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桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(6) マキムク勝山古墳

 参考 MuBlog 桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行 マキムク勝山古墳

 参考 橿考研 勝山古墳 第五次発掘調査報告書

 参考 橿考研 勝山古墳 第四次発掘時の出土木材年輪年代測定

 参考 橿考研 勝山古墳 第四次発掘調査報告書

 

マキムク勝山古墳周濠部石塚古墳から歩いて小学校をぐるりと巡ると勝山古墳がこんもりとした森として存在しています。この古墳では近年に於いて大きな二つの発見が考古学の成果としてあるようです。
マキムク勝山古墳周濠部 (出土木材の年輪年代法分析より210年以前)
マキムク勝山古墳 2001年に橿考研により第四次勝山古墳発掘調査時にくびれ部から出土した多数の木材から、奈文研の年輪年代法のよる詳しい調査が行われ、ヒノキ材が西暦198年伐採であり加工されたのは210を下らないという結論でした。この事は前方後円墳の時代が三世紀初頭には始まっていたという、今までの常識である4世紀に前方後円墳は始まったというのを覆す結果でした。

 石塚古墳の調査からも出土木材の年輪年代法で調査が行われており、同じような時代であるという結果は極めて重要な事実を明らかにしたようだ。

 という事は、魏志倭人伝に述べる卑弥呼の三世紀初めから中葉の時期には前方後円墳の時代に入っていたという事実になります。これは、画期的な発見でした。弥生時代を従来の説より100年から150年間古い時代にシフトしなければならないという重大な結論だったのです。

 (勝山古墳はマキムク型では無い)

 第五次調査にて勝山古墳は前方部がバチ型に開くマキムク形ではなく、細長く延びる桜井・茶臼山古墳型の柄鏡形の古墳である事が判明しました。近くの東田大塚古墳もマキムク形ではなく柄鏡形の古墳である事も判明したそうだ。

 全長115メータ以上、後円部70メータ、巨大な周濠をめぐらした前方後円墳は遂に卑弥呼の時代に箸墓に先行する時代の古墳として石塚、東田大塚、矢塚とともにベールを脱ぎ始めたのです。これは、全て考古学による総合科学の調査の結果であります。

 さて、そこで柄鏡形の前方後円墳ですが、私は吉備の影響が強い古墳であると認識しております。日本列島から集まった有力豪族達は代表の古墳をこのマキムクの都市にモニュメントとして築いたのではないでしょうか。

 話は又、幻想の世界になりますが、皇室の重要な行事は今でも夜中に行われるのは事実です。大嘗祭もそうですよね。私は卑弥呼の時代は夜中にマキムクに集結する古墳群の前方部、後円部に大きな火が焚かれ重要な祭祀が行われたのではないでしょうか。

 満月が三輪山に登り、麓の古墳群では火が灯されマキムクの都市が赤々と照らしだされた幻想的な光景が見えるようです。これらの古墳は全て周濠に覆われていますので、水面に光は反射し石塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、矢塚古墳、盟主の箸墓、ホケノ山古墳、等々と燃え盛り三輪山に通じる尾根筋には火の列が出来ていたのではないだろうか。

 中国、楽浪郡、帯方郡から来られた中国王朝の賓客、そして句邪韓国を始め朝鮮半島から来た賓客、九州から北陸、東海にかけての豪族の代表はこのような大きなセレモニーで邪馬台国の威信を見せつけたのではないだろうか。

 周濠に浮かぶ巨大な前方後円墳はまさに、海に浮かぶ蓬莱山、神仙の世界であります。私は仏教が伝わるまでこのやり方で我が国は中国に対峙したと考えるようになりました。

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