北河内と南山背の古代
私が生まれ育った地域の古代史について少し触れたいと思います。
参考 MuBlog筒城宮
紫香楽宮、恭仁京の遺跡探訪の旅を終わり、改めて木津川流域、宇治川流域、桂川流域、そして三本の川が合流する淀川流域を鳥瞰してみると古代より栄えた歴史を捉えることが出来ますね。昔は合流地点に大きな巨椋池がありました。
概略古代より歴史を辿ってみましょう。
三世紀末から4世紀初頭の頃、ヤマト王権が成立した頃に木津川流域に武埴安彦(たけはにやすひこ)の大きな勢力が存在した。椿井大塚山古墳からは三角縁神獣鏡が64面も出土しているが、多分に彼の墓ではないかと推測されている。
木津川とは木の津、即ち材木の港という意味ではないでしょうか。神武さんが熊野川を重要視したと同じで古代では材木は重要でした。製鉄業、船の建造、建築材料、等々の原材料として重要だったんでしょうね。古代のサプライチェーンは川がハイウエイでしたからね。
(崇神王権との大戦争)
日本書紀によればヤマト王権を確立した崇神大王(ミマキイリヒコ)に対して大陸との貿易路権益を巡る国内最大の内戦があったと伝える。相手は木津川流域の武埴安彦と奥さんの河内の吾田媛(あたひめ)である。吾田媛は鹿児島出身の河内隼人の女酋長であり、武埴安彦は木津川流域に拠点を持つ同じく隼人族の首領だそうです。
大河ドラマでは篤姫ですが、こちらは「あたひめ」ですね。吾田媛は大和に軍隊を率いて侵入し崇神大王の大軍と戦い壮絶な戦死を遂げる。武埴安彦は木津川からヤマトを目指すが戦死する。木津川は血で染まったという。木津川の戦いで崇神側で戦ったのが和邇氏(ワニ)であり宇治、木津川を獲得するのです。
(宇治天皇)
和邇氏は王仁とも呼ばれ、伽耶出身ですが元は山東半島の瑯耶の漢民族の王氏だと以前に御紹介しましたね。漢王朝が朝鮮半島に楽浪郡、帯方郡を設置した時に進出した一族ではないでしょうか。宇治川に進出した和邇氏はその後、崇神王朝が滅び河内王朝が難波に建設されると応神大王を助け和邇氏の娘に皇子を誕生させます。それが、菟道稚郎子(うじわけいらっこ)です。
彼は応神大王を継いで大王になる予定でしたが、記紀では仲姫命の息子の仁徳天皇に皇位を譲り自殺する事になっている。しかし、仁徳が即位するまで3年間のブランクがあり、その間は宇治天皇として即位していた可能性が高い。菟道稚郎子=宇治天皇は仁徳さんに殺されたと私は見ています。
(継体天皇即位)
応神大王から仁徳大王、そして雄略大王、武列大王と続いた所謂、河内王朝は終焉を迎えます。この期間は朝鮮半島の伽耶諸国と連携し朝鮮半島で活躍します。特に高句麗の広開土王との激闘は好太王碑文に刻まれている。河内王朝は中国の南朝と国際的には親密さを保持した王朝ですが、中国では北朝が優位に立ち南朝は滅びる運命にありました。
国際情勢に敏感で鉄の国内製造に成功した琵琶湖西岸の高島地域と日本海の越前を拠点とする豪族の王である継体大王がヤマトの王となる訳です。
継体大王は樟葉の宮で即位します。木津川、桂川、淀川を制圧し日本海航路、瀬戸内海航路を掌握する。百済との関係を重視する政策ととり、大伴金村、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)と連携しヤマトの王となる。木津川の筒城宮、弟国宮
で政務をとり最後に大和に入り、磐余玉穂宮となる。
(三王朝交代時に活躍)
古代日本のヤマト王権は三度、王朝が交代したという意見があります。崇神王朝(三輪王朝)、応神王朝(河内王朝)、継体王朝の三王朝です。北河内から南山背の地域の古代のハイウエイである淀川、木津川、宇治川、桂川流域の地域はこの王朝交代時に必ず重要な役割を果たした訳ですね。
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