近江 残された謎(今後の課題 その2)
本日は快晴、真白な富士がバルコニーから眺める事が出来ます。布団を干すには絶好の好天。衣干すちょう 天の香具山です。
さて、近江の深まる謎の続きでしたね。
『淡海(おうみ)の海、夕浪千鳥(ゆうなみ ちどり)、汝(な)が鳴けば、情(こころ)もしのに、古(いにしえ)思ほゆ』 柿本人麻呂
壬申の乱の20年後あたりで人麻呂が荒廃した大津の宮を眺め鎮魂の気持ちで歌った歌のようです。
『甲山古墳の謎』
琵琶湖の南東部分に野洲川が流れている。家内の実家がこの野洲川と琵琶湖を見下ろす高台に別荘を持っているので、何回か家族で宿泊していた。実はこの野洲川流域は古代より栄えた場所のようです。東京国立博物館で度肝を抜かされたのは、巨大な1メータを超える日本最大の銅鐸の展示でした。
この銅鐸は野洲で発掘されたものです。沢山の銅鐸が野洲一帯で発掘されている事は皆様も御承知の通りです。参考 東京国立博物館 銅鐸
弥生時代から野洲近辺には栄えた文化文明が存在したようですね。ところで、野洲町立歴史民俗資料館の近くに大岩山古墳群というのがあるようです。そこに6世紀前半の築造と考えられる甲山古墳が存在します。
参考 大岩山古墳群記事サイト
『滋賀県の歴史』によりますと、甲山(かぶとやま)古墳の石室は畿内の大王クラスの規模であるという。
墳丘は40メートル近い円墳で、石室は西に開口する全長約14メートル、奥壁を背にして右側に袖をもつ片袖式石室である。玄室長は約6.9メータ、同幅約3メータ、同高約3.3メータ、この石室規模は石舞台古墳や牧野古墳(ばくやこふん)、京都太秦の蛇塚古墳に次ぐものだ。豪華な副葬品の出土品で著名な藤ノ木古墳をしのぐ全国でも十指はいる規模を持つ。巨大な石棺は熊本県宇土半島産の阿蘇溶結凝灰岩で作られている。
発掘時の写真を眺めていると、版築工法で土の層が縞模様になっており中国の技術の影響を観ることができます。6世紀前半というと継体大王の時代であります、継体大王の墳墓は高槻の今城塚古墳と言われているが、彼の石棺も九州は阿蘇の凝灰岩を運んできた石材なのです。
継体大王時代の最大の政治危機は九州の筑紫の君磐井の反乱でした。朝鮮半島ではヤマトの鉄の供給元である加羅の国々が新羅により侵攻を受け、東国の毛野君が6万の兵を率いて奪還に向かおうとした。(新羅とすれば大伴金村が加羅の4国を百済の支配下に入る事を許した事情が影響していると思います)
磐井は新羅と連携し毛野君の軍勢が朝鮮半島に上陸する事を阻止する兵を筑紫で挙げたのだ。最終的には物部麁鹿火(あらかい)が磐井を制圧する。
ヤマト王権(継体王権)にとり九州を制圧した事は大きな政治的事件であったと考えられます。大陸との交易路を完全に制圧した事になった。継体大王の石棺も継体大王の縁故者と考えられる琵琶湖沿岸の野洲の首長の石棺もわざわざ九州から石材を遥か瀬戸内海を航行し運ばせたのだ。
鴨稲荷山古墳の埋葬者も継体大王と同じ時期の人物であり、後援者と考えられます。かれの場合は二上山から石棺の石材を運ばせたのでしたね。
当時の政治状況は実に朝鮮半島、中国王朝を見据えたグローバルな環境だったのは意外だと思いませんか。国際情勢と経済を支配出来る集団が政権を握れたのですね。





















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