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2009年2月 大倉山観梅会

 もう大倉山梅園の梅も終わりだろうから、名残惜しいので出かけた。

 マイフォト 2009年2月 大倉山観梅会

 参考過去記事 2009年 大倉山梅園、梅通信

もう梅の盛りは過ぎました もう梅の盛りも過ぎましたね。
のだて風景 のだてでお茶を頂きましょう。
巨木と梅園 巨木と梅園の風景が気に入りました。
気になる老梅 気になる老梅です、骨皮筋衛門ですね。
しだれ梅と池 しだれ梅と池の風景、もうすぐカエルが誕生します。
白梅・紅梅の花を咲かす 一本の木に紅梅と白梅が咲く風景。
気になる老梅その2 この老梅も何時まで生きておれるだろうか。

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冬の北陸紀行 白川郷

 飛騨高山をあとにして、バスで北上し合掌造りで有名な白川郷を目指しました。雪に埋もれた静寂の白川郷の風景はどんなに素晴らしいでしょうね。

 でもこの数十年間で経験もしなかった異変が白川郷に起きていました。屋根に雪が無いのです。地球温暖化の影響ではないかと思いますが、明らかに地球は異変を起こしているのです。諏訪湖も木崎湖も氷結しないのは異常です。急激に気象変動が起きているのですね。

 マイフォト 冬の北陸紀行 白川郷

 参考 世界遺産 白川郷合掌集落

 参考 白川郷 ライブ映像

 庄川流域の狭い谷は農地が少なく、養蚕と煙硝製造で栄えたそうです。養蚕の為にスペースが必要となり大家族制と合掌造りが進化したそうです。しかし、両産業とも日本では難しくなり維持できない状況が続いたという。

 今は世界遺産に登録され多くの観光客が集まる観光立国となり何時までも、江戸時代から続く美しい自然と集落の光景を維持できるようになりました。本当に良かったと思います。

明善寺 明善寺鐘楼とイチイの木。
各家庭には必ず用水路が引いてあります 澄んだ用水路が各家庭に引かれています。
であい橋 であい橋、庄川に架かる吊り橋です。
展望台から白川郷 展望台から眼下に白川郷、屋根に雪が無い。
木々の合間より白川郷を眺む 本来なら屋根は雪に覆われている筈ですが・・。
用水路と白川郷 用水路と村落の風景。
Jo君と白川郷 子供の頃の北河内郡大字招堤村の風景を思い出す。
明善寺鐘楼 明善寺の鐘楼です、弥生時代の雰囲気ですね。
遥か白山 遥か白山の山々を遥拝出来ます、素晴らしい風景。

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冬の北陸紀行 飛騨高山

 冬の北陸紀行のご紹介です。先ずは飛騨高山の高山陣屋を中心に古い街並みが残る風情をお楽しみください。高山陣屋は全国に唯一現存する郡代・代官所の史蹟です。元は戦国時代から江戸時代まで支配していた金森氏の邸宅跡でもあります。

 マイフォト 冬の北陸紀行 飛騨高山

下二之町 伝統的建造物群 二之町の古い建造物を楽しめる散策です。
下二之町 伝統的建造物群 いい風情ですね~~、のんびりします。
上二之町 伝統的建造物群 人気の「わらび餅」屋さんです。
中橋風景 中橋からの眺めです、陣屋は近いです。
国史跡 高山陣屋  高山陣屋(郡代・代官所)の大きな屋敷です。
見事な庭園 陣屋の見事な庭園です。
大広間から庭園を観る 陣屋大広間から眺める庭園です。
高山陣屋表門前にて 高山陣屋表門前にて撮影。

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吉の会(同窓会)とあれこれ

20092dousoukai_008  富士通時代の恒例の同窓会が渋谷『東急イン』で開催された。この同窓会は同期の営業関係とSE関連の同期で第3市ガ尾寮に住んでいた連中が中心のようです。元々が蔵田さん、久保田さんが幹事として集まっていた仲間ですね。

 今回は初めて岡本さんが参加でした、彼も第3市ガ尾寮出身で配属は関西となり大阪で活躍されていました。私は、彼に大坂の『九絵家』でクエ料理の御馳走を頂いたのが今も感謝しています。現在も大学時代からのラグビーで頑張っているようで、ゼミで一緒だった浅野さんとともにラグビー部OBとなります。

  本年も名古屋から鈴木ケン坊も参加されていました、名古屋の経済も厳しいようですね。大阪の大高さんも参加で東京在住だけでなく楽しい集まりとなっています。

 (3月の関西紀行予定)

 ・3月初旬は1週間程度関西に滞在する予定です。義父の税理士事務所が多忙となる時期であり家内が応援に行く為で、私は専門外なので役には立たないですが同行します。滞在は大阪の事務所になります。

 ・楽しみは、京都のMuBlogの旦那さんと奈良・マキムク紀行です。Muの旦那も楽しみにしておられる様子です。小説木幡記 古代の話

 記事で三輪山セミナーの話が登場していましたので、補足しておきます。千田稔先生と和田萃先生の講演記事は以下の通りです。

 千田稔先生 第4回三輪山セミナーin東京

 和田萃先生 第3回三輪山セミナーin東京

 千田先生のお話は古地図から邪馬台国の位置について論究されていました。詳しくは記事を読んで下さい。和田先生は三輪山と祭祀という観点から講演されていました。昔(室町時代まで)は三輪山の頂上に神坐日向神社(みわにいます ひむか じんじゃ)が存在したそうですね。

 考古学の進歩により記紀や風土記やその他古文書に記載された神話と呼ばれる部分について、全て架空の話とは言えない事実が沢山掘り起こされています。実物で物をいうという考古学の姿勢が私には魅力に感じております。

 例えば、弥生時代中期のイメージを大転換させた奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡の土器片に描かれた楼閣の絵です。当時の朝鮮半島にも存在しない中国風の楼閣が環濠集落に佇んでいたのですね。 参考 唐古・鍵遺跡 

 グーグルアース

「karakokagiiseki.kmz」をダウンロード

Photo

 まさに、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の楼閣とはこのようなものであったろうと想像されます。森浩一先生は『古代史の窓』でこの土器片の絵を観て以下のように語っておられました。

 楼閣の事を日本の古典では高台もしくは台と呼んでいた。発音はタカドノである。記紀に収められた海幸・山幸の神話でも、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)が異国の地としての海神の宮を訪れた時、台の美しさが目をひいたとしている。この神話には、異国へいった時の人々の驚きや港の風景がよく語られている。唐古・鍵遺跡の絵画建物は、(中略)おそらく異国(中国)を訪れた倭人が持ち帰った知識の反映であろう。

 3月10日にはマキムクに連れて行って貰う予定です。楽しみですね。

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2009年 赤とんぼ冬合宿

 恒例の赤とんぼ冬合宿が2月20日(金)~22日(日)の期間、白馬村『ちんぐるま』にて開催されました。初日は天気が荒れ、風が強く雪も降り氷点下の雪上での飛行となる。夜間には豪雪が降り、土曜の朝は早朝から除雪車の騒音で目が覚める二日目でした。

 二日目には、お昼に、かっちん&わこちゃんが白馬駅に到着し、午後は全員参加でのフライトとなる。午後2時過ぎに、千葉のよっちゃんは用事があり電車で帰還となりました。

 最大のハイライトは夜に、かっちんが作成してくれた『赤とんぼ 30周年記念記録映画』のDVDの上映会でした。昨年の『30周年記念秋合宿』の映像と30年前の映像を組み合わせ見事な映画として出来上がっていました、20分の作品となっています。全員にかっちんからDVDが記念品として配られました。

 私は風邪気味でしたが、初日から頑張り氷点下の雪田で『ドリフター』を、よっちゃんの助けで組み立て飛行させました。フロートを装着しての飛行も一応離陸に成功しましたが、ビデオカメラを搭載しての飛行には不安定すぎるので、フロートを外し、車輪に切り替え470グラムのビデオカメラを搭載して二回飛行させました。

 残念ながら、エンジンのノイズが映像に入り映像としては成功ではありませんでした。今後は振動防止とノイズ対策が必要になります。しかし、翼長が2メータを越える大型の飛行機の組み立てを厳冬期に行うのは過酷でした。季節の良い時に又、挑戦したいと思います。

 Ysさんの飛行機、わこちゃんの飛行機、清ちゃんの飛行機も無事飛行し、大きな事故もなく無事終了となりました。スキーも金曜日の夜に降った豪雪で新雪の上で滑れたのが素晴らしい思い出になったと思います。

 マイフォト 『2009年度 赤とんぼ冬合宿記録』

よっちゃんは早めに帰宅 よっちゃんが帰還されたあとの記念写真ですので、一人欠けています。寒い中でのフライト御苦労さまでしたね。
Jo機空撮専用機『ドリフター』 Jo君の『ドリフター』、ビデオカメラ搭載前はペットボトルに水を満タンにして試験飛行させました。
自作しました さて飛ぶでしょうか 清ちゃん、自作の飛行機のスキーはダメでしたね、改良して下さい。けど、手投げでは見事な飛行をしました。
ラスカル 雪上仕様 わこちゃんの『ラスカル』機です、見事な飛行でしたが、着陸で雪の中に突っ込みましたね。
美しいですね Ysさんの飛行機は、何時も完璧です、今回も見事なフライトでした。
白馬連山 雪の白馬連山です、オーストラリアの老夫人とスーパーで会話をしました。白馬の素晴らしい自然について大変感動していました。又、来てほしいですね。
日曜日朝 山小屋前にて 山小屋の前でのスナップ写真です。今日も頑張りましょう。
白馬村と後立山連峰 美しい白馬の山々です。来年も又、宜しくお願いします。

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冬の北陸旅行 高山・白川郷・東尋坊・永平寺・一乗谷朝倉遺跡

 昨夜、北陸の旅から帰りました。今回は阪急さんのツアーに参加しての旅で気楽な団体旅行でした。東京から新幹線で上田駅で下車しバスに乗り換え760キロのバス旅行でした。

 (全行程)

 ・上田駅→松本経由→新島々経由→野麦峠越え→飛騨高山(見学)

 ・飛騨高山→白川郷(見学)

 ・白川郷→金沢経由→芦原温泉(泊)

 ・芦原温泉→東尋坊(見学)→一乗谷朝倉遺跡(見学)→永平寺(見学)

 ・永平寺→金沢経由→富山経由(九頭龍川)→姫川経由→妙高高原経由→上田

20092shirakawa_195 20092shirakawa_252  (飛騨高山)

 江戸時代の雰囲気が残る、匠の故郷です。私は初めての訪問でしたが、信長の時代から江戸時代まで国主であった金森氏に興味が湧きました。今は江戸時代に幕府の直轄領になり代官所が置かれた金森氏の旧屋敷は見事なものでその栄華が偲ばれます。

 幕府が金森氏の飛騨高山を乗っ取る原因は金・銀を始めとする鉱山にあったと思います。金森氏は出羽の国の小さな領地に改易になるが、鉱山技術と金属加工の特殊集団を抱えて高山を豊にしたと思われます。

 金森氏は近江の国の野洲郡金森村出自でありますから、朝鮮半島からのハイテク移住者が多く存在した場所であり、詳しくルーツを調べると面白いかも知れません。今度、家内の親戚の宴会の機会に蒲生郡小森村の小森さんに歴史を訊いてみようと思います。

20092shirakawa_288 20092shirakawa_293 20092shirakawa_339  (白川郷)

 この季節に雪が無いのは近年には経験が無い異常気象だと現地の人はいいます。残念ながら雪に埋没した白川郷の景色は見ることが出来ませんでしたね。

 しかし、のんびりと展望台から徒歩で山を下り、村の中を歩きました。素晴らしい合掌造りのお家が並んでいました。数週間前に横浜の三渓園で合掌造りの建物は見学していましたし、昔、友人の「またいらないモノ買っちやったよ」の親戚が渋谷で移築してレストランをされていたので、少し馴染みはありました。

20092shirakawa_035 20092shirakawa_021  (東尋坊)

 サスペンスドラマでお馴染みの場所。凄まじい風と雹が吹きすさび、数分間で引き揚げました。学生時代にゼミ旅行で来た事がありますが、柱状節理の岩の海岸では世界の三本の指に入るそうですよ。北朝鮮の金剛山とノルウエーの海岸と東尋坊だそうです。

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七世紀 半島緊迫下 巨塔ブーム

 2月13日、読売新聞朝刊の文化欄にて七世紀の日本・百済・新羅では半島緊迫下で巨大な九重塔建設ブームが起こったという記事が掲載されました。高さは90メータを越える高さであったという。現在はいずれも消失しています。

 半島が緊迫とは、六世紀末に中国では巨大な統一王朝、隋が勃興し七世紀初頭から高句麗攻撃が始まったのです。その隋も頑強な高句麗の防戦に遭遇し、王朝は崩壊し628年には唐王朝が成立する。その唐も644年から高句麗を攻撃し始めたのは御存知の通りです。

 朝鮮半島と日本列島はこの中国の唐王朝の軍事拡大に存亡の危機が生まれたのです。日本では唐が高句麗を攻撃始めた翌年645年に大化の改新が勃発し、今までの豪族連合の国から中央集権国家を目指して歩みはじめたのでした。

 (九層木造塔の建造)

 ・639年 百済では弥勒寺で建造。新聞記事では先月、弥勒寺跡から石塔の心礎から舎利容器と金板が出土。金板の銘文から事実が確認された。

 ・645年 新羅 皇龍寺にて九重塔が建設された。(伽藍規模は東洋最大と呼ばれた)

Photo ・日本では百済の弥勒寺九重塔が完成した年に日本初の国営寺院・百済大寺(くだらおおでら)創建の詔が出た。これが、奈良県桜井市に存在する吉備池廃寺遺跡だと最新の発掘成果で決まったようです。

Photo_2  国威発揚と国家の威信を示すのが目的だったのではと、韓国国立扶余文化財研究所の金洛中(キムナクチュン)学芸室長が述べていると記事は紹介していました。

 ・参考Web記事 皇龍寺跡(慶州)

 ・参考Web記事 慶州博物館

 ・参考Web記事 吉備池廃寺

 先年、百済の扶余、新羅の慶州の古代史跡を巡る旅をしましたが、残念ながら弥勒寺跡も皇龍寺跡も訪問しませんでした。

 日本には書紀によれば、577年(敏達天皇6年)に百済王が造寺工、造仏工を日本に献上したと記述されているそうだ。日本固有の掘立柱工法から礎石の上に柱を建てる建築技術が伝わったのでしょうね。

 (閑話休題)

 ところで、当時は弥勒信仰が朝鮮半島では隆盛だったのですね。太秦の秦氏の拠点である蜂岡寺、現在は広隆寺にも当時の朝鮮半島で制作された弥勒菩薩さんが安置されていますね。太子さんが秦河勝に授けた国宝第一号の仏像です。

 広隆寺と皇龍寺、秦氏と新羅の関係と何か関係があるんでしょうか。

 過去記事 韓国紀行(9) 落涙 落花岩・百済

 過去記事 韓国紀行(3) 慶州石窟庵・仏国寺

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根津・千駄木 明治の文学史跡散策記(2)

 前回の続編です。

 マイフォト 根津・谷中界隈 文学散歩(2)

 

玉林寺 玉林寺ですが、近くに蒲生君平さんの墓があるようです。江戸時代の儒学者・尊王論者で前方後円墳という呼称の名付け親で有名ですね。寛政の三奇人。
レトロ煙突 レトロな煙突が三本。ささやきの小径にありました。
昔こんな防火用水ありましたね 子供のころ、こんな防火用水が有りましたね。懐かしいです。
赤ちゃん誕生筆 赤ちゃん誕生筆って御存知ですか。生まれた赤ちゃんの頭髪で記念の筆を作るそうです。胎毛筆というそうですよ。娘は要らないか訊いてみよう。
東叡山寛永寺 篤姫のお墓が 東叡山寛永寺です。今は篤姫のお墓で人気だそうですよ。根本中堂でお参りをさせて貰いました。
八二神社 根岸82番地 八二神社、加賀藩主前田家が明治にこの場所、根岸82番地に五千坪を土地を貰い本郷から引っ越した場所。正岡子規のお家も前田家が家臣に用意した借家の一つだそうです。今は殆どが鶯谷のラブホテルに大変貌、前田家の先祖も子規も驚くでしょうね~~。
子規庵に入る 今回のハイライトは正岡子規の旧宅です。当時の姿を復元した建物ですが、庭園もなるだけ、当時の儘保存されています。子規の部屋で横になり、軒先のへちまを眺めさせて貰いました。(へちまは枯れているけど、管理人さんが紐でぶら下げてくれていました)。多くの友人が集まり宴会をしていたんでしょうね。漱石もその一人ではないだろうか。
 夏目漱石は自宅の千駄木から歩いて、根岸の子規のお家に出かけたんでしょうね。司馬さんの「坂の上の雲」によれば、子規と漱石、秋山真之との交流が沢山語られている。
 明治33年に漱石は子規を日本に残し、横浜からロンドン留学に旅立つ見送りも出来ない身体になっていた。真之はロンドンから帰国し世界の情勢を子規に語る。
 その真之もアメリカに旅立つ、子規は地球儀を眺めて海外で活躍する二人の事を軒先にぶら下がる、へちまを眺めて友を偲んだでしょうね。
 確か、「坂の上の雲」で真之が子規が亡くなった時、根岸の子規庵を弔問する場面があったと思います。しかし、彼は子規庵には入らなかったと記述されていたと思います。
 明るい野球が好きで仲間と宴会をするのが好きだった子規、多くの仲間に囲まれ、短い人生だったけれど幸せだったのではないでしょうか。

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根津・千駄木 明治の文学史跡散策記(1)

 先日、根津・千駄木界隈の明治の文豪史跡を巡る旅が企画され、参加させて貰いました。昔の職場の仲間、清水さんがツアー全てを企画され、先輩、後輩も参加し4名での散策紀行となりました。二回にわたり紀行記をアップします。

 歩いた順番に、写真集は構成されていますのでマイフォトをひめくりながら、お楽しみください。

 マイフォト 根津・千駄木 明治の文学史跡散策

 JR山の手線、田端駅南口に朝11時半に集合し歩き始めました。お昼は権現裏門坂にある夢境庵という素敵な蕎麦屋でした。少し、野菜の天麩羅で熱燗をやり、又歩き始め夕方には銭湯に入り、打ち上げの宴会を谷中の『五十蔵(いすくら)』で行い解散となりました。宴会からは、もう一人後輩が参加となりました。

 

向陵稲荷坂(こうりょういなりざか) 田端駅南口から上野から延びる尾根に登り歩き始めました。昔は道灌山という場所なんですね。東大進学で有名な開成高校・中学のある高台は弥生遺跡のある古代から人々の生活が偲ばれる場所でした。傍に、向陵稲荷神社があります。
庭には巨大な銀杏の木 森鴎外の旧宅は今は図書館になっています。ここから江戸湾や品川沖の白帆が見えたと言いますが、本当か不明です。観潮楼と彼は呼び30年間住み多くの文学作品を残したといいます。
 二年前に、そういえば鴎外の実家を訪問しました。
参考過去記事 津和野 雪景色
 彼は、医者の息子として生まれたそうで、年齢を偽り年少にも関わらず東大に進学したそうですね。昔はおおらかだったし、貧乏(江戸時代の地方の医者は貧乏だったそうです)な家庭の子弟でも最高学府に学べたのは素晴らしいと思います。
ふれあいの杜への道 千駄木という地名は江戸時代らしく、太田道灌が駒込の森に栴檀(せんだん)の木を植えたので栴檀木林(せんだんぎりん)からという説、第二の説は江戸時代に雑木(ぞうき)を伐り出し千駄に及ぶという説もあるそうです。
千駄木 ふれあいの杜 駒込という地名はヤマトタケル遠征時の逸話だという、彼が遠征時に沢山の馬を繋いだ場所、騎馬軍団が駐屯したという故事らしい。昔、私が勤めていた場所は駒込でした、江戸時代も馬を使用する運送業者が沢山存在し、籠町という地名も残っています。
夏目漱石旧邸跡
ぼっちゃんの猫か夏目漱石の旧宅跡だそうです。お家は明治村に移築されたと聞いていますが、東大で勤めていた頃は歩いて数分ですから、便利だったと思います。友人の正岡子規の鶯谷のお家までは、歩いてゆける距離です。子規の旧居については後編で記事を書きます。
異次元へのトンネル 根津神社です、駒込稲荷(祭神はイザナギ)と乙女稲荷(祭神はウカノミタマ)という稲荷さんも境内に存在しています。
乙女稲荷さん 稲荷さんの本家は伏見稲荷です、秦氏が創建していますので稲作の神さんだと思います。古代に近畿圏から船に乗り軍団に守られた稲作移住民が到来したのでしょうね。
唐門(重要文化財) 根津神社唐門(重要文化財)です。江戸時代には徳川家に守られたようです、武門の長が徳川ですから、ヤマトタケルを崇めたのは納得できます。
根津神社 記念撮影 所で、稲荷さんには朱の鳥居がタイムトンネルのように沢山建てられ、その中を参道としていますが、何故なんでしょうね。伏見稲荷さんもそうです。誰か御存知の方がおられましたら、教えて下さい。

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天使の歌声 Libera(リベラ)

 ロンドンのLibera(リベラ)の子供たちが今、日本に来ているようですね。新しいアルバムのリリースのプロモーションでしょうか。透き通るようなソプラノは素晴らしいですね、心を癒してくれますね。

 Liberaホームページ

 最新の歌のプロモーションビデオを観る事が出来ますよ。元々はロンドンの少年聖歌隊が母体だったようですが、少年達の声は美しいハーモニーを醸しています。そういえば、彼らの歌はNHKが以前放送した特別番組『氷壁』の主題曲として、採用されていましたね。

 リベラ Far away(Japan)

学生時代に井上靖さんの「氷壁」は山登りをしてる若者なら誰でも読んだ小説でした。実際に谷川岳で起こったザイル切断事故を井上靖さんは小説にした。舞台は上高地の穂高に設定し今でも徳沢園の小屋に行けば小説の面影を偲ぶ事が出来ます。一昨年前の6月に上高地を訪れ、徳沢園から横尾まで歩きました。懐かしいです。

 過去記事目次 上高地逍遥記 目次編

 リベラの歌もう一曲をご紹介します

 リベラ I have a dream

山や大草原で歌う歌というと、ヨーロッパアルプスのヨーデルとモンゴルのホーミーではないでしょうか。

 ホーミー 6種類の発声法

 一昨年前に念願のモンゴルへの旅が出来ました。パオで二泊出来たのは貴重な体験でした。モンゴル馬に乗り草原を歩くことができましたが、何処からかホーミーが聞こえてくるような気分でした。

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日本神話と淡路島 (その2)女神の系譜

 承前 日本神話と淡路島 (その1)国生み神話編

 承前 淡路島に弥生中期の巨大鉄器の工房跡

 淡路島の弥生時代からヤマト王権が奈良盆地、河内地方に成立する時代背景を探る旅をしています。記紀や旧事紀や風土記や考古学の成果を踏まえて旅をしていますが、先導役は森先生の『記紀の考古学』や『日本神話の考古学』を参考にしています。

 『淡路島は古代神聖な場所だった』

 瀬戸内海の最大の島である淡路島は古代の天皇家に於いて神聖な場所とされていたのではないかと、森先生が『日本神話の考古学』で述べておられます。主な根拠は日本書紀の記述にある二か所に注目しています。

 ・国土創生神であるイザナキの終焉の地が淡路島と記述されている。

 ・履中天皇5年の記事として、天皇が淡路島に狩りに出かけた時に、河内の馬飼部(うまかいべ)の鯨面(顔の入れ墨)の傷が未だ癒えていなかったので、この島のイザナキの神が神官の口を借りて『血の臭きに堪えず』と文句を言ったという記事があるそうです。

 ・考古学の方面では、これだけ大陸との航路で要になる場所であるのに、前方後円墳が存在しないのは不思議である。恐れ多い場所として、崇められていた場所ではなかったか。

 そこで疑問が湧きますね、何故それならイザナキの古墳が存在しないのかという疑問です。森先生は日本神話の不思議な事実として男神には墓が無いという面白い話を語られております。

 『日本神話では女神のみが墓がある』

 降臨される前の高天原におられる神々は勿論地上に墓が無いのは理解できますが、降臨された以降の神々であれば、何処かに墓がありそうなんですが、女神にしか葬送儀礼の記述と墓の記述はなく男神は、お隠れになるという記述しかない。

 男性の私としては寂しい限りですが、どうやら倭人という海洋民族の風習はそのようだそうです。ちなみにイザナミ(国土創生女神)さんは、紀の記述では豪華な葬送儀礼の記述と熊野の有馬村に埋葬されたと記録され、記では出雲国と伯耆国との境の比婆の山に葬ったと記録されている。

 確かに魏志倭人伝でも女王卑弥呼の墓と葬送について巨大な墓を造ったという記述がありますが、記紀にお於いても大物主さんやスサノオさんの墓の記録が無い。男神というのは風のような存在だったんでしょうかね。

 『篤姫に思う』

 昨年の大河ドラマ『篤姫』を楽しませて貰いましたが、あの気骨のある男勝りの姿は薩摩の女の歴史を感じていました。古代で言えば、彼女は薩摩半島生まれ、吾田隼人の娘となりますね。神武天皇の故郷である日向の地となります。(古代は宮崎県と薩摩半島、大隅半島を日向と呼ばれていた。ニニギの命さんは霧島の高千穂に降臨し吾田の地に拠点をおかれた。)

 隼人の娘は軍団を率いて戦う戦士であったと言われています。記紀には隼人の女性が頭となって戦う場面が沢山記録されていますね。神武さんが熊野から吉野に入った時に神武さんを助けたのは、隼人の吉野連の井光女(いひかめ)さんでした。女性の支配者だったのですね。景行天皇の時は九州遠征で、碩田(おおきた=大分県)国での速津媛、八女県(やめのあがた)での八女津媛、周防の婆麼(さば=防府市)の神夏礎(かむなつそ)媛が首長として活躍した。

 崇神天皇と山背のタケハニヤスとの古代最大の内戦ではタケハニヤスの奥さんの吾田隼人の吾田媛が軍団を率いて河内から奈良盆地に攻め入ろうとして、崇神軍の吉備津彦と戦った記録がありましたね。

 どうやら、崇神天皇までの神々と天皇さまは、南方系の色彩と海の民の習俗に囲まれているようですね。宗像神も三名の女神ですからね。それが、どうやら崇神さんあたりから、確実には5世紀の河内王朝あたりからは朝鮮半島の騎馬民族の習俗が目立つようになりますね。

 島津斉彬さんは篤姫に吾田の媛という古代の思いを込めて、当時の最大の権力機構に挑んだのかもしれませんね。歴史を知らないと、斉彬さんの深慮遠謀は理解出来ない。

 

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日本神話と淡路島 (その1)国生み神話編

 承前 淡路島に弥生中期の巨大鉄器工房跡

 淡路島北西部の瀬戸内海に面した黒谷・五斗長地区の垣内遺跡で巨大な弥生中期の鉄器工房跡が発掘されたニュースを伝えました。1世紀から3世紀の期間といいますと魏志倭人伝の卑弥呼が死亡248年(3世紀中葉)ですから、邪馬台国の時代と想定されますね。そして、三輪山の麓のマキムク地域で前方後円墳が建造され始まる時期です。

 淡路島については、元来重要な日本神話が存在したのを忘れていました。記紀神話の国生み神話です。

 『記紀の国生み神話』

 イザナキ(伊邪那岐)とイザナミ(伊邪那美)が最初の夫婦として登場する。彼らは先ず、まぐわいの場所であるオノコロ島を作ります。「塩をコロコロとかき混ぜると、矛からしたたり落ちた塩を積もり島が出来た」とあります。これは、森浩一先生の日本神話の考古学では製塩の様子を描いていると言います。

 藻塩焼きの状況であるといいます、鉄釜で塩を煮詰めて製塩をする訳ですね。そして、矛を使用しているので九州を中心とする銅矛文化圏の人々ではないかと推測されます。(近畿は銅鐸文化圏)先生の話では、宮城県の塩竃神社の末社に御釜神社があり、古い鉄釜を使用して藻塩神事が今でも行われているという。

 そこで、夫婦はまぐわいをして、オノコロ島で『洲国』を生むわけです。そこで、注目なのは最初に生んだ洲が淡路洲なんですね。そして2番目にオオヤマト豊秋津洲を生むのです。学生時代からこの神話が不思議でした。ヤマト王権の成立の話をするなら先ず、オオヤマト豊秋津洲が真っ先の筈ですよね。

 ちなみに、その後の大八島国は③伊予二名洲(いよふたなのしま)=四国島だと思う。④筑紫洲(つくしのしま)=九州島、⑤双子の億岐洲(おきのしま)と佐渡洲(さどのしま)=島根県の隠岐諸島と新潟県の佐渡島、⑥越洲(こしのしま)=古代は広大で、石川、富山、新潟、山形、秋田南部⑦大洲(おおしま)=山口県の周防大島、⑧吉備子洲(きびのこしま)=岡山県の児島となります。

 海上交通の拠点ばかりですね。古代に船で移動していた民から見れば、今は本州は一つとか陸続きだと判っている場所は越洲なんて呼びませんよね。けど、海洋の民から見れば船が到着した場所は皆、洲なんですね。洲という事は海洋に注ぐ大きな河口という事ではないでしょうか。

 ところで、古事記では大八島の中にイキとツシマが入り、更にオキとサドも別々に扱っているので、越洲が消え、吉備児島と大島は大八島の後で二神が生んだという設定です。何故、古事記には越洲の記録が無いのかは、重要だそうですね。森先生の説では古事記には継体大王の出自について記述が無く、日本書紀では継体大王(ヲホド)の出自に関して詳しく記述したので、彼の故郷である越洲を重要視したと述べる。

 しかし、吉備国や出雲について記述が無いのは疑問が湧きますね、何故なんでしょうか今後の課題です。先代旧事本紀も読んでみましたが、陰陽本紀(めをのもとつふみ)に書かれています。不思議な記述がありますので、御紹介します。先ず淡路州を産生みて胞(えな)と為す。意(みこころ)に快(よろこ)びざる所なり。故(かれ)、淡路州(あわじのしま)と曰ふ。即ち、吾恥(あはづ)と謂ふなり。

 ②伊予二名州(いよのふたなのしま)、③筑紫州(つくしのしま)、④壱岐州(いきのしま)、⑤対馬州(つしまのしま)、⑥隠岐州(おきのしま)、⑦佐渡州(さどのしま)、そして最後に⑧大日本豊秋津州(おほやまととよあきづしま)を生む。

 先代旧事本紀にも古事記同様に、越の記述が有りません。勿論、出雲については無視されていますね。継体大王の出自の越は無視され、王朝として認めていないのでしょうか。武烈大王で皇統が断絶した事を知っていたのではないだろうか。ところで、先代旧事本紀では何故、淡路州の事を喜んでいないのでしょうか。これも、新たな謎ですね。物部氏の祖先とは異なる氏族が淡路島に関係していたのでしょうか。

 今回の発掘で判明した事は1世紀から3世紀という弥生中期の頃に淡路島に巨大な鉄製品加工工場が建設されていたという事実です。邪馬台国の卑弥呼が死んだのが西暦248年でしたよね、3世紀中葉です。朝鮮半島の洛東江流域の加羅(伽耶)諸国から沢山の鉄挺(鉄の延板)を船に積載し金属加工技術者も船に載せ、淡路島に工場を建設したのは誰かという事です。

 巨大消費地が近くに存在したと考えるのが順当です、吉備の国、摂津の国、難波の国、ヤマトの国となりますね。勿論、河内湖経由で山城の国もあったかもしれない。鉄製品で重要なのは武器だけでなく、農耕用具、土木作業用具が重要です。川の流れを変え、灌漑を行い豊かな稲作が出来る土地を開拓した原動力だったでしょうね。

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NHKドラマ 浪花の華

 最近NHKのドラマ『浪花の華』を興味を持って楽しんでいます。緒方供庵が適塾を始めるあたりの文化文政の時代の大坂を描いています。適塾はその後、福沢諭吉や大村益次郎、橋本左内等々の逸材を輩出し大阪大学の医学部の母体となった事は皆さん良く御存知だと思います。

  参考 NHKドラマ『浪花の華』

 ドラマとしては、男装の麗人の左近とが織りなすスリルある娯楽番組となっています。この麗人、左近は大阪の商人を守る闇の武力集団である在天別流(ざいてんべつりゅう)の親玉の妹という設定で異国人を祖に持つ人である点が興味あります。

 江戸時代というと、関東の人々はサムライが天下を支配していたと考えておられるが、大阪ではサムライは千人程度しか存在せず、自治都市に近い自由な活気ある商業都市でした。それが維新後も続いた訳です。緒方供庵という蘭学医の海外の文化文明への窓を通して大坂という世界を描こうとしています。

 在天別流については、事実かどうか知りませんが、多分、大阪(難波)には古代から大陸の人々が多く移住し活躍していたと想定されます。商人の世界を守る軍団が存在していても不思議ではありません。公家さんや寺社が自分の経済を守る為に色んな闇の組織が存在したとしても、不思議ではないし中世の頃から考えられます。

 秀吉暗殺に関わった石川五右衛門も丹後の古代から続く大陸との貿易に関係した異国の人々の利益を守る闇の組織であった可能性が最近、指摘されていますね。古代から大陸や朝鮮半島からは多くの貿易に関わる人々が来日し、土着化して組織を形成していたと思います。彼らは、自由な貿易を阻止する権力に対して闇で戦っていたと思います。

 先日登場した英国人と中国人の混血の麗人が京都の有名な公家さんの妾さんになっている場面がありましたが、多分に古代から続く大陸、朝鮮半島から来られた美人を嫁さんにする関西方面の権力者の一端を伺い知れました。

 参考過去記事 蘇我稲目と渡来美女

 脱線しますが、日本女性のプライドの為に逆のケースについても記録しておきます。記紀によりますと、新羅の皇子のツヌガアラシトという人は、嫁さんは日本から来た人でした。彼女は皇子が厭になり日本に逃げて来ます。それを追いかけて瀬戸内海から難波に到着しますが、確か住吉の神に阻止され最後は若狭湾(敦賀)の方に逃げ現地の女性と再婚したという、おもろい話があります。

 浪華、浪花、難波と呼ばれる土地は古代から大陸との貿易で栄えた都市国家です。稲作で土地に縛られた農耕民とは違う、自由な国際的な価値観が存在した場所だったのですね。ドラマは緒方供庵の目を通してそんな浪華の世界を楽しく描こうとしていると思います。これからも、見逃せない番組です。

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三渓園 写真によるご紹介(3)内苑のご紹介2

 『天授院』 建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂だった、大正5年に移築。

重要文化財 天授院
梅と天授院 梅が咲いていました。内苑では一番高い場所にある建物です。
『金毛窟』 三渓が建てた一畳台目の極小茶室です。
茶室 金毛窟
重要文化財 金毛窟(茶室) 床柱に京都大徳寺の三門金毛閣の高欄の架木を使用しているそうです。
『聴秋閣』 徳川家光により建立された二層の楼閣。
モダンな造形 聴秋閣
障子から庭がながむる
上品な作りですね デザインが新鮮で独創的な雰囲気の建物です。
『春草盧』 桃山時代の織田有楽斎のデザインした茶室だそうです。
茶室 春草盧全景
茶室 春草盧
春草盧庭園 飛び石に注目 九つの窓があるので、かつては「九窓亭」と呼ばれていた。
『蓮華院』 大正6年に三渓が竹林の茶室をイメージして建設した。
竹林の茶室 蓮華院
茶室 蓮華院
蓮華院庭 飛び石に凝ったそうです 宇治平等院の古材を利用して建築したそうです。

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