磐船神社 ニギハヤヒ(物部氏祖)降臨伝承地
承前 七夕の故郷 交野
承前 王仁博士とかぐや姫伝説
参考 MuBlog 磐船神社
2008年12月30日暮も押し迫る日に伝王仁博士の墓がある近くの長尾の両親、兄の墓の墓参を済ませ、バスにて枚方駅を目指し、百済寺跡を通過し、懐かしい枚方駅で昼食をとった。午後1時半を経過しておりお腹がペコペコでした。
枚方駅から私市行きの京阪電車に乗り、終点の私市駅で下車タクシーを呼び磐船神社を目指した。子供の頃に私も家内もよくハイキングやキャンプで来た場所です。
マイフォト 磐船神社 ニギハヤヒ降臨伝承地
記紀と先代旧事本紀では記述が異なりますが、少なくとも神武(イワレヒコ)が九州から東征しヤマトに入る前に既に天孫族としてアマテラスさんから10種の神宝を授かり持ちヤマトに入り、長脛彦の妹を妻にしていたのがニギハヤヒ(饒速日命)さんなんですね。彼が天の岩船に乗り降臨したと記述されている場所がこの場所です。
考えられるルートは瀬戸内海航路からであれば、大阪湾から上町台地の北端と千里丘陵の狭い幅2キロの海峡を越えて河内湖に入り淀川を遡上し、現在の枚方駅近くの淀川に注ぐ天の川を遡上したと考えられます。
日本海ルートであれば、若狭湾又は丹後半島から琵琶湖経由の瀬田から宇治川経由淀川を下ったのか、葛野川(桂川)経由淀川を下ったのか判りません。いずれにせよ、天の川上流流域にニギハヤヒさん一行は入植したのではないだろうか。これが、物部氏の一番古い氏族である肩野物部氏のグループと想定されます。
以前の記事でも書きましたが、神社の下流域に森古墳群が存在しています、この古墳群は4世紀から5世紀の古墳群であり肩野物部氏の墳墓群ではないかと言われています。
一方、河内湖から大和川を遡上しヤマトに入る海上ルートにも物部氏の別氏族が入植し守屋の時代に下ると、大和川流域が物部氏の本貫地となったようです。
5世紀には倭の五王と呼ばれる巨大古墳を建造した王権、応神・仁徳~雄略、武烈のい王権が河内の百舌鳥古墳群(大山古墳が盟主)、古市古墳群(誉田山古墳が盟主)を築き始めヤマトから河内に都は移動したと想定されています。大陸との交易ルートは瀬戸内海が本流となったのでしょうね。
(物部氏の滅亡)
しかし、物部氏は聖徳太子さんの時代に古市あたりで合流する石川流域に拠点を築いていた蘇我氏との戦争に負けこの肩野物部氏の拠点である磐船神社も忘れ去れる運命となりました。
社伝でよれば、その後も地元の人々により祀られていたそうですが、その後、修験道の霊場として複雑な歴史をこの磐船神社は辿る事となったようです。私が子供の頃、もう半世紀前になりますが未だ天の川トンネルが掘削されていませんでしたので、岩窟には多量の水量が流れていたような記憶があります。
半世紀ぶりに訪れた子供の頃の記憶の場所を息子にも教える事が出来て良かったと思いました。
参考 磐船神社公式ホームページ
大和川から竹ノ内街道、天の川から磐船街道、木津川から奈良北部へのルートと三か所のルートが奈良、ヤマトに通じていたのですね。
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- エゾライチョウとクマゲラを見る旅 総括編(2018.07.09)
- 2018年春の渡りの飛島 総括編(2018.07.09)
- 南ゴビ砂漠探鳥紀行(2018年6月15日~20日) 総括(2018.07.06)
- 2017年 春の渡りの飛島記録(2018.05.15)
- 豪州鳥見紀行 ケアンズ・エアーズロック・シドニー チエックリスト(2018.02.21)
Comments