。

 (二期生合同宴会)

20093hirakata3_030  午後からは、近くの素材屋というお店で50名が集まり大宴会となりました。挨拶は勿論の事、一澤万吉先生でした。1組から4組までの卒業生が集まり誰が誰だか判らんのですが、ともかく飲み放題で始まりました。千葉から駆け付けた中村潔さん、名古屋から駆け付けた中村勇さん、招堤村で一緒に遊んだ明智甚一さん、残念ながら同じ招堤村で遊んだ片岡惇さんは欠席でした。

20093hirakata3_032  私の原点は伝統130年を誇る、殿山第二小学校とこの三中で醸成されたと考えています。本当にいい先生と仲間に恵まれたと感謝をしています。

 (二次会はカラオケ)

 二次会は近くのスナックに半分位の仲間が集まりおおいに盛り上がりました。皆還暦を過ぎた今年63歳になる連中ばかりですが、気持は中学時代に戻っていましたね。本当に幹事役の皆様御苦労さまでした、有難う。特に、笠井正義さん、明智甚一さん御苦労さまでした。又、生徒会会長の中西さん、副会長の松尾さん、懐かしかったですね。松尾さん、コーヒーを奢って頂きありがとう御座いました。

 参考 母校 枚方第三中学校

 参考 私の中学校時代写真

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明日は中学校の同窓会

 明日は枚方第三中学校の同窓会です。校舎が建て替えという事で最後の学び舎を観ておこうという趣旨で今回は集まりがあるようですね。幹事の、笠井さん、明智さんから何回か連絡があり日帰りで出かける予定です。

 私が中学1年生の時は枚方第一中学校しかありませんでしたので、1年間は1中に通い二年生から三中に通うことになりました。

 過去記事 母校 枚方第三中学校

 過去写真 中学生時代

 クラス会には数回出席した経験がありますが、今回は同期の人とか1期生の先輩も来られると思います。

 中学というと13歳~15歳程度の頃だったんですね、50年前、1/2世紀前の話ではないでしょうか。もはや古代史に属しますね。(笑)

 今回は50名集合出来るそうです、同期で生徒会会長をしていた中西さん、副会長をしていた松尾さんも参加されると、幹事さんから連絡がありました。私は最も不得意な会計を担当しておりました。(笑)

 当時の恩師の先生とお会い出来るのも楽しみです。明日は、朝早くの新幹線に乗り一路、故郷の枚方第三中学校を目指します。午後は宴会が予定されているそうなので、それも楽しみにしております。

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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(5) マキムク石塚古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク紀行 マキムク石塚古墳

 参考 桜井市教育委員会 纏向石塚古墳第9次調査

マキムク石塚古墳 
マキムク石塚古墳解説第9次調査の桜井市の報告書を見て下さい、箸墓、ホケノ山古墳、石塚の位置関係が判り易いとおもいます。この古墳の発掘調査にはMuBlogのMuさんが述べておられるが、俳優の刈谷さんが参加されて立派な学術書も出版されております。彼の説では祭壇ではなかったかという説ですね。
マキムク石塚古墳 9次調査報告書によれば前方後円墳としては最古の古墳であるという事だそうです。庄内0式期(3世紀初頭)の土器が出土しているのが理由です。形状はやはり上から見ると壺の形をしており、周濠は馬蹄形をしているのが判りますね。

 朝顔形埴輪の破片も出土しているので、吉備との関係が深いのではないでしょうか。最大の問題は後円部から墓室が見つかっていない事です。戦時中この石塚古墳の墳丘部は削られ高射砲が据え置かれたそうなので、破壊されたと思います。竪穴式だったでしょうから墳丘の頂上近くに墓室は存在したと思います。

 そして、周濠部に接するように方形周溝基が二基存在が認められたそうです。これは陪塚でしょうか。大山古墳を思い出せますね、これは5世紀の話ですが。古墳の周りに沢山の小さな古墳があります。 巨大古墳の世紀 百舌鳥・古市古墳群(大山古墳の写真をクリックすると明確に周濠部の陪塚が見えます)

 周濠から出土した弧文円板は一体何なんでしょうね、今後色々と調べてみたいと思います。 参考 橿原考古学研究所 弧文円板

 この文様に関しては今まで多くの研究者が論文をかかれているようですね。

 参考 古墳時代のナゾの文様 「直弧文」を読み解く

 さて、この全長96メータの日本最古の前方後円墳はどう考えればいいのか私にも今のところ判りません。

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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(4) ホケノ山古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク紀行 ホケノ山古墳

箸墓から三輪山方向に進むと、こんもりとした森があります、国津神社です。その少し三輪山側にはホケノ山古墳があります。

ホケノ山古墳解説(1)
ホケノ山古墳解説(2) ホケノ山古墳の解説板での説明です。日本では最も古い部類に属する前方後円墳だそうですね、3世紀後半と記述されているが、例の勝山古墳の木片の年輪年代法からいうともっと古い時代である可能性もありますね。3世紀前半である可能性もある訳です。
 
ホケノ山前方部この古墳は三輪山から続く尾根を切断して作られた丘尾切断型、前方後円墳であります。この古墳からは画文帯神獣鏡、内行花文鏡が出土したという伝説があるようで、あまりよく判っていない古墳だそうです。いずれにせよ、卑弥呼の時代ではないでしょうか。
 鏡は当時の朝鮮半島の楽浪郡を支配していた公孫氏か魏か呉の鏡である可能性が高いと思います。
 
 当時の日本列島の人々は中国の鏡を好んだようですね。一番有名なのが三角縁神獣鏡であります。しかし、この鏡は中国からは出土しないので、中国の鏡職人が日本列島で制作したのではないかという説が最近はよく聞かれます。いずれにせよ、神獣鏡は神仙の世界を描いた鏡であり、当時の宗教を考える上で重要です。
 卑弥呼の鬼道と魏志倭人伝に書かれた内容は未だ解明されていないが、明らかに神仙思想と日本列島の縄文時代、弥生時代から伝わるアニミズムではないでしょうか。鬼道というと、中国では後漢末に猛威を振るった五斗米道(ごとべいどう)を思い出しますね鬼道と呼ばれた宗教集団であります。
前方部東斜面検出埋葬施設
木棺と壺さて、古墳のくびれの部分、多分、造出しと呼ばれる場所に木棺と二個の壺が展示されていました。写真を見て下さい。古墳が出来てその後、葺き石を外し木棺を埋葬したようですね。注目するのは壺です。
 
木棺と大型壺と小さな壺底を穿った壺を木棺と一緒に埋葬するのは重要な宗教的な意味があるのではないでしょうか。以前に記事として辰巳先生の説を紹介しましたね。黄泉の国の考古学
 氏は前方後円墳について、”壺形の宇宙”説を述べています。始皇帝の時代、蓬莱・方丈・えい州という仙人が棲むといわれる三神山の思想がありました。この三神山は三壺山とも呼ばれそれぞれ、蓬壺・方壺・えい壺と呼ばれた。壺のような形をしていたからだそうです。不死の理想世界は東海に浮かぶ壺形の山であると。

同時に、葺き石を古墳には敷設したので、磐座信仰とも関係が深いと論じています。

 最近私はこの説にとても感心があります。前方後円墳は壺の形をした死生観を具体的に示しているのではないかという考えです。壺形宇宙観ですね。桜井・茶臼山古墳でもお墓の近くに壺が埋納されていました、そして底が穿ってありました。

 前方後円墳の始まりと思われるホケノ山古墳の埋葬方式により益々この考えが強くなりました。卑弥呼の世界観はこのようなものではなかったでしょうか。中国人は特に秦の始皇帝は中国の東の海に浮かぶ蓬莱山の世界を夢にみた。その東の海に浮かぶのが日本であり邪馬台国の前方後円墳ではないでしょうか。

 話は飛びますが、聖徳太子さんが旧来の豪族連合の日本の体制から中央集権国家である中国のような強固な国に変えようとした時に、国際的に通用する仏教を導入し改革をやろうとしましたね。私は、卑弥呼は極めて国際的な感覚に優れた巫女さんではなかったかと思います。中国の神仙思想をうまく取り入れた政治家ではなかったでしょうか。

 マキムクには魏の国や、公孫氏の楽浪郡や句邪韓国や中国系の華僑商人等々が、駐在していたと思います。彼らは水を満々と蓄えた周濠に浮かぶ前方後円墳を眺めると蓬莱山であると認識したと思います。ベトナムのハノイに在住していた頃、お寺には池に浮かぶ蓬莱山を必ず観る事ができました、道教と仏教が混在しているのです。

眼前に箸墓古墳 
ホケノ山古墳後円部より三輪山
ホケノ山古墳に立ち尾根筋が続く三輪山を眺め、目前の尾根の終端にある巨大な箸墓古墳を眺めると、日本古来の三輪山信仰と今来の大陸の神仙思想が融合した世界がここで展開されていたのではないかと思いました。
 (追伸)
 底を穿っ壺の件ですが、是非専門家の意見を調べたいと思います。私は死者の魂がこの世とあの世の行き来できるように考えたのではないだろうかと考えています。前方後円墳の形状が柄鏡形とか撥(バチ)形とか色々あるのは、埋葬する集団が考える壺の形が影響しているのではないかと考えています。

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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(3) 箸墓古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行 箸墓古墳

三輪、千寿亭にて お昼は大神神社の大鳥居の近くの169号線近くの『千寿亭』で三輪素麺の美味しい昼食を頂いた。そして、箸墓古墳を訪問した。箸墓古墳は邪馬台国にとっても、日本の国の起源についても一番重要な古墳であると誰でもが認識していると思います。同行のMuBlogのMuさんは卑弥呼の墓であると信じて疑わない御仁であります。
箸墓参拝所遠望
箸墓古墳前方部から後円部全長278メータ、高さ30メータの周濠をめぐらした巨大な前方後円墳はその美しい姿とともに三輪山の麓に鎮座しています。記紀では昼は人が作り、夜は神が作ったとその古墳の造営の模様を述べています。記紀では孝霊天皇の娘で倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と記録され、三輪山の祭神である大物主(大国主)さんと結婚したと伝えられています。

 しかし、旦那の大物主さんは夜しか現れないので、昼間に顔を見たいと言うと櫛箱の中に小さな蛇が入っており、驚いてひっくり返り箸で大事な所を突いてしまい身罷ったと記紀は述べています。そこから箸墓の名前がでてる訳です。しかし、当時は箸は無かったと考えられており疑問が残ります。(ある説では土師ではないかというのもあります。)

 このお姫様は伝説が多く存在し、巫女であった可能性が高いのです。弟は吉備津彦で西道将軍として活躍し吉備の中山・茶臼山古墳に埋葬された話は茶臼山古墳の所で述べたと思います。当時の吉備はヤマトに匹敵する巨大な勢力だったと考えられるので、弟の権力も絶大だったでしょうね。もし、ヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼であったすれば、巫女に仕え政治実務を担当した弟との姿は、魏志倭人伝そのもになりますね。

 吉備との関係では箸墓古墳と相似形の1/2の大きさで作られた前方後円墳があります、それは岡山市浦間にある浦間・茶臼山古墳です。

 そうすると、崇神さんの立場が無くなり、簡単には解けない謎となります。

 巫女としての能力は、崇神天皇10年に山背の武埴安が反乱を起こす事を予知し、奥さんの吾田媛が難波からヤマトを攻める事も予見した事を記紀は記録している。本件は昔、記事を書きましたので参考にしてください。

 記紀では箸墓の主は崇神天皇の時代の孝霊天皇の娘であるヤマトトトヒモモソヒメとしております。しかし、幾ら皇女といえどもマキムクに巨大な前方後円墳を築く理由は何だったんでしょうね。大王を束ねる以上の地位の人でなければこれだけの巨大な前方後円墳は建造出来ないと思います。

 記紀は何かを隠しているとしか考えられないですね。

 現在は宮内庁が管理していますので、誰も立ち入る事は出来ません。考古学者にとっては喉から手が出る程調査したい古墳なのであります。しかし、最近の周辺の古墳や遺物の発掘から少しずつ箸墓の科学的な調査も進んでいます。

 後日、周辺古墳である勝山古墳のところで述べるつもりですが、そこで出土した木材の年輪年代法の分析から奈良文化財研究所は弥生時代を従来より100年近く古い時代にシフトするべきであると発表した。従い、箸墓は3世紀後半という微妙な卑弥呼死亡の時期である3世紀中葉に近くなりました。

 科学的な発掘と研究は日本の歴史を文献や伝承だけでなく、総合科学の力で古代の歴史を解き明かす時代になりました。そういう意味で発掘は破壊と表裏一体なのです。将来の科学の進歩で遺物から新しい事実が解明される可能性があるからですね。

 今回の箸墓とそのあとホケノ山古墳を訪ねましたが、新しい仮説が湧きあがりました。詳しくはホケノ山古墳で述べるつもりですが、明らかに箸墓古墳、ホケノ山古墳、その他古墳と認定されていないかもしれない小高い塚のようなものが尾根となり三輪山に繋がっているのです。

 私は三輪山の神の血脈が流れる聖なる尾根にホケノ山古墳も箸墓も作られたと考えています。箸墓はその尾根の最後に位置する聖なる三輪山の神の一族と考えます。マキムク地域を圧する巨大な箸墓古墳は三輪山の神と一体の聖なるランドマークであったでしょうね。

 マキムクに集合した日本列島の地域の王達はこの古墳の上で行われる祭祀主にひざまずいたのではないでしょうか。卑弥呼さんだとすれば、彼女が生きていた時代はホケノ山古墳で彼女が祭祀を行ったのではないだろうか。そして、台与(トヨ)の時代はこの箸墓でヤマト王権の祭祀は行われたと思います。

 という訳で、次回はホケノ山古墳になります。

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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(2) 茶臼山古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳

 参考 マイフォト 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行

桜井・茶臼山古墳 後円部より前方部を観る

 

トレンチ現場 竪穴式石室天井石崩落現在、橿原考古学研究所が発掘調査中であります。既に昭和24年、25年に発掘調査されており今回は再調査ではないでしょうか。鳥見山尾根を切断し構築された丘尾切断型古墳であり柄鏡形という前方部が手鏡の取っ手のように伸びた形状です。後円部には竪穴式石室があったそうですね。
後円部トレンチ現場

 後円部には長方形の基壇が存在したそうで、石室の周りには二重口縁壺の底が穿たれたものが並んでいたという。(円筒埴輪の起源か)石室からは玉杖や玉葉、鏡が出土したという。壺が二重口縁壺という土師器であり吉備との関係があると想像するのですが、詳細は発掘調査報告書を読まないと判りません。

 茶臼山古墳の西南に同じく鳥見山尾根を切断したメスリ山古墳という250メータの前方後円墳が存在します。出土した2メータを越える巨大な高杯形埴輪は吉備との関係が想像される。

 この古墳群の西方には耳成山があり吉備勢力が拠点にしていたと考えられます。記紀によれば神武さんが東遷する時に日向から北九州に上り、瀬戸内海を東に移動し吉備で数年間滞在するのですね。何故か吉備で8年間も過ごしています。どう考えても吉備の勢力に擁立されたのが神武軍ではないでしょうか。

 参考過去記事 魏志倭人伝の投馬国の話

 魏志倭人伝では3世紀の卑弥呼の時代に7万戸の邪馬台国に対して5万戸の投馬国の記事が見えます。邪馬台国に到着する国々を比較すると群を抜いた戸数であり、邪馬台国と双壁だったようです。瀬戸内海を航海し邪馬台国に辿り着く途中の吉備と考えるのが考古学上は有望とされています(都出比呂志氏ほか)。

 神武さんと同じ航路になりますね。吉備には中山・茶臼山古墳という吉備津彦(吉備の港の男という意味)の陵墓と伝えられる前方後円墳があります。

 この古墳は是非何時かは訪問したいと思いますが、吉備津彦は孝霊天皇の息子という事で陵墓に指定されている。時代的には崇神天皇の時代で西道将軍として活躍と記録があります。

 桜井・茶臼山古墳の埋葬設備の近くの壺や柄鏡形前方後円墳(マキムク勝山古墳、マキムク東田大塚古墳)、丘尾切断型古墳(ホケノ山古墳、箸墓もか?)の形態はマキムクでも見つける事ができました。その話はホケノ山古墳の所でお話したいと思います。イワレは実に吉備の影響を強く受けた場所だと確信しています。補足すれば、近くの耳成山も魏志倭人伝の投馬国の王の官職の名前(弥弥那利=ミミナリ)に似ているのです。

 神武天皇は畝傍の橿原で即位したあと、茶臼山、メスリ山古墳を抱く鳥見(とみ)山に皇祖天神を祀ったと記紀は述べています。まさに磐余(イワレ)は鳥見山が霊山であったと想定されますね。

 ここで、私の勝手な想像の話をします。(あまり根拠はありません)

 ヤマトの三山である畝傍山と耳成山(吉備勢力)を制圧した神武さんに香久山と三輪山は依然として従属していなかったのではないでしょうか。香久山は神武さん東征の前に既にヤマトで地盤を築いていたニギハヤヒの息子の天香語山命ゆかりの聖山ではないでしょうか。彼は尾張氏の祖と考えられていますので、尾張氏の勢力は神武・吉備連合に対抗していたとすれば尚更、茶臼山は伊勢街道を押える重要な場所ですね。

 三輪山は恐らく出雲、丹波、若狭、越、琵琶湖、山背、の日本海沿岸から琵琶湖から木津川、淀川を経済圏とする勢力、所謂、出雲系の勢力が神武さん以前から押さえていた聖山ではなかったかと想像しています。

 九州は日向の神武さんが北九州を抑え、吉備と連合する事で瀬戸内海ルートから大陸への交易ルートを抑え大和川を制圧し、もう一つの大陸ルートである日本海ルートを持つ出雲系勢力と激突し、且つ決着はつかなかったと理解しています。

 イワレの地の北数キロの場所マキムクと三輪山が重要に思われます。マキムク遺跡からは出雲系の越や尾張氏の東海地方の土器も吉備系の土器も九州系の土器も出土するといいます。国際センターのような日本列島の豪族の出先の駐屯部隊が存在していたと考えられます。

 武力ではなく何か宗教的な力で拮抗する各部族を纏める環境が整備され始めていたのではないだろうか。それが三輪山の霊山の力で巫女を祀り上げ連邦国家である邪馬台国が生まれたと想像しています。新たなマキムク型前方後円墳を築き、周りに吉備系の柄鏡式の東田大塚古墳や勝山古墳、そして出雲系や尾張系の古墳も築かれ箸墓にて三輪山を遥拝する巨大な宗教セレモニー都市が成立したと幻想しています。

 この話は次回のホケノ山古墳に続きます

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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(1) 磐余(イワレ)

 京都在住のMuBlogのMuの旦那さんと紀行したイワレの地とマキムク遺跡の紀行文をやっと書けるようになりました。野暮用が多く、20日間程度、書く暇が無くやっとの思いです。

 紀行文の前に、一言あります、幸いにも4月から早稲田大学文学学術院で考古調査士育成コースというものに入学が許可されました。先年、設立された国家資格である文化財保護の専門家を育成する資格に挑戦する事にしました。先ずは2級から挑戦します、一応大学で考古学を専攻した資格を得るコースです。

 1級、上級と続きますが健康が続く限り文化財保護の分野で少しでも役に立つ仕事をする為にも勉強したいと思います。何より発掘現場に立ちたいという思いが強いのです。文献学の分野では殆ど先学の師が極めてくれたと思いますが、残るは考古学の発掘による新しい発見が待ち望んでいると思います。

 一度、4ヶ月間素人の発掘補助作業員として浜田山で経験しましたが、現場と学問の両輪が必要であると強く感じておりました。幸いにも早稲田大学がいち早く国の方針に沿い考古調査士育成のプログラムを開設されましたので、入学を希望し許可されました。

 息子に保証人になって貰い大学生として63歳になろうとする身ながら早稲田の門をくぐる事になりました。身体が続く限り頑張りたいと思います、夢は日本の古代史の新たな解明と海外での遺跡の発掘です。

 前置きはこれ位で、今回の桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行について心の軌跡を書きたいと思います。既にMuBlogにおいて詳細な紀行文が長編に渡り記録されておりますので、そちらを参考にしながら読んで頂くと幸いです。

 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行目次編

 磐余(イワレ)の地について

桜井駅周辺 イワレの地 
最初に訪れたのは桜井駅下車の磐余(イワレ)の地でした。馴染のMuの旦那に携帯メールを入れるともう到着されている。年寄りは厭ですね、早起きだから。遠方で笑顔で手を振るおじさんがMuの旦那でした。京都から車で駆け付けたのだ。

 私は大阪の鶴橋という近鉄の駅から電車で近鉄桜井駅に向かいました。古代は難波津という場所から陸路でイワレの地を目指した事になります。古代の大坂は堺付近から北に突き出した上町台地が角のように伸び千里丘陵との僅かな距離を残し瀬戸内海と河内湖を寸断していた。京都や奈良盆地に降る雨は全て大和川、淀川に収斂され巨大な河内湖を形成し僅かな上町台地先端と千里丘陵の隙間で瀬戸内海と通じていた。

 難波、浪速の意味はその僅かな隙間を潮の満ち引きで流れる急流の地という意味であると確信しています。河内湖は巨大な湖でありました、5世紀になり多分仁徳さんの時代に河内湖の水を始末する為に上町台地の先端に運河が掘削され、それが大川であると認識しています。それから、河内湖は干潟になり稲作が出来る平野が広がったのだ。

 縄文早期6300年前には九州の鬼界カルデラが大爆発をした、そして西日本の地域は壊滅的な破壊を受けた。九州から関西方面はこの爆発により殆どの縄文文明は破壊されたのだ。日本列島で生き残ったのは東日本から東北、北海道の地域だけである。

 この更地が人が住めるようになったのは数百年後の事でしょうね。中国では秦王朝が統一王朝として生まれると、多くの難民が長江河口域や山東半島から船で新天地を求めて海に漕ぎ出した。これらの人々は朝鮮半島の南部の海岸地域や九州や山陰地域に到着したと思います。稲作の伝来ではないでしょうか。

 考古学で確認されている最古の水田跡は、私の父の故郷である魏志倭人伝にある唐津の末盧(まつろ)国の菜畑遺跡である。2500年から2600年前の遺跡である。徐福が三千名の人々を引き連れ東の海、蓬莱山を目指したのも秦王朝の時代です。その後、漢王朝が生まれ積極的に朝鮮半島に植民地を開拓した、所謂、楽浪郡の時代です。

 中華文明の激動と膨張は朝鮮半島を動乱に陥れ、日本列島にも続々と新しい大陸の文化文明が押し寄せて来たのだ。九州や山陰方面が一番大陸に近く影響を受けたと思います。そして、その文化・文明は東進したのではないだろうか。

 記紀にある神武天皇の東遷の神話はこの巨視的に見ると大陸の文化文明が九州から日本列島を東に伝播した記憶を記録しているのではないでしょうか。何故、こんな話を長々と述べるかといいますと、実は磐余(イワレ)という場所と名前が神武天皇と関係が深いから述べています。神武天皇の名前は「神(かん)倭(やまと)磐余(いわれ)彦(ひこ)の命(みこと)」と呼ばれているからです。

 要するにイワレの男という意味です。宮もお墓も畝傍山近辺でありますが、何故かイワレの男と呼ばれているのです。継体天皇の磐余玉穂宮、神功、履中天皇の磐余稚桜宮(わかざくら)、清寧天皇の磐余甕栗(みかぐり)宮、用明天皇の池辺なみ槻宮、と磐余は王都として栄えました。

 それでは、何故に記紀では磐余(イワレ)を日本国の起源にするような記述をしたのでしょうね。そこで、桜井・茶臼山古墳が登場してきます。難波から河内湖に入り大和川を遡上するとイワレの地に到着します。そして陸上交通の十字路の場所でもあります。

 海柘榴市(つばいち)は金屋近辺ですから東に伊勢街道、北に山の辺の道、南に多武峰街道、西に大和川となります。聖徳太子さんの時代でも隋の使節である裴世清は難波津の迎賓館に宿泊し、それから大和川を遡上し海柘榴市で下船し、歓迎の迎えを受けたと記録されています。

 イワレはメイフラワー号の上陸地点ではないでしょうかね。経済的に見ると、大陸との交易と日本列島への陸路の起点として重要な場所でした。5世紀に上町台地を横断する運河が掘削されるまでは難波津には大きな都を作る場所が存在していなかったのでしょう。

さて、そこを見下ろす桜井・茶臼山古墳の話は次回です。

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爺さんの家政夫日記(5) 無事解放

 昨日は10日間の家政夫の仕事を終了し、娘の旦那の御母堂にバトンタッチして孫を連れて横浜に帰還しました。小学4年生は昔懐かしい、通信簿を持って帰るのですね。でかい紅白饅頭(餅で出来ていましたよ)は横浜まで持参し、朝、家内と孫は食べていました。

 先ほど、早速家内と孫は二人で横浜港クルージングにでかけました。爺さんは昨夜から溜まった仕事で謀殺されています。色んな人に連絡したり、もう火の車です。大坂で10日間の義父の事務所の応援、直ぐに北海道10日間と自分の仕事も趣味もほったらかしでしたからね。

 (猫と白鳥と北欧住宅)

20093hokkaido_001 20093hokkaido_005 20093hokkaido_062  家政夫日記に登場するトラです。生後二週間で娘が引き取った猫です。もう7歳程度になるのではないでしょうか、私は今回初めてお目にかかりました。

娘が横浜の自宅近くに住んでいた頃から、私が行くと姿をくらまし、出てこないのです。今回初めて二日目に諦めて出てきて、その後は一緒に暮らしておりました。本当にかわいい、野生だけど、気の弱い猫です。

20093hokkaido_054 20093hokkaido_059  これが、恭太です。10歳程度だそうですが、これも娘が獣医をしている病院で交通事故で運ばれ右前足とか色んな所にダメージを受け薬殺忍びなく娘が引き取った猫ちゃんです。

 兄貴分で何時も元気に虎を従えております。朝5時頃には押入れの上段からジャンプして寝てる私の足元に飛び降ります。腹が減ると二匹とも寝てる娘の所に行き起こします。朝7時半に餌をやるのですが、それまでは騒ぎまくります。私は6時から朝食や弁当の作成で忙しいのですが、邪魔をしに来ます。

 ともかく、毛だらけになった10日間でした。(笑)

20093hokkaido_034 20093hokkaido_039  近くの長沼という場所には田圃とか川に仰山の白鳥が渡ってくるのですね。長沼は日本でも有名な、穀倉地帯であり餌がたくさんあるんですね。

 娘の病院帰りに旦那がドライブに連れていってくれました。田圃では数十羽の白鳥が全て嘴を田圃の中に突き刺している姿が印象深いでしたね。

20093hokkaido_012 20093hokkaido_025 20093hokkaido_026  引っ越し先の娘が自慢の設計のスエーデンハウスです。北欧の木材を使用し窓に特徴があるようです。窓から眺める景色が額縁に入る絵のようですね。

20093hokkaido_024 20093hokkaido_013 20093hokkaido_015  スイス旅行の時に宿泊したホテルが同じような節だらけの板を使用した木の部屋でした。日本ととは美意識が異なるのでしょうね。木の香りがする落ち着いたお家でした。しかし、ここも禁煙・禁ラジコン飛行機だそうで、早くガレージを旦那に作って貰いラジコン飛行機工房をこっそり作りたいですね。

20093hokkaido_046 20093hokkaido_047  白鳥の群れが住む長沼の風景です。素晴らしいですね、皆さんも北海道に移住しませんか。

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爺さんの家政夫日記(4)

 今回の家政夫としての役割も明日で引継ぎとなる。本日、旦那のお母様が東京から来られ今日はバトンタッチの宴会となった。今晩は水炊きとした。鮭、タラ、鶏と牛蒡のつみれ、等々を入れた。明日、孫の学校も終わるので午後の便で羽田に帰る予定です。

 それにしても、今日のWBC決勝の韓国戦、所々しか観なかったが、凄まじい激闘でしたね。球史に残る名勝負ではなかったでしょうか。本当に、韓国も日本も最後まで戦いましたね。素晴らしいものをみせて貰いました。最後にイチローと真っ向から対決した韓国の投手には美学があると思いました。流石にプライドの韓国でした。

 結果は日本の勝利でしたが、韓国にも同じように賞賛を贈りたいと思います。

 昨日は病院まで旦那の運転で車ででかけました、片道20分程度ですね、帰りに白鳥が沢山飛来している長沼の田舎を案内して貰いました。田んぼや、川には無数の白鳥の群れを観察できましたね。素晴らしいのどかな北海道を満喫でした。

 しかし、少し疲れましたね。

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爺さんの家政夫日記(3)

 昨夜は雪が降り、朝タバコを吸いに外に出ると路面も真っ白でした。やはり、ここは北海道です、雪が降ってあたりまえですね。しかし、数日間暖かく現地の人は不気味だと話されておりました。

 今日の朝の弁当は、昨夜のバラ寿司、鮭、しょうが焼き、ウインナー、おひたし、水筒にお茶を入れて旦那に渡しました。午前中は娘夫婦が新築した『スウェーデンハウス』の一軒家を孫と一緒に二人で見てきました。不動産屋が車で迎えにきてくれて、乗せてもらいました。

 娘が凝りにこって考えた家だそうです。オープンキッチンで明るい外国の家みたいでした。窓が特徴で窓に映る風景が額縁に入る絵のように見えるのが不思議でした。家は禁煙だそうで、油まみれのラジコン飛行機も持ち込みは不可とか言うてました。

 昼飯は、娘と孫にてんぷら蕎麦をつくりました。夜は、鯖の味噌煮、南京の煮物、ポテトサラダ、スパゲッテイミートソースを作りひき肉、トマトを使い献立ました。旦那は今晩も往診で遅くなるようですね。

 トラは目の前で寝ています。恭太は押入れで寝ています。私が寝ると二匹は俄然元気になり家の中を夜中走り回っている様子。一日に何回も掃除機をかけないと、そこらが毛だらけです。私は押入れの前で寝ているのですが、時折、恭太かトラが足元に飛び降りて来ます。意外と重いのですね。

 猫と暮らすのは初めてなので、珍しい光景が興味あります。

 先日、京都のMublogの旦那と奈良のマキムク遺跡を探訪しましたが、昨夜新しい発表があったようですね。テレビでもMuBlogでも新聞でも報道されていました。私も早く、イワレの茶臼山古墳やマキムク遺跡の記事を書きたいのですが、家政夫で忙しく時間がありません。そのうち、MuBlogと連携して記事を書きますので、ご期待下さい。

 

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爺さんの家政夫日記(2)

 昨日は日本とキューバ戦、観戦しておりました。何故かキューバの打線が今回も沈黙してしまいましたね。彼らは公務員だから、負けて帰ると大変なんでしょうね。可哀そうです。今日は何故か4度目の韓国戦、何で同じチームとばかり戦う必要があるんでしょうね。アメリカの陰謀でせうか。(笑)

 来月に娘家族は引っ越すので、娘の指示でダンボールに荷物を詰めました。4個完成しましたね。すでに10箱以上が完成しているようです。

 昨夜は、コロッケと一口カツを揚げました。コロッケは得意です。孫の希望で3個はチーズ入りを作成した。カツも揚げて、最後に玉葱も揚げちゃいました。そうそう、昼間は孫に味噌ラーメンを作りましたが、炒めたキャベツともやしがシャキシャキして実に美味でした。ゆで卵も入れて大満足でした。

 トラ(猫)は私の前には姿を出さない猫でしたが、昨日から遂に諦めたのか、私の前に姿を現すようになりました。今日は擦り寄ってくるまでに距離が近くなりましたね。

 霧がかなり激しく、サンデイエゴの球場と同じような天気の北広島でした。

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爺さんの家政夫日記 

 今日で三日目である。羽田から格安航空券、スカイマークで飛んできて札幌近くの北広島で娘夫婦の家で家政夫をしている。

 猫が二匹、恭太と虎という名前です。恭太は交通事故で右前足が不自由な猫、虎は警戒心が強く、私の前には姿を見せません。昼間は押入れの奥に隠れ、夜な夜な出没し、走り周ります。二日目からは警戒心が少し、薄れ食事の時は私がいても顔を出すようになりました。

 歩いて直ぐ近くにスーパーがあるので、買い物は便利です。初日はお昼は娘とお寿司を食べ、夜は餃子を作りました。そして焼きそばです。餃子は結構美味しくできました。お弁当は鮭、玉子焼き、牛肉の甘辛炒め。その他、冷蔵庫の中のものを詰めました。

 二日目はハンバーグと肉じゃが、きんぴら牛蒡、南京煮物、味噌汁、小松菜のおひたしです。朝は得意のオムレツに味噌汁。得意のオムレツです。

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冬の 東尋坊

 冬の北陸紀行最後になります。寒風吹きすさぶ東尋坊となりました。雪混じりの寒風が日本海から吹きあげ、10分程度で引き揚げました。(カイショナシ)

 サスペンスドラマの舞台として有名だと思っていたが、そうでもないのですね。清張さんの方はヤセの断崖だそうですよ。そういえば、一昨年前に輪島能登半島紀行をした時にヤセの断崖は観光しました。(参考 和倉温泉と能登紀行 )

 マイフォト 冬の東尋坊

流石に誰もいない 断崖絶壁です 打ちつける荒波
赤い橋と雄島 朱の橋と雄島 きっと伝説があるんでしょうね
私は大丈夫 完全防寒具で守られ 寒くはないです
断崖絶壁 海からの風が断崖に衝突し吹き上げて来る
強風です 遥か日本海 蝦夷地と天下の台所を繋いだ海の道

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今後の人生設計について

 今年の9月が来ますと63歳となります。今までコンピュータの世界で40年間頑張って来ましたが、この延長上で関連の仕事を続けるのは簡単なのですが、どうしても子供の頃から憧れていた遺跡の発掘をやりたいという思いから逃れる事が出来ません。

 2006年にベトナムに赴任する前に半年程度余裕が出来た期間に、思い切って東京の浜田山の高井戸東遺跡の発掘作業に従事しました。還暦にもなり、作業員として3x3x3メータのピットをスコップで堀り進む土方作業は肉体的に厳しいものがありました。しかし、関東ローム層の下の旧石器時代の石器が出現した時はどんなに興奮したでしょうか。

 という訳で、残りの人生は考古学の現場に自分の身体を置き少しでも文化遺産の保護の分野の片隅で世の中に貢献したと考えるようになりました。幸い、昨年あたりから国としての国家資格が実現する事となり、先ずは大学の考古学部を卒業したレベルの考古調査士2級の資格に挑戦する事にしました。

 参考 早稲田大学文学学術院 考古調査士養成プログラム

 入学すべく全ての資料は大学に提出しました。合格発表は3月23日以降ですが合格すると4月から早稲田の学生として土曜日は朝から晩まで授業を受け半年で8単位を取得する必要があります。頭は随分とボケているかもしれませんが、頑張りたいと思います。

 出来れば、海外の遺跡修復・発掘現場に立てるように現場での実績を積んで行きたいと思います。本当はマキムク遺跡の発掘現場に立ちたいのですが、関西方面の大学では未だ国の公的資格取得に関する動きが有りませんので、早稲田で頑張る積りです。

 メキシコのピラミッド遺跡、ユカタン半島の遺跡、南米ペルーのアンデス文明、長江流域の黄河文明に先立つ文明、朝鮮半島の洛東江流域の伽耶・加羅文明、ベトナムのドンソン文化、カンボジアのクメールの微笑み、アムール川流域の古代文明、ホンマ、キリが無いですね。

 残りの寿命は限られていますので、年寄りでも活躍できる現場を探して、世界の文化遺産の保護と修復、解明の下働きをやりたいと思います。現場と大学でのまっとうな勉強の両方を今後続けてゆければ幸せだと考えています。

 考古学はあらゆる学問領域に横串を刺す学問だと考えています。今まで経験したコンピュータの分野も経済学も経営学も役にたつ筈であると、勝手に考えております。要は人間が暮らしてきた世界をタイムマシーンで訪問しあれこれ、考える事だと考えています。

 (3月の予定)

 今週末から大阪に移動し、義父の税理士事務所の雑用の世話にでかけ、MuBlogの旦那と奈良の初期ヤマト王権誕生の史蹟を辿り、一度横浜に帰り直ぐに17日から北海道に移動します。家内は多忙なので、単独ですが娘夫婦の住む家で過ごし孫が春休みに入る25日夕方の便で孫を連れて横浜に戻ります。

 3月29日は母校である、枚方第三中学校の二期生の同窓会がありとんぼ帰りする予定です。懐かしいですね~小学生の時代、中学性の時代に一緒に過ごした招堤村の同期の皆さまと会えるのは楽しみです。招堤村の幼馴染から電話があり、日帰りはやめておれの家に泊れというありがたいオファーもありました。

 一緒にウサギ狩り用の『黒竹』を他人様の山から一緒に盗んだ相棒さんでした。

(閑話休題)

 新生・クルセダーズ イムジン河

  イムジン河~春~

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冬の 永平寺

 40年ぶりに曹洞宗 道元禅師の永平寺を訪れました。やはり雪が降り始め寒い中での参拝となりました。私が初めて訪れたのは大学4年生のゼミ旅行でした。就職も決まっていたと思います、則武先生とゼミ生での訪問でした。

 久しぶりですが、やはり急勾配の回廊の印象はそのままでした、当時は若かったので苦にはなりませんが、歳をとると少し、しんどいですね。若い雲水が素足で修行をしている光景は昔も今も変わりません。

 マイフォト 冬の永平寺写真集

 永平寺と言えば、昔、富士通時代にコンテンツの仕事をしていましたが、同僚がお寺に頼まれて道元禅師の正法眼蔵のCD ROMの作成をさせて貰っていました。これも懐かしい思い出です。

 道元禅師と言えば家内の実家や私の姉や、MuBlogの旦那さんが住む京都府宇治市木幡と関係が深いのですね。道元さんのお母さんは摂政関白、藤原基房の娘で従三位の藤原伊子(これこ)さんで父は村上源氏の源(久我)通親なんですね。

 当時、基房は宇治の木幡に邸宅を構えていたそうで、松殿山荘と呼ばれていたそうです。そういえば、御蔵山には藤原氏の娘さん達のお墓が沢山あるようです。

 道元さんのお母さん伊子さんは才色兼備な人だったようで、木曾義仲が随分と惚れ込んだそうですね。当時は基房は平家と政治的に対立していましたので、何とか源氏を味方につけようとしていたんでしょうね。義仲が戦死すると、再婚し村上源氏の通親と結婚したそうです。そして、道元さんが生まれた。

 伊子さんは政治の世界で活躍した訳ですが、通親も急死し政治の虚しさを感じ息子の道元には仏の道を選んだようです。子供の頃、道元さんは宇治木幡の松殿山荘あたりをウロウロしていたんでしょうね。

 その彼は宋に渡航し曹洞宗を学ぶのです。冬の永平寺は厳しい修行の場として有名です、厳冬期に素足で修行をする雲水さんに波乱の道元さんと御母堂の伊子さんの姿が重なるようですね。

永平寺 通用門へ 永平寺参道 通用門に通じています
杉木立 参道 杉木立参道に佇む観音菩薩
法堂からの回廊 永平寺名物 階段回廊
素足の雲水さん 修業中の若い雲水さん
静寂の永平寺 静寂の永平寺
若者二人 若者二人
唐門 この風景が一番人気 唐門 永平寺で一番人気のスポットです

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一乗谷朝倉氏遺跡

 戦国時代に越前を平定しその都として朝倉氏は一乗谷に大規模な城下町を築いた。小京都と呼ばれ当時は日本で5本の指に入る大都市として繁栄したという。その朝倉氏も信長に負けこの一乗谷から人々は去り、焼き打ちで三日三晩、炎に包まれたそうです。

 幸い、その後田圃や畑になった程度でよく地下は保存され40年間発掘作業が続いているのですね。今は少しずつ復元(地元では復原という言葉を使用されている)され、当時の栄華の一端を垣間見ることが出来るようになりました。

 残念ながら浅井、朝倉で信長を挟みうちにした、戦いで信長を逃してしまったのが悔やまれますね。100年間に渡り、越前の中心都市として栄えた一乗谷、是非一度は訪れてみませんか。ホームページが完備されていますので、興味のある方は是非、公式のホームページで楽しんで下さい。

 公式ホームページ 一乗谷朝倉氏遺跡

 マイフォト 一乗谷朝倉氏遺跡写真集

一乗谷朝倉氏遺跡全貌 一乗谷朝倉氏遺跡パノラマ地図
川向うが上流武士の館 町並保存地区を歩いてみましょう
武家屋敷遺構 武家屋敷遺構
武家屋敷 鍵型道路 武家屋敷、石垣と築地塀の道
商家でしょうね 商売をしていた人々の家ですね
薬医門 武家屋敷です 薬医門です、上級武士の屋敷の門ですね
将棋(象棋)をする武士 将棋をする武士たち
朝倉館唐門 朝倉館と唐門です
復原町並 町並復原模型です

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