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記紀の考古学 古代最大の戦争(タケハニヤス戦争)

 日本書紀、古事記や先代旧事本紀に書かれた日本列島の歴史は専門家の歴史学者や考古学者により、どこまでが本当の話なのか、虚なのか学問領域で日々研究されている。私のような素人、日曜歴史考古趣味の親父としては、神話として残された話は全くの虚構、創作とは思えない、その背景に何か伝えたい事実が存在したと考えています。

 考古学者の森浩一先生が残された書物、『記紀の考古学』については以前、記事を書きました。最近は同じ先生の『日本神話の考古学』を読んでおります。神話として残された話に何か考古学的な物証が存在しないか、森先生は私の興味に応えてくれる書物を残しておられます。まだまだ、これからの研究に委ねる分野が多いようですが、本当に面白い内容で満たされていました。

 今日は、その中で以前にも記事にしました、そして私の生まれ育った土地の近所で起こった古代の事件ですから、再度メモを残したいと思い記事を書きます。それは、三輪王朝を築いた崇神大王(ミマキイリヒコ=ハツクニシラススメラミコト)の最大の危機で且つ、古代最大の内戦だったと言われる山背に拠点を持つタケハニヤス(武埴安彦)との戦争です。

 『記紀の考古学』に沿ってグーグルの写真を参考にしながら眺めてみましょう。

 グーグルアース 木津川流域

「kizugawa.kmz」をダウンロード

Photo  最近の考古学、歴史学の世界では第10代天皇とされる崇神天皇からが実態のあるヤマト王権の始まりであると言われている。将来は神武天皇の時代まで考古学、歴史学が実態を究明できるかも知れない、けど、今は残念ながら崇神さんからと言われている。

 崇神さんが三輪山近郊に王権を開き領土拡大を図ったと記紀は述べる。そこで、四道将軍を任命し北陸、東海、西道、丹波制圧に将軍を侵攻させたと記紀は述べる。北陸道に派遣されたのが、大彦(大毘古)である。彼が、京阪奈丘陵(当時は和珥坂と呼ばれた)に差し掛かると、童女が不思議な歌を歌っていた。

 注:実は実家のお墓が伝:王仁博士の墓の向かいにあるんですね。和珥坂です。

 『ミマキイリヒコ(崇神大王)よ、自分の命を殺そうと 時を窺っているのもしらず 姫遊びをしている』という童謡であった。この童謡の意味を解いたのが、ヤマトトトヒモモソヒメ(箸墓古墳の主とも伝承あり)であり、山背のタケハニヤスが謀反を起こそうとしていると解釈した。理由はタケハニヤスの奥さんの吾田媛(アタヒメ)が大和に来て香具山の土を採取し呪をかけたという。

 大彦と和珥氏の遠祖であるヒコクニブク(彦国茸)は崇神大王軍として京阪奈丘陵を越え(ワニ坂)木津川のタケハニヤスの拠点を攻撃した。タケハニヤスの奥さんである吾田媛は軍を率いて大坂で崇神軍の将軍である吉備津彦と戦った。

 吾田媛は名前から吾田隼人、神武天皇の故郷でありニニギノミコト、コノハナサクヤヒメの故郷である薩摩半島の吾田隼人の後裔である。奈良朝以前の日向とは宮崎県から鹿児島県を含んでいたそうで、薩摩半島は吾田隼人、大隅半島は大隅(大住)隼人の拠点であったそうだ。Photo_2

 実はタケハニヤスの拠点の木津川の上流、椿井大塚山古墳・平尾城山古墳・涌出宮の対岸の現在の京田辺の北側、木津川左岸は隼人の人々が拠点とする場所だったそうです。現在でも、大住という地名が残存すると森浩一先生は述べています。

 話は飛ぶが、崇神天皇の子供でイクメイリヒコ(垂仁天皇)の妃の一人がこの京田辺の大筒木垂根王(おおつつきのたりね)の娘、カグヤ姫(迦具夜比売)なんですね。日本最古の小説である『竹取物語』は南方の説話であり隼人が持って来たと云われています。彼らは竹細工が得意ですし、近くの石清水八幡宮の竹はエジソンが電球に使用したほど、竹では有名な場所なんですね。

 又又、脱線しますが20年前に仕事で『東アジアの民話』のアニメーション番組をテレビでやろうと燃えていた時代がありました、取材で台湾からフィリピン(ルソン島)迄取材に行った経験がありました。フィリピンでは確かに『竹取物語』の原型が存在していました。これは、確かな事であり薩摩半島に伝わったと考えて不思議はありません。

 そうそう、山背のタケハニヤスとオオヒコとの戦いでしたね。戦場は木津川の上流から南下し最後は継体天皇が即位した樟葉で崇神軍が勝利を収めたそうです。最後の決戦場は樟葉だったそうですね。

Photo_3  木津川は死体が累々と浮かんでいたそうです。崇神軍の大彦とタケハニヤスは共に父は8代天皇である孝元天皇の異母兄弟でした。

崇神天皇の時代は未だ、南山背から山背はヤマト王権の統治領域ではなく異国であった訳ですね。

 最後に、京田辺周辺から北西領域は隼人の拠点と述べました、そして『竹取物語』の故郷と述べました、今でも奈良の二月堂のお水取りで使用する大松明の竹はわざわざ、この京田辺から運ぶのですよ。確か、その儀式の模様は、ほかもどりさんのブログ『それから』で記事にされていたと思います。

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