第五回 三輪山セミナー(その参)
講演 「山辺ー上ッ道と古代の都・墳墓の風景」 水野正好
今回のセミナーの最後は、大阪弁まるだしの吉本芸人も顔負けの話術を持つ水野正好御大でした。邪馬台国奈良説の巨頭です。先生は奈良大学の学長も経験され今は大阪府文化財センターの理事長とか日本文化財科学学会長とか色々とご活躍です。
彼が育てた後輩が全国で発掘作業に関わり大きな成果を挙げているのも皆様承知の事であります。満員の聴講者を前に熱の入る、笑いが絶えない見事な講演でした。関西人は本当に話が上手ですね、学ぶところが多いですね。
18頁の資料を配られ真面目に卑弥呼の宮殿が存在した場所から崇神大王、垂仁大王の宮殿の存在場所をご説明された。全て上ッ道の線上に存在するのが特徴ですね。この上ッ道は幅が12メータもあり南北一直線の大きな道であったそうです。
ちなみに山辺の道は上ッ道の東側にありますが、これも幅12メータの南北に一直線の幹線道路であったそうです。我々が、現代で歩く山辺道はくねくねしてますが、これは観光用に作られた道だそうですよ。
水野正好先生の卑弥呼の宮殿については、すでに友人のMuBlogの筆者が掲載済みであります。
卑弥呼の宮殿 日本・歴史・古代 神々と天皇の宮都をさぐる
MuBlog掲載 水野正好先生の推定、卑弥呼宮殿地図
何故この場所を水野先生が推定されたかは、地名が大きいようです。ヤマト国、ヤマト郷、があればそこがヤマトの発祥の地である筈であると。この推定地は確かに大倭(おおやまと)神社が存在する場所で上ッ道が南北に朱雀大路の如く走り西に卑弥呼の楼閣が存在したと予言する。上ッ道を挟んで東に弟が政務する官庁街が存在したという。
先生の推測では卑弥呼の館は中国の礼制建築に従った巨大な楼閣を備えた建物であると想定されています。決して吉野ヶ里で復元されたような、ちゃちな楼閣では無いと説明されていました。
さて、この上ッ道を南に下ると崇神大王のシキミズガキ宮、垂仁大王のマキムクタマキ宮、そして箸墓古墳を貫くのです。
MuBlog参考 崇神大王シキミズガキ宮推定地
地図で判るように、南東から流れる初瀬川と北東から流れる巻向川に挟まれたデルタ地域であります。まさに水垣の場所ではないでしょうか。ここが都として繁栄したのは、初瀬川水運を利用して物資が運ばれ、ツバイ(海石榴市)はここらあたりの地名として古くは存在したと説明された。(現在は桜井市金屋)
この場所から真東に行き山辺の道にぶっつかります、茅原という場所がありますが、そこはヤマトトド(ト)ヒモモソヒメの祭場であったと説明。更に東に行くと三輪山の頂に達します。
さて、崇神大王の瑞垣の宮から上ッ道を北に行けば箸墓古墳に到達し、更に北に行くと景行大王のマキムクヒシロの宮が存在した。
更に北に上ッ道を行くと垂仁大王のマキムクタマキの宮になります。東には珠城山が存在していますので、このあたりと推定された。
先生の説によればまさに、卑弥呼からヤマト王権が確立した崇神王朝はこの上ッ道を朱雀大路として繁栄した場所であったという事になります。上ッ道と山辺の道を産業道路として巨大な古墳群が建設されました、この道路の役割は重要であったと力説されていた。
同時に、出雲族の勢力は強大であったと推測できます、出雲の神の三輪山の西に宮殿を構え出雲の国の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から発掘された膨大な青銅器と銅鐸群は出雲族がヤマトの王権を支える強大な力を持っていたと推定される。
まさに、中国、朝鮮半島との交易を支配しサプライチェーンの拠点として出雲の港は利用されていたのでしょうね。事実、発掘された銅剣、銅矛の鉛は中国で産出されたものである事がその後の研究でわかったそうです。
学者は普通は今まで判った事実しか述べない人が多い、しかし、水野先生は大胆な仮説をたて、後世の発掘に期待をかける人ではないでしょうか。
つい最近、Mublogでも紹介されていましたが、箸墓古墳の周濠が巨大なものであった事が発掘の結果判明したそうですね。まだまだ、これからも奈良は古代史ファンにとり目が離せない場所であるようです。
(追伸)
MuBlogにおける 卑弥呼の宮殿説
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Comments
Muは卑弥呼になったつもりで、かねがね宮殿を想像してきました。
ずばり。
http://maps.google.co.jp/maps?client=firefox-a&hl=ja&q=%E7%AE%B8%E5%A2%93&ie=UTF8&ll=34.538025,135.854273&spn=0.024675,0.054932&t=p&z=15
つまり、箸墓と三輪山頂上を結ぶ中天、標高で100~120mあたり一帯ですね。丁度、檜原神社の西くらいでしょうか。
理由
箸墓から三輪山を仰ぎみて、檜原神社へ歩く道すがら、そのように透視できたのです。
宮殿をどこに築くのかは、当時の人のイメージでしょう?
土地の買収額なんかは、それほど関係なかったはず。
結局、人間が作った宮殿なのです。卑弥呼になったつもりになれば、はっきり分かります。
歩いてみて、そう思いました。
もちろん、三輪山の西麓で、見晴らしのよい所、ある程度なだらかな平面があること、これが条件です。箸墓は、後で宮殿から見える位置に造ったのです。
あと残る問題は、箸墓の向きですね。前方から後円に向けての方角は穴師をさしています。墓が向かうところ、これが謎として残ります(笑)。
大体想像していますが、またいつかね。
Posted by: Mu | 2008.08.29 10:37 PM
Muさん おはよう御座います
昨夕から横浜は激しいゲリラ豪雨と雷に襲われました。夕方5時頃に外にでると、積乱雲が激しく発達していました。
凄い速度で雲が湧き上がるので、写真機を持ち出し撮影をしようとすると、あっという間に雲が流れてゆくのです。
子供のころには、経験したことが無い自然現象ですね。
さて、Muの卑弥呼宮殿説は記事の最後に掲載しました。基本的には三輪山を仰ぎ見る場所ですよね。
美しいシルエットの三輪山は太古から神聖な場所とされていたんでしょうね。
箸墓の周壕ですが、これは蓬莱山、神仙思想から考えると海に浮かぶ蓬莱山となりますから、海を思わせるほど巨大な池に浮かんでいたのでしょうね。
水はマキムク川の伏流水とか、幾らでも掘れば水が湧き出していたのと違いますかね。
Posted by: jo | 2008.08.30 08:04 AM