さきたま古墳群探訪記 稲荷山古墳
突然に思い立ち、休日の早朝に家を飛び出し『さきたま古墳群 稲荷山古墳』見学の旅にでた。以前から興味のある古墳群であり、特に稲荷山古墳から出土した鉄剣銘には遥か河内王朝とこの関東の豪族が強い関係にあった物証として有名である。
鉄剣に刻まれた115文字の中で埋葬された豪族の先祖は代々杖刀人首(じょうとう じんしゅ=ヤマト王権の親衛隊長)であって、自分はワカタケル大王の親衛隊長をしていたと記述されている。刻まれたのは辛亥の年(471年)の事である。
既に崇神大王の時代から景行大王のヤマトの時代にヤマトタケルは関東に遠征しています。河内王朝の時代には完全に関東をヤマト王権は支配していたという物証です。特に、発掘された画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう 国宝)は倭の五王が南朝から下賜されたものと想定されている。 参考文献
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グーグルアース 稲荷山古墳
写真を観ますと利根川を挟んで北には毛野氏(けぬうじ)の毛野国(現在の群馬県、栃木県)が存在し太田天神山古墳(毛氏首長墓)と対峙していますね。ヤマト王権の親衛隊長はこの利根川を挟み対峙としていたのですね。さきたま古墳群は武蔵の国の北限の守りとして重要な役割だったのでしょうね。
当時の利根川は現在のように鹿島神宮の方面には流れていない、全て江戸湾に流れ込んでいた。江戸幕府は江戸の洪水を防ぐために水路を掘削し利根川を東に移動させ江戸に流れ込む水量を減らしたという。
元々が鬼怒川(毛野川)流域の稲作平野に拠点を築いたのが毛野氏である。未だヤマトに服属しない蝦夷も多く抱えた国であったそうだ。毛野氏の領国はその後分割され上毛野国と下毛野国と別れる。上野国と下野国であり毛州と呼ばれた。
資料館では安閑大王(継体大王の長男)の時に武蔵国造の笠原直使主が国造の地位を巡り南武蔵国の小杵(おぎ)と内紛を引き起こし、小杵が上毛国の小熊と通じたのでヤマトは小杵を戦争で打ち破ったという記述が日本書紀にありこの稲荷山古墳との関係が深いと述べる。
マイフォト さきたま古墳群 稲荷山古墳
参考 さきたま史跡の博物館
問題はこの『さきたま古墳群』は5世紀末に突然に出現する事です。従前からここに拠点があった訳ではない。この古墳の主は武蔵の国の従前の豪族なのか、それともヤマトが派遣した将軍であったのか未だ結論は出ていないそうです。
一番毛の国、利根川に近い場所にあるのが稲荷山古墳です、これが一番古い。その後円部の頂上に立つと360度の眺望が開け、遥か利根川北の毛の国の太田天神山古墳を眺める事が出来そうだ。
現在は8基であるが、昔は30基を越える古墳が存在したようだ。二重の周濠で巡る必要が何処にあったのだろうか。石田三成が忍城を水攻めする時に丸墓山古墳に砦を築いたというが、まさに古墳は城ではなかっただろうか。
古墳にヤマト王権から配布された、中国王朝(南朝)から頂いた鏡を埋め、大義の元に毛野国と対峙したのではないだろうか。
関東をヤマトが制圧するプロセスは出雲をヤマトが吉備と共に制圧した時から開始されたのではないだろうか。その頃には既に、出雲が進出していた武蔵の国と毛野国が存在していたと私は類推します。毛野国は未だ、出雲の勢力が制圧していなかったのではないでしょうか。
武蔵野国の古社を調べると殆どが、祭神がスサノオであります。即ち、出雲なのですね。本国が滅んでも、関東の出雲勢力はヤマトの言う事は聞かなかったでしょうね。そこでヤマトの将軍はヤマトタケルを始め遠征した。
私の類推では、出雲も手をつけなかった北方の脅威は毛野国だったと思います。利根川水系では稲荷山古墳あたりにヤマトの拠点を築く。そして、一方では鬼怒川(毛野川)水系が大陸に出る動脈である霞ヶ浦の出口である鹿島神宮と、対岸に香取神宮あたりにヤマト王権は、軍事拠点を置いたとみています。毛野国の封じ込め作戦ではないだろうか。
今度は鹿島神宮と香取神宮を訪問して調べたいと考えています。
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