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三渓園 写真によるご紹介(2) 内苑のご紹介

 内苑(原家が昭和33年に公開するまで私邸であったエリアの事です)。内苑は古建築で構成され歴史建造物が京都、鎌倉、紀州等々から移築されています。殆どが重要文化財であります。特に臨春閣は紀州徳川家から移築され、京都の桂離宮を彷彿させる観景ですね。

 『御門』 京都東山の西方寺にあった薬医門だそうで、宝永5(1708)年建造。

御門
大正初めの頃の御門 薬医門とは広辞苑によれば、本柱の後方に控柱二本を建て、切妻屋根をかけた門だそうです。何故、薬医(典薬)門と呼ぶか不明、医者の門によくみられるという説があるそうですが・・・。

  『臨春閣』 紀州徳川家初代・頼宣が紀ノ川沿いに建てた別荘。

池に映る臨春閣
臨春閣 和歌山県の岩出市から大正4年に移築された。襖絵は狩野探幽、狩野安信らが描いている。
天楽の間
襖絵は狩野探幽、狩野安信 夏の別荘として建てられたもので、桂離宮を偲ばせる佇まいであります。
 『旧天瑞寺寿塔覆堂』 秀吉が母の長寿を願い建立した寿塔を覆ていた建物。寿塔は現在、京都大徳寺内の龍翔寺にあるそうです。
重要文化財 旧天瑞寺寿塔覆堂
重要文化財 旧天瑞寺寿塔覆堂 蓮の花の彫刻や可憐な装飾は安土桃山文化の香りがしますね。
 『亭榭』 あずまや、見晴らし台あります。(広辞苑)
亭榭
感激の光景 亭榭と臨春閣 京都の紅葉で有名な東福寺の景色を思い出しました。
 参考:東福寺通天橋
『月華殿』 
重要文化財 月華殿
竹の橋がいいですね
月華殿 家康が関ヶ原の直後1603年に伏見城に建造した建物だそうです。

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三渓園 写真によるご紹介(1) 大池編

 横浜には三渓園という素晴らしい名勝地があるんですね。40年近く横浜近くに住んでおりながら初めて訪問しました。

 三渓園 場所 アクセス(地図)

 三渓園紹介 公式ホームページ

  参考 鋭理庵さんのブログ

 明治の財界人は金儲けだけでなく、社会への奉仕という哲学が存在したのは素晴らしい。当時の最大の輸出品であった生糸で原三渓(富太郎)は財をなし、横浜に17.5万m²の土地を購入し庭園の構築と京都、鎌倉から歴史的建造物を移築した。そして、芸術家を招聘し彼らに日本の素晴らしい芸術作品に触れさせ、且つサロンを提供し未来の芸術家を育成した。

 当時4円程度で生活できたそうですが、彼は一人あたり毎月100円を提供し芸術家の育成に尽力したという。そして、庭園は一般庶民に公開したという。政治家としても活躍したそうですね、以前、テレビで彼の特集番組を観て感動した事がありました。

 マイフォト 三渓園

 『庭園(外苑)のご紹介』

大池と三重塔 絶景なり
大池を影を映す三重塔大池に姿を映す三重塔の眺めが素晴らしいです。京都恭仁京から移築した室町時代の重要文化財の三重塔(旧燈明寺)が素晴らしい。
三渓園茶寮、月影の茶屋
暮色旋回
飛翔
暮色飛行一日中庭園に過ごしていても飽きないほど素晴らしい場所でした。森に囲まれているので、沢山の鳥が飛来し自然を満喫でき、朝から夕方まで過ごしてしまいました。
梅と三重塔
灯篭のある風景梅はまだ咲き始めたところです、苑内には沢山の草花と木に囲まれているので、四季を通じて花を楽しむ事が出来そうです。
清楚 水仙
梅林梅模様水仙と梅が咲き始め春が近い事を告げているようでした。
春の七草春の七草も紹介されていますよ、若者にはいい参考になると思いました。
とても可愛いい三羽
鯉の三兄弟カモやコイが沢山泳いでいました。茶店で麩を販売しているので、池に近寄ると寄って来ます。
カモ、カモ、カモ・・・・・
白いネックレスお洒落 大池の傍には茶店があります、私は力うどんを食べました。
鵜が侵入
猫コイを狙う 鵜が夕方に侵入してきました。周りに緊張が走りました、カモの仲間が周囲を旋回し緊張状態が続いていましたね。野良猫君はどうやら、晩飯で鯉を狙っているようですよ。

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記紀の考古学 古代最大の戦争(タケハニヤス戦争)

 日本書紀、古事記や先代旧事本紀に書かれた日本列島の歴史は専門家の歴史学者や考古学者により、どこまでが本当の話なのか、虚なのか学問領域で日々研究されている。私のような素人、日曜歴史考古趣味の親父としては、神話として残された話は全くの虚構、創作とは思えない、その背景に何か伝えたい事実が存在したと考えています。

 考古学者の森浩一先生が残された書物、『記紀の考古学』については以前、記事を書きました。最近は同じ先生の『日本神話の考古学』を読んでおります。神話として残された話に何か考古学的な物証が存在しないか、森先生は私の興味に応えてくれる書物を残しておられます。まだまだ、これからの研究に委ねる分野が多いようですが、本当に面白い内容で満たされていました。

 今日は、その中で以前にも記事にしました、そして私の生まれ育った土地の近所で起こった古代の事件ですから、再度メモを残したいと思い記事を書きます。それは、三輪王朝を築いた崇神大王(ミマキイリヒコ=ハツクニシラススメラミコト)の最大の危機で且つ、古代最大の内戦だったと言われる山背に拠点を持つタケハニヤス(武埴安彦)との戦争です。

 『記紀の考古学』に沿ってグーグルの写真を参考にしながら眺めてみましょう。

 グーグルアース 木津川流域

「kizugawa.kmz」をダウンロード

Photo  最近の考古学、歴史学の世界では第10代天皇とされる崇神天皇からが実態のあるヤマト王権の始まりであると言われている。将来は神武天皇の時代まで考古学、歴史学が実態を究明できるかも知れない、けど、今は残念ながら崇神さんからと言われている。

 崇神さんが三輪山近郊に王権を開き領土拡大を図ったと記紀は述べる。そこで、四道将軍を任命し北陸、東海、西道、丹波制圧に将軍を侵攻させたと記紀は述べる。北陸道に派遣されたのが、大彦(大毘古)である。彼が、京阪奈丘陵(当時は和珥坂と呼ばれた)に差し掛かると、童女が不思議な歌を歌っていた。

 注:実は実家のお墓が伝:王仁博士の墓の向かいにあるんですね。和珥坂です。

 『ミマキイリヒコ(崇神大王)よ、自分の命を殺そうと 時を窺っているのもしらず 姫遊びをしている』という童謡であった。この童謡の意味を解いたのが、ヤマトトトヒモモソヒメ(箸墓古墳の主とも伝承あり)であり、山背のタケハニヤスが謀反を起こそうとしていると解釈した。理由はタケハニヤスの奥さんの吾田媛(アタヒメ)が大和に来て香具山の土を採取し呪をかけたという。

 大彦と和珥氏の遠祖であるヒコクニブク(彦国茸)は崇神大王軍として京阪奈丘陵を越え(ワニ坂)木津川のタケハニヤスの拠点を攻撃した。タケハニヤスの奥さんである吾田媛は軍を率いて大坂で崇神軍の将軍である吉備津彦と戦った。

 吾田媛は名前から吾田隼人、神武天皇の故郷でありニニギノミコト、コノハナサクヤヒメの故郷である薩摩半島の吾田隼人の後裔である。奈良朝以前の日向とは宮崎県から鹿児島県を含んでいたそうで、薩摩半島は吾田隼人、大隅半島は大隅(大住)隼人の拠点であったそうだ。Photo_2

 実はタケハニヤスの拠点の木津川の上流、椿井大塚山古墳・平尾城山古墳・涌出宮の対岸の現在の京田辺の北側、木津川左岸は隼人の人々が拠点とする場所だったそうです。現在でも、大住という地名が残存すると森浩一先生は述べています。

 話は飛ぶが、崇神天皇の子供でイクメイリヒコ(垂仁天皇)の妃の一人がこの京田辺の大筒木垂根王(おおつつきのたりね)の娘、カグヤ姫(迦具夜比売)なんですね。日本最古の小説である『竹取物語』は南方の説話であり隼人が持って来たと云われています。彼らは竹細工が得意ですし、近くの石清水八幡宮の竹はエジソンが電球に使用したほど、竹では有名な場所なんですね。

 又又、脱線しますが20年前に仕事で『東アジアの民話』のアニメーション番組をテレビでやろうと燃えていた時代がありました、取材で台湾からフィリピン(ルソン島)迄取材に行った経験がありました。フィリピンでは確かに『竹取物語』の原型が存在していました。これは、確かな事であり薩摩半島に伝わったと考えて不思議はありません。

 そうそう、山背のタケハニヤスとオオヒコとの戦いでしたね。戦場は木津川の上流から南下し最後は継体天皇が即位した樟葉で崇神軍が勝利を収めたそうです。最後の決戦場は樟葉だったそうですね。

Photo_3  木津川は死体が累々と浮かんでいたそうです。崇神軍の大彦とタケハニヤスは共に父は8代天皇である孝元天皇の異母兄弟でした。

崇神天皇の時代は未だ、南山背から山背はヤマト王権の統治領域ではなく異国であった訳ですね。

 最後に、京田辺周辺から北西領域は隼人の拠点と述べました、そして『竹取物語』の故郷と述べました、今でも奈良の二月堂のお水取りで使用する大松明の竹はわざわざ、この京田辺から運ぶのですよ。確か、その儀式の模様は、ほかもどりさんのブログ『それから』で記事にされていたと思います。

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自由が丘での新年会

 昨夜は自由が丘の『金田』にて新年会が開催された。幹事はバンコクで元気な同期の哲ちゃん。6名が集まったが、中国ビジネスのエキスパートの儘田さんはゴルフで不参加でした。又、斉藤Vuさんもホーチミンの会社が今はテト(旧正月)で休みだけど、仕事の追い込み中で夜の10時までは通信連絡の為に参加できなかった。

 斉藤Vuさんが参加すれば、又、宇宙の話を聴けたのに残念でした。彼は専門が宇宙物理でベトナムから日本に留学し東大で博士号を取得した。しかし、ベトナム戦争で国が消滅し日本人女性と結婚し日本の国籍を取得されたのです。

 昨夜の長老は大島さん、長く教育の分野と海外で活躍するSEの部隊を率いて来られた人です。独立後もIT関連の人材育成、海外との連携に関係する仕事を幅広く手掛けておられます。生まれは、秩父の名家です、世も世ならば秩父の大島城の城主さんだったでしょうね。

 1年先輩の佐藤チューさんは、1時間程度遅れて参加されました。昔はスペイン、フィンランドで活躍された先輩です。今は現役でフィリピンとのビジネスをやられているそうです。数年前、チュー先輩とVuさんと私で翻訳の仕事を、ご一緒させて貰いました。

 同じく1年先輩の福永さん、私の思い出は40年前のKDDさんの超高信頼システム開発のメンバーとして活躍された頃の姿です。昨年12月まで私も一緒に或る会社の顧問をしていました。顧問会議のあと夕方からビールを飲みにゆき、古代史や世界史の話をするのが楽しみでした。

 後輩の祇園の置屋の息子も参加されました。数年前までソウルに駐在しておられ、今は国内の会社で働いておられます。製造業専門のSEさんでした、私が文京にいる頃一緒によく飲みに行きましたね。故人になった藤城さんも何時も一緒でした。

 新年会は盛り上がり、解散となりましたが、皆さんを自由が丘駅近くで見送り哲ちゃんと二人で二次会へと足が向かいました。私は最近、酒に弱くなったのか二次会の場所では『お茶』をすすっておりましたね。(笑)

 我々の仲間の集まりも段々と一期一会になると考えて会うことにしています。先日も上野の音楽会でご一緒させて貰っていた58歳の男性の訃報をけんた&アトムパパから聞きました。大学時代のバンドリーダだったそうです。

参考ブログ てっちゃんの記事

 (故郷の中学校の同窓会)

 中学時代のクラスメートから、同窓会をするという通知が来た。どうやら、我々が学んだ学び舎が取り壊され、新しく建て直されるので最後に学び舎に感謝の儀式をしようという呼びかけでした。私が中学1年生の時に枚方市立第三中学校が新設され、牧野駅近くに出来ました。2年生から私は一中には通わず、三中に通い始めましたので、二期生という事になります。

 3月末に開催されるそうなので、楽しみです。

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淡路島に弥生中期の巨大鉄器工房跡

 本日朝刊では1世紀から3世紀頃と考えられる巨大な鉄器鍛冶工房跡が淡路島の黒谷・五斗長地区の垣内遺跡で発掘されたと報道がありました。

 神戸新聞報道 県内最古の鉄器工房か

 産経ニュース 国内最大規模の鉄器工房跡

 同上       工房跡写真

 毎日新聞     同上報道

 さて場所は何処でしょうか

 グーグルアース 淡路市 黒谷・五斗長地区 垣内遺跡

「kaitoiseki.kmz」をダウンロードPhoto

 グーグルアースで遺跡を探しました。淡路島北西部の山奥なんですね。勿論、湾から川を遡り輸送ルートは確保されていました。製鉄には多量の木材が必要ですから山奥になるんですね。

今回の鍛冶遺跡の発見はどういう意味があるんでしょうね。従来は近畿地域には1世紀から3世紀の時代に製鉄、鍛冶遺跡が少なく邪馬台国九州説が有利と言われていました。北部九州から製鉄・鍛冶は始まったのは事実でしょうが、どの程度の速度で東に伝播したかが問題でした。

 今回の淡路島に巨大な鍛冶の遺跡が発見されたのは、邪馬台国前夜には既に近畿圏に大規模な鉄の加工工場が存在した事になります。写真にある鉄の板は鉄挺(てつてい)と呼ばれ、朝鮮半島の洛東江流域の加羅(伽耶)の国々から運ばれて来たと私は予想しています。

 魏志倭人伝でも倭が伽耶(加羅)の国々から鉄を輸入していると書かれています。多分、今後、出土した鉄の成分分析から何処で製造された鉄か判明すると思います。

 三輪山周辺で巨大な前方後円墳が建造始まる前夜の遺跡ですから、邪馬台国と関係が深い遺跡である可能性がありますね。これからの、研究が楽しみです。朝鮮半島もしくは中国の鉄挺(鉄の延板)が淡路島北部に運ばれていた事実は近畿圏の王権が既に瀬戸内海航路を確保していた事を証明しているとも考えられます。

 しかし、何故、淡路島なのか面白いと思います。明石海峡はヤマトと瀬戸内海航路の関所のような場所ですよね。武力を持つ航海民(海人族)が製鉄集団を抱えて工場を自分達の拠点に建設したと考えも成り立つと思います。

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劣化するY染色体 

 昨夜NHK特集『女と男』の番組を観ていて本当に衝撃を受けた。Y染色体が長い人類の歴史の過程で劣化してボロボロ、しかも精子が弱くなっているという。劣化というのは、長い人類の歴史でひたすらコピーしいる間に突然変異とかコピー時にある部分が抜けるとか、そういう事があるらしい。

 女性は父のX染色体と母のX染色体をコピーされるが、X染色体は二個あるので、欠損があると修復してコピーが出来るという。しかし、男が生まれる時は父のY染色体しかないので、修復も欠損部分を補修も出来ないという。哺乳類が胎生を選んだ瞬間からそうらしい。

 ヒトの精子が弱くなっているのは、一夫一婦制で精子間の競争が無くなり強い精子を残すメカニズムが働かない環境を作ってしまったからだという。乱婚の猿の精子と比較すると確かにまるで、元気が無い。(笑)デンマーク、フィンランドの現状が報告されていたが、人類はこれから大丈夫かな~~と、危機感を感じた。

 番組に登場した学者さんは、あと500万年以内にY染色体は消滅すると予言していました。人類の滅亡ですね。今から、元気な精子を冷凍保存しておかねば人類の滅亡から逃れる事が出来ないのだろうか。

 しかし、確かに映像で見るY染色体はX染色体に比較して小さく頼りない染色体になっていますね。格納する遺伝子情報もXに比較して極端に少なくなってしまっている。哀れな姿に驚きました。

ウラルアルタイの遊牧民の伝統である男系の後継ぎの方法、日本の天皇家の伝統もそうですが、正確純粋に遺伝子を伝える方法としては男系というのは意味があったのですね。

 さて、人類はこれからどんな道を選んでゆくんでしょうか。

 参考 NHK『女と男』

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副都論について

 最近は遷都論が下火ですね、一時期は遷都論が賑やかでした。東京への一極集中でいいのだろうか、新幹線や飛行機、道路族のお陰で高速道路が整備され、益々東京への集中がされている世界でも稀有な国家の状態ではないでしょうか。

 関西は疲弊しています、否、地方は経済的にもあらゆる面で疲弊しているのが現状ではないでしょうか。それに対して特効薬は無い。横浜という東京圏に住んでいる人間からは東京の繁栄の元で生きている訳ですから、言う事にあまり重みは無いと思いますが、少し考えてみたいと思います。

 (副都という考えを御存知ですか)

 江戸時代の繁栄は政治の江戸に対して、大阪の天下の台所という二極が存在しましたね。江戸が武士の世界とすれば、大阪は商人の世界でした。日本中の米や生活物資は大阪に集積され消費地である、江戸に送られた。日本は二極の文化が存在し、且つ地方でも豊かな文化が築かれたと思います。

 多様性というのは、国家が危機に遭遇した時に生き延びる重要な道なのではないだろうか。企業でも東大生だけを採用していては、危機的状況に遭遇すると脆いと経営学では学びました。水滸伝で言う、梁山泊の世界が一番企業を強くし、危機的状況を乗り越える力があると学びました。

 今の日本は、東京に全てが集中し過ぎている、地下鉄を見れば穴だらけ、これから今の経済状態を維持していなければ、メンテが出来ないローマが滅んだと同じ道を歩みそうに思えます。東京が将来、鄙な地になればこれらのインフラはどうなるんでしょうか。

 川という川を埋め立て、道路とし海抜幾許かの土地なのに、危険な場所にインフラを築き過ぎたような気がします。地球温暖化で海面が上昇し、縄文海進がおこればどうするんだろうか。殆どの東京は海の下になる筈だ。縄文時代の海岸線を観たことがありますか。

 私の心配は地球温暖化で海水が膨張し、海面が上昇し皇居も海の中に沈むことを心配しています。東京は地球温暖化に一番危険な場所にあると思います。最近のゲリラ豪雨で東京は水の恐怖に怯えました、当たり前です、昔の水路は殆ど道路で埋め立てたからです。勿論、道路の地下とか緊急時に水を溜める工夫はあるが、自然の前では無理ではないでしょうか。

 本論から外れてしまいましたね、最近、直木孝次郎さん編集の『古代を考える 難波』を熟読しています。内容が学問過ぎて専門家向けの書物ですから、素人の私には難しいと思います。しかし、難波を副都とした聖武天皇の戦略には少し考えさせられました。

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ハドソン川の奇跡

 Daily News ハドソン川の奇跡

 今日は朝からニューヨークの飛行機事故に関する報道で驚きを伝えていた。ラ・ガーデイア空港から離陸した旅客機がハドソン川に着水し、全員無事だという報道でした。

 ラ・ガーデイア国際空港 グーグルアース

「la_guardia_airport.kmz」をダウンロードPhoto  ニューヨークに日本から出かけると、メインはJFK空港ですが、国内便としてはラ・ガーデイア空港がマンハッタンに便利なので、私も昔は良く利用しました。午後3時26分に飛行機は離陸し、数分後にバード・ストライクに遭遇し両翼のエンジンが停止し、左エンジンより出火したという。高度千メータ程度という。

 午後3時29分程度でしょうか。空港に引き返すべく左旋回をハドソン川上空のジョージワシントン・ブリッジあたりで行う。ラ・ガーデイアへの帰還は無理と判断し緊急着陸空港の指示を機長はする。マンハッタン島西のニュージャージーの空港を管制塔はするが、交信は途絶える。

 機長はハドソン川に不時着する道を選んだようですね。午後3時33分、離陸して7分後に飛行機はハドソン川に不時着した。高度千メータで動力を失った旅客機を無事ハドソン川に不時着させたのだ。しかも、両主翼は無事であった、これで飛行機の沈没は回避され、全員無事救助されたという。

 ラジコン飛行機の経験から言いますと、狭い川に動力の無い飛行機を着陸させるのはとても難しいと思います、又、胴体着陸で水の上に着陸するのは鉄板の上に着陸するのと同じで凄まじい衝撃があります。よく機体の姿勢を保ち水平に着陸できたと感心しますね。

 多分、着水時の機速は500キロ程度と思います、失速ギリギリ、エルロンもラダーも打てば失速する状態での着陸だったと思います。姿勢修正舵を打てば、そこで墜落する不安定な状態なのですね。見事であったと思います。

 両主翼にはジェット燃料が多量に詰まっていますので、飛行機は沈まないのですね。これが、片方の翼でも破損すれば、機体は傾き脱出は困難だったでしょうね。本当に良かったです。

 ハドソン川を挟み、マンハッタン島とニュージャージーは河底をトンネルで結ばれいます、汽車も車も地下トンネルで結ばれているのです。ですから、橋に衝突する危険はありませんでしたね。

 しかし、離陸途中のエンジントラブルは一番危険な事故です。ラジコン生活で今まで幾多の飛行機を失ったか判りません。旅客機は戦闘機と異なり機敏動作が出来ません、本当に奇跡のような事故であったと思いました。

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日本最古の獣骨祭祀跡

  産経ニュース 千葉取掛西貝塚 日本最古の獣骨祭祀跡

 読売ニュース 獣骨を使った最古の遺跡

 参考Web 関東の縄文貝塚から縄文の暮らしを考える

 グーグルアース 千葉取掛西貝塚遺跡

「Torikakenishikaizuka.kmz」をダウンロード

 グーグルアース 加曾利貝塚遺跡

「Kasorikaizuka.kmz」をダウンロード

Photo 左←加曾利貝塚遺跡

 本日朝刊に千葉県船橋市の取掛西貝塚遺跡に関する記事が掲載されていました。1万年前の縄文早期の遺跡だそうですが、イノシシの頭蓋骨10数体分見つかり、獣骨を使った儀式を示す日本最古の例と見られるそうです。

 大森貝塚がモースにより発見されてから、昔は貝塚はゴミ捨て場という考えが定着していたそうですが、最近は貝の加工工場跡であるとか、祭祀場ではないかと議論されているようですね。祭祀場の論が最近の主流なんでしょうか。

 私も2年前に縄文時代、石器時代の遺跡の発掘作業に従事した経験がありますが貝塚は貴重な遺跡なんですね。日本の土壌は酸性ですから、骨は溶けてしまうのです。しかし、貝殻の中に人骨、獣骨が存在するとアルカリ性の為に溶けないで残る可能性があるんですね。ですから、貴重だそうです。

 イノシシの頭を並べてどのような祭祀をしていたんでしょうか。それとも、イノシシの頭を被り踊りを踊りパワーを貰うような祭祀だったのでしょうか。当時のフィルムが存在しないので、判りませんね。(笑)江戸時代まで、名前に獣の名前をつけ力、霊力を貰う風習は残りましたね。例えば、蘇我馬子、入鹿とか、坂本竜馬・・・・。

 遺跡の発掘で面白いのは、獣を取る『落とし穴』ですね。石器時代から獣を取るのに落とし穴を発明していたんですね。その場所だけ土の色とか層が違うので直ぐに判明するんです。穴の下には『さかもぎ』を立てて落ちたら刺さるようにしていたんではないでしょうか。

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巨大古墳の世紀 百舌鳥・古市古墳群

     巨大古墳の世紀 百舌鳥・古市古墳群メモ

  継体大王の時代を考えるのに、歴史的に前後の歴史を調べないと理解が出来ないと考えるようになりました。最近は三冊の古代史に関する本を読んだ。森浩一先生の『巨大古墳の世紀』岩波新書、直木孝次郎先生の『古代を考える 難波』吉川弘文館、鬼頭清明先生の『白村江 東アジアの動乱と日本』教育社の三冊です。

3世紀から三輪山付近で巨大な前方後円墳を築きヤマト王権が成立したと考えられる世界が何故4世紀末から5世紀にかけて河内の地(百舌鳥・古市)に巨大な前方後円墳が出現し古墳の副葬品も従来の呪術的なものから馬具を中心に金銅製・金で出来た武力威圧のような世界に激変したのでしょうか。

応神大王・仁徳大王から雄略・武烈大王に連なる王権はそして何故突然に終焉する事になったのだろうか。王統が絶え、継体大王が擁立されねばならなかったのか、謎が多いのです。

 大山古墳(伝:仁徳天皇陵)グーグルアース:

「Daisenryou.kmz」をダウンロード

Photo百舌鳥古墳群の盟主は巨大な大山古墳(伝、仁徳天皇陵)です、周りには陪塚が多く築かれていますが、既に存在した小さな古墳を抱き込んだ形でもあります。墳丘全長474メータ後円部径245メータ、築造には一日千人で4年が必要だそうですね。森先生の記述では今までの出土物その他、考古学の分析から5世紀末から6世紀と考えられ仁徳大王の陵とは異なるという意見です。

誉田御廟山古墳(伝:応神天皇陵)グーグルアース:

Hondayamakofun 古市古墳群の盟主は誉田山古墳です、墳丘全長では大山古墳に劣るが墳丘の体積では大山古墳を凌駕する巨大古墳です。考古学的にも大山古墳よりも時代は古いと想定されています。記紀には応神天皇の陵墓に関する記述が無いそうですが、平安時代頃からこの古墳は応神天皇陵と呼ばれていた古文書があるそうです。

(河内湖の状況)

 河内の状況は百舌鳥地域から細長く北上する上町台地で大阪湾は閉ざされ、僅かの距離で千里丘陵の細い海峡で河内湾(弥生時代には淡水化していたそうです)に連なり、巨大な河内湖が広がり、そこに大和川、淀川が注いでいた。

 奈良、大阪、京都に降る雨は全てこの河内湖に集中し洪水の被害は想像以上であったようです。難波の語源は、満潮時と干潮時に凄まじい速度で大阪湾と河内湖のくびれの海峡を潮が流れる事から、命名されたと言う。

「kondayama.kmz」をダウンロード

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大本山成田山 新勝寺

 鹿島・香取神宮参詣の前に、成田を経由しますので、成田山 新勝寺にも初詣をしました。私は初めての経験でした。私が学生時代まで過ごした関西時代には京阪電車で香里園駅で下車し、成田山 明王院にはよくでかけました。その本山なんですね。

開山縁起を読むと、平将門の乱を平定する為に朱雀天皇の命を受けた寛朝大僧生が密勅を受けて940年、開山したとあります。この時は日本国が分裂するかどうか、大問題だったのでしょうね。当時の朝廷では平城京時代の南都の仏教から逃れ、新しい空海、最澄の仏教に国家鎮護を任せていた時代ではなかったでしょうか。
大本堂 考えてみると、5世紀の河内王権が関東の鎮守として鹿島・香取神宮を設置したように、平安時代に精神世界で関東を鎮守する目的で設置されたのが、成田山 新勝寺なんだと考えると判り易いと思いました。
境内花模様 しかし、この寺は繁盛してるようですね、境内は立派でしたし、多くの参拝客が詰めかけています。
猿さんの出番 猿さんがいました。猿回しの猿さんです。
豪華です 家内安全・商売繁盛の縁起物ですね、豪華です。
自然薯 自然薯も売っていました。香取神宮の自然薯は長い棒状ですがここはジャガイモみたいです。
 ともかく、三か所も初詣の梯子をしてしまいました。

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水郷の町 佐原(さわら)

20091kashima_098 20091kashima_097  水上交通の要衡である佐原(さわら)を訪問しました。香取神宮から鹿島神宮に行くには佐原地区を通過します。

昔は随分と栄えた町のようですね。沢山の酒蔵が並び米と酒を船に積み込み江戸に運んだそうです。古代からの海運の伝統は続いていたのですね。町は丁度、京都の伏見に似ている様子でした。 参考 MuBlog伏見港界隈

20091kashima_104 20091kashima_105  今はもう2軒程度の酒蔵しか残っていないそうです。江戸時代に有名な伊能忠敬さんは、佐原の有名な蔵元の旦那だったのですね。今も、町の誇りだそうです。

20091kashima_106 20091kashima_107

 江戸時代の古い町並みが保存されていますので、観光客が沢山押し寄せるようです。私も酒蔵によせてもらい、昼間から日本酒をふるまって貰いました。

 佐原と言うと、もう故人ですが、有名な考古学者の佐原真(さはらまこと)先生を思い出しますね。彼は大阪府出身ですから、佐原(さわら)とは関係ないようです。

香取神宮と鹿島神宮のお膝元の佐原の酒を考えると、昔から奈良の三輪神社、京都の松尾神社も酒の神様です、神社と酒は関係が深いようですね。稲作の技術を伝えてくれた大陸系の人々が同時に、酒造りを教えてくれたのでしょうね。

20091kashima_112  霞ヶ浦と言えば、戦前は沢山の戦闘機乗りの人々が『赤とんぼ』の練習機で飛んでいたのでしょうね。二枚翼の美しい飛行機です、ラジコンの経験ではエルロンを打つと、コロコロと飛行機が回転しますから、飛行性能は抜群だったのでしょうね。

20091kashima_111  水郷の町、佐原は鹿島神宮、香取神宮のお膝元として古代から栄えた場所であったと偲ばれる街並でした。

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香取神宮 参拝記

 利根川、鰐川を挟んで鹿島神宮の対岸に香取神宮が鎮座されています。

 マイフォト 香取神宮 参拝写真集

香取神宮 二ノ鳥居 香取神宮の由緒によれば祭神は経津大神(ふつのおおかみ)とあり、日本書紀に述べる鹿島の大神であるタケミカヅチと二人でアマテラスの命を受けて、降臨し出雲を平定した事になっている。香取神宮祭神と鹿島神宮祭神は二人で出雲を平定した訳です。しかし、古事記ではタケミカヅチとアメノトリフネ(天の鳥船)の二人の神が出雲を平定したとあります。それでは、この天の鳥船さんは香取神宮の経津大神の事かと考えられますが、実は息栖神社の祭神としてアメノトリフネは祀られているんですね。
Photo
丁度三角形の形をしているのが判りますね。神話時代の河口の状況は今とは異なり、中洲の発達もそれほどではなかったと思います。
 ひょっとすると息栖神社は河口にある島であった可能性がありますね。
 この問題を、以前に記事にし紹介しましたが、宮元健次先生は以下のように述べておられました。英雄二柱を祀る鹿島・香取神宮に加えて、二人が乗る天鳥船を祀る息栖神社で三位一体となり海上交通の要衡である利根川(古代は鬼怒川)河口に配置された、と言う。
難しいですね、タケミカヅチは沢山の名前を持っていますが、『ふつ』という名前も持っており、国宝の刀の名前も『ふつのみたまのつるぎ』と言いましたよね。それは間違いで、経津大神(ふつのおおかみ)がタケミカヅチとは別人であり協力者であったとすれば、刀は香取神宮の祭神の刀となりますね。即ち香取の大神は武力の象徴となります。
 (出雲の国譲り神話)
 記紀神話では、タケミカヅチとフツノオオカミ二人は出雲の稲佐の浜に押し寄せ、十束(握)剣を逆さに立て切っ先の上にタケミカヅチは胡坐をかき、国を譲れと迫ったとある。十束の剣とは拳10個分の長さという意味ですから、長剣という事ですね。しかし、今でもマジシャンでも剣の切っ先の上に座るのは困難ですよね。
私は、弥生時代の船の埴輪が出土したのを観てると舳先と船尾がやたらに跳ね上がった構造ですよね。船の舳先に長剣を逆に刺し、船尾の高い場所に胡坐をかけば遠方から見ると剣の上に座ってるように見えるのではないだろうかと、勝手に考えています。
 ともあれ、この時タケミカヅチが使用した剣が神武天皇に渡り、ヤマトの征服に一役買う訳ですね。それが、物部氏の手で石上神宮に奉納され、鹿島・香取には戻らなかったという話です。
 (帝国海軍の戦艦)
 香取、鹿島と聞くと日本帝国海軍の軍艦を思い出します。
 

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鹿島神宮 参拝記

 2009年1月8日、念願の鹿島神宮に参拝する事が出来ました。常陸の国一ノ宮です。昔は神宮と言えば、伊勢神宮と鹿島・香取神宮の三社しか存在しなかったそうです。

 マイフォト 鹿島神宮 参拝記念写真集

 承前 鹿島神宮メモ

 承前 阿武山古墳

 承前 古代武蔵の国 稲荷山古

 承前 さきたま古墳群探訪記

鹿島神宮 二の鳥居 利根川、鬼怒川の河口を守るように北岸には鹿島神宮、南岸には香取神宮が鎮座しております。香取神宮については次回、参拝記を記したいですが、現場を訪れた印象を記録したと思います。
拝殿 (拝殿 印象)
 やはり東を向いて拝礼となります。という事は神は太陽という事になるんでしょうか。アマテラスの命を受けてタテミカヅチ『日本書紀では武甕槌、武甕雷男神と表記、古事記では建御雷之男神・建御雷神と表記されている。別名 フツの神(布都神)と呼ばれ、天上界ではタケフツ(建布都)地上界ではトヨフツ(豊布都)とも呼ばれている。』は出雲の大国主と国譲りの交渉をした神です。
 日本最古の神社である奈良の三輪さんは三輪山が御神体で山を拝むのですが、鹿島神宮の拝殿から東を向き本宮を拝むのですが、その先に太陽神アマテラスを拝むのではないだろうか。奥宮も同じく東を向いて拝礼となります。
 (さざれ石
さざれ石には、色んな種類があるようですね。小さな石が固まり大きな磐となったものと、解釈すれば良さそうです。この、さざれ石は石灰岩で岩石の破片が固まって大きな磐となった種類でしょうか。
岩座信仰だと思います、氷山のように大きな岩の頭がちょこんと地上に顔をだしている岩を要石と呼んでいるようです。しかし、水戸光圀が7日7夜堀り続けたという話は面白いですね。流石に、黄門さんです。
 香取神宮にも奥宮に要石がありました、鹿島神宮の奥宮の奥の要石の頭は凹型でしたね、少し真中が凹んでいました。
 (国宝 直刀:ふつのみたまのつるぎ)
 宝物館で出会えましたが、度肝を抜く全長2メータ71センチ(刃長は2メータ24センチ)の巨大な直刀です。ふつ(布都:タケミカヅチの別名)の魂の剣という意味です。奈良時代に作成されたそうですが、本物の刀は石上神宮に祀られているそうです。
 この刀には記紀に記録された伝承があります、神武天皇が長脛彦に敗れ熊野で難渋している時にタケミカヅチが身代わりに自分の刀を神武さんに授け、それで東征が成功したという。しかし、その後その刀はタケミカヅチに返却されず、物部氏が崇神天皇の時代に石上神宮に奉納してしまったという。
 奈良時代、鹿島神宮では砂鉄から第二の『ふつのみたまのつるぎ』を制作したのが、国宝として鹿島神宮に鎮座されています。明治7年、石上神宮の大宮司である菅政友が拝殿裏庭の禁足地を発掘し『ふつのみたまのつるぎ』を取り出し、本殿に奉安され石上神宮の御神体として祭られているそうだ。
 全長85センチ程度らしいが、特徴は日本刀とは異なり、刃のほうに歪曲した直刀だそうだ。鹿島神宮の刀も直刀であるが、いくらか刃のほうが歪曲しているように見えました。

 (天然記念物 鹿島神宮の森

 鹿島の杜は度肝を抜かれる原始林です。巨木が鬱蒼と茂り弥生時代、縄文時代の森の面影を残しているのです。鎮守の森ですね、塩竈神社で経験した鎮守の森も少し似ているようです。

 (鰐川、利根川の夕暮れ

 鹿島神宮を去る頃にはすっかり夕闇が迫ってきました。感動の旅でした。

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明日は念願の鹿島・香取神宮

 承前 鹿島神宮メモ

 承前 阿武山古墳

 承前 古代武蔵の国 稲荷山古墳

 承前 さきたま古墳群探訪記

 遂に、明日早朝から常陸(日立)の国の鹿島神宮、香取神宮に初詣となります。未だ一度も訪れた事がありませんが、私の書斎では何回も思いを巡らせた場所であります。

 出雲を制圧したヤマトのタケミカズチは出雲の神さんを諏訪神社に閉じ込め、最後の仕事は蝦夷の毛野(鬼怒)を鬼怒川上流に閉じ込める重要なヤマトの駐屯地として鹿島を選んだ。鬼怒川、利根川の河口を制圧する事で毛野(鬼怒)の蝦夷を監視したのでしょうね。

 武蔵の国はすでにヤマトの配下に5世紀ではなっていましたね、さきたま古墳群の探訪で利根川を挟んで稲荷山古墳その他沢山の古墳群が睨みを北方にきかしていました。

 大化の改新では中臣鎌足がこの鹿島神宮出身であると言われています。そして、鎌足とその子孫は春日山の和邇氏を追い出し、鹿島神宮から神さんを招聘し、春日大社を建設しました。

日本史に於いて、鹿島(甕島)は重要な場所なんですね、一度は確かめておきたいと考えていました。

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磐船神社 ニギハヤヒ(物部氏祖)降臨伝承地

 承前 Jo君の故郷 物部氏の故郷(古代史編)

 承前 七夕の故郷 交野

 承前 王仁博士とかぐや姫伝説

 参考 MuBlog  磐船神社

2008年12月30日暮も押し迫る日に伝王仁博士の墓がある近くの長尾の両親、兄の墓の墓参を済ませ、バスにて枚方駅を目指し、百済寺跡を通過し、懐かしい枚方駅で昼食をとった。午後1時半を経過しておりお腹がペコペコでした。

 枚方駅から私市行きの京阪電車に乗り、終点の私市駅で下車タクシーを呼び磐船神社を目指した。子供の頃に私も家内もよくハイキングやキャンプで来た場所です。

 マイフォト 磐船神社 ニギハヤヒ降臨伝承地

御神体 天の磐船 記紀と先代旧事本紀では記述が異なりますが、少なくとも神武(イワレヒコ)が九州から東征しヤマトに入る前に既に天孫族としてアマテラスさんから10種の神宝を授かり持ちヤマトに入り、長脛彦の妹を妻にしていたのがニギハヤヒ(饒速日命)さんなんですね。彼が天の岩船に乗り降臨したと記述されている場所がこの場所です。
 考えられるルートは瀬戸内海航路からであれば、大阪湾から上町台地の北端と千里丘陵の狭い幅2キロの海峡を越えて河内湖に入り淀川を遡上し、現在の枚方駅近くの淀川に注ぐ天の川を遡上したと考えられます。
 日本海ルートであれば、若狭湾又は丹後半島から琵琶湖経由の瀬田から宇治川経由淀川を下ったのか、葛野川(桂川)経由淀川を下ったのか判りません。いずれにせよ、天の川上流流域にニギハヤヒさん一行は入植したのではないだろうか。これが、物部氏の一番古い氏族である肩野物部氏のグループと想定されます。
 以前の記事でも書きましたが、神社の下流域に森古墳群が存在しています、この古墳群は4世紀から5世紀の古墳群であり肩野物部氏の墳墓群ではないかと言われています。
 一方、河内湖から大和川を遡上しヤマトに入る海上ルートにも物部氏の別氏族が入植し守屋の時代に下ると、大和川流域が物部氏の本貫地となったようです。
 5世紀には倭の五王と呼ばれる巨大古墳を建造した王権、応神・仁徳~雄略、武烈のい王権が河内の百舌鳥古墳群(大山古墳が盟主)、古市古墳群(誉田山古墳が盟主)を築き始めヤマトから河内に都は移動したと想定されています。大陸との交易ルートは瀬戸内海が本流となったのでしょうね。
 (物部氏の滅亡)
 しかし、物部氏は聖徳太子さんの時代に古市あたりで合流する石川流域に拠点を築いていた蘇我氏との戦争に負けこの肩野物部氏の拠点である磐船神社も忘れ去れる運命となりました。
 社伝でよれば、その後も地元の人々により祀られていたそうですが、その後、修験道の霊場として複雑な歴史をこの磐船神社は辿る事となったようです。私が子供の頃、もう半世紀前になりますが未だ天の川トンネルが掘削されていませんでしたので、岩窟には多量の水量が流れていたような記憶があります。
 半世紀ぶりに訪れた子供の頃の記憶の場所を息子にも教える事が出来て良かったと思いました。
Photo 磐船と奈良の関係をグーグル写真で観て下さい。天の川を遡上し岩船神社を越すと目の前は奈良盆地です。盾並古墳群が見えるではないですか。
大和川から竹ノ内街道、天の川から磐船街道、木津川から奈良北部へのルートと三か所のルートが奈良、ヤマトに通じていたのですね。

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清水寺 2009年元旦模様

 2009年元旦は宇治で迎えました。息子と家内と義父の三人でお正月となりました。年末に作成した煮しめと雑煮を食べ美味しい熱燗で新年を迎えた。

息子が横浜に帰るので、家内と三寧坂にある義母の墓参りをして、清水さんに参詣する事になりました。

 マイフォト 清水寺 2009年元旦模様

猫二匹清水坂で可愛いい猫を見かけました。これ、絶対おもろいですよね。
おもろいこれもおもろいです。清水坂は参詣客で満員電車のような、芋の子を洗う混雑でした。
仁王門と三重塔 仁王門と三重塔です、清水さんに到着しました。平安時代に有名な征夷大将軍に任官され東北の蝦夷と闘った将軍、坂上田村麻呂ゆかりの寺院ですね。
釘を一本も使用していない 
139本の柱 懸造り清水の舞台です、139本の柱で支えています。釘1本使用しない懸造りという建築だそうですね。昔、ここから、かわらけ投げが出来たような記憶があるのですが、今は無いのでしょうか。
沢山の人で舞台は壊れないか? こんなに沢山の人々が舞台に登っても大丈夫なんですね。驚きです。
舞台と三重塔 本堂と三重塔の眺めは美しいです、阿弥陀堂、奥の院から眺める景色。
舞台より平安京をながむ 舞台より眺める平安京です。
 清水さんの近くは鳥辺山があり昔から葬送の場所でした。
Photo グーグルで眺めると清水さんからの谷は鳥辺山の葬送の場の全体図が判ると思います。
 まだ、夏のライトアップされた清水さんは見たこと無いですが、今度機会をみつけて来たいと思います。

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2008年 ワンゲル同期忘年会記録

20091kyoto_042  2008年12月30日、大阪の料亭『八幸』にて大学時代のワンゲル同期の仲間が集い忘年会が開催された。

 幹事は道下さんで、もう40年近く12月30日に開催されているようです。私は卒業して東京に就職してしまい、今までは殆ど参加出来ていませんでした。昨年からは現役を離れているので、参加出来るようになりました。

 2007年 ワンゲル同期忘年会

 今年も昨年と同じ場所、同じメンバーとなりました。この店は『ふぐ』が名物なんですね。今年も河豚のコースとなりました。皆さん、ひれ酒とワインで昔話に花が咲き懐かしい山行の想い出話しで盛り上がりました。

 今年も、陶芸家の古波蔵さんが全員に干支の縁起物を自作し配って頂けるというので、私は義妹のお店で少し置かせて貰おうと少し多めに制作をお願いしていました。

20091kyoto 可愛いい、牛さんを沢山持参して頂き、皆さんに配ったあと数十個頂きました。そのうち、6個程度横浜に持ち帰りました。

毎年、干支の縁起物を作って頂き有り難いと感謝しています。

20091kyoto_040  今年は、八十川さんから、是非皆さんで彼が住む、城埼温泉と、こうのとりを観光に来て下さいとの招待がありました。

 九州、四国、富山、千葉、東京、新潟、等々と離れ離れになった同期が集まれるのは困難ですが、何時かは全員と会う事が出来ると信じて健康を維持したいと思います。

20091kyoto_045  お初天神の前で八十川さんが写真を撮影して下さいました。

今年の年末には又、是非お会いしましょう。

残念ながら、今回は京都に帰る必要があり二次会で本岡さんのお家に行けませんでした。申し訳有りませんでした、ポンちゃん。

 今年も全員が、良い年でありますように。

 

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明けましておめでとうございます

20091kyoto_086  丑年です、明けましておめでとう御座います。

年末から京都に帰省しておりご無沙汰致しました。元日の清水さんの写真です。年末には私の実家の墓参を済ませ、元旦には三寧坂で家内の実家の墓参を済ませ、近くの清水さんに息子と家内の三人ででかけました。

 昨年は北京五輪があり世の中は好景気の様相だったのが、一転し100年に一度という恐慌に近い不景気の嵐に襲われましたね。今年は、思いきった清水さんの舞台から飛び降りる意気込みでチェンジが必要ですね。

20091kyoto_015  年末にはニギハヤヒ(饒速日尊)さんが降臨したという、磐船神社を訪れ厳しい岩の洞窟くぐりを体験してきました。夕方の4時頃でうす暗く、洞窟の中は殆ど何も見えないような按配でした。

 既にMuBlogでは紹介されていますが、私も家内も幼少の頃には何回も訪れた場所です。しかし、天の川のトンネル掘削が行われ、川の流れが変わり今は磐船神社の岩の洞窟には水が殆ど流れていないので、インデージョーンズ並の探検が体験出来ます。

20091kyoto_033  息子と家内と三人で岩窟巡りの挑戦をしました。この模様は後日写真を交えて詳細な報告をしたいと思います。

子供の頃は私市(きさいち)ハイキングでキャンプにも出かけた場所でした。しかし、この神社は神武天皇よりも早く天孫族として十種の神宝を持ってニギハヤヒさんはこの地、タケルガ峰に降臨されたのです。物部氏の原点になるのですが、後日記事を書きたいと思います。

20091kyoto_118  本日、京都より横浜に戻りましたが、新幹線から美しい富士を拝む事が出来ました。昼頃でしたので、既に雲が頂きには、たなびいていましたね。

 年末には、頑張って、おせち料理を作り、82歳で一人暮らしの義父には賑やかなお正月を迎えてもらい、喜んでもらいました。

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