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第4回 三輪山セミナーイン東京

 予告記事 三輪山セミナーイン東京 第四回

 三輪山セミナー2006 記事

 三輪山セミナー2005 記事目次

Mongolia_tour_2007_419  今年も三輪山セミナーイン東京に参加した。これで初回から毎年参加した事になります。三輪明神大神神社の主催で文化庁、奈良県、桜井市が後援されています。

 (宮司さんの話)

 鈴木寛治さんのお話で面白かったのは、古代の日本人は感性が鋭く霊気が強い場所をツボと考え神社を建造したという。確かに三輪山を遠方から眺めても、近くに寄ってもそう感じますね。又、日本の宗教とは、信じる宗教では無く、感じる宗教であると述べておられました。同感ですね。

 (千田稔さんの講演)

 千田先生は過去にも何回か記事を書かせて頂いたが、現在は国際日本文化研究センター教授、奈良県立図書情報館館長をされています。専門は歴史地理学ですが、古代史では有名な人です。邪馬台国、巻向説の論陣を張る人でもあります。

 (古地図から見る邪馬台国の所在地)

  『混一彊理歴代国都之図』

 この地図は1402年に朝鮮で描かれた地図であるが行基図を元に描かれたという。九州が北であり、関東が南に描かれている。中国人も朝鮮の人々も日本列島は九州を北に南下した列島であると意識していた。

 魏志倭人伝で水行10日、陸行1月という行程記述に邪馬台国畿内説はこれを、東と原本資料を読み直して説明していた、のがこれで畿内説は有力となる。が、これは龍谷大学本であり、島原市、本光寺本では日本列島は東に描かれている。だから、畿内説は間違いと九州邪馬台国論者は反駁する。

 古今華夷区域図総要図

この地図は宋の時代、1100年頃ですね、中国で書かれた地図で先ほどの地図よりは古いのです。これによれば、海の中に北から、扶余、倭奴、日本、毛人(群馬あたり)、蝦夷と南に連なり、朝鮮半島から九州を北に南下するのが日本列島であるという認識であったようだ。

1471年の頃になると”海東諸国記”で、朝鮮通信使の外交官が書いた日本列島の地図は九州から関東にかけて東西に長い正しい認識となった。意外と日本列島の位置関係を朝鮮、中国人が正しく認識したのは新しいのだ。それまでは、九州が北で関西関東に続く日本列島は南に延びた列島と意識していた。

 (年代論)

 最近までは古代史の常識として、弥生時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀であり、古墳時代は4世紀からと教えていた。しかし、最近の巻向近辺の前方後円墳から出土する板状木製品の年輪年代法の研究の進化により、100年は古墳時代の歴史が古くなったのである。即ち、卑弥呼が死んだと言われる248年の3世紀には古墳時代が始まっていたのだ。

 勝山古墳ーー三世紀前半と結論

 ホケノ山古墳ーー3世紀前半、後漢時代の画文帯神獣鏡出土

 巻向石塚古墳ーー3世紀初期

 箸墓古墳ーー260年から280年頃か

 (巻向遺跡)

 ・出土した土器は西部瀬戸内海から関東地方に及ぶ事。

 ・大溝が検出され鋤の出土が多く、大規模な開発工事がなされたと考える。

 ・祭祀的、政治的機能を持ったと考えられる建築遺構が発見された。

 ・局地的な範囲を支配した王権ではなく、かなり広範囲に渡る地域の中心地で有る事を予感させる。

 (千田氏の邪馬台国論)

 結論から言いますと、3世紀に三輪山を拠点に君臨していた土着の出雲族を打ち破り巻向に邪馬台国すなわち大和王権を開いたのはアメノヒボコであると結論する。日本書紀、古事記、播磨の国風土記に伝承として伝えられるアメノヒボコは侵入者であり現在の穴師坐兵主神社(あなしいますひょうずじんじゃ)の神体である。

 彼は記紀に於いて新羅の王子で嫁はんが日本に逃げたので、追いかけて来たが難波の豪族に阻まれ但馬の国で死んだという。しかし、播磨の国風土記ではアメノヒボコとアシハラシコオ(大国主、大物主)と土地占拠争いをしたと伝える。

 この兵主というのは武器を製造する部族を言う、又、古事記ではアメノヒボコが持参したものに浪振る比礼(波を呼び寄せる神器)、浪切る比礼(波を鎮める神器)、風振る比礼(風を呼び寄せる肩掛け)、風切る比礼(逆ですね)、奥津鏡、辺津鏡から海族であると定義する。

兵主とは実は中国の山東半島にルーツを見出すことが出来、中国の江南地方から山東半島、朝鮮半島、九州を含む東アジアの地中海とも言うべき海を航行した海族の一派がアメノヒボコであろうと結論する。

 今回は時間が限られていたので、千田さんの東アジア地中海航海民の核心まで話は進まなかったが、多分そうなんでしょうね。師匠の内藤湖南先生は巻向山は万葉の時代、弓月が岳と呼ばれ、秦氏の親玉が弓月氏であったという。秦氏のハタは古代朝鮮語では海という意味らしく、海族であるらしい。アメノヒボコ伝承地には秦氏がゆかりが深いのは古代の名残であると言う。

 奈良生まれの関西人ですね、お話は上手だし、関東には邪馬台国九州説の人々が多い事をわきまえて見事に吉本風にお話しを進められたのは見事であった。

 参考 亀と蓬莱山

     兵主神と邪馬台国

     飛鳥 水の王朝

     埋もれた港

   千田氏の卑弥呼宮殿推測地「himiko_palace.kmz」をダウンロード

   景行天皇陵南、穴師北部、珠城山周辺と推測

   (Google Earthをダウンロード必要です。)

   Mu氏が推測する卑弥呼の宮殿記事

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Comments

 Joさん、ものすご気に入って、この記事に熱中して、最後にきたら、不肖Mu記事へのリンクがあるじゃないですか。
 2004年の幼稚な記事にリンクされるとは、これは冷やかしか嫌みかと、ふと思いましたが、すなおに、「ありがとう」

 千田説では、兵主さんの祭神からみなのですね。
 Muは最近は、物部系に凝っていました。(凝るとか、飽きたとか、アマチュアは気楽ですねぇ)

 Joさんがもう少し国内邪馬台国記事に専念してくださらないと、なにかしら気の抜けたビールと人生を味わっていましたが、この記事で数ヶ月分は活力を取り戻しました。

 予定では、今後、ヒミコ(旧称卑弥呼)の被葬地学説をひとつひとつ、見ていきたいと思っています。

追伸
 最近思いました。邪馬台国論争は、魏志倭人伝に、みんな拘りすぎのような印象があります。あれは、正史と云っても、なんとなく小説紀行文みたいなもので、Muがアメリカ紀行文を書いて、行ってもいない東部を、みてきたように書く筆致と思い出しました。
 イメージ先行ですね。

Posted by: Mu | 2007.08.21 08:19 AM

残暑お見舞い申し上げます!Mu旦那

 今週末からしばし、京都に帰ります。お盆に墓参りしていなかったし、五山の火送りも済んでしまいましたが、遅ればせながら。

Mu教授の卑弥呼(日巫女はん)はんにかける執念は存じております、又、あの記事は自分の足で何回も確かめられた結論ですから、尊敬しています。

 思うに、古代史研究では墓の研究と土器の研究は進化しましたが、これからの考古学学徒が研究すべきは宮殿と都の研究でしょうね。

 古代は大王が変わる度に遷都した訳ですが、それも穢れの思想からでしょう、けど、行政がなされた都、宮殿が判らないといけませんね。

 今回、千田さんの面白いのは航空写真から田圃の畦道とか道を眺めおおよその、見当をつけられた点です。吉村作治先生が東海大学と連携し、旧ソビエトの偵察衛星の写真を分析してエジプトの未発掘の墓を探しましたね。

 最新の航空写真とか赤外線探知とか音波検索とかありとあらゆる科学的な手法で宮殿跡を探索する時代ではないでしょうか。

いずれにせよ、マキムクという場所が大和王権と邪馬台国の発祥の地でるという結論は現在の考古学と歴史学のほぼ合意ではないでしょうか。

 物部氏についてはMuさんは思い入れが強いですね、古代物部氏と『先代旧事本紀』謎―大和王朝以前に、饒速日(ニギハヤヒ)は出雲族と三輪山王権として古く地元の勢力として存在していたのでしょうね。

 

Posted by: jo | 2007.08.21 09:28 AM

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