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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(7) マキムク矢塚古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行 纒向矢塚古墳

マキムク矢塚古墳  勝山古墳の目の前、纏向小学校に接するように矢塚古墳が存在しています。小学校建設時に古墳に配慮してギリギリに建設したんでしょうね。後円部がギリギリで学校との間の道に接しています。
マキムク矢塚古墳解説 この古墳は最近周辺部が発掘され古墳の形状と周濠が存在する事が判ったようですね。全長96メータで前方部が後円部の直径の約半分の34メータで典型的なマキムク形の古墳となります。マキムク形とは全長:後円部直径:前方長さ=3:2:1の比率で築造された古墳を呼びます。
マキムク矢塚古墳 学校を挟んで東には同じくマキムク形の石塚古墳、北と南には柄鏡形の前方部が長い勝山古墳、東田大塚古墳が存在します。MuBlogによればここは標高70メータだそうで、北西4キロ地点は弥生遺跡で有名な唐古・鍵遺跡が標高50メータで広がっています。

 

東田大塚より矢塚古墳を観る古墳時代が始まる頃に徐々に標高の高い三輪山に近い場所であるマキムク地域、箸墓古墳、ホケノ山古墳のある箸中地域に祭祀の場が移動したんですね。墳丘は未だ発掘されていないと思われます。周辺部の発掘より出土した土器よりやはり古墳時代初期の古墳で箸墓よりは古いと想定されています。

 しかし、まとまった場所に巨大な全長100メータを越える周濠を持った前方後円墳が4基も存在するのは驚きですね。(石塚、勝山、矢塚、東田大塚)そして、二種類の古墳というのも不思議ではないでしょうか。時期は同じころに建造されたと思われます。

 もしここが邪馬台国であるとすれば、邪馬台国を擁立する吉備や尾張や越や山背や九州の豪族が古墳を建造したのかもしれませんね。

 参考 産経関西 古墳発生、新たな謎

 参考 奈良新聞 3古墳の形状確定

(2世紀から3世紀の混乱した東アジア情勢)

 2世紀後半になると中国の後漢王朝の力が弱まり周辺諸国で混乱が起こり始めます。それまでは朝鮮半島は楽浪郡と帯方郡という中国の直轄植民地が存在した。帯方郡は今のソウルあたりでしょうが、南朝鮮半島には馬韓・弁韓・辰韓という国にわかれ存在していた。馬韓は一番大きな国で半島西部から南部にかけて存在し50余国の小国に分かれていた。

 東南部、洛東江流域には弁韓・辰韓がそれぞれ12国程度の規模で存在し、倭国は洛東江流域の諸国から鉄を輸入していたのです。そして2世紀には高句麗が朝鮮半島東北部で力を強め始め衰退する後漢王朝の出先の楽浪郡の言う事を聞かなくなり始めていた。

 その頃の日本列島の様子は魏志倭人伝に恒帝・霊帝の時代(147年~189年)倭国は乱れ戦争状態が7~80年間継続したという。しかし、女王卑弥呼を擁立し王とし、国は纏まったという。189年に遂に中国の後漢王朝は崩壊し群雄割拠の時代に突入し、最後は魏・呉・蜀という三国時代に入るのです。

 そのどさくさ紛れに、遼東郡の太守であった公孫度が後漢王朝から独立し楽浪郡を支配する事になり、息子の公孫康は3世紀初めに楽浪郡の南に帯方郡を建設し、韓と倭の支配権を獲得した。多分、卑弥呼は帯方郡の公孫康に使節を送った思われます。

 しかし、238年に公孫氏は魏に滅ぼされてしまいます。従い、公孫氏時代の歴史書は残っていないのだそうだ。そして、239年(景初3年)卑弥呼は難升米(なしめ)ら使節を帯方郡に送り魏の天子に拝謁し朝貢する事を求めた。

 そして、無事12月に魏の皇帝に拝謁出来、詔書を貰い親魏倭王の称号や金印を貰う事になりました。これが有名な魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の事であります。

 歴史家は当時の情勢で朝鮮半島の誰も貰ってない金印と親魏倭王の称号は西の大月氏と同格扱いであり異常であると言う。当時の蜀と呉の関係を考えると、魏は破格の扱いをしたと想定される。呉が倭と連携する事を恐れたという意見もあるようですね。

 卑弥呼は見事な国際感覚を持った政治家であり、日本の国内を中国の魏の力で、纏めて行く訳です。多分に朝鮮半島に於いても発言力が高まったと想定されます。

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