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難波宮(なにわのみや) 

 先日の記事では、百舌鳥(もず)古墳群と古市古墳群、所謂 応神大王から武列大王までの河内王朝にゆかりの場所を巡りました。応神大王の難波大隅宮、仁徳大王の難波高津宮と現在場所は確定していませんが、多分上町台地の何処かであったろうと想定されています。

 確実に発掘作業で明らかなのは、難波宮であります。現在の大阪城の南の場所に飛鳥時代から奈良時代にかけて存在した宮跡が発掘されています。正確に言えば大化の改新で軽皇子が即位し孝徳天皇が難波に遷都した難波長柄豊埼宮は652年に完成した。

 そして、奈良時代では聖武天皇が遷都した744年の難波京が有名です。発掘結果を踏まえると飛鳥時代の宮跡を前期難波宮と呼び奈良時代の宮跡を後期難波宮と呼んでいるようで、重層して遺跡は発掘されたようです。

 参考 難波宮

 グーグルアース 難波宮「Naniwanomiya.kmz」をダウンロード

 大阪市文化財協会の難波宮を参考に前期難波宮と後期難波宮を観ていただければ、如何に立派な都が存在していたかが判ると思いますね。桓武天皇が長岡京に遷都する時にこの難波京の建物を全て淀川を経由して長岡に持ち去り一夜城ではないけど、短期間に長岡京を作り上げた事は有名な話です。

 難波と大和の動脈は水路では大和川が利用され(当時の大和川は現在と異なり上町台地の東に注いでいた)陸路は何と難波京の朱雀大路が真っ直ぐ南下し幅18メータの巨大な道が現在の堺市金岡町あたりまで直線道路が存在し、そこから東に竹ノ内街道を経由し奈良盆地に通じていたそうだ。所謂、難波大道(だいどう)と呼ばれる官道ですね。

Naniwadaidou2 瀬戸内海航路を利用し大陸の物資は難波津で管理され、水路、陸路で奈良盆地に運ばれた重要な物流拠点だった訳ですね。九州を完全に制圧したあとのヤマト王権はこの瀬戸内海航路は重要だった。

 一方、日本海ルートでは若狭、但馬、方面から琵琶湖の水路を利用した大陸貿易ルートで栄えたのが琵琶湖、宇治川、葛野川、木津川、淀川を利用した近畿北部地域の豪族が存在したのでしょうね。このルートは九州王権ととは関係なく直接大陸と交易出来た特徴があります。

 さて、この難波を重要視したのは近世に於いては豊臣秀吉でしたね。難波宮の跡に大阪城を建設し大規模な東アジアの王都を建設したのです。

 (難波とは何だろう)

 難波は速浪、速花とも書きますね、所でこの語源は何なんでしょうか。直木孝次郎氏の『古代を考える 難波』吉川弘文館では以下のような記述があります。

 ・日本書紀では神武天皇が難波埼に来た時に浪が激しく浪速、浪花と名前がついた。その後訛りて難波と    なったと。

 ・しかし、大阪湾の浪は激しくないし、潮流も激しくない事から昭和4年に「日本古語大辞典」では『ナ(魚)ニハ(庭) 魚が多く住む海』という説が発表された。

 ・しかし、その後、自然地理学が考古学の進化により古代では大阪平野の内陸部に大きな潟湖(河内湖)が存在し満潮になると大阪湾から潮が逆流して河内湖の水位を上昇させ、干潮時には激しい勢いで河内湖から大阪湾に目がけて潮が流れるという事が判明した。これが、日本書紀に述べる「奔潮ありて はなはだ急」の記述ではないかという。

 ・それ以外の説としては、河内湖の静かな海を指して、ナミ(波)ニハ(庭)ではないかという説もあるそうです。それ以外の説では、上町台地の西方に沢山の浜がありナミニハ(並庭)が語源とする説もあるらしい。

 ・朝鮮語で解釈する説もあり、大和岩雄さんの説ではナニハのナは太陽を意味するナルを語源にし、太陽を迎える場所、祭祀をする場所という意味らしい。

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百舌鳥古墳群・古市古墳群

Photo  11月に帰省した折、義妹の義父の通夜があり河内松原に出かけた。そこは倭の五王が君臨した河内王朝の故郷でした。西に百舌鳥古墳群があり、東に古市古墳群が存在しています。現在、両古墳群を含めて世界遺産に登録すべく準備が進められている。

 グーグルアース 大仙古墳(伝:仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵)

「Daisenryou.kmz」をダウンロード

 宮内庁では一番北の古墳(田出井山古墳)を百舌鳥耳原北陵(もずみみはらのきたの みささぎ)と呼び反正天皇陵と定め、真ん中の世界最大の古墳と呼ばれる大仙(だいせん)古墳を百舌鳥耳原中陵と呼び仁徳天皇陵と決め、一番南に位置する古墳(上石津ミサンザイ古墳)を百舌鳥耳原南陵と呼び履中天皇陵と定めている。

 しかし、考古学の世界では認めていないようですね、出土物から南陵→中陵→北陵と年代は進み時代が合わないという結論だそうだ。しかし、宮内庁が立ち入り調査を拒否しているので、科学調査が出来ないのが問題となっている。

Photo_2 東の方角には古市古墳群が存在します。こちらの古墳群の方が古い時代のものだそうですね。中心は大仙古墳よりも土の量と表面積では凌駕する巨大古墳である応神天皇陵とみなされている誉田御廟山古墳(ほんだごびょうやまこふん)が盟主であります。

 5世紀初頭に築造と想定されており、河内王朝建国の祖としては十分な威厳があります。現在、百舌鳥古墳群、古市古墳群のすぐ北を東西に大和川が流れているが、これは近世に掘削されたものであり、当時は古市古墳群の東から北に流れており流域は氾濫する湿地帯でした。半島のように突き出した上町台地、今の大阪城がある近辺に河内王朝の宮が存在したと想定されている。

 応神天皇の難波大隅宮、仁徳天皇の難波高津宮は上町台地に存在し、難波津に近接していたという。大陸との貿易船が瀬戸内海を航行し到着する場所である。

Photo_3  ヤマト王権は三輪山の近くで発生し崇神王朝の時代が続いたが、5世紀に王朝は交代し奈良から河内に場所が移りました。瀬戸内海ルートを抑え大和川を利用し飛鳥川を利用して物資は奈良に運ばれたと想定されています。

 応神天皇の時代から古墳は巨大化し朝鮮半島、中国との交易が活発化します。物部氏も大活躍を始めるのですね。旧大和川流域には物部氏の本拠が築かれます、現在の東大阪市衣摺のあたりだそうですね。

Photo_4  この河内王朝も武列天皇を最後に王朝は倒れ、継体天皇が樟葉の宮で即位する事になり南山背方面に王朝の中心は移るのです。河内王朝は倭の五王と呼ばれ中国、朝鮮半島との国際交流を活発化させヤマト王権の地位と版図を拡大した王朝でした。

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北海道紀行 冬の旭山動物園

 娘の家族が札幌に移住して以来、1年半の間にもう5回も訪問してしまった。

 過去記事 冬の北海道紀行 その1(旭山動物園)

 過去記事 冬の旭山動物園(ペンギンの行進)

 過去記事 札幌雪まつり(準備状況)

 過去記事 札幌時計台とテレビ塔

 過去記事 冬の藻岩山

200812hokkaido_016  冬の旭山動物園は二回目です、今年の1月にペンギンの行進を見るために出かけました。今回は未だ雪の量が少なく見ることが出来ません。孫が札幌の私たち夫婦のホテルに宿泊していたので、連れ出してツアーに参加した。

 マイフォト 冬の旭山動物園(2008年12月)

 マイフォト 冬の旭山動物園(2008年1月)

 札幌から2時間程度で旭山動物園には到着します。しかし、高速道路は雪で制限速度が50キロですから、雪の按配で到着時間は変わります。途中で雪が降ってきました。動物園周辺はマイナス5度でしたね。

 

アザラシ すいすいアザラシのもぐもぐタイムを観て、北極熊の堪能な泳ぎを観て、ペンギン館の
魚くれ~~もぐもぐタイムを観る。お昼は私は味噌ラーメンを頂きました。
魚を食べる北極熊途中から雪が激しく降り始めました。子供は元気、爺は疲れがでてきましたね。(笑)
黒豹楽しい動物園も冬は3時半に閉じるので、3時のバスで札幌に戻りました。

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Jo君の故郷 物部氏の故郷(古代史編)

 明日から札幌に出かけます。5日間程度、札幌市内のホテルに滞在する予定であります。ところが昨夜から風邪の症状がでて寝込んでおります。この分では札幌のホテルで寝た状態かもしれませんね。孫の誕生日が迫っているので、呼ばれたのです。

 最近、原島礼二先生の『邪馬台国から 古墳の発生へ』六興出版 という本を読んでおり私の故郷に関する記述もありメモを残します。私が関心をひいたのは崇神天皇のお母さんの故郷が、あの神武天皇より先に交野の磐船峠(現、磐船神社)に降臨し物部氏の祖となったニギハヤヒさんの一族で、私の故郷近くの天の川流域であるという話です。

Jofurusato  写真の一番南の位置に磐船神社がありますね。天野川流域には4世紀から5世紀の古墳群が沢山存在しています。上流から交野森古墳群。前方後円墳5基、円墳三基、特に雷塚古墳は全長110メータの古墳で4世紀中頃です。向井山古墳は全長80メータ等々が存在します。

Mononobenofurusato 雷塚古墳は随分と古く、4世紀はじめの頃まで遡れる可能性があると原島氏は述べています。

天野川をさらに下ると、禁野車塚古墳があります。全長110メータ5世紀の初め頃です。北3キロには私が子供の頃から遊んだ牧野車塚古墳、全長108メータ5世紀前半の前方後円墳があります。

 天野川河口、淀川に注ぎ込む近く枚方公園駅東に三角縁神獣鏡を出土した万年寺山古墳があり4世紀の古墳として注目されているそうです。4世紀でも古い時期の古墳だそうで、この地域名が伊加賀(いかが)と呼ばれ古代の河内国茨田(まんだ)郡伊香郷と古代から『イカガ』とよばれていたそうだ。

 『イカガシコメ』 物部氏祖

 書紀の記述によれば三輪王朝を築いた崇神天皇の母は伊香色謎命(イカガ シコメノ ミコト)とある。古事記も同様である。そして物部氏の祖と記紀では述べる。

 最近、歴史読本の11月号の『先代旧事本紀』特集を読み、特に第5巻の天神本紀の読み下し文を読んでみました。ニギハヤヒが天神の命をうけて交野の磐船峠に降臨したと書いてあります(河内の国の河上のいかるがの峰にいます)。巨大な船形の岩があり天の磐船と呼ばれています。

 崇神天皇が君臨された時代を4世紀とすれば、彼を送りだした母体である物部氏の拠点である天野川流域の古墳群が4世紀、しかも前半の世紀であるという事実が存在すれば考古学から記紀、旧事紀を証明する事になるのではないでしょうか。

 原島先生は枚方の天野川下流域の、イカガという古い土地の名前が存在する事と天野川流域の数多くの4世紀から5世紀にかけての古墳群の発掘成果より、記紀の崇神天皇の母の故郷は物部氏の故郷である天野川流域であり、記紀の記述は事実ではなかったかと推論されています。

 磐船神社 グーグルアース「Iwafunejinjya.kmz」をダウンロード

 氏は、物部氏の本宗八尾市一帯であるが、交野・枚方グループは物部八十氏(やそうじ)とも言われる物部集団のうち、最古のグループに属していたのではないかと述べています。従い、そのグループ出身の女性イカガシコメが、4世紀の前半か後半頃、山辺の道周辺に本拠を置く有力な王の妻になっていて変ではないという。

 参考記事 MuBlog 磐船神社

 参考記事 JoBlog七夕の故郷

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箱根旧街道(鎌倉古道) 湯坂道編

 マイフォト 箱根旧街道 湯坂道(鎌倉古道)編

 私は朝の5時頃には起床し、温泉に浸かりウロウロしてると岩ちゃんも起きて来て、温泉に行く。二人で朝からビールを飲んでしまった。7時半より朝食です、バイキング形式で私はおかゆにしました。沢山のおかずが並んでいます、ともかく腹が減っては戦は出来ぬと食べる。

 4人で二部屋を借り、焼酎1本を飲んで会計は5万100円でした。一人1万2千円少しですね。インターネットで予約したので、一人5百円割引でした。ただ、電話で岩ちゃんの誕生日なので、特別に誕生会の料理かケーキをお願いしたが、それは出来ないとの話でした。

 朝8時30分頃に旅籠を出発です、小田原行きのバスに乗り二つ目のバス停「湯の坂道入口」で下車鎌倉古道に挑戦となりました。

航空写真 湯坂道(鎌倉古道)グーグルアースの写真に赤く線をひきましたが、これが湯坂道(鎌倉古道)です。
湯坂道 鎌倉古道これの方が判り易いかもしれませんね。先ず、鷹巣山を目指します。行程10分の登り道です。
鷹巣山城跡 家康も駐屯した
鷹巣山にて(湯坂道 鎌倉古道)秀吉の小田原城攻めの時に鷹之巣城に家康も駐屯していたといいます。
浅間山を目指す 鷹巣山から一気に鞍部に降り、浅間山を目指します。この下りの道は急で登りは大変だろうと推測します。浅間山への登りは大したことがありません、周りに紫陽花の木が並木のように並び梅雨の季節は素晴らしいと思います。
浅間山 宮の下、小涌谷分岐 浅間山です、ここで小涌谷、宮の下へ下るルートとの分岐があります。我々は湯本まで尾根道を歩くルートを選択しました。
浅間山山頂浅間山山頂です、江戸時代までは下鷹巣山と呼ばれていたそうですね。

 

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箱根神社と芦之湯温泉

 お昼頃には芦ノ湖に到着してしまい、宴会するには早すぎるという結論で箱根神社参詣する事になりました。

200812hakone_106 200812hakone_085  箱根神社は樹齢300年を超す杉の大木で覆われた杜でした。歴史は古いようですが、元々は駒ヶ岳に元宮があり里宮としてここに鎮座されている山岳信仰の系統ではないかと推察されます。

200812hakone_081  駒ヶ岳の北方に鎮座される神山(1437メータ)の山が御神体ではないでしょうか。駒の元宮から遥拝し祭祀をしたと考えられます。

頼朝の碑がありました。石橋山の合戦で敗退し、頼朝は箱根権現の別当を頼り無事奇跡的に助かったと言う。鎌倉幕府ゆかりの権現(神社)となりますね。

200812hakone_084 200812hakone_086 200812hakone_087  箱根権現と呼ばれていた時代に曽我兄弟とも縁が深いようです。弟の五郎が稚児をしていたようですね、そして兄が別当に頼み元服を許されたという。

 二人は富士のすそ野で本懐を遂げ父の敵を討つわけですが、兄は戦いで死亡、弟も処刑されるという悲しい話です。

 稚児から元服し本懐を遂げる話は鞍馬の牛若丸の話に似ていませんか。当時の山岳信仰と武士との関わりに興味が湧きます。

200812hakone_088 曽我神社がありました。関東の武士団にとり箱根権現は特別な存在であったと思われます。

200812hakone_089  200812hakone_102 4人で記念撮影です。今日の無事を感謝し明日の湯坂道のトレッキングの無事を祈りました。

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箱根旧街道(江戸古道、鎌倉古道) 旧東海道編

 マイフォト 箱根旧街道(江戸古道 旧東海道編)

 恵比寿のベトナムレストラン『We』の会合で幹事を拝命し、第一回山と温泉の旅企画を任された。場所は箱根旧街道と温泉で、ルートは江戸時代に開設された箱根八里の旧東海道と鎌倉時代の旧東海道である湯坂道への挑戦でした。温泉は、このルートを歩くには芦の湯が最適と判断しインターネットで調べ、美肌の湯に魅惑され、芦の湯の紀伊国屋に決めた。

 メンバーの小島さんが、昔の大学の山岳部の仲間と10月にキリマンジャロに挑戦されるので、無事帰国したら12月に開催しようと決まった。彼の壮行会を開催した時に、湯の坂ルートと旧東海道(江戸古道)のルートは承認された。但し、歩く順番は湯本から旧東海道(江戸古道)のルートを登り、芦の湖に抜け芦の湯で宿泊、翌日に湯坂道を下るルートに決まった。

 12月7日町田8時通過のロマンスカーを予約し新宿から古河さん、岩ちゃんが乗り込み、小島さんと私は町田から乗り込んだ。快晴の日本晴れ、絶好のトレッキング日和である。車窓からは真白き富士が目の前に広がっていた。

 (湯本から畑宿へ)

畑宿まで1.3キロ地点から歩き始めた 湯本からバスに乗り、畑宿まで1.3キロの地点で下車する事になりました。途中沢山の団体の旅行客が乗り込み、通勤電車のありさま、下車出来ない押しくらまんじゅう状態。遂に、目的の駅では下車出来ず一駅乗り過ごした。しかし、これが幸いし直ぐに登山道、旧東海道にとりかかれたのは幸いでした。
紅葉が少し残っていました 石畳の道を歩き始めると、僅かですが未だ紅葉が残っていました。石畳の道は滑り易く、歩くのに神経を使いますね。
今日は赤い線 赤に線が今日歩く湯本から芦の湖までの旧東海道(江戸古道)で箱根の芦の湯から鷹巣山、浅間山、湯坂山を越え湯本に通じる道が鎌倉時代の東海道である湯坂道で、翌日その道を歩く予定です。
石畳の構造 石畳の道は谷側に木を植え土砂の流れを食い止め、道路は二層構造の石を敷き詰め縦に排水溝を作るという見事な土木工学で出来ているんですね。
斜めの排水路 構造 斜めの排水路の構造も素晴らしいです。江戸時代の人は随分と土木工学に優れていたのです。
甘いものはダメな古河さん 畑宿に到着です。休息をとりました、私は甘酒を注文しました。店のおじさんは随分と多弁で、いろんな情報を教えてくれました。情報茶屋という按配でした。

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箱根旧街道(江戸古道、鎌倉古道) 無事踏破

  日曜日早朝に新横浜から町田にでて、ロマンスカーにて湯本へ行き、芦の湯で一泊し無事、江戸時代の旧街道と鎌倉時代の旧街道を踏破し横浜に戻りました。

 古河さん、小島さん、岩ちゃん、Joの4人の楽しいパーテイでした。そのうち、山行記録を記事にしたいと思います。箱根旧街道に興味のある人には参考になると思います。

200812hakone_001  箱根湯本駅からバスに乗り、畑宿まで1.3キロの地点で下車し江戸時代に切り開かれた箱根八里の旧街道、石畳の道を登った。

途中、畑宿の茶屋で休息し、急坂を一気に登り甘酒茶屋に到着、そこで又、休息をとり芦の湖畔を目指した。

200812hakone_102  時間に余裕があり、箱根神社に参詣し昼食とした。

美味しい蕎麦とビールと熱燗で初日の山登りの無事を祝い宴会となった。バスで、芦の湯の旅館を目指した。

 二日目は湯の坂道(鎌倉時代の箱根古道)に挑戦する事になり鷹巣山、浅間山を越え尾根筋を湯本まで下る、厳しいルートを歩くことになった。

200812hakone_113  鷹巣城跡での写真です。標高834メータの山ですが、昔ここには城が築かれたようです。北条氏が秀吉が攻めて来るのに備えた山城跡ですね。

 最初と最後が厳しい下りの道でしたが、概ねおだやかな尾根筋の快適な山歩きでした。

 最後に、湯本の『はつ花 蕎麦』にて乾杯となりました。楽しい旅となりました。

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昭和48年(1973年)に存在した課の同窓会

 35年前の富士通 電子システム開発部 第三システム部 第二システム課 名簿(作成日時 昭和48年9月21日)の古文書に従い昨夜、東京築地 富士通築地クラブにて同窓会が開催された。

 課長 加藤榮護(兼務) 課員109名の組織であった。109名の正社員の課員がいる職場で課長が兼務というのは如何に当時の富士通は管理職の人材が存在しなかったかが判りますね。実質課長職は戸ヶ崎実さんでした。卒年37年ですそして、播磨正博さん、辻博司さん、木島政夫さん、塩出俊一さんが幹部クラス。

 あとは、私の1年先輩クラスがおられて同期の上岡さん、哲ちゃん、吉村さんという按配です。入社して4年目で既に数十名を指揮する立場に無理やりなっていたんですね。これが、コンピュータ黎明期の富士通のオンラインシステム開発部隊の現状でした。

 既に4名が故人となっています。昨夜集結したのは25名です。

 早めに会場に着くと、既に辻先輩と戸田和夫先輩がおられ、戸田先輩は私の大学の先輩でもあります。『筒井君、今回 本を出版したんや、一冊千円でえ~から買え』と、いきなり押し売りに出会い、財布を取り出した。彼は、大阪在住で未だ仕事は現役です。本を売る為に同窓会に出席したはるんや~~。関西人はホンマきつい。

 ちなみに本は『ITマネージャーのお願い 牧歌舎』で彼が富士通を退職したあと役員で迎えられた会社で社員に延々と書き送った手紙(メール)を本にしたようです。戸田先輩は大学の先輩ということもあり、公私によく面倒をみて頂きました。感謝しています。

その後、哲ちゃんは直ぐに結婚し続々と若くして結婚ブームが起き、私も数年後に見合で結婚する事になりました。確か主賓は戸ヶ崎さん(その時は課長)で、辻さんも大阪の結婚式場まで駆け付けて頂きました。

 加藤榮護さんも参加されていました、ピンクのシャツを着て若々しいいでたち、明日はゴルフだとお元気、戸ヶ崎さんは肝臓を悪くされており酒はダメでしたが、古武道の居合抜き4段の腕前です。今回は会場の天井が低く危険なので、模範演武はありませんでした、次回に期待しましょう。写真旅行に凝っておられるようでした。辻先輩もお元気で、数か月前に自由が丘で宴会をしました。

 昭和48年とはどんな時代だったのでしょうか。

 参考記事 昭和48年回想記録

 浅間山噴火し、国労動労が激しく順法闘争を繰り返していました。ブルース・りーが香港で急死し、韓国大統領候補の金大中さんが拉致され、銀行員の女性が九億円の横領事件が起こり、江崎玲於奈さんがノーベル物理学賞を受賞。そして、オイルショックで尼崎ではトイレット・ペーパを買い求める主婦でパニックが起こった。幻の動物 ツチノコが話題になる。

 書籍では日本沈没がベストセラーとなり政情不安を反映したような時代でした。私は遠藤周作さん(狐狸庵先生)の本を読んでいた時代です。そして、歌の世界では

 学生街の喫茶店(ガロ)

 こころの旅(チューリップ)

 22才のわかれ(風 伊勢正三)

 赤い風船(浅田美代子)

 草原の輝き(アグネスチャン)

 青い果実(山口百恵)

 どうですか、懐かしいですね。沢山の歌番組がテレビで放映されていたんですね。

赤とんぼが数年後に結成されるのです。この109名を擁する課には山小屋管理人、中村会長、千葉のラジコン親父、清ちゃん、Jo君と5名も既に存在していたんですね。わこちゃんは未だ入社していませんでした。

 幹事団のてっちゃんのブログを参考にしてください、昨夜の記念写真が収録されています。

 てっちゃんのブログ COP会2008年

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2008年 Jo君事件簿(続7月編)

 7月は色々ありました、恒例の赤とんぼ夏合宿もです。

 『赤とんぼ 2008年夏合宿』

 ・赤とんぼ 2008年夏合宿

 ・赤とんぼ 2008年夏合宿 追加写真集

 『長江デルタ紀行 無錫・蘇州・上海への旅』

 ・無錫で台風に遭遇

 ・海外から日本を眺める

 『北京 五輪が始まる』

 ・北京オリンピックが始まる

 ・最高視聴率47.7%

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2008年 Jo君事件簿(7月編)

  7月にはフランスとノルウエー紀行を致しました。

 『フランス パリ紀行』

 ・熟年バックパッカーの旅にでます

 ・熟年バックパッカーの旅から帰りました

 ・世界遺産シャルトル大聖堂

 ・世界遺産 シャルトル大聖堂(そのⅡ)

 ・世界遺産 ベルサイユ宮殿

 ・シャルトル・ベルサイユ 追加写真集

 ・モネの家 ジヴェルニー

 ・オランジュリー美術館とコンコルド広場

 ・パリ点描

 ・オルセー美術館

 ・オルセー美術館からオスロへ(追加記事)

 ・フランス パリ 旅のスナップ

 『ノルウエー紀行』

 ・オスロ ムンク美術館

 ・オスロ バイキング船博物館

 ・オスロ市庁舎とアルタへ

 ・世界遺産 アルタの岩絵

 ・アルタでの白夜

 ・アルタからオスロ経由 ベルゲン鉄道&バスでフロムへ

 ・フィヨルドツアー オスロからフロムへ

 ・フィヨルドツアー フロム風景

 ・フィヨルドツアー フロム鉄道

 ・フィヨルドツアー フロムからグドヴァンゲンへ

 ・フィヨルドツアー グドヴァンゲンからベルゲンへ

 ・フィヨルドツアー 古都ベルゲン

 ・フィヨルドツアー ベルゲンからスタバンゲルへ

 ・フィヨルドツアー リーセフィヨルド・トレッキング

 ・フィヨルドツアー スタバンゲルからオスロへ

 ・フィヨルドツアー コン・ティキ博物館

 ・フィヨルドツアー ヴイーゲラン公園(フログナー公園)

 ・フィヨルドツアー ノルウエー民族博物館 ゴル・スターブ教

 ・ノルウエー民族博物館 写真集

 ・フィヨルドツアー ヴァング教会

 ・フィヨルドツアー ノルウエーから学ぶ

 ・ノルウエーの思い出 ベルゲンの港

 ・北極圏 アルタの思い出

 ・ノルウエー紀行 追加写真集

 『フランス ブルゴーニュ紀行』

 ・フランス ブルゴーニュ紀行

 ・フランス ブルゴーニュ紀行 世界遺産 ヴェズレー マドレーヌ聖堂

 ・フランス ブルゴーニュ紀行 朝市点描

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古代の武蔵国 埼玉稲荷山古墳

 先月、埼玉(さきたま)稲荷山古墳と周辺の古墳群を訪れた。特に稲荷山古墳から出土した金象がん銘の鉄剣は115文字が刻まれていました。最近『古代の武蔵 稲荷山古墳の時代とその後 森田悌著 吉川弘文館』を読んでいます。少しメモを残します。

 承前 ワカタケル大王 黒岩重吾

 承前 古代の関東

 承前 鹿島神宮に関するメモ

 承前 さきたま古墳群 探訪記 稲荷山古墳

 森田悌先生の話を自分なりに纏めると以下のようになります。

 『先代旧事本紀が描く武蔵の国造』

 ・旧事紀における『国造本紀』は信ぴょう性がある。しかし、ムサシ国造について三国造が記述されているが、太田亮氏の「姓氏家系大辞典」の説を妥当とし二つの国造が存在したと結論する。チチブの国造とムサシの国造である。

  チチブの国造・・・崇神大王の時代に創設、現在の秩父郡を版図比較的小規模。

  ムサシの国造・・・成務大王の時代に創設、国造は出雲系のエタモヒノ命(みこと)である。その後どのように継続されたか資料が無い。武蔵一の宮氷川神社の社家である西角井家の系図は信ぴょう性に乏しいと結論。

  エタモヒノ命につづく確実な文献上にみえるムサシ国造は『日本書紀』第27代安閑天皇の条の記事である。

   武蔵国造笠原直使主と同族小杵と、国造を相争ひて、年経るに決め難し。・・・・云々と続く

   『Jo君解説』以前の埼玉古墳群記事で既に紹介しましたね、安閑大王の時代にムサシの国造家で内紛が起こり、多摩川近辺を拠点とした小杵(おき)と埼玉の笠原直使主(おみ)が争い、小杵が毛野君小熊と内通し使主を殺そうとしたが、失敗し逆にヤマト王権により滅ぼされたという。使主が国造に任命されるが、屯倉4か所献上しなければならなかった。

   森田悌氏は笠原とは『和名抄』の埼玉郡笠原郷の故地であり、埼玉古墳群との間は5キロしか離れていない。従い埼玉古墳群は武蔵国造の笠原の直の一族の墓と考える。成務大王の時代にムサシの国造に任命された出雲系のエタモヒノ命の家系が断絶し、その近親の笠原直使主と同族の小杵が継承争いをした。その後、推古朝に至り、武蔵国から上京し聖徳太子の舎人であった物部連(直)兄麻呂が国造に任命された。彼も出雲系であった。

 『辛亥銘鉄剣』

 銘文の内容について 森田悌氏記述抜粋

 辛亥の年にヲワケノ臣(おみ)が上祖オホヒコ以来7代の祖先の名を列挙し、杖刀人の首として世々大王に仕えてきており、ワカタケル大王(雄略大王)が磯城に宮居している時ヲワケノ臣が天下を左治した、ここに百練の利刀を作り、自分が大王に奉仕してきている由来の根源を記す、という内容である。

 現在学会では二つの代表的説が存在する。

 「ヲワケ一族を武蔵国造とみる説 井上光貞氏」

 ・武蔵国造の一族であるヲワケノ臣らは舎人として天皇の近側に仕え、天皇の身を守る光栄感を基に115字の銘文を持つ鉄剣を作らせたという説。

 「ヲワケ一族を大和朝廷の有力豪族とみる説 黛弘道氏、原島礼二氏、田中卓氏」

 ・オホヒコをイハカムツカリノ命の祖父である大彦命に当たるとみ、ヲワケノ臣に至る系譜をオホヒコノ命を祖とする阿倍氏ないし膳氏に関わるものと考え、中央豪族に属するヲワケノ臣が鉄剣を武蔵国造に下賜するなり、中央豪族が武蔵国に派遣されそこで死んだのち稲荷山に葬られたのではないかとする説。

 森田悌氏は、鉄剣銘のヲワケノ臣が左治天下という文言に注目し、舎人の地位で左治とは仰々しい、中央有力豪族の言葉ととらえるべきと考え、ヲワケ一族を中央豪族とみる説を支持している。オホヒコは孝元天皇の子である大彦命であり、ヲワケノ臣の家系は阿倍氏や膳氏だとする。

 又、森田氏は大型古墳の変遷をみると、4,5世紀の武蔵国の支配者は多摩川方面に君臨し、6世紀以降権力の中心は北武蔵に移行したとみる。北武蔵の勢力が勝利し埼玉方面に6世紀頃から突如出現したと考える。

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2008年 Jo君事件簿(6月編)

6月は梅雨の季節、どんな事があったでしょうか。

 『尾瀬紀行』

 ・写真アルバム 尾瀬紀行 尾瀬沼編

 ・尾瀬から無事帰りました。

 ・夏の思い出 尾瀬紀行(1)

 ・夏の思い出 尾瀬紀行(2)

 ・夏の思い出 尾瀬紀行(3)

 『世の中事件簿』

 ・戦後日本の象徴 鶴丸

 ・ICタグ ICカード時代の到来

 ・日米社会保障協定

 ・真夏日の薬師寺展

 ・秋葉の悲惨な事件

 ・蜜蜂達の警告

 ・須見祥子さん個展

 ・キリ番プレゼント到着

 『古代史関連』

 ・古代の音韻

 ・継体大王(ヲホド王)関係メモ

 ・日本人は何故刺身が好きか

 ・日本書紀を書いたのは誰か

 ・太王四神記 感想

 『ラジコン関係』

 ・空撮の議論と準備

 ・ハノイのラジコン青年暴挙

 ・雨あがりの日曜日

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近江 残された謎(今後の課題 その3)

 前回は継体大王時代の巨大石室を持ち豊富な副葬品が出土した、ヤマト大王クラスの甲山古墳(かぶとやま)の話、それと、弥生時代の日本一の巨大な銅鐸の発掘と沢山の銅鐸がひしめく野洲川ほとりの記事を書きました。

 『三上山(近江富士)と御上神社』

Photo  琵琶湖周辺を歩いていると必ず見える美しい三角錐の山を拝する事が出来ます。美しい姿の近江富士ですね。その麓に三輪山の麓に大神神社があるように御上神社(みかみじんじゃ)が鎮座しています。山が御神体なのです。

 標高432メータ、古事記では天之御影命(あめの みかげのみこと)が降臨したとある。刀鍛冶の祖神とされ製鉄、鍛冶に関わる専門集団の神のようです。神話によれば、天の岩戸にアマテラスが隠れた時に、刀剣や金属系祭具を作り祭ったのが天之御影命だそうで、お父さんは天津彦根神(アマテラスの子供、水神、三重県多度大社祭神)だという。

 又、御影命は安国造(野洲の国造)の祖となっています。

 御影命の娘が息長水依比売(おきなが みずよりひめ)で開化大王の妃となっている。歴史上一番有名なのは息長帯比売命(おきなが たらしひめ)神功皇后ですね。息長氏は琵琶湖沿岸が拠点であった事を伺わせますね。

 しかし、三上=御上(みかみ)とは凄い名前と思いませんか。み=これは尊敬をこめた接頭語ですよね、ということは神(かみ)そのもので大神神社の三輪さんは、ワ(倭)さんとなりますね。(笑)

 この山はムカデ(百足)山とも呼ばれているそうです。時代は下り、平将門を打ち破った藤原秀郷という武将が三上山のムカデを退治した話です。彼が勢多(瀬田)の唐橋を渡ろうとすると巨大な蛇が横たわっていたそうです。彼は、蛇の上を歩いて渡ったそうですが、その蛇は竜神で娘の姿に変化し、彼の勇気を頼み三上山を七巻しているムカデを退治してくれと懇願したそうだ。

 彼は弓でムカデを退治し一生困らない米俵を竜神から貰ったので、俵藤太とも呼ばれるようになったそうです。又、竜神に将門討伐の秘策を受け無事討伐できたという。

 参考文献 御上神社

鍛冶の伝統は脈々と引き続き、戦国時代の国友の鉄砲鍛冶へと引き継がれたそうです。

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