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邪馬台国やっぱり畿内?

読売新聞8月22日夕刊には掲題の記事が記されていたので、メモを残しておきます。

 畿内大和説をに有利な証拠が最近の発掘成果で沢山出てきているという記事ですね。その具体的な一例として邪馬台国が存在した3世紀前半から後半の時期の大和の古墳群と瀬戸内地東部の古墳とに強い結びつきがある証拠が発掘されたという話である。

 (概説)

・奈良県桜井市にホケノ山古墳があります。2000年に発掘され

①前方後円墳である。②木郭内に木棺を納めた二重構造の埋葬施設。③画文帯神獣鏡など中国鏡の副葬。 古墳築造時期は3世紀中葉である。この三点の特徴を持つ古墳が以下順次発掘された。

・2006年3月徳島県鳴門市の萩原2号墳は全長25メータの前方後円墳で3世紀前半築造。南50メータにある1号墳では79年、80年の発掘で②、③の発掘されている。

・兵庫県たつの市綾部山39号墳では2003年9月の発掘にて①、②、③が確認された。

・京都府南丹市の黒田古墳、岡山県総社市の宮山古墳、兵庫県加古川市の西条52号墳など近畿や瀬戸内東部で十数基に達する。

・立命館大名誉教授の山尾先生の話として、”共通する墳形や埋葬施設、副葬品は同じ信仰や価値観念を共有し、結びついていた証拠である。その中心が邪馬台国であり、後の大和王権につながる。”

 勿論、九州説の人々も反論されている、大和地方と東瀬戸内海諸国が纏まった連合国ではあっても、九州を含めた連合国では無い。未だ、西日本全土は統一されていないから邪馬台国と決めることは出来ないと主張。

 (感想)

 注目は画文帯神獣鏡という中国鏡は長江流域と朝鮮半島の楽浪郡あたりからも出土しているので、大和・東瀬戸内海連合王権は大陸と交渉していた事は紛れも無い事実でしょうね。さすれば、何故、魏志倭人伝には日本には九州と畿内という二つの国が存在した事を書かなかったのだろうか?という、疑問がでますね。

 九州説の場合は呉の国と楽浪の公孫氏が畿内王権と提携し、魏はそれに対抗する九州連合国である邪馬台国と提携する事で呉・公孫氏の分断を画策したという筋書きなんだろうか?しかし、少し無理があるように思いますがね。

 記事以外でも、最近は畿内説に有利な発掘成果がでています。以前、何回か記事を書きましたが一度そのうち整理したと思います。

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Comments

「河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は言い切る。「発掘調査の結果はすべて、一つの結論を示している。考古学からは、邪馬台国は大和にあるとすでに決まっている」
」

ほほぉ~
いよいよですなぁ。
楽しみ。

ついては、ホケノヤマ古墳遊覧記事も、MuBlogで用意しなければ。うむ。いそがしい。

ヤマタイコクについては、Joさんの全体的、明快な、レビューをお願いいたします。

Posted by: mu | 2006.08.24 01:31 PM

 muさん

 考古学者は殆どが畿内説ですね。是非、ホケノ山遊覧記事を書いて下さい。

 邪馬台国と書かれた中華思想が嫌なんですね?倭とか、ホンマ困ったもんです。
 

Posted by: jo | 2006.08.24 01:57 PM

黒田古墳は 僕の地元です。

近くに瑠璃渓の方から流れてくる園部川があり、小学生の頃はよく川遊びをしました。森蘭丸が居たと云われる黒田城址もあり、森姓が多いです。

Posted by: Ys | 2006.08.24 03:14 PM

 Ysさん

 そういえば、園部の御出身でしたね?お詳しい訳ですよね。黒田古墳は未だ訪れた事が有りませんが、古墳は52メータですから大きいですね。

 多分、資料から類推すると丘尾切断型古墳ではないかと思います。自然の丘陵をうまく利用して、巨大古墳を製作したんではないでしょうかね。

 丹波は歴史の宝庫ですね。秋の栗と紅葉の季節に訪問したいものですね。

Posted by: jo | 2006.08.24 03:38 PM

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