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北河内と南山背の古代

  私が生まれ育った地域の古代史について少し触れたいと思います。

 参考 MuBlog 椿井大塚山古墳写真

 参考 MuBlog椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳

 参考 MuBlog莵道稚郎子(うじのわきいらっこ)墓

 参考 JoBlog木津川流域 隠された王朝

 参考 JoBlog心の故郷(北河内) 目次編

 参考 MuBlog筒城宮

Jo Photo  紫香楽宮、恭仁京の遺跡探訪の旅を終わり、改めて木津川流域、宇治川流域、桂川流域、そして三本の川が合流する淀川流域を鳥瞰してみると古代より栄えた歴史を捉えることが出来ますね。昔は合流地点に大きな巨椋池がありました。

概略古代より歴史を辿ってみましょう。

 三世紀末から4世紀初頭の頃、ヤマト王権が成立した頃に木津川流域に武埴安彦(たけはにやすひこ)の大きな勢力が存在した。椿井大塚山古墳からは三角縁神獣鏡が64面も出土しているが、多分に彼の墓ではないかと推測されている。

 木津川とは木の津、即ち材木の港という意味ではないでしょうか。神武さんが熊野川を重要視したと同じで古代では材木は重要でした。製鉄業、船の建造、建築材料、等々の原材料として重要だったんでしょうね。古代のサプライチェーンは川がハイウエイでしたからね。

 (崇神王権との大戦争)

 日本書紀によればヤマト王権を確立した崇神大王(ミマキイリヒコ)に対して大陸との貿易路権益を巡る国内最大の内戦があったと伝える。相手は木津川流域の武埴安彦と奥さんの河内の吾田媛(あたひめ)である。吾田媛は鹿児島出身の河内隼人の女酋長であり、武埴安彦は木津川流域に拠点を持つ同じく隼人族の首領だそうです。

 大河ドラマでは篤姫ですが、こちらは「あたひめ」ですね。吾田媛は大和に軍隊を率いて侵入し崇神大王の大軍と戦い壮絶な戦死を遂げる。武埴安彦は木津川からヤマトを目指すが戦死する。木津川は血で染まったという。木津川の戦いで崇神側で戦ったのが和邇氏(ワニ)であり宇治、木津川を獲得するのです。

  (宇治天皇)

 和邇氏は王仁とも呼ばれ、伽耶出身ですが元は山東半島の瑯耶の漢民族の王氏だと以前に御紹介しましたね。漢王朝が朝鮮半島に楽浪郡、帯方郡を設置した時に進出した一族ではないでしょうか。宇治川に進出した和邇氏はその後、崇神王朝が滅び河内王朝が難波に建設されると応神大王を助け和邇氏の娘に皇子を誕生させます。それが、菟道稚郎子(うじわけいらっこ)です。

 彼は応神大王を継いで大王になる予定でしたが、記紀では仲姫命の息子の仁徳天皇に皇位を譲り自殺する事になっている。しかし、仁徳が即位するまで3年間のブランクがあり、その間は宇治天皇として即位していた可能性が高い。菟道稚郎子=宇治天皇は仁徳さんに殺されたと私は見ています。

  (継体天皇即位)

 応神大王から仁徳大王、そして雄略大王、武列大王と続いた所謂、河内王朝は終焉を迎えます。この期間は朝鮮半島の伽耶諸国と連携し朝鮮半島で活躍します。特に高句麗の広開土王との激闘は好太王碑文に刻まれている。河内王朝は中国の南朝と国際的には親密さを保持した王朝ですが、中国では北朝が優位に立ち南朝は滅びる運命にありました。

 国際情勢に敏感で鉄の国内製造に成功した琵琶湖西岸の高島地域と日本海の越前を拠点とする豪族の王である継体大王がヤマトの王となる訳です。

 継体大王は樟葉の宮で即位します。木津川、桂川、淀川を制圧し日本海航路、瀬戸内海航路を掌握する。百済との関係を重視する政策ととり、大伴金村、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)と連携しヤマトの王となる。木津川の筒城宮、弟国宮
で政務をとり最後に大和に入り、磐余玉穂宮となる。

 (三王朝交代時に活躍)

 古代日本のヤマト王権は三度、王朝が交代したという意見があります。崇神王朝(三輪王朝)、応神王朝(河内王朝)、継体王朝の三王朝です。北河内から南山背の地域の古代のハイウエイである淀川、木津川、宇治川、桂川流域の地域はこの王朝交代時に必ず重要な役割を果たした訳ですね。

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五十番(豚まん) 神楽坂

 神楽坂 五十番(豚まん)

20085butaman_001 20085butaman_002  娘と家内が神楽坂に出かける用事があり、お土産に「五十番」の豚まんをぶら下げて帰宅した。

でかい方が「五目豚まん」580円、小さい方が「肉まん」360円です。今までこれほど美味しい豚まんに出会った事は無かった。生地はふんわり、優しく具が絶妙の味付けである。生まれて良かった至福の時間を過ごせた。

 昔は月一度、山田塾に通っていたのだが、この豚まんには出会っていなかった。メキシコの娘に教えて貰うとは・・・。

 ところで、飯田橋への用事は息子が三田線でカバンを網棚に忘れたので、引き取りに代理で出かけたからだ。持ち主は、鞄の中に古い保険証が入っていたから、住所が判ったそうだ。

 そこで、感激のシーンが登場する。

 カバンを開けると、中に収容されていた弁当箱の中身が奇麗に洗ってあるのだ。え~~何と今時親切な人がいるもんだと、感心した。三田線の春日駅の忘れ物係りの人か、飯田橋の警察の人か誰か判らない。日本は素晴らしい気を使う民族性が未だ残っていたんですね。

 確かに、カバンの中に爆弾でも入っているといけないので、調べるのでしょうね。又、誰のものか手がかりを得る目的もあるのでしょう。しかし、食べ残しの、弁当をきちんと洗い拭いて、奇麗にしてカバンに戻す親切さには、感激した。有難う、御座いました。

この弁当箱はメキシコにいる娘が高校時代から使用していた、大事な弁当箱なんですよね。今や、息子が社会人になり受け継いで使用しているものです。本当に心温まる素晴らしいエピソードでしたね。

 (住所を喋るインコの話)

 ついでに、心温まる話は先日報道されたインコの話。動物病院で引き取られたインコが突然に住所と名前を喋り出し、本当にその住所に持ち主が居たという話です。迷子のインコはちゃんと自宅に戻れたそうだ。

 今まで迷子のインコが自宅の電話番号を喋って自宅に戻れた話も何処かで聞きましたね。大岡山の東京工業大学付近は野生化したインコが群れになり存在し、大きな社会問題になっていると聞く。彼ら彼女達は、大学の構内で自宅の住所とか電話番号とか、名前を喋っているんだろうか。

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道頓堀 くいだおれ太郎

 道頓堀の老舗の「食いだおれ」は時代の波に押され閉店すると連日テレビで放映され、お店の看板息子の太郎もどうなるか判らない。と、いう訳で道頓堀を訪れた。

20085kumanoaoi_002 20085kumanoaoi_003  大阪の南(ミナミ)は生まれてこの方あまり馴染がありません。子供の頃は北河内の京阪電車でいうと牧野駅周辺と国鉄の長尾駅あたりが活動領域だった。

高校生になり、京阪電車の寝屋川駅まで活動領域は広がったけれど、殆ど大阪は活動外だった。

20085kumanoaoi_004 20085kumanoaoi_005  寝屋川高校時代に一人、大阪出身の親友が出来たが彼は京橋近い片町線の鴫野駅近くの食堂の息子さんだった。彼は三浪して大学にゆくのですが、その間私は神戸から梅田、京橋経由だったので彼の実家をよく訪問した。

弁当の仕出しを手伝ったり、美味しい「うどん」をお母さんに作って貰った。浪人中でも彼は柔道を続けていたので、試合には応援にでかけた。

20085kumanoaoi_006 20085kumanoaoi_011  大学時代を通じて、梅田界隈、京橋界隈、鴫野界隈程度しか活動していない。難波とか天王寺とか、道頓堀界隈は殆ど活動外でしたね。

概ね、大学時代は年間100日は山に入っていましたので、下界の事にはあまり御縁がなかった。

まして、ネオン街に繰り出し始めたのは、30代の半ば頃からでした。

20085kumanoaoi_008 20085kumanoaoi_009  太郎ちゃんですが、弟の二郎ちゃんとか、お父さんとかいるそうですね。この姿は、昔懐かしい「ちんどん屋」さんの伝統を受け継いでいます。

 この太郎をネットで調べると、著名な人形浄瑠璃の頭を作る二代目由良亀さんだそうですね。一千万もするそうですよ。資本金2400万従業員200人の会社が如何にこの人形に投資しているか判りますね。

20085kumanoaoi_007 20085kumanoaoi_012  58年間このキャラクターを育てた「食いだおれ」とそれを愛した大阪のひとびと。創業者の家訓は①支店をだすな、②家族経営③太郎を守れの3カ条だったそうだ。

折しも同族経営の大阪の船場吉兆が廃業するというニュースが駆け巡っている。「くいだおれ」は食堂としての事業は終焉を迎えるのだが、太郎は残った。船場吉兆は何を残したのだろうか。

20085kumanoaoi_013 20085kumanoaoi_014  経営学の世界では、企業理念というのが一番大事にされる、そして沿革です。創業者の経営理念は国の憲法のようなものであり、時代の流れに合わせて経営は改革し適応して生きてゆくのだ。

 日本には世界に誇る長寿企業が京都を中心に沢山存在している。飛鳥時代から存続している金剛組は一度は倒産したが、再建されて存続している。ブランドを守る事が如何に重要か、そしてそのブランドを壊すのも一夜で脆くも崩壊する。

20085kumanoaoi_015 20085kumanoaoi_016  昔は企業30年周期説というのがありました、産業構造が30年周期で変化するのが理由でしたが、企業理念がしっかりしていれば、改革し適合する事も可能なのではないだろうか。

 欧州の有名ブランドのお店も長く世界に君臨している、多量生産多量販売ではない企業群ですね。京都にはそれに匹敵する企業が多く存在する。企業ではないが、お寺とか神社は組織としては長寿である。お客(檀家、氏子)がいて拡大経営はせず、利益(存続のための金)は最小限でやってゆく。

20085kumanoaoi_017 20085kumanoaoi_019  ひたすらブランドを築く商売のやり方に間違いはない。企業は投資家のものだという論調が小泉さんの頃には吹き荒れた。欧米の最新の経営学だという雰囲気が渦巻いていましたね。

 資本は魔物です、ひたすら増殖する事を望むと学生時代に学んだマルクスの資本論は述べる。如何に制御して企業を存続させるか、その要は企業理念ではないだろうか。

20085kumanoaoi_021  道頓堀の食堂街で、たこ焼きとお好み焼きを食べた。日本は幸せな国だ、食べるものが未だある。先日から、横浜の地元ではアフリカの開発会議が開催されている。地球温暖化の影響とオイル問題の影響で食糧危機に直面しているのだ。

 地球シュミレータの予測ではこのままゆくと、数10年先では北米大陸も欧州も砂漠化すると警告している。日本の食糧自給率39%は一刻も早く改善する方法、知恵を出し合わねば国は潰れる。

 私の4歳年下の、くいだおれ太郎を訪問しながら色んな事を考えさせられました。

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茂庵(もあん)と錦鱗館 吉田山界隈

 葵祭りのあと、お昼をいただきに吉田山頂上に向かった。義妹の勧めで茂庵(もあん)に向かった。茂庵ホームページ

20085kumanoaoi_234 20085kumanoaoi_235  女性に大人気なんですね、沢山の若い女性たちが待っていました。吉田山の頂上にあるので、ここまで歩くのは大変です。小ハイキングでしょうね。

吉田山というと、旧制第三高等学校の寮歌で有名ですよね。 ♪月こそ懸かれ吉田山~

20085kumanoaoi_236 20085kumanoaoi_237  眺めは抜群です、大文字が木立ちの合間から眺められます、眼下には京都の街が一望です。茂庵までの道は鬱蒼とした森の道でここが京都かと思う位の素晴らしい散歩道です。

 3~40分程度待たされましたが、お腹が空いていたので、美味しい昼食を頂いた。

20085kumanoaoi_239 20085kumanoaoi_240  若い女性に人気があるのでしょうね、可愛いい上品なランチメニューでした。

離れの建物にはお茶室が二か所ありました。静かな林の中にひっそりと佇んでいます。

20085kumanoaoi_242 20085kumanoaoi_243  ケーキでお茶を楽しむ若い女性の方々が沢山おられました。時には、のんびりと散策したい人々にはいい場所ではないでしょうか。隠れ家みたいな雰囲気ですよ。

是非、一度は訪ねて見られては如何でしょうか。

 (錦鱗館)

 参考 錦鱗館 参考 伊庭新太郎(いば しんたろう)

20080522iva01_s 20080522iva02_s  義妹の高校時代からの友人が吉田山の麓の自宅でギャラリーをされている。勧めでお腹も一杯になったので、吉田山を下山し、ギャラリーに向かった。

20085kumanoaoi_245 20085kumanoaoi_244  豪邸ですね、御両親の自宅の庭にギャラリー&スタジオがありました。

伊庭新太郎画伯の展覧会でした。山歩きの格好で絵の展覧会に出かけるには気が引けました。

 ちょうど、義妹の友人がおられ家内も大昔に宇治の実家でお会いしていたそうで、昔話に花が咲いていました。

20085kumanoaoi_247 20085kumanoaoi_248  二科会会員の先生の作品なんですね、昔の幻想的な絵と現在の抽象画ぽっい絵が展示されていました。

途中から、伊庭画伯の奥様も来られ色々とお話を伺う事ができました。

72歳という年齢を聴いて、メキシコの竹田鎮三郎画伯と同年代ですから、お伺いするとやはり御存じでした。

20085kumanoaoi_249  絵に関して評論出来る素養もありませんので、ただ昔の幻想的な絵と最近の身近なものを簡素に端線のような技法で描かれる変化に画家の心の変化を感じていました。

家内は、翌日も義妹と一緒にギャラリーを訪問していました。時には、芸術作品に接する事もよろしいようですね。

 注:最後の写真は 「RIVER CLOUD」という題です。鴨川だそうですよ。

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伽耶諸国地図 その2

  前回記事 伽耶諸国地図 その1

 3世紀末から4世紀の初頭にかけて中国は乱れた時代となり、朝鮮半島の秩序は崩れ狗邪韓国を含む洛東江流域に北方から遊牧民が南下し国は大いに変貌した事を前回の記事で書きましたね。

 4世紀から南朝鮮は三国時代に入るのです。百済、伽耶(加羅)、新羅という三国時代です。この時代の日本列島は中国の史書に記述が無い為に空白の4世紀と呼ばれています。3世紀中葉の249年に卑弥呼は死に、その後国内は乱れ結局、卑弥呼の宗女である、壹与(とよ)が女王になり乱れがおさまるのです。

 266年に中国の晋への入貢を最後に日本列島の消息は全く不明となります。

 この間に日本では邪馬台国の時代から古墳時代、ヤマト王権が確立するのですね。日本の歴史書では神武さんから崇神さんをへて景行さん、ヤマトタケル、その息子の仲哀さんで奈良盆地の王権は終わりを告げる。

 そして俄かに大陸との交渉と軍事的なやりとりが始まるのが、神功皇后さん、息子の応神さん所謂、河内王朝の出現です。大阪平野に巨大なピラミッドを凌ぐ巨大前方後円墳を築き始めるのです。4世紀の中葉の頃ですね。

 (伽耶諸国との軍事同盟)

 伽耶諸国は磁鉄鉱を産し、鉄を製造し鉄鋌(鉄の延べ板)を製造していました。ヤマト王権はこの鉄を獲得する為に洛東江流域の伽耶諸国と軍事同盟を結び鉄の見返りに北から攻める高句麗から彼らを守る役目を担ったと考えられます。

その考古学的物証は、前回の記事で述べた日本列島産の数々の祭祀銅器であります。筒型銅器、巴銅器、碧玉製の色々な祭祀道具です。そして、前方後円墳が伽耶諸国に建造がはじまるのです。

 全羅南道の新徳古墳(シンドク)、長鼓山古墳(チャンゴサン)など5~6基の前方後円墳が10年前頃から発掘が始まっています。 参考記事 その1 参考記事 その2

 伽耶諸国の鉄はヤマト王権にとり必須の資源だったのでしょうね。高句麗の南下だけでなく時に新羅が高句麗と連携し伽耶諸国を攻める事に対してもヤマトは傭兵として活躍したと想定されます。任那(みまな)は多分、金海(金官伽耶)の近くに存在したのではないでしょうか。

 5世紀に入ると中国も安定し、南北朝の時代を迎えます。南朝は山東半島を奪還し、朝鮮半島とも国交が回復します。倭の五王の河内王朝の歴代王の名前が登場するのですね。

 この頃のヤマト王権の朝鮮半島での活躍は広開土王の碑文で皆様も馴染があると思います。あの太王四神記で活躍するぺ ヨンジュンは確か広開土王がモデルの筈ですよね。その頃の朝鮮半島の地図は概略参考資料の通りではないでしょうか。

 その後、5世紀末には日本国内で鉄の生産も軌道に乗り、伽耶諸国の鉄の必要性が低下します。むしろ百済、新羅、高句麗から中華文明の仏教とか先進技術、薬学、等々の先進ハイテク分野の輸入拠点として朝鮮半島は重要になるんですね。

 日本がお世話になった伽耶諸国も百済、新羅に併合され国は滅び、百済も新羅・唐の連合軍に破れ国は消滅する。高句麗も新羅・唐連合に破れ国は滅び東に去り渤海国を建てるのが飛鳥から平城京に遷都した頃であります。

 朝鮮半島からは国が滅びる時、例えば3世紀末の北方民族南下時点、伽耶諸国消滅時点、百済消滅の時点、高句麗消滅の時点、色んな危機的状況下で多くの亡命者は日本列島に渡海したのではないでしょうか。万葉集が書き残せたのも屯倉の帳簿管理も漢字が書ける多くの渡来者の人々のお陰ではないでしょうか。

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伽耶諸国地図 伽耶諸国を考える(1)

 伽耶諸国地図 田中俊明氏「大伽耶連盟の興亡と「任那」 吉川弘文館版よりグーグル地図に類推した。

Photo_2  洛東江周辺の伽耶諸国の地図である。 この地図を作るには随分と苦労しました、韓国語は判らないので、田中先生の地図を参照しながらグーグルをきめ細かく分析し、確定した場所を表示しました。

此処は卑弥呼の時代は三韓時代と呼ばれ、弁韓と呼ばれた場所でした。金海(キメ)という場所は狗邪韓国(くやかんこく)と呼ばれた場所です。弁韓狗邪とも呼ばれていた。魏志倭人伝に楽浪郡から邪馬台国に辿るルートの一つですね。

 三世紀末から4世紀にかけて中国は乱れ、晋の国も滅び朝鮮半島に残された楽浪郡も帯方郡も孤立し北方の扶余族が南下するのです。倭国も卑弥呼のあと国は乱れ内戦状態となったと言う。

申敬澈(しん きょんちょる)釜山大学考古学教授の「4・5世紀代の金官伽耶の実像」によれば、三世紀末から四世紀初頭にかけて墳墓の形態も埋葬品も劇的変化を起こしたそうだ。結論は北方の扶余族の南下である。突然に三韓時代の支配層は姿を消したそうだ。

 (考古学物証)

 先生の発掘された、金海大成洞古墳(キメテソンドン)そして、1990年末から発掘された東義大学校の金海良洞里遺跡(ヤンドンニ)、1991年の釜山大学の東ネ福泉洞古墳群(トンネポクチョンドン)の発掘成果を踏まえ以下の論を展開している。

 ・3世紀末から4世紀にかけて埋葬形態が激変した。三韓時代は木棺墓であるが、三国時代、金官伽耶の時代には木槨墓に変化した。そして、以前は身分の差が無く一緒に埋葬されていたのが、確実に身分の差が発生し、偉い人は丘陵の上の木槨墓に埋葬されるようになり、鉄製武器、馬具、騎乗用甲冑の副葬がされるようになる。

 ・殉葬の風習がみられるようになる。そして、陶質土器、鉄鋌(てつてい)と呼ばれる鉄の延べ板が出土する。陶質土器は中国北方の土器文化であり、登り窯が発明されて実現した。これは、日本に伝わり須恵器となる。

 ・4世紀か5世紀か判らないが、日本製と考えられる出土品が数多く発掘されている。筒型銅器巴型銅器(ともえがた)、碧玉製紡錘車形石製品、碧玉製の各種の石鏃(せきぞく)、碧玉製の玉杖(ぎょくじょう)である。

 注:筒型銅器とは槍の石突きの部分に使用された祭祀目的の銅器と考えられている。振りまわすと音がでる。巴型銅器は大きな楯にはめ込まれた祭祀用の銅器。前回の聖武天皇が紫香楽宮に遷都した時に宮門にはこの巴型銅器の巨大楯と筒型銅器を石突きとする槍が宮門に掲げられた。王権の象徴である。

 ・狗邪韓国時代は日本の九州方面の出土物がでるが、三国時代の金官伽耶の時代になるとヤマト方面(近畿)のものが多く出土する。

 三国時代には金海は金官伽耶となり、任那もここではなかったかと言われている。そして、伽耶諸国の連盟の主は高霊の大伽耶に移るのです。さて、それでは三世紀末から謎の4世紀の日本列島はどうなっていたのでしょうか。次回に続きます。

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 「八咫烏(ヤタガラス)」あれこれ

メキシコにいる娘が調子が悪いというので、京都での帰省を早めに切り上げ横浜に帰り娘を迎えた。色々と病院で調べたが今の所何処も悪い所が無い、ひとまず安心した一週間でした。食欲は旺盛で、あれ食べたい、これ食べたいと元気である。

 シェフの私も腕をふるい美味しいものを食べさせている。考えてみると、メキシコで一人スペイン語で生活し、部屋にサソリが出現する事もあるという。私の判断はストレスだと考えている、のんびり里で過ごせば回復すると思う。

 今日の夜は鮭の西京漬を焼き、ピーマンとチリメンジャコの煮物、豆腐とワカメの味噌汁、レタスと山芋のサラダ、息子には鹿児島牛のサーロインステーキを奮発した。実は昼食ではオーガニックの蕎麦を二束茹でる積りが、間違い一束はうどんだった。似かよった袋だったので、中身を確かめず熱湯に投入すると、後の祭り。

 この蕎麦とウドンが混在した食べ物は時折、私はアルツハイマーの予徴なのか作ってしまう。若ければ分離するが面倒なので、家人には其のまま出してしまう今日この頃です。

 「八咫烏(ヤタガラス)」

 若い人は日本代表のサッカーチームのシンボルマークとして誰でも知っている。熊野神社で八咫烏にお会いして来たが、少し烏さんについてメモを残しておきます。

 賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと)は京都の賀茂(鴨)氏の先祖である。神武東征の折りに日向の曽の峰に降臨し、大和の葛城山に到り八咫烏に変貌して神武さんをヤマトに導いたそうだ。新撰姓氏録と山城国風土記では現在の下鴨神社の地に鎮まる経緯を書いてあるそうだ。

 最近、熊野と下鴨神社そして橘諸兄と聖武天皇の恭仁京を訪問し共通のものが八咫烏である事に気がついた。諸兄さんは葛城王であり賀茂氏である。熊野のシンボルは八咫烏である。賀茂氏の祖である、賀茂建角身命さんに「つぬ=角」があるのは気になる。

 「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」は新羅とも大加羅から渡来した人物のようですね、敦賀の名前は彼からきていると聞いています。

 これは、敦賀から山背に上陸した氏族ではないだろうか。ともあれ、八咫烏について少し気になることがある。咫は昔、「あた」と発音したらしい。日本では手を開いて親指の先と中指までの距離の単位を咫と言うらしい。

 私の故郷の近くに石清水八幡宮があります。地元では八幡を「やあたさん」と発音していた記憶がある。とすれば、八咫さんだったのかもしれない。咫は又、「さか」とも発音したそうだ。京都の八坂神社の八坂は八坂造でこれも新羅系の渡来人ですね。祭神はスサノオさんです。

 気になることをメモしておけば又、何時かちゃんと調べることが出来る可能性がありますね。

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紫香楽宮、恭仁京紀行 (3)

 今回は恭仁京遺跡についてレポートしたいと思います。聖武天皇は藤原弘嗣の乱の直後740年にこの木津川氏加茂の地に恭仁京と定め平城京より遷都された。3年後の743年末には紫香楽の宮に遷都されそして、盧舎那仏建立の詔をだされた。

 わずか数年の恭仁京の運命でしたが、聖武天皇が平城京を捨ててこの山背の木津川の上流の鄙な地に何故遷都されたかが注目されます。

 マイフォト 恭仁京遺跡

 マイビデオ 恭仁京遺跡(2) てふてふ舞う

20085kumanoaoi_254  グーグルアース 恭仁京

「Kunikyo.kmz」をダウンロード

 木津川流域の古代文明

Kunikyo_tsutsuki_kitsugawa  参考までに私が生まれ育った北河内郡大字招堤村からは樟葉宮、王仁博士の墓、筒城宮、石清水八幡宮、小学生時代泳いだ木津川と画面に印しています。崇神大王と戦争をしたタケハニヤスさんは同じくこの木津川沿いです。

 過去記事 我が故郷

古代より奈良盆地の北に位置する交通の要(木津川、宇治川、桂川、淀川)は古代より栄えた場所でした。

 さて、聖武天皇は強大な権力を持ち始めた藤原氏の平城京を捨て、協力者である橘諸兄とともに山背と難波に拠点を置こうとされたのではないだろうか。

 恭仁京跡は今は草原になっています。山に囲まれ四禽風水に適した場所がわかります。夢は息子の横死により急に気力が絶えたのではないでしょうか。安積皇子に死は聖武さん諸兄ともに柱を失った絶望感だったのではないでしょうか。

華やかな平城京のイメージが我々にはありますが、実態は少し違うようですね。しかし、その後、桓武天皇は遂に平城京を捨て再び山背(城)の国に遷都するのです。そして、千年の都を築いたわけですね。

 さて、江戸に遷都して百年が経過しました。(正確には明治の初めに遷都宣言がされていないので、今だ京都が都であるという人もいますが)巨大化した東京から遷都する話がありますね。最近はあまり活発な議論は下火のようですが、どうなんでしょうか。

 日本は官僚機構が肥大化し官中心の中央集権国家として行き過ぎたのではないでしょうか。そろそろ、緩やかな地方の個性がでる連邦国家に変貌すべき時かもしれません。インターネットの時代に今の代議員制度も時代遅れだし、国民の投票も簡単にインターネットで出来る時代です、国会議員は少数にし中央の官吏は地方に分散させてはどうだろうか。

 天皇御一家は京都の御所に戻られるのがいいのではないだろうか。国会議事堂と中央官庁は何処か交通の便の良い場所に移転する。東京はこれ以上インフラを拡大するとローマのようにインフラを維持できなくなり崩壊するような気がしている。

紫香楽宮跡で発見された歌木簡から急に注目された、京仁京と紫香楽の宮でしたが、今は当時を偲ぶよしがとなるものは何もない。夏草やツワモノどもが夢の跡でした。

 

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紫香楽宮、恭仁京紀行 (2)

 連携記事 MuBlog 恭仁京・紫香楽宮 

  マイフォト 紫香楽宮 甲賀寺遺跡

 マイビデオ 甲賀寺遺跡(1)

 マイビデオ 甲賀寺遺跡(2)

 (甲賀寺遺跡)

 紫香楽宮の1キロ南方に甲賀寺遺跡があります。今回はMuBlogのMu先生に引率されて訪問しました。場所は前回の記事でグーグルアースで示してありますのでおわかりだと思います。東大寺と同じ伽藍配置になっているそうです。

ここで、盧舎那佛建立の詔に従い大仏の体骨柱が建造されたが、相次ぐ天災と諸々の事情により中止となり、東大寺での建造となったそうです。

 (諸兄の実権と藤原氏 時代背景について)

 過去記事 聖武天皇時代の国際緊張関係史 を参考に改めて橘諸兄を中心に歴史を眺めましょう。

・724年 陸奥国に多賀城築く

・727年 渤海国使来朝 唐、渤海(元高句麗)関係悪化

・728年 皇太子基皇子身罷る(聖武天皇、光明皇后第一皇子)

・729年 長屋王の変

・730年 全国に防人を置く

・731年 8月 藤原4兄弟と諸兄 参議昇進

・732年 諸兄 従三位

・734年 奈良大地震 過去記事 聖武天皇と大地震

・735年 玄坊 唐より帰朝

・736年 諸兄 臣籍降下し橘宿禰となる 対 藤原氏対策か

・737年 8月 諸兄 従三位大納言 藤原4兄弟天然痘で死亡

・738年 1月 従三位 右大臣 阿倍内親王が立太子される(光明皇后 藤原氏存続の懸命の策)

・740年 11月 諸兄 正二位 藤原弘嗣の乱 聖武天皇伊勢行幸(家持随行) 恭仁京遷都

・742年 紫香楽宮遷都

・743年 5月 諸兄 従一位 左大臣 藤原仲麻呂参議 盧舎那佛建立詔 恭仁京 藤原八束邸にて宴会 内舎人家持参加

・744年 正月13日 安積親王死亡(聖武天皇の難波宮行幸に連れそうが、途中で体調不良にて恭仁京に引き返す。そして急死する。留守を守っていたのは藤原仲麻呂)

 安積親王古墳グーグルアース

「asumi_miko.kmz」をダウンロード

・744年 11月 紫香楽の甲賀寺に大仏の体骨柱を建造する。

・745年 紫香楽宮を新京と呼ぶ 宮門に大型の楯と槍を立てる 流罪中の塩焼王ゆるす

 5月 平城京に戻る  

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紫香楽宮、恭仁京紀行 (1)

 紫香楽宮、甲賀寺遺跡探訪記録編

 昨夜のテレビニュースで又、本日、読売新聞朝刊では紫香楽宮遺跡で発掘された木簡に関するニュースと予め用意されたと思われる特別記事が大きく報道された。俄かに日本中の注目を集めている紫香楽宮である。

 (万葉集収録歌が書かれた木簡出土)

 ・紫香楽宮遺跡 木簡出土場所(グーグルアース)あらかじめグーグルアースインストール必要です。

「shigaraki_mottsukansyutsudo.kmz」をダウンロード読売新聞記事航空写真より類推(現在は田圃)

 甲賀寺、紫香楽宮 遺跡航空写真Shigaraki_miya_iseki

 ・参考ニュース記事(朝日) ・参考ニュース記事(読売)

 ・参考ニュース記事(毎日) ・参考ニュース記事(京都)

 ・宮町遺跡(紫香楽宮遺跡)地図

 「紫香楽宮跡 万葉歌の木簡発見」

 讀賣新聞本日朝刊にて犬飼隆氏(愛知県立大学教授 日本語史・文字論)は以下概略特別寄稿をされた。

 ・木簡は、まず「難波津の歌」を書いて「歌木簡」として典礼で使用され、リサイクル時に材を削いで、「安積山の歌」を書き、「歌」の学習に供したのではないか。

 ・万葉集と同じ歌を書いた木簡の出土は、当時、歌とは典礼の場で口頭でうたったものであり、万葉集はそれらを取材して歌句と表記に精錬を加えながら編纂されたという考えが立証された。この木簡の「安積山の歌」は口頭で歌うのに適した万葉仮名で一字一音式に書かれているが注目される。

 ・「安積山の歌」は葛城王の不興を風流娘子(みやびのおとめ)がこの歌と霊水で慰めた旨の漢文を書き添えて、歌物語にしたてたそうだ。その時、歌句の表記には、口頭でうたうのに適した万葉仮名ではなく、目でみても楽しめる漢字の訓よみを主体にした書き方を採用。例えば「あさかやま」を「安積山」と書けば充分なところ、わざわざ「安積香山」と書いている。

 ・一昨年に大阪市・難波宮から「皮留久佐乃 はるくさの」と一字一音式に書かれた7世紀半ばの木簡が出土した。栄原永遠男氏(大阪市立大学教授)が、これをはじめとして歌句を書いた木簡の全てを調査し、日本の木簡に「歌木簡」という様式が存在したと提唱された。二尺(約60センチ)の長さの材の片面一行に「歌」を書き、典礼の席に持参してうたったと言う。

 ・紫香楽宮木簡の「難波津の歌」を書いた面もその様式に適っている。こういうものが出土するのは何の不思議もないが、それと表裏に「安積山の歌」が書かれていたのは驚きである。平安時代には、和歌を学ぶ時、まず「難波津の歌」を書いて書き方、うたいかたを習得し、次に「安積山の歌」の歌句を教材として、人と人が心を通わせる為の言葉遣い工夫を学んだそうだ。

 ・紫香楽宮跡の「両面歌木簡」は、それが740年代にすでに始まっていた可能性を示している。万葉集と木簡との関係とあわせて、古代の歌のありかたの歴史が書き換えられるかもしれない。

 MuBlogの先生と恭仁京遺跡から紫香楽宮遺跡を訪問したが、残念ながら甲賀寺遺跡のみを実地検証した。田圃の中の紫香楽宮遺跡は訪問出来なかった。本日の読売新聞の犬飼隆先生の特別寄稿に掲載された森田昌孝氏撮影航空写真からグーグルアースを検索し甲賀市宮町地形を詳細に調べ、現場を確定した。

 何故、聖武天皇は平城京を捨て、難波宮、恭仁京、紫香楽宮と遷都を繰り返し彷徨したのかが歴史の謎なのです。現場を訪問する事で聖武天皇がどのようなお気持ちであったのかを探る旅でもあるのですね。

 図らずも、昨夜全国的に紫香楽宮出土歌木簡のニュースが駆け巡り、朝刊では特集記事が掲載されました。数回に渡り、恭仁京、紫香楽宮、甲賀寺についてMuBlogと連携しながら掲載する予定です。

 連携 MuBlog 恭仁京、紫香楽宮(2)

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葵祭り2008 下鴨神社

 初めて葵祭を見学しました。5月15日に開催され、御所から行列は下鴨神社に向いました。私は下鴨神社の近くで行列を1時間前から待って楽しむ事が出来ました。

 マイフォト 葵祭2008 

 マイビデオ 葵祭り(1)

 マイビデオ 葵祭り(2)

 マイビデオ 葵祭り(3)

 マイビデオ 葵祭り(4)

 葵祭りの行列は勅使を中心とした本列と斎王代を中心とした女人列の二つで構成されています。写真、ビデオともに今年の葵祭の行列の様子は全て時系列で網羅されていますので、参考にして下さい。

 「葵祭行列 概要」

 (本列)

 ・乗尻(のじり)

  行列を先導する騎馬隊 六衛府の衛士

 ・検非違使志(けびいしのさかん)

  検非違使庁の役人、六位の武官 下役を率いて行列の警備にあたる

 ・検非違使尉(けびいしのじょう)

  検非違使庁の役人 五位の判官 志の上官 警備最高責任者 舎人の引く馬に乗る

 ・山城使(やましろのつかい)

  山城介(やましろのすけ)で山城国司の次官 五位の文官

 ・御幣櫃(ごへいびつ)

  賀茂両社の神前に供える御幣物を収めた櫃

 ・内蔵寮史生(くらりょうのししょう)

  内蔵寮の七位の文官 御幣物を管理している

 ・御馬(おうま)

  賀茂両社の神前で走る馬

 ・馬寮使(めりょうつかい)

  走馬を司る左馬允(さまのじょう) 六位の武官が騎乗

 ・牛車(ぎっしゃ)

  御所車で勅使が乗る車

 ・和琴(わごん)

  御物の和琴で「河霧」の銘をもつ奏楽用

Continue reading "葵祭り2008 下鴨神社"

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熊野古道 番外編

 紀州の梅と熊野の露天風呂のご紹介です。

20085kumanoaoi_022 20085kumanoaoi_023  (紀州の梅ぼし)

 将軍吉宗さんの故郷は梅とみかんと醤油で有名ですね。今回は梅ぼしを製造販売されている工場を見学しました。昔の子供の頃の梅干しはまさに、塩の中に梅がある按配でしたね。

20085kumanoaoi_024 20085kumanoaoi_025  ぷらむ工房さんでは、昔の梅干しを試食させて下さいましたが、塩辛くて現代人には厳しいですね。今は、5%以下に塩を抑えているそうですよ。けど、長持ちしないですよね。

 一粒200円の梅干しがありました、大きな梅ぼしで皮が薄いので柔らかでしたね。紀州の山や野はみかんの木か梅の木しかありません。みかんと言えば、紀国屋文左衛門ですね、元禄時代に活躍した豪商です紀州から江戸に船でみかんを運び財をなした人物です。

20085kumanoaoi_114 20085kumanoaoi_115  (わたらせ温泉)

 本宮から車で10分程度の距離に渡瀬温泉があります、露天風呂で有名ですよ。熊野古道を歩いて疲れた足腰を癒すには最高ですね。

20085kumanoaoi_116 20085kumanoaoi_117  男風呂しか知りませんが、5個も露天風呂がありました。私は3個の露天風呂に入りましたが、最高でしたね。景色を眺めながら風呂に入るのは極楽です。

白河上皇さんも鳥羽上皇さんも後鳥羽さんも多分、熊野古道界隈に存在する露天風呂で巡礼の疲れを癒されたのでしょうね。

20085kumanoaoi_119 20085kumanoaoi_120  このあたりの名産は、さんま寿司だそうですよ。私は食べませんでしたが、美味しいそうです。是非、皆さんはここに来られたら食して下さい。

熊野路は露天風呂が沢山あるそうなので、温泉マニアには探訪する価値が十分あるのではないでしょうか。

 私は風呂に入り、一路、大阪梅田を目指しバスに揺られ往復500キロのバスの旅でした。このツアーはお昼の弁当、バス代、風呂代全部込みで6千円程度でした。安い!

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熊野古道 中辺路紀行(3/3)

熊野本宮のビデオ記録についてご紹介です。

 熊野本宮 動画ビデオ(1)

 熊野本宮 動画ビデオ(2)

 今回で熊野古道 中辺路(なかへち)紀行は終わります。熊野古道のほんの一部しか御紹介できていませんが、今後又、新宮、那智と訪問したいと思います。いつものように、空中から熊野本宮の位置についてグーグルアースで御紹介します。

 グーグルアース(熊野本宮)

「kumano_hongu.kmz」をダウンロードあらかじめ、グーグルアースのインストール必要

 熊野古道は平安時代末期の世の中が混沌とした時代、貴族政治が崩壊し武士が台頭し始めた世も末と思われる不安の時代に巡礼が始まった。白河上皇さんから続々と上皇さん達は熊野巡礼が始まりました。

 話は飛びますが、フランスのブルゴーニュを訪れていた時に、遥かヨーロッパの西の果てにあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道を知りました。中世の時代にヨーロッパはペストが流行し人々は死と隣り合わせの不安な時代が到来し、彼らは巡礼の道を選びました。

 西国88か所の巡礼も、熊野への蟻の巡礼も、江戸時代の伊勢神宮への東海道巡礼もそして、欧州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道もメッカへの巡礼の道も世界中共通の人々の祈りの道があるのですね。

世界遺産に登録された熊野古道、皆様も如何ですか是非一度は訪れたら如何でしょうか。関東方面の方々は名古屋から伊勢神宮をお参りされて、伊勢路を辿り熊野へ行かれるのが便利ではないでしょうか。

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熊野古道 中辺路紀行(2)

20085kumanoaoi_089  さて、熊野古道の目的地は熊野本宮、昔は熊野坐神社と呼ばれた三本足カラスの聖地です。全国に熊野神社は確か3千以上あるのではないだろうか、それの総本山です。

 平安時代末期の院政が始まった頃から熊野詣では流行を始めたそうだ。12世紀初頭の頃からでしょうか。白河上皇さんは在院43年で9回の熊野御幸をされている、特に2回目以降は1年半の間隔で約1か月をかけて熊野御幸をされたそうだ。

20085kumanoaoi_102  引き続き、鳥羽上皇さんは33年の在院中21回の熊野御幸をされた、白河上皇と同じく1年半間隔で熊野詣でをされている。後白河上皇も34回の熊野詣でをされ熊野詣ではピークに達するのだ。平安末期の本地垂迹思想の流行により、山折哲雄先生が述べておられるような仏教と神道が合体した日本独自の宗教感が生まれたのですね。

 (熊野神社を考える)

20085kumanoaoi_079  熊野本宮大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。34メータの鳥居が眼下に見えますね、ここに本宮が存在したのですが、明治の大洪水で被害を受け現在の場所に移転された。

 伏拝王子から現在は熊野本宮を遥拝出来ませんが、大斎原に存在した時代には眺めることが出来たのではないでしょうか。

20085kumanoaoi_065 伏拝王子から大斎原方面を眺めた写真です。和泉式部もここから熊野本宮を遥拝したのでしょうね。今は、供養塔が立ち遥か昔の大宮人を思い出させてくれます。

 さて、熊野神社ですが、明治の神仏分離令以前には阿弥陀さんもその他の仏さんも沢山おられたのではないだろうか。神さまは沢山おられますが、一番の神はスサノオさんです。

20085kumanoaoi_107  この写真を観て下さい、拝む順番が書かれていますね。1番は証誠殿の祭神であるスサノオ「家都美御子大神=けつみみこおおかみ)」さんですよ。2番目は速玉大神「御子速玉大神(みこはやたまのおおかみ)」です。熊野新宮の祭神ですよね。この神は速玉之男神とも呼ばれ日本神話にでてきます。少し、解説しますと。

 伊邪那美が亡くなった時に黄泉の国である熊野の有馬村に葬られました。旦那の伊邪那岐は彼女を追いかけて黄泉の国に来るのですが、変わり果てた姿に恐怖し逃げます。その時に二人で儀式をするのですが、確か伊邪那岐が吐いた唾から生まれたのが速玉之男(速玉大神)さんです。

 3番目は結宮の祭神である、伊邪那美大神「熊野牟須美大神(むすみのおおかみ)」さんです。最後にお参りするのが天照大神「天照皇大神(あまてらすすめらおおみかみ)」さんとなります。明らかに熊野は出雲の神が鎮座する場所なのですね。

 (九鬼氏と熊野本宮)

 現在の本宮の宮司さんは九鬼宗隆氏ではないだろうか。本宮を参詣した時にその事に気がついた。九鬼水軍と言えば鳥羽を本拠に信長の水軍を率いた九鬼嘉隆を思いだしますね。鋼鉄で覆われた軍艦(安宅船)を作り毛利の水軍と戦った事は有名ですね。

熊野水軍と熊野神社は関係が深いのでしょうね。本宮は元々は熊野川の中洲に存在した事事態が海の民との関係を想像させますね。

Continue reading "熊野古道 中辺路紀行(2)"

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熊野古道 中辺路紀行(1)

 承前 熊野古道とは何でしょうか?

 マイフォト 熊野古道 中辺路紀行写真集

20085kumanoaoi_027  熊野古道は世界遺産に登録されました。今回は初めての熊野古道体験ですから、初心者が必ず歩く簡単なルートを選びました。中辺路(なかへち)ルートの一部ですが、発心門王子から熊野本宮まで歩く約7.5キロの簡単なハイキングコースです。

20085kumanoaoi_044  熊野古道には標識が設置されており500メータ間隔で番号が表示されています。今回は発心門王子62番から熊野大社本宮75番までを標識に沿って歩きます。発心門王子まではバスで連れて貰いました。本来は田辺から本宮までを歩くのが中辺路コースとなります。

 熊野への参詣のルートは平安時代より京都より淀川を下り紀伊路を歩き熊野詣でをしました、そのルートには99王子が設置され道しるべとなったそうです。

20085kumanoaoi_051 マイフォトにて発心門王子から本宮までのルートの景色を掲載していますので、御参考にして下さい。登り下りの少ないどちらかというと、下りのルートですから年配の方でも十分に堪能可能です。若い人なら2時間少し、シルバーの方なら4時間程度ではないでしょうか。

20085kumanoaoi_063  途中でお弁当を食べるならば、伏拝王子の休憩施設で頂くか、本宮まじかのまわり道の展望台でお弁当をいただくのをお勧めします。伏拝王子には和泉式部の供養塔が設けられています、平安時代に彼女は熊野詣でをおこない、この場所で遥か眼下に見える熊野本宮、当時は現在の場所ではなく河原の大斎原に本宮は存在したのではないだろうか。

 現、皇太子殿下も平成四年に此処を訪れ伏拝された事でしょうね。まだ、独身の頃と推察致します。

20085kumanoaoi_077  眼下に見下ろす熊野川の巨大さには驚きますね。本宮の祭神はスサノオさんですが、木の神さんでもあるそうです。紀の国と今は呼ばれているが、昔は木の国だったのではないでしょうか。出雲の神々は木を求めて船団を組んだと想像されます。その話は次回の熊野本宮参拝の記事で書きたいと思います。

 さて、歩いたルートは植林された杉の森です、平安時代ではまだ原始林に覆われていたのではないだろうか、少し残念な気持ちで歩いていました。道は素晴らしく整えられているが、出来れば昔のままの歩きにくい山道のまま残して欲しいと我儘な事を考えていました。

20085kumanoaoi_069  けど、谷から吹き上げる風は涼しく森を通過する風はマイナスイオンが豊富でしょうから、とても精神が落ちつきます。山歩きは身体にもいいですが、精神面でも癒してくれるので是非皆様も熊野古道を歩かれる事をお勧め致します。

次回は熊野本宮訪問記を書きます。

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60万アクセス 塵も積もれば

 2004年4月からJoBlogを始め4年1か月経過し、60万アクセスを達成しました。塵も積もれば山となるものですね。

 サイト全体 累計アクセス数: 600176 1日当たりの平均: 407.73

 本文合計  累計アクセス数: 283210 1日当たりの平均: 192.40

 過去4か月 統計

 ページ別アクセス統計(過去4か月)

 

アクセス数: 70,530
訪問者数: 44,914
解析ページ 訪問者 アクセス
1 JoBlog: トップページ 2,6438,435 5.9% 12.0%
2 大倉山梅園 梅模様: トップページ 497723 1.1% 1.0%
3 JoBlog: 大倉山梅林 2008年花通信(1) 379522 0.8% 0.7%
4 大倉山梅園 梅模様: 大倉山公園梅林 274403 0.6% 0.6%
5 JoBlog: 趣味 316377 0.7% 0.5%
6 JoBlog: 明日香 真弓かんす塚古墳 225344 0.5% 0.5%
7 JoBlog: クエ料理 九絵家(大阪) 191264 0.4% 0.4%
7 JoBlog: 日記・コラム・つぶやき 151264 0.3% 0.4%
9 JoBlog: 旅行・地域 226244 0.5% 0.3%
10 JoBlog: 冬の北海道紀行 その1 179212 0.4% 0.3%
11 JoBlog: 大倉山梅林 二分咲き模様 134162 0.3% 0.2%
12 大倉山梅園 梅模様: 未だこれから 85143 0.2% 0.2%
13 ドイツ紀行(アイゼナハ): トップページ 35138 0.1% 0.2%
14 大倉山梅園 梅模様: 梅林入口 84137 0.2% 0.2%
15 大倉山梅林満開 2008春: トップページ 62136 0.1% 0.2%
16 まさき&まゆさん音楽会: トップページ 36135 0.1% 0.2%
17 プロフィールページ 90128 0.2% 0.2%
18 丹沢表尾根縦走: 塔ノ岳山頂 尊仏山荘 81127 0.2% 0.2%
19 大倉山梅園 梅模様: _165 81126 0.2% 0.2%
20 ドイツ紀行(ベルリン): ベルリンの壁博物館 58125 0.1% 0.2%

  検索ワード統計(過去4か月)

集計対象アクセス数:12,487

検索ワード 割合
1 大倉山梅園 877 7.0%
2 大倉山 506 4.1%
3 梅園 315 2.5%
4 ラジコン 260 2.1%
5 真弓かんす塚古墳 257 2.1%
6 2008 191 1.5%
7 テトラ 173 1.4%
8 大倉山梅林 164 1.3%
9 147 1.2%
10 バレリーナ 139 1.1%
10 九絵家 139 1.1%
12 アイゼナハ 129 1.0%
13 大阪 123 1.0%
13 ハノイ 123 1.0%
15 ライプチッヒ 114 0.9%
16 富士通 108 0.9%
17 ドイツ 97 0.8%
18 潜水艦 83 0.7%
19 筒井城二 82 0.7%
19 尊仏山荘 82 0.7%
21 釣魚料理 81 0.6%
22 飛行機 78 0.6%
23 写真 74 0.6%
24 丹沢 69 0.6%
25 韓国 66 0.5%

  アクセス地域統計(過去4か月)

集計対象アクセス数:6,415

都道府県 割合
1 東京 1,564 24.4%
2 神奈川 921 14.4%
3 大阪 479 7.5%
4 静岡 431 6.7%
5 千葉 343 5.3%
6 埼玉 260 4.1%
7 京都 228 3.6%
8 北海道 218 3.4%
9 愛知 195 3.0%
10 広島 177 2.8%

 過去4か月のアクセスを分析してみますと、大倉山梅園と大阪の九絵家さんの写真と記事が人気があるようです。皆様のご興味は古代史でもなく、ラジコンでもなさそうですね。

 過去4年間、日々コツコツと記事と写真と動画をJoBlogに掲載して参りました。振りかえると何時何をしていたかは、ブログで判るのは便利です。家族親戚が大阪、京都、北海道、メキシコ、フランスと離れ離れですので、家族通信の役目もあります。

 JoBlog

記事数 1,613 件   コメント 4,078 件

利用中のディスク容量: 5,999.8 MB (60.00%)

しかし、6000メガも容量を使用してしまいましたので、今後動画をどう始末するか考える必要があります。ブログとしてはかなり重いものになりましたね。

 今年の9月末には62歳を迎えるわけですが、あと何年生きることが出来るか判りません。あと10年は生きたいと思いますので、JoBlogもあと10年は継続したいと思います。生きてる証としてブログは存在させたいと思います。

 (閑話休題)

 ・赤とんぼの、わこちゃんからメールで面白い人がいるという情報が入りました、皆様にもお知らせします。 The Jet Man ですよ、これはまさにガッチャマンです。

  The Jet Man

    動画と写真の両方を観て下さい。アルプスを背景に翼を背負い飛行機から飛び降りて、翼に付けたラジコンのジェットエンジン4基に点火し時速300キロで人間が飛んでいますよ!最後はパラグライダーを開き、飛行場に着陸していましたね。驚愕の親爺です。

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無事横浜に帰りました

 超多忙な関西での日々を終え本日無事に京都から横浜に帰りました。帰省中は色々な人々にお世話になりました、有難う御座いました。

20085kumanoaoi_009  道頓堀の太郎にもお別れの挨拶に行きました。近くでたこ焼きとお好み焼きを食べて、久しぶりの関西の味を堪能しました。どうも、40年間も関西を離れていると、舌がおかしくなったのか、甘すぎてどうも自宅で作るお好み焼きやたこ焼きの方が美味しいです。

 もはや関東人になってしまったのでしょうか。それと地下鉄が暗くて汚いように感じました。アジアの雰囲気ではあるのですが、東京は明るくて清潔なような気がしますね。

20085kumanoaoi_068 20085kumanoaoi_097  熊野古道も歩いてきました、バスで梅田から往復500キロ、ハイキングは7.5キロを走破しました。

中辺路(なかへじ)62番から75番の熊野大社本宮までを歩きましたが素晴らしいハイキングでしたね。約3時間少しで歩けます、谷から吹き上げる風は涼しく、マイナスイオン満杯の極楽でしたよ。最後に、わたらせで露天風呂に入り、山歩きの疲れを落としました。

20085kumanoaoi_077  熊野川の巨大さには驚きましたね、上流でこんなに大きな川幅ですから、古代の水上ハイウエイとしては重要だったのでしょうね。

神武さんもこの熊野川を遡上されてヤマトに入城したのでしょうね。現場に立たないと実感は湧きませんね。本宮ではスサノオさんに拝礼し無事の御礼を申し上げました。

 また、今度は違うルートで熊野を歩いてみたいと思いました。

20085kumanoaoi_208 20085kumanoaoi_226  丁度、葵祭の季節でしたので、下賀茂神社付近で、王朝絵巻の葵祭りを眺めてきました。天気に恵まれ全ての絵巻物はビデオに録画してきました。

斎王代さんは奇麗でしたね、姉の話では一度親戚の人が斎王代に選ばれたそうですが、1年間の潔斎は大変だったそうです、しかし京都人にとり名誉だそうです。

20085kumanoaoi_235  吉田山に登り、義妹の勧めで茂庵(もあん)で昼食をとりました。女性に人気のあるカフェですよ、是非京都にゆかれたら、お立ちより下さい。

そして、近くの義妹の友人のギャラリーを訪問し素晴らしい絵画を鑑賞できました。後日、記事にしたいと思います。

20085kumanoaoi_257  最後のビッグイベントはMuBlogの先生のご案内で恭仁京遺跡、紫香楽宮遺跡を巡る旅でした。

御多忙中にも関わらず、時間を割いて頂き有難う御座いました。楽しい旅でしたね、今は草原となり公園になっていますが、聖武天皇の彷徨の時代を偲ぶ事ができました。謎の天皇の足跡をたどる旅でした。

 今後、これらの紀行を纏めて順次紀行文を書いて行きたいと思います。やたら、忙しい旅になりましたが、天気に恵まれ楽しかったです。

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明日から暫く休載します

 明日から関西に帰省します。日曜日には横浜に帰る予定です。

明日は道頓堀に行き、くいだおれの太郎に別れの挨拶をする予定です。長い間、関西を代表して頑張ってくれましたね。御苦労様でした。

 明後日は、台風の中、熊野古道をずぶぬれになりながら歩く予定だす。雨具も傘も完備し斜面を転びながら本宮から新宮まで歩く予定です。なんで、よりにより台風さんはこんな季節にくるんでせうか。

そして、某ミステリー小説作家さんに恭仁京、信楽の宮、等を案内して貰う予定です、これも楽しみです。聖武天皇さまが平城京を捨ててさ迷っておられた心の背景を探る予定です。本当の歴史はどうだったんでしょうね。謎が多い時代です。ミステリーですね。

 その他、娑婆の世界の野暮用もあり日曜日には帰る予定にしています。

 さて、今日からキムタクのドラマが始まりますね、総理大臣になる話だそうですよ。彼も将来政界に打ってでるんでしょうかね。

それでは、暫くの御無沙汰です。

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人間国宝 弥生の謎に挑む

 昨夜NHK教育番組で 再放送 ETV特集 「弥生人が残した謎の木製品現代の人間国宝3人が復元に挑む」-美しき器に隠された2千年前の歴史ロマン という番組は感動的でしたね。この番組は実は私は2月に放送された時に既に観ていました。改めて感動する実に良い番組だった。

 番組内容 参考資料(1)

 番組内容 参考資料(2) 青谷上寺地遺跡(あおやかみじち)

Body02  (番組の背景)

 日本海に面した鳥取県の青谷という場所に弥生時代の集落跡が発掘中だそうです。ひょっとすると三内丸山遺跡に匹敵する重要な遺跡になる可能性があるそうですよ。今から2200年前から1700年前の頃まで栄えた集落だそうです。幸い、水を含んだ粘土質の遺跡で木製品が奇跡的に保存され発掘されたのだ。(弥生人の脳まで保存されて出土している)

Body01  見事な木工製品であり、どのようにして制作されたのか、特殊技能集団が存在したのではないか、道具を作る専門の鍛冶師集団も存在したのではないか、原材料を何処から搬入したのか、類似製品は石川県の日本海沿岸でも出土しているが交易されていたのではないか、等々日本海沿岸地域の弥生時代の解明に鋭く迫る番組となった。

 (工具の復元)

 幸い工具も数多く出土していたので、2千年前の木工職人が使用していた工具も再現された。あの、薬師寺西塔を再現した法隆寺の宮大工、西岡常一棟梁から深く信頼されていた鍛冶職人である白鷹幸伯(しらたか ゆきのり)さんが復元した。

話はそれるが、法隆寺、薬師寺の修理、再建では和釘が使用されます、檜(ひのき)は育った年月と同じ期間死んでからも生きる訳ですが、現代の溶鉱炉で製造された鉄では直ぐに錆びてしまい木を痛めてしまうらしい。従い、玉鋼から日本刀を作るように和釘を作らねばいけないそうです。そういえば、錦帯橋の再建の時も白鷹さんが和釘を製作されたんでした。

 現代では途絶えてしまった工具も発掘されているので、これらの工具はどのように2千年前の木工職人は使用していたのか、解明するのも期待されていた。

 (2千年前の木製品の評価)

 人間国宝の3名が出土した木製品を調べその美しいデザインと制作技術のレベルの高さに先ず驚いていた。木も木目がきめ細かく立木の状態からどのようにして木目の細かい原材料となる木を選んだのか、謎であると話されていましたね。

多分、祭祀で使用された作品なのでしょうが、必要ない部分は削りに削り見事な匠の技を見抜いておられました。果たして現代の人間国宝が当時の工具で再現できるのか、不安とともに再現プロジェクトはスタートした。

 この番組での狙いの一つには、現代日本が繁栄している世界に誇る物作り民族のルーツを探る旅でもあるのではないかと思って観ていました。

 (鑓ガンナで苦労する)

 現代では台ガンナで木は加工する、あらゆるカーブを出す為に現代の匠は幾種類もの台ガンナを用意している。古代は鑓ガンナを使用していました。今でも、宮大工は鑓ガンナを使用していますね。有名な法隆寺のエンタシスの柱も鑓ガンナで削られ微妙な光の陰影を放つ美しさは台ガンナでは出すことが出来ないのは皆様もご存じの通りです。

 一人の人間国宝さんはこの鑓ガンナに慣れていなくて、苦労されました。どうしても納得できる削りが出来ないので大きな壁に阻まれました。そんな時に、彼の父である木工職人が鑓ガンナを使用して制作している時の写真を見つけ、両手の持ち方と指の配置からヒントを得て使いこなす事が出来たエピソードは興味深いものがありました。

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中国関連 雑記帳

 昨日、中国の胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席は早稲田大学で講演をされました。たまたま私はNHKの中継で彼の30分以上の演説を聴いていた。彼は私の4歳年上の1942年生まれで、中華民国時代の長江流域の江蘇省で生まれたようだ。大学は精華大学という技術系では最高の学府を卒業している。

 彼について知っていた事は、彼が1989年頃からチベットの共産党書記として大活躍をしたという事ぐらいでしたね。民族独立運動に対して戒厳令をひき大きな成果をあげたという事は今まで何処かで聞いていた程度しか知らない。実にチベットと実に因縁深い人なんですよね、彼にとりチベットは絶対譲れないんでしょうね。

 彼の大隈講堂での演説は見事なものでしたね、流石に政治家というのは演説が上手だと感心した。長い時間を割いて日本と中国との歴史に触れた事は印象が深かった。遣唐使の話まで登場していましたね。数百年のスパンで政治を語るのは中国人の特徴なんでしょうか。話では、明日、奈良の平城京遺跡と唐招提寺を訪問するという予定だとか。

 彼は東山魁夷の障壁画の前に立ち鑑真和上の遺徳に思いを馳せるのだろうか。彼の一挙手一行動はテレビで中国に放映されているという。今、困難な局面にある中国の国を纏める為に彼は中国の国民を意識して発言、行動している。

 彼の昨日の演説は私には未来を見据えた積極的で建設的な納得の行く発言ばかりでした。実に日本の事をよく解説してくれていると思ったが、多分、中国の人々に彼は日本を説明しているのだと思って聴いていた。ちゃんと日本人を褒め、日本から今中国は何を学ぶべきかを的確に述べている。

 昨日の、NHKのクローズアップ現代では中国の危機的な経済問題を取りあげていた。上海証券市場の株価の暴落と急激な消費者物価の高騰である。確かに、無錫、蘇州、上海を紀行した時に現地の人々は物価の高騰を嘆いていたのを確認している。農村から人々は都市に出稼ぎにでかけ農産物の生産が急激に低下し、食糧の需給に異変を起こしているのは事実なんでしょうね。

 急激な近代産業化のひずみが露呈し始めているのかもしれない。安い元の力だけで稼いだ貿易黒字の金が過度の投機マネーに変貌していたのではないでしょうか。中国は日本が経験した多くの急激な経済発展過程に於ける経済危機の経験を学びたいのではないだろうか。

 中曽根さんが胡錦濤さんに提案した韓国、中国、日本のトップによる定期会談は私も大賛成と思います。中国、韓国、日本のトップ会談を年に4回程度行うことで金融危機や戦略的な東アジアの経済圏について建設的な議論をすべきであると思う。21世紀はアジア復権の時代に必ずなると考えています。

 今回、地球環境問題についても進展があったようですね、洞爺湖サミットが関係しているのでしょうが、中国も環境問題抜きにはこれから国際社会で生きて行けない事をちゃんと判っている。パンダは日本に必要ないと思う、見たければ四川省に行けば良い、地球環境問題を議論すべきだと思う。

 最近は中国とのビジネスに少し関係しているので、日中間の政治問題には敏感になっている。気がかりなのは中国の一部の人の極端なナショナリズムですね。仕事仲間の若者は江沢民国家主席時代に精華大学を卒業した、彼は漫画オタクなのですが、随分と反日教育まがいの差別を受けて苦しい時代を送ったと回顧している。

 ところで、昨日聖火がエベレスト、中国名チョモランマの頂上に到着したというニュース映像が流れていた。あれ、何なんでしょうね?中国はオリンピックに登山競技を持ち込みたいという提案なんだろうか。何をいいたいのだろうかと疑問に思いました。

 アフリカ縦断114日という番組ではアフリカのキリマンジャロの映像を眺め、この5800メータの氷河と万年雪も数年以内に融けてしまうという環境危機にある地球です。治安部隊をエベレストに派遣してまでやらねばならない事なんでしょうかね。三浦さんは中国ルートを諦めたそうですよ。

 ともかく、21世紀は中国、韓国、日本の三カ国は東アジアだけでなく世界で重要な位置を占める責任ある国になる訳ですから、よく相談しながらEU連合、アメリカ、ロシアと対抗して貰いたい。

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熊野古道 中辺路

 来週は京都に帰省するのですが、14日は熊野古道の中辺路に出かけようと考えています。今から楽しみですが、少し熊野古道について触れてみたいと思います。

 (祈りの道、熊野)

 淡交社出版の「熊野古道」の書物に於いて、私の好きな山折哲雄先生が熊野に関して発言されている言葉の一部をご紹介します。

 -祈りの道 熊野 よりー

 ・奈良・和歌山・三重の三県にわたる紀伊半島は、日本列島最古の文明圏を作ってきた。その中心は、いうまでもなく古代国家が誕生した大和平野である。その文明の中心地から南へほぼ百キロの地点に熊野三山が位置し、同じように東に百キロの地点に伊勢の内宮・外宮が鎮座している。

 ・大和平野が国家の母胎を象徴したとすれば、熊野と伊勢は宗教的権威の源泉だった。大和に王権が確立した頃、熊野は死者の霊が籠る異界とみなされていた。イザナミノミコトは死んで熊野の有馬村に葬られている。やがて熊野を象徴するカラスは、死者の霊の去来と結びつけられた不吉な鳥とされた。

 ・熊野三山に鎮まる神々はいずれも、死者の国に関係している。本宮はスサノオであり根の国に追いやられた神、那智はイザナミでありこの地に葬られた。新宮はハヤタマノカミであり、死者の国の入口にあって死者の穢れを防ぎ払う神である。

 ・やがて、その熊野が変貌し始める。死霊の籠る「隠国」が再生を約束する霊場へと姿を変えてゆくのだ。仏教がこの「隠国」の奥地まで流入し、山岳信仰が次第に活況を呈するようになる。「万葉集」にでてくる「挽歌」とは死者を悼む歌であり、死者の棺を挽く歌という意味である。その挽歌をみると、死者の魂は山に登るという事が歌われている。

 ・その山に登った死者の魂は、やがて時を経て山のカミになると信じられるようになる。その山のカミが先祖のカミと考えられたり、村人たちの氏神と観念されるようになった。そこへ、仏教が入ってきて変化が生じた。仏教の浄土教では、人間はその死後、阿弥陀如来のいます西方十万億土の彼方の浄土に往生すると説いた。

 ・しかし、日本では風土的環境の影響を受け大きく変異した、死者の魂は山中の頂きに於いて往生し、仏となると考えられるようになる。こうして、日本では山中浄土観が形成されるようになった。インドの浄土思想を軌道修正した日本列島の浄土観、日本人の往生思想が誕生した。

 ・山上を媒介としてカミとホトケが手を結ぶ事となった。人間は死んで山頂に赴き、そこでカミとなりホトケに再生するという信仰が、矛盾する事なく自然なかたちで出来上がった。

 (王朝人の巡礼)

 飛鳥時代から平安時代にかけてどれだけ多くの王朝貴族がこの熊野参詣の旅をしたであろうか。平安末期になり白河、後白河、後鳥羽の三上(法)皇による度重なる参詣は皆様も良くご存じと思います。

 参考 熊野古道地図

 熊野古道には幾つかの道があります。代表的なルートは紀伊路から中辺路又は大辺路を利用し熊野三山を参詣するルートです。

 紀伊路とは京都の鳥羽離宮(現在の城南宮)から淀川を南下し、八軒家船着場(現在の天満橋付近)で下船し一路、紀伊半島を西回りで田辺迄向かう。これを紀伊路と呼ぶ。田辺から山中に分け入り、本宮を目指す山岳ルートが中辺路である。本宮からは船で熊野川を下り、河口にある新宮を詣でたあと、海沿いから那智川沿いに遡行し、那智山を詣で険しい峠を越えて本宮に戻り元の道を帰る。

 大辺路とは田辺から海沿いに那智山を目指すルートです。海辺の景色が素晴らしいという。しかし、中辺路の帰りのルートとして利用されるケースが多いそうです。小辺路は弘法大師の高野山と熊野三山を結ぶ山のルートである。千メータ級の山を四峰越えねばならないワンゲル向きのルートである。

 伊勢路とは伊勢神宮から熊野三山へ、紀伊半島東岸を南下するルートである。東国の巡礼者が利用したルートである。

 神武天皇の神話の時代からヤマトとは関係の深い場所であり、壬申の乱、南北朝と歴史の転換期には登場する吉野と熊野。熊野を訪問し古代の歴史に思いを馳せたい。

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5月の連休 心に残る番組

 昨日で5月の連休も終わりましたね。皆さんは如何お過ごしなされましたか。私は夏の熟年バックパッカー計画の具体化計画で疲れてしまいました。この時期は何処かにでかけると混雑するので、自宅で過ごした訳です。本を読んだり、テレビを観たり、食事を作ったりとそれなりに忙しい日々を過ごしました。

 この連休で面白い番組は二本ありましたね。一つは薬師寺の日光・月光菩薩の番組でもう一つは昨夜から放映されたアフリカ縦断114日の旅という番組です。

 (平城遷都1300年記念 薬師寺展)

 東京国立博物館 薬師寺展

 今回の仏像の輸送の為に両菩薩の光背が外され見事な後ろ姿を我々は見る事が出来ましたね。何とリアル感のあるブロンズ像なんでしょうか、感動しました。特に女性の美しいなで肩と背中の背骨の大胆な窪みのの表現の月光菩薩の姿はギリシャ彫刻も真っ青ではないですか。

 そういえば高校時代の美術の先生に教えて貰いましたが、飛鳥、奈良時代の仏像のギリシャのヘレニズム文化の影響について講義を受けました。広隆寺の弥勒菩薩のアルカイック・スマイルと薬師寺の両菩薩のS字、鏡S字の身体をひねったデザインの動的表現です。このデザインには名前があったと思いますが、忘れてしまいました。

 この月光菩薩さんは明らかに女性を表現し、日光菩薩さんは男性を表現していると感じられますね。今回の光背を取り外して360度方向からお姿を眺めると明らかに、当初は光背が無く360度から観てその美しいお姿を拝見出来るように作られたと考えられますね。

 月光菩薩はS字形、日光菩薩は逆S(鏡S)字形です両者が二人バランスよく配置された全体の構想が作者にあったのですね。見事な芸術家がいたものだ。薬師寺は天武天皇の時代に藤原京に創建された寺ですよね、一体誰がこのブロンズ像を作ったのだろうか。仏像の足の裏にでも銘がないのだろうかと、思いたくなります。

 先月、韓国の古代の都を訪ねる旅をしましたが、明らかにシルクロードの文化の伝播をこの仏像に見る事ができます。確か法隆寺の建物のデザインにも遥かシルクロードの影響を受けたデザインが沢山存在すると学んだ記憶があります。又、今でも庶民に愛されている唐草模様の風呂敷のデザインもシルクロードの香りがしますね。

 (アフリカ縦断114日の旅)

 昨夜、前編が放送されたが感動の番組でした、私も若ければ是非挑戦したい旅でしたね。ワンゲル時代を思い起こさせる番組です。エジプトから南下し喜望峰までトラックに乗りアフリカを縦断する114日の過酷な旅です。

この道は遥か人類が猿から進化した道の逆のルートであり人間のルーツを辿る旅ではないだろうか。アフリカを縦に走る巨大な大地溝帯、今も裂けている、いずれ大陸は裂けてしまうそうだが、その道を行くのだ。

 今年の夏か秋にキリマンジャロの登山に挑む計画を持つ先輩、小島先輩の話を聞いていたので今晩放送される後編のキリマンジャロは是非観なければいけない。先輩の話では地球温暖化でキリマンジャロの雪は数年以内に消えてしまうそうだ。今しかチャンスは無いという訳で彼は66歳なのに挑戦する。流石に元、山岳部のOBです。

 番組で驚きは半数近くが女性という事に驚いてしまった。過酷なテント生活で砂漠に寝泊まりするのだ。サソリも毒クモもムカデも映されていた。便所も困るだろうな~~と思いながら女性の逞しさに驚いていた。元気を貰える旅の模様です。是非、皆さんも暇があれば観て下さい。

 ついでに、キリマンジャロで思い出しましたが私の好きな歌がありますのでご紹介しておきます。 YouTube さだまさし「風に立つライオン」

 もう一曲、喜多郎の「シルクロード」 電子バイオリン版

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熟年バックパッカー計画 奮闘記

この連休はノルウエー紀行の計画立案で疲れ果ててしまった。家内は「地球の歩き方」を研究し、私は先輩諸氏の紀行文をインターネットで探し体験談を調べる。娘はメキシコでサポートしてくれた。結論としてノルウエーの旅の立案は今までの経験で一番難しいという結論だ。

 (理由)

 ・土地がフィヨルドなので、陸上路は常に渡し船で遮られる。飛行機は数も少なく高価である。目的地までの行程計画の立案が難しい。

 ・ホテルは一人2万円以上かかる高価なものであり、飯場というか山小屋というか4名、8名、12名が1部屋で宿泊するユースホステル施設を利用する。

 ・予約は全てインターネットで出来るが、各ユース、ホテル毎に操作が異なり面倒臭い。

ともあれ、飛行機は娘が予約をしてくれ、宿泊施設は私が予約をし、コース全体の計画は家内が立案した。連休4日間の奮闘記である。ホンマ、ツアーは便利ですね全てお任せだから苦労はいらない。

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夏の熟年バックパッカー 計画

 今年の夏の海外放浪の旅の計画を熟慮中であります。7月2日に成田を発ち、韓国のインチョム経由でパリに行き、二週間後の17日に日本に到着する飛行機を取得した。問題は中身ですね。

 7月6日にパリを発ちノルウェーのオスロに飛び、14日にパリに戻る飛行機はメキシコにいる娘が取ってくれました。9日間ノルウェーに滞在する事になります。という訳で、今回の旅はパリとノルウェーに長期に滞在する事となりました。

 (ノルウェーとは)

 地図参照してみましょう

 オスロから西に汽車で6時間程度山を越えてゆくとベルゲン(Bergen)という比較的大きな町にでますね。そこから少し北の海岸はフィヨルドでありソグネフィヨルド(Sognefjord)があります。ここは世界最長、最深のフィヨルドだそうですよ。船でまわると楽しそうです。

そこから、もう少し北にゆくとゲイランゲルフィヨルド(Gelrangefjord)がありますよね。渓谷の美しさでは世界一と言われ、世界自然遺産に登録されているそうだ。ここも船で眺めると楽しそうですね。そして、少し南には氷河(Glacier)が沢山あるようですよ。

 娘の話では最北端にあるアルタ(Alta)という場所がありますね、北緯70度近いと思いますが。そこには世界遺産に登録された岩絵(ロック アート)を見ることができるそうだ。

 日本のバックパッカーで訪れた人がいるようです。 参考記事 

 参考記事 アルタの岩絵訪問記 この人の記事はとても面白いですね。北緯71度の寒い強風の場所「ノールカップ」での体験は面白いです。ここだと、多分太陽は沈まないので白夜を経験出来るのでしょうね。けど、太陽がでないと話にならない。(笑)

岩絵を見るにはオスロから飛行機でアルタに行くのがよさそうですね。ともかく、ノルウェーの海岸は氷河で削られたリアス式海岸だからバスで行くにも、そこらじゅうでフェリーに乗り換えないと進めないのでしょうね。

 だから、人々は船が交通手段として発達し、食糧も無さそうだから、バイキングになってしまったのだろうか。(笑)

しかし、北緯71度の北極に近いような場所で今から6000年も7000年の前に岩絵を描いた人々が存在したとは驚きですよね。何故なんでしょうか?不思議です。

 問題は、北欧の国々は物価が滅茶高いという問題です。熟年バックパッカーにとりそこが問題なのです。なるだけ、ユースのドミトリーに泊まるか食糧、酒、タバコは多量に持参して旅をするしかない。高福祉国家というのは旅人にとり辛い話だ。その点、カンボジア、ベトナムなどではビールもタバコも百円以内で手に入る。

相棒の家内は「地球の歩き方」を熟読して調べているが、調べれば調べる程、困難な旅になりそうな予感がする。

 参考記事 Norway Tours

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韓国紀行 目次編

 楽しみにしていた4日間の韓国紀行も終わりました。ほんの一部に触れただけの旅でしたが、是非又、訪れてみたいと思う旅になりました。今度は、日本と深い関係があった洛東江流域を旅したいと考えています。加羅、金官加羅、伽耶、任那、日本が未だ倭と呼ばれていた時代の国々です。

 これらの国々はその後、新羅と百済に合併されてしまうのですが日本が独自で鉄を生産出来るようになった時代背景もあると考えています。東アジアの歴史において、韓国と日本は長い期間お互い深い交流があった事を忘れてはいけないと思います。

以前、大昔にNHKさんが放送した番組の記録本を神保町の古本屋で見つけ、3世紀頃の船を再現し漢江河口から魏志倭人伝に記録されたルートで朝鮮半島西岸に沿い南下し、壱岐、対馬を経由して邪馬台国を目指す記録をブログで採りあげました。

 Google地図・写真で遊ぶ(2

 邪馬台国への旅 古本より(1)

 邪馬台国への旅 古本より(2邪馬台国は日本人にとり故郷探しのテーマではないでしょうか。その為には韓国の歴史を知り、中国の歴史を知らねば見つける事は出来ないのではないでしょうか。現在の我々が想像する以上に古代では緊密な交流が存在したと考えています。

韓国の旅から帰国後、角川選書「巨大古墳と伽耶文化」古代伽耶と倭の交流を解明するという昔の本を再読しています。平成4年に出版ですから随分と昔の本になりますね。大成洞古墳(テソンドン)を始め韓国の伽耶地域の発掘調査を踏まえた本ですので、大変面白く読んでいます。長い期間の韓国紀行をお読み頂き有難うございました。

韓国紀行 目次編

  韓国紀行(1) 辰韓・新羅の謎

  韓国紀行(2) 慶州古墳公園

  韓国紀行(3) 慶州石窟庵・佛國寺

  韓国紀行(4) 高麗青磁

  韓国紀行(5) 丹陽八景

  韓国紀行(6) 景福宮

  韓国紀行(7) 宗廟 世界遺産

  韓国紀行(8) 水原華城

  韓国紀行(9) 落涙 落花岩、百済

  韓国紀行(10) 韓国料理

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韓国紀行(10) 韓国料理

韓国紀行で美味しかった料理について紹介します。

20084korea_012 20084korea_013  これは「ソルロンタン」という料理です。牛の骨や内臓や肉を10時間程度水で煮た料理です。これにスライスした肉を入れ、御飯をれてもいいしキムチを入れてもいいし、自由に食べます。

 ネットで調べると、李氏朝鮮時代に、農事に関する祭祀が執り行われた先農壇で、祭祀の後に人々にふるまわれていた料理だったという説。「先農壇」のスープなので「先農湯(ソンノンタン)」だったのが「ソルロンタン」になった、などといわれているそうだ。

20084korea_078 20084korea_077  これは、「キムチチゲ」ですね、皆さんもよく御存じではないでしょうか。現地はやはり、辛いですね。

私はキムチは大好きなので、大歓迎ですが、家内は味噌チゲを食べていました。ともかく、家内は漬物は食べれないし、辛いものはダメなので、食べるものが無いのが悲しい現実でした。

 私も若い頃は漬物を食べる事ができなかったのです、しかし、加齢とともに漬物が大好きになりましたが、そうでもない人がいるのですね。(笑)

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 「プルコギ」ですね。慶州で食べました。日本でいうすき焼きではないだろうか。ネットで調べると、

「プル」()は「火」、「コギ」(고기)は「肉」の意だが、日本でいう「焼肉」とはかなり異なる。

醤油・砂糖・蜂蜜・清酒・胡麻油などの調味料と、おろしたニンニクや生姜、さらにナシやリンゴなどもおろして加えてよく混ぜたヤンニョムに、薄切り肉(牛ロース、ヒヒレなど)を漬ける。漬ける時間は肉の質やレシピなどにより30分~ひと晩とさまざまである。漬けた肉はタマネギ・ナガネギ・キノコ・春雨などと共に焼いて、あるいは煮て、お好みでサンチュなどに包んで食べる、とあります。

20084korea_262 20084korea_264  「宮中海鮮鍋」だそうですよ。辛くて辛くて私でも結構厳しいものがありました。日本人には厳しいかもしれないですね。美味しいのですが、辛さがメキシコの青唐辛子の辛さのような雰囲気でしたね。

 しかし、何で韓国の人々は秀吉の文禄・慶長の役の以降、こないな辛いものを好きになられたんでせうか。家内は殆ど食べることは出来ませんでした。

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 「カルビクッパ」です。牛肉の料理で韓国料理としては定番ですよね。

この料理は韓国を去る最後の昼飯として頂きました。

ソウルでは多分、有名なこの料理を食べさせてくれるお店は多いのでしょうね。

20084korea_267  これは、ソウルで朝食として頂いた「アワビのお粥」です。

何処にアワビちゃんが存在するか、判りませんでした。(笑)

しかし、朝食はお粥がいいですよね、中国でも朝は必ずお粥ですが、これはいい習慣ではないかと思います。身体にいいですよ!

 色んな韓国料理を堪能しましたが、朝、昼、晩と毎回キムチは食べました。帰りの飛行機では身体からキムチの香りが漂っている4日間の韓国料理の旅でした。

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急に真夏の天気

 この数日は真夏のような暑さで外を歩くと汗をかきます。昨日は30度近い気温を記録した地域も関東にあるようです。今日の熊谷の予想は29度から15度、横浜は23度から17度の予想です。急激な気候の変化はやはり、異常なんでしょうね。

20084saisan_kangei_011  (公園の藤)

 大豆戸小学校近くの公園の藤ですが、綺麗にさいていますね。昨日は旅行会社に入金の必要があり新横浜の銀行を訪れる為にブラブラと歩いた。7月2日に成田発パリ行き、7月17日に成田帰還のフライトがとれました。ソウル経由の安い飛行機ですが、燃料費が高騰していて二人で約24万円でした。

 ATMでは10万円以上は振込が出来ませんと表示がされていたので、窓口に行くとATMで振りこんで下さいと言われた。現金での振り込みは10万円迄だそうなんですね、ホンマややこしいですね。

20084saisan_kangei_006 20084saisan_kangei_008

 鶴見川では魚釣りをする人が数名おられました。のんびりしていいもんですね。釣れるんでしょうかね。

キャベツ畑で、てふてふが乱舞していましたがこれはカリフラワーなんでしょうか。

 そうそう、帰省ですが5月13日から1週間京都に帰る事になりました。ついでに、日帰りのバスツアーで熊野古道を歩くことにしました。先ずは、偵察ですね、気に入る場所があれば次回にゆっくり行こうと思います。

 (青葉が美しい新宿)

20084saisan_kangei_005  新宿の都庁近くは高層ビルが林立していますが、街路樹の青葉が今とても美しい風景を作っています。仕事のあと、同僚と軽くカフェテラスのような場所でビールを飲んで帰宅するのが楽しみです。

先日も先輩同僚と朝鮮半島の古代史の話をしながらビールを飲んでいました。

 世の中は騒がしいようですね、聖火リレーも何とか無事長野で終わったようですが、北京五輪は大丈夫なんでしょうね。中国の人々は初めての五輪を開催する訳ですから、一生懸命なんでしょうね。同じアジアの人間としては是非楽しい祭典になる事を祈っています。

 チベット問題は私にはよく判りません、真実が不明で憶測ばかりの報道ですから早く世界のメデイアが現地に入り報道する道が開ける事を希望しますね。しかし、ここに来て西欧のメデイアがやたらと騒ぐので、裏があるのではとついつい思ってしまいます。

 イラン、イラク問題も結局は石油の利権を巡る争奪抗争だと冷静に考えれば、チベットもその可能性が考えられるかも知れませんね。 日経ビジネス記事参照

虎視耽々と西欧諸国もこの地下資源を狙っている可能性もありますよね。政治問題には興味はありませんが、経済問題になると私も興味が湧きます。

 さて、世の中はゴールデンウイークですね、上野の国立博物館は満員なんでしょうねNHKの特番で日光、月光菩薩の放映がされたので、感動された人々が行列をつくっているのではと予想します。私もお背中を見たいものです。

(追記) 奈良方面の藤便り

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