蘇我稲目と渡来美女
昨夜から明日香村の真弓鑵子塚古墳に関するニュースがあり、メモ記事を書いた。
過去記事 真弓鑵子塚古墳
ところで、朝日新聞のニュースで解説された京都橘大の猪熊兼勝先生の蘇我稲目と朝鮮半島から連れてこられた美女説が面白いし夢がありますので、少し解説記事を書きます。ニュース記事では百済の美女とありますが、高句麗の美女の間違いだと思います。
(日本の動乱と新羅の勃興)
日本では河内王朝の武烈大王を最後に河内王朝は衰退し、新しいヲホド王(継体大王)の時代に転換します、この混乱の時期に新羅はヤマトが影響力を行使していた洛東江界隈の任那同盟の盟主である金官国(金海)を532年に併合してしまう。
継体大王は九州の雄である磐井との有名な磐井の乱を制圧する訳ですが、朝鮮半島に対する河内王朝以来の影響力は失われて行く。562年には洛東江の加羅諸国と呼ばれた国々が新羅に併合されてしまうのです。最後に生き残った安羅(弁辰安邪国 アヤ国)から渡来したと想定されるのが、例の漢(アヤ)氏と推定されている。
その後、欽明大王の時代となり朝鮮半島は百済、新羅、高句麗という時代になります。
(大伴連狭手彦の出兵)
百済の要請で高句麗の南下を防ぐ為に欽明大王の時代に大伴連狭手彦が大将軍として出兵し百済の計略により高句麗の王城を攻め落としたと日本書紀には記述があります。興味があるのはここからですが、その時に略奪の金品と共に美女二人を連れ帰り蘇我稲目に差し出したという。
日本書紀 欽明天皇23年(562年8月)
”美女媛〈 媛名也。 〉并其従女吾田子。送於蘇我稲目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以為妻、居軽曲殿。”
これが、美女の媛と従女吾田子(あたこ)であり、稲目は二人の女性を妻とし軽の曲殿(まがりとの)に住まわせたという。この二人の美女は姉妹であった可能性があります。これが今回の猪熊先生の説に繋がるのです。元々が石室には二つの家形石棺二個と木棺が存在したという真弓鑵子塚古墳ですし、稲目の没年が6世紀中葉であることが理由です。
(どんな美人であったのだろうか)
蘇我稲目は娘二人を欽明天皇の妃として送り込んでる天皇の外戚ですよね、強大な権力を持っていたと想像できます。彼女達の運命はどうなったんでしょうね。
考えられるのは、彼女達を妻ではなく養女として受け入れ天皇に差し出した可能性と、もし子供が出来ており女の子であれば天皇の妃として差し出した可能性があります。
日本の正史の欽明天皇の事績に書かれる程、美人だというのですからひょっとすると、青い目の女性であったかも知れませんね。
想像するのは勝手ですから、何とでも考えられます。当時に瓦版屋がおれば三面記事として色々と書かれたのではないだろうか。
可能性として、彼女達は異国の略奪された事を不服とし稲目を憎み拒んだかもしれない。そこで、かぐや姫伝説を瓦版屋が作り上げた可能性もありますね。
という訳で、猪熊先生の説から逸脱してしまいましたが、面白い夢をみさせて貰いました。
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Comments
蘇我稲目と舶来美女二人のお墓なんですか。すごいですね。
いえね、石舞台が蘇我馬子なら、それよりでっかい真弓カンス塚だと、東漢一族では少し弱い感じがしておりました。
昔のことはようわかりませんな。
Posted by: Mu | 2008.02.08 03:55 PM
Muの旦那
昔の事はよく判らないですよね、だから面白いと考えましょう。
しかし、石室内の棺桶は何処に連れてゆかれたんでしょうね。単なる盗掘なら中身だけ盗みだしますよね。
家形石棺は何処に行ったんでしょうか。
しかし、明日香は奥が深いですね。
Posted by: jo | 2008.02.08 11:37 PM