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難波宮(なにわのみや) 

 先日の記事では、百舌鳥(もず)古墳群と古市古墳群、所謂 応神大王から武列大王までの河内王朝にゆかりの場所を巡りました。応神大王の難波大隅宮、仁徳大王の難波高津宮と現在場所は確定していませんが、多分上町台地の何処かであったろうと想定されています。

 確実に発掘作業で明らかなのは、難波宮であります。現在の大阪城の南の場所に飛鳥時代から奈良時代にかけて存在した宮跡が発掘されています。正確に言えば大化の改新で軽皇子が即位し孝徳天皇が難波に遷都した難波長柄豊埼宮は652年に完成した。

 そして、奈良時代では聖武天皇が遷都した744年の難波京が有名です。発掘結果を踏まえると飛鳥時代の宮跡を前期難波宮と呼び奈良時代の宮跡を後期難波宮と呼んでいるようで、重層して遺跡は発掘されたようです。

 参考 難波宮

 グーグルアース 難波宮「Naniwanomiya.kmz」をダウンロード

 大阪市文化財協会の難波宮を参考に前期難波宮と後期難波宮を観ていただければ、如何に立派な都が存在していたかが判ると思いますね。桓武天皇が長岡京に遷都する時にこの難波京の建物を全て淀川を経由して長岡に持ち去り一夜城ではないけど、短期間に長岡京を作り上げた事は有名な話です。

 難波と大和の動脈は水路では大和川が利用され(当時の大和川は現在と異なり上町台地の東に注いでいた)陸路は何と難波京の朱雀大路が真っ直ぐ南下し幅18メータの巨大な道が現在の堺市金岡町あたりまで直線道路が存在し、そこから東に竹ノ内街道を経由し奈良盆地に通じていたそうだ。所謂、難波大道(だいどう)と呼ばれる官道ですね。

Naniwadaidou2 瀬戸内海航路を利用し大陸の物資は難波津で管理され、水路、陸路で奈良盆地に運ばれた重要な物流拠点だった訳ですね。九州を完全に制圧したあとのヤマト王権はこの瀬戸内海航路は重要だった。

 一方、日本海ルートでは若狭、但馬、方面から琵琶湖の水路を利用した大陸貿易ルートで栄えたのが琵琶湖、宇治川、葛野川、木津川、淀川を利用した近畿北部地域の豪族が存在したのでしょうね。このルートは九州王権ととは関係なく直接大陸と交易出来た特徴があります。

 さて、この難波を重要視したのは近世に於いては豊臣秀吉でしたね。難波宮の跡に大阪城を建設し大規模な東アジアの王都を建設したのです。

 (難波とは何だろう)

 難波は速浪、速花とも書きますね、所でこの語源は何なんでしょうか。直木孝次郎氏の『古代を考える 難波』吉川弘文館では以下のような記述があります。

 ・日本書紀では神武天皇が難波埼に来た時に浪が激しく浪速、浪花と名前がついた。その後訛りて難波と    なったと。

 ・しかし、大阪湾の浪は激しくないし、潮流も激しくない事から昭和4年に「日本古語大辞典」では『ナ(魚)ニハ(庭) 魚が多く住む海』という説が発表された。

 ・しかし、その後、自然地理学が考古学の進化により古代では大阪平野の内陸部に大きな潟湖(河内湖)が存在し満潮になると大阪湾から潮が逆流して河内湖の水位を上昇させ、干潮時には激しい勢いで河内湖から大阪湾に目がけて潮が流れるという事が判明した。これが、日本書紀に述べる「奔潮ありて はなはだ急」の記述ではないかという。

 ・それ以外の説としては、河内湖の静かな海を指して、ナミ(波)ニハ(庭)ではないかという説もあるそうです。それ以外の説では、上町台地の西方に沢山の浜がありナミニハ(並庭)が語源とする説もあるらしい。

 ・朝鮮語で解釈する説もあり、大和岩雄さんの説ではナニハのナは太陽を意味するナルを語源にし、太陽を迎える場所、祭祀をする場所という意味らしい。

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